シナスアドフィンの天使 3
作:草渡てぃあら





どうやって帰路についたか、まったく覚えていない。明け方近くだったにも関わらず、家ではアロが起きていて、うっとうしいと思ったが同時に救われたような気もした。ねぇ、どうしたのとアロが聞いている。その声は水を隔てて響いてくるかのように、とても遠くで響いている。銃はまだ手の中だ。引き金に手を掛けたままで固まって動かせない。そこだけ凍りついたかのように冷たかった。
 どうしたの、血だらけだよ。心配そうなアロの顔。濃い緑の瞳。うるせぇな……と思う。馬鹿みてぇに聞くなよ。どうでもいい。血だらけなのは殺したから。この手で、殺したからだ。
「……したんだ……」
 シドの言葉がよく聞こえなくて、アロは小さな声で何、と聞き返した。様子が尋常ではなかった。だが、その問いにシドは答えることなく、目の前のアロの肩に手を伸ばした。
「ちょっと! ……シド! 」
 言葉もなく、乱暴に床に押し倒される。打ち付けられた背中が痛くて、アロは思わず悲鳴をあげた。だが、その声もシドには届いていないようだった。
 シドの中で、不条理な怒りが渦巻いていた。誰でも良かった。壊してやりたい。
 暴力的な性欲は、荒れ狂う嵐のように吹き荒れた。激しさのあまり息が出来ない。うるさい。お前に何が分かるっていうんだ。俺は失ったんだ。すべてを……すべてを!
 アロの細い手首を力任せに押さえつける。はだけた服から褐色の肌が見えた。肉を貪るかのように、シドは首筋に顔を埋める。
 抱くことで癒されるなどとは思わないが、そうせずにはいられなかった。だからアロがどんなに嫌がっても、たとえ泣き叫んだとしてもかまわないと思った。――なのに。
「なんでだよ……? 」
 不意に手を止めたシドは、ぽつりと言った。
「こんなに」
 声がかすれる。なんなんだよ、この女は。
「こんなに震えているのに、なんでいやって言わねぇんだよ……」
 それは、とても悲しみに似ている、苛立った声だった。わけもなくアロは胸が痛くなる。
 わからないよ、アロは強くかぶりを振った。わからないけど。
「色んなことが上手くいかないんでしょ? 自分の気持ちとは違う方へ行ってしまうんでしょ? ……いいよ、私ぐらい思い通りになってあげるよ」
 アロの言葉は、シドの予想以上に心に染みた。荒れ狂う静寂に嵐は止み、凍りついた氷が溶けるようにシドの心が目覚めていく。悲しみを受け入れられないまま暴走していた心がその動きを止める。本当は、アロを傷つけたかったのではなかった。一緒に傷ついて欲しかったのだ。
 今、このタイミングでの彼女の優しさが嬉しかった。だが、照れもあって言葉には出来ない。
 何だよ偉そうに、とつぶやいてみる。だが言葉とは裏腹に、今度はとても大切なものを触るように、シドはそっとアロを抱いた。暖かな胸に顔を埋めながら、さらに悪態をつく。
「偉そうに。初めてみたいに震えてたくせに」
 そんなシドの言葉も、さきほどとは様子が違う。もう怖くはなかった。アロは、恐る恐るシドの艶やかな黒髪に指を入れてみた。そして、そっと自分の胸に抱いてみる。
(なんか……シドのお母さんになったみたい……)
 だが、そんなことを言うと、またシドは怒るだろう。子供なんだから、と可笑しく思う。かわりに、アロはこう返事した。
「初めてだもん……好きな人とは」
 なんだよそれ。
 くぐもったシドの声が胸で響く。何って……。
「愛の……告白、だよ」
 目を閉じたアロの目から、一筋の綺麗な涙が流れた。


 朝、起きるとシドの姿はどこにもなかった。まるで昨日のことが夢のようだ。手荒でもどこか優しいシドの愛撫を思い出して、アロは一人顔を赤らめた。
(ほんと、初めてじゃないんだから……)
 両手で、自分の頬を包む。アロは自分が、あんな風に、溶けそうに熱くシドを受け入れられたことが信じられなかった。仕事で同じことをしているのに、感覚は全く違っていた。気持ちいいと感じたのも初めてだ。そのこと思い出すだけで、今も身体の奥が火照る。
 窓からの朝の光は、どこまでも清潔で、そんなアロの幸福を穏やかに諌めているみたいだった。甘い気持ちを振り払うかのように、アロは軽く頭を振る。
 シドを待っていても仕方ないと、ベッドから降りて店に行く準備をする。今日は店で踊る日だった。本当は踊りなんて名ばかりの、裸を見せる舞台で、そう考えるとさすがに憂鬱になったが、客を取るよりかはましだった。乗らない気分を引きずったまま、いつもの時間に店に入る。昼前だというのに客はすでにまばらに入っており、酒を飲みながらアロの登場を待っていた。
 舞台の衣装に着替えるために、裏口へと向かう。この場所には、朝のさわやかな風も入り込むことはなく、酒やゴミの腐ったような独特の臭気が空気をよどませるばかりだ。
 店裏の扉の奥に、アロは知らない人の姿を見つけた。ガラの良くない風貌の2,3人の男。なにか痛い目に会うんじゃないかと、アロの胸は一気に高鳴る。マスターに用事だろうか。それとも舞台の娘が何かしたのか。どちらにしても気付かれないように気をつけながら、そっとドアをすり抜けようとした。――だが。
 何気なしに聞いてしまった、舞台裏まで入り込んで来た男達の会話は、アロを凍りつかせるような内容だった。
「クロノスが……? 」
「まだ死体はあがってないが、今回はボルザック総出で狙っている……時間の問題だろうな」
「噂では、シドとかいうガキが殺ったらしい。石はそいつが持ってる。いまさらクロノスを探すより早いぜ?」
「シドといや、確かクロノスの……飼い犬に殺られたか。ザマねぇな」
 袖幕に隠れるように聞き耳を立てていたアロの目は、驚きで大きく開かれた。男達の言葉のなにもかもを信じることができない。けれど昨日のシドの様子が変だったのも事実だ。それでも。
(クロノスが……まさか! しかもシドが殺すなんて、有り得ないよ)
 アロは、小さな拳を力一杯握りしめて、ショックで泣き出しそうな気持ちを堪える。嘘だ。そんなこと、嘘に決まっている。でも……。昨日のシドの青ざめた顔は? 血だらけの身体は…… ?
(だから朝からいないの? だから……私を抱いたの? )
 否定する気持ちをあざ笑うかのように、昨日の出来事が頭の中を流れていく。目をつぶると、クロノスの暖かい手と、シドの拗ねたような横顔が交互に浮かんでは消えた。アロは思わず、その場にしゃがみこんでしまう。
(もう……会えない、の? )
 物音を聞きつけて、男達が顔をこちらに向けた。そしてアロを見つけるとニヤニヤを笑いながら近づいて来る。
「あんただな。クロノス達の寝床に住み着いたって女は……」
 しっかりしないと、とアロは自分に言い聞かせる。気を抜くとすぐにでもバラバラになりそうな思考を必死に拾い集めて、さっきの会話を思い出してみる。きっと、この男達はボルザックだ。そして、クロノスかシドを探している。だから、なにか手がかりはないかと、同じ家に居候している自分の元に来たのだ。
 そう、しっかりしないと。
 動揺を気付かれないように、慎重に言葉を選ぶ。
「悪いけど今から舞台なの。終わったら話してあげるわ、私の知っていることならすべて」
 ボルザックの中でも下の方なのだろう。幸い、緊迫した様子は感じられない。きっと見つけたら幸運だというぐらいの捜査なのだ。
(でも……少しならシド達の役に立つよね)
 時間を稼がないと、と思った。もちろん他のボルザック達が血眼になって探しているのだろう。だが、それをシドに知らせるすべがない。いや、シドはもう知っているはずだ。そして、今こうしている間にも街のどこかを逃げているのかもしれない。せめて、この男達だけでも足止めさせるのが、今のアロにできるすべてだった。
「舞台だってよ……? 」
 じゃあ、ゆっくり見せてもらってからにするか、馬鹿のしたような笑いが起こる。そして、袖幕から舞台に入り、そこから観客席の一番前を陣取った。アロが一番恥ずかしい姿のときに、舞台から引きずり降ろせるように。彼らは最後まで見るつもりなどないのだ。
 アロはグッと唇をかみ締めた。それは、何度も味わった屈辱。男達の侮蔑の眼差し。もう嫌だ。突然、アロの中で何かがはじけた。ここには居たくない。突然湧き上がった激しい意志は、大きな波となっていままでのアロを飲み込んだ。もう自分に嘘はつけない。私はここに、居たくないんだ。刻み付けるように、アロは瞳を閉じる。
 ともすれば、その望みに竦んでしまいそうなもう一人のアロを、昨日のシドの温もりが勇気付けた。シドはこの空っぽの身体に小さな、けれど確かに灯りを燈してくれていた。だから。
(負けないよ、シド……)
 自分が負けないで戦えば、シドも助かるような気がして、アロは唇をかみ締めた。そして気持ちの高ぶりを抑えるかのように、アロはゆっくりと息を吐く。
 『行き止まりみたいな言い方だな』クロノスの声が耳に響く。その言葉の意味を、アロは今になって感じていた。
(ここは、行き止まりなんかじゃないよね……私は、どこにだって行けるよ。私は、私のこの足で……どこだって行けるんだ)
 アロは自分の中に新しい力を感じる。
 そして、護身用にと置いてある飾り気のない、けれど鋭い剣を両手にとった。終わらせない、行き止まりなんかにさせない。私はここを始まりにしよう。そう……すべて。すべてが。
「始まるの」
 アロは舞台にあがる。新しい自分の世界を見るために。
 安っぽいライトを切り裂くように、両手に持った剣が煌いた。
 少しずつスピードを上げていく二つの剣は、意志を持った生き物のように互いを求め合い、そして傷つけあう。音楽もなく始まったその踊りは、剣舞だった。もちろん肌を見せることもない。
 期待している物と違うと、忽ち観客からブーイングが沸き起こる。だがそれは、やがて水を打つような静けさに変わった。
 アロの踊りの、殺気立つほどの気迫に、誰もが息を潜めて魅入っていた。この店に集まる客において、そんな現象が起こる事は、奇蹟と言ってもよかった。
 汗が飛び散る。指先まで緊迫したアロの肢体は、どこまでも美しかった。しなやかな身体は、力強さに充ちていた。
 アロはいつも自分を愛せなかった。だから、誰に馬鹿にされても平気だった。なぜなら、この世の誰よりも深く軽蔑して忌み嫌い、一番近くで傷つけてきたのは、アロ自身だったから。そうすることでしか、精神の均衡を保てなかった。自分の誇りを守れなかった。そして、所詮、世界はこんなものだと勝手に決めつけて、諦めたように泣いていたのだ。自らこの場所に縛り付けて、飛び立つ翼を探そうともしなかった。
(でも……! )
 そんな子供の時代は終わった。いや、終わらせるのだ。
 激しい金属音がして、ふたつの剣が火花を散らす。切っ先がこぼれて、アロの頬に一筋の赤い傷を付けた。だが、アロは表情を変えずに強い瞳で踊りつづける。
 観客は息を飲んだ。まるで鬼神だ。それは、激しくも美しき神の踊りだった。
 アロから放たれた最後の一振りが、宙を切る。
 一瞬の余韻があって。怒涛のような拍手と歓声があがった。
 それを背に、アロはゆっくりと舞台を降りる。最後まで席を立てなかった、ボルザックの連中が黙って座りつづけているのが見えた。
 旅に出よう、と決心してアロは顔を上げる。シドが好きだ。出来れば一緒にいたい。でも今のままの自分では嫌だった。一人でどこか遠くに行こう。悲しみも孤独もなぜか今は怖くなかった。輝きたい、と強く思った。
 そして、いつか帰ってくるのだ。この屈辱と憎しみ……に充ちた街に。だから。……だから。
「……生きて、待っててね……シド」


 カチャリと乾いた音をさせて、ティーノはシドに銃を向けた。
「おとなしく従え。死なずに済む」
 その言葉に嘘はない。ザルクの指示は、クロノスは殺して“石”を取り戻し、シドについては好きにしていい、というものだった。それを受け、ティーノはボルザックの子分を引き連れて、夜を徹して二人を探し回った。そして、今朝になって子分の一人が、港の小さな桟橋で一人座り込んでいたシドを見つけたのだ。
 もう逃げるつもりもないのか、取り囲んだティーノ達を無視して、シドはじっと海を見ている。
「探したよ……シド」
 ティーノの声にシドは顔も上げない。ティーノの裏切りに、シドは怒りも驚きもない様子だった。まるですべては当然のように事は流れていく。
(まったく……なんて街だよ)
 ザルクや目の前のシド、そして自分自身も含めたこの街の住人に、ティーノは心の中で毒づく。ティーノはシドを、無理に生かしておくつもりはなかった。今のボルザックにとって、シドの存在はクロノスほど大きくはないのだろう。だが、ザルクがシドとクロノスは同じ種類の人間だと言い切る限り、その未来はいずれ消される。クロノスもシドも、すべては過ぎた人間だ。いまさら情もない。
「噂では……」
 だがその前に、一つだけ確かめたいことがあった。クロノスがわざわざ、自分のもとから“石”を盗んだ理由が、シドを逃がすためだということは容易に想像がついた。
「クロノスには呪縛の印がある。だが明け方、その印の魔力が消えた。もうボルザックはクロノスを探し出すことはできない……シド、お前が殺ったのか? 」
 一度施された呪縛の印は、かけた本人以外は絶対に解くことはできない。その命を意図的に抹消する以外は……。
 もし、シドがブルートパスを持っていなければ、クロノスは人知れず誰かに命を奪われたことになる。そうすれば“石”が見つかる可能性は限りなくゼロになり、ティーノの立場も危うくなるかもしれなかった。だが、そんなことよりもティーノは、クロノスにはそんな意味のない死は似合わないと思った。それがなにより嫌だった。
「答えろ。お前はブルートパスを持っているのか? 」
 二人は何らかの形で接触し、クロノスはシドに石を渡したのだ。そう思いたかった。クロノスは、自分の死すらも思い通りに描いたままに手に入れたはずだ。いや、そうでなくてはならないと、ティーノは強く思った。何故、そんなことにこだわるのかティーノのもわからない。
 座り込んだままのシドは、さして反抗することもなくポケットからブルートパスを取り出して、手の平に転がして見せた。
 ティーノの周りにいるボルザックの子分達に小さなどよめきが生る。目的の“石”は、やはりシドが持っていたのだ。どんな形のせよクロノスは消え、シドはこうやって追い詰められた。ザルクの命令どおりに、ボルザックが石を手にするのは時間の問題である。
 だが、最後の締めくくりと緊迫したボルザック達とは対象的に、シドはまるで1人で海風にあたりに来ているかのような様子だった。
 ティーノやボルザックの連中を全く無視して、シドはまるで幼い子供のように、手をいっぱいに伸ばし“石”太陽の光に透かしてみる。透明なブルーの宝石の核が、真中でキラキラと光っていた。この中に、何千何億の情報があるなど、今でもシドには信じられない。
 だが、同じ数だけの魂が、この中にあると言われたら、なんとなく納得できる気もした。
 その様子をディーノは黙って見ていた。余裕のつもりだった。大切な人の命を奪ったその石に、シドは最後の別れを告げているようにもみえたのだ。
 と、次の瞬間。
 ブルートパスは、何気なくシドの手から滑り落ちた。興味を失って海に捨てたようにも見えた。その青い石は、一瞬の煌きを残して波に沈んだ。
 その不可解な行動に全員が息を飲む。
「……どうするつもりだ? これで命の保証は出来なくなったぞ」
 しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのはティーノだった。
「……生きるさ」
 シドはなめらかに揺れる波をぼんやりと見つめながら、ぽつりと言った。その答えは場違いで矛盾していた。だが、間違いなく、今シドが出さなければならない答えだった。
 そして、今度は確かな意思を持ってディーノを見上げる。はっきりとした口調で、シドは言葉を続けた。
「生きるんだよ、俺は」
 次の瞬間にみせたシドの顔をティーノは一生忘れることはできないだろう。それは、不敵な笑顔だった。
「クロノスとボルザックの契約はこれで終わりだ。責任を取るべきクロノスは、今頃シナスアドフィンの神殿で手厚く葬られているはずだ。あとは俺が引き継ぐ」
「随分……甘えた話だ。こんな真似をしたお前をボルザックが生かしておくとでも? 」
 なんて奴だ。ティーノは内心、シドの言葉に気押されていた。シドを襲った混乱と深い衝撃は計り知れない。クロノスがお膳立てしてくれたすべてをぶち壊して、シドはこんな答えを用意していたというのか。
 だがシドの返事は、さらにティーノを驚かせる。
「今、俺を消すのはボルザックにとってもったいないぜ? 悪い話じゃない。俺はボルザックからの依頼は絶対断らない。そして一度でも失敗したら、俺を殺ればいい」
「……勝手な話だ」
 シドの出した条件がボスに認められる可能性は十分あった。利用価値のあるものをノーリスクで使い、いつでも切り捨てられるというやり方は、ザルクがもっとも好むやり方だ。だが、ティーノ自身がそれを認めたくはなかった。シド達との繋がりはもう終わりにしたかった。そんなティーノの内心をうるさそうに見上げながら、シドはこう言った。
「さっさと帰って伝えろよ、お前のボスに」
 その挑発めいた台詞に、ティーノは思わず目を閉じた。ゆっくりとした動作で銃口を向ける。もう、シドの命を奪うのに、理由はなにもいらなかった。
 銃声が海に響き渡った。


「すごかったんだぜ! 」
 隣で子分の1人が、仲間に大袈裟な素振りで自慢気に話している。本人にわざと聞こえるような大きな声は、おそらく点数稼ぎのつもりなのだろう。その分り易い媚びに、ティーノは嫌悪を感じる。だが、その気持ちをため息でやり過ごした。自分はこの世界で生きていくと決めたのだ。傍から見れば、自分もこいつと何も変わらない。そう思って、ティーノは自嘲気味な苦笑とともに許してやる。
「ティーノさんはなぁ、シドの野郎を殺すこともできたんだ。奴はもう命乞いをする気力も残っていなかったんだからな。だが、ティーノさんは撃たなかった……あんな奴、殺す価値もねぇさ」
 それは違う。と、ティーノは思う。自分は撃たなかったのではない。撃てなかったのだ。
 シドに向けられたはずの銃玉は、忠実な猟犬のようにわが身の無意味さを省みることなく、直線を残して海の深みに消えていった。
 負けた。そう思った。
 それが証拠に、拳銃を握っていた右手は今でもテーブルの下で震えが止まっていない。そう、圧倒的に有利な立場で、ティーノは絶望的な敗北感を感じていた。
 それは理屈でなかった。何故なのか。
 自分は、シドの“生きる意志”に勝てなかったとでもいうのか。
 自分を見上げるシドを思い出してみる。それは、人が生まれながらに持っているはずの欲望や弱さ、死の鎖からさえも開放されていた顔だった。いや、最初から持って生まれなかったのか。奴は、そんなことからも自由ということか。
 だとしたら、神の造った異端児、とんだ化け物だ。まともなのは自分の方だ。対照的な自分の生き方に嫌気がさしながらも、しかし、シドのことをうらやましいとは思えなかった。
 どうしたら上手く生きられるのか、考えるだけ無駄な気もした。どうせ何をしても自由など手に入らない。なぜなら、生きること自体が大きな鎖、神の支配だと感じている自分がいるからだ。まったく、この世は生きにくい。どいつもこいつも地獄を生きている。生きることを選び取ったシド。それを許した自分は、シドに地獄を与えた様にも思えてきた。
(自由の、意味か……)
 ぼんやりと考える。そんなことを思うのもこれが最後だろう。
 嫌な奴だ、とティーノは瞳を閉じて酒をあおった。


 祈祭御聖大水師、というのが彼の地位である。シナスアドフィンの神殿で、最高の権威が与えられており、普段は神殿の奥にある絶対聖域でのみの生活をしているため、滅多に人目に付くことはない。だが、今日は早朝からの神殿内に乱れが生じていた。御使いの者から理由を聞くと、神殿内で命を終えた者がいるという。それだけではなく、神の手以外から命を奪われたらしいこと、その者に呪縛の印があったことを告げた。そして前例のない出来事に、神殿の者は皆混乱し、心を痛めていると。それを諌めるため、神殿の聖域から出ることとなった彼は、美しい魂の終焉と出会うこととなる。
 今から20年ほど前に、神殿を出て行った少年がいたのだという。
 それを止めることができたらこんなことには……と、聖守者の一人が涙を浮かべている。そうではないのだ、と彼は静かに目を閉じる。人が、自分以外の者を完全に救えることはあり得ない。流れゆく水を、逆らったりよどませたりすることは出来ても、川の流れを変えることはできないのだ。
 眠れる者に刻まれた、忌まわしい封印の跡にそっと触れる。まるで自ら浄化を望むかのように、その印はためらいなく消えた。その印をなくす力を持つ唯一の存在である彼に、聖守者達は畏敬の念で頭をたれる。まだ生きているかのように美しい胸には、印の横を貫通している銃の跡だけが痛々しく残った。その傷跡は、呪縛の印で死に至ることを拒否した証でもあった。
「手厚く葬って差し上げなさい」
 彼はそう言って、静かにその場を立ち去った。
 久方ぶりに見る外の世界は、強いエネルギーに充ちていた。太陽はすでに高く昇り、新しい一日を確実に照らしている。空からの風はどこまでも青く、大きな魂で存在し続けていた。絶対聖域に戻る前に、少しの間だけ世界の“呼吸”を確かめようと、ゆっくりと歩みを進めた彼は、海が一望できるマルコーニの丘で、一人の少年を見つけた。漆黒の髪を風になびかせて、少年はまっすぐ海を見ていた。自分の気配を認めて振り返った少年の瞳は、不思議な命の輝きを秘めていた。
「あの人は……俺が殺したんだ」
 少年の告白に目を細めるが、そこに驚きはない。彼は随分長く生きてきたし、世界は広くいろんなことが起こり得ることを十分に知っていた。
 泣くこともできないほど傷ついた魂は、ひどく苦しんでいて、救われたいと渇望している。可愛そうに、と思う。彼がまだ、若い聖守者であった頃ならば、少年 の悩みを聞き、神の言葉を借りて人を救った気になっていただろう。だが、自分に救いの手を差し伸べることはできない。
 知ってしまったからだ。人である以上、人を裁くことは傲慢であることを。それは、神が決めることでしかない。
 せめてその苦しみが和らぐよう、彼は少年の名を聞いた。
「シド……」
 穏やかな声で手招きする。その声に逆らうことなく、シドはゆっくりと瞳を上げる。
「ひとつ、教えよう」
 みんなには内緒だが、と彼は口元に手をあてた。
「神は人を殺すなとは、言っていない」
 驚いたように、シドは彼の顔を見た。この場所で、ここの人間からこんな言葉を聞かされるとは思わなかった。驚いた様子のシドに、彼は微笑んだ。
「もちろん、何かを傷つけるのは良いことではない。それは、自分の心に耳を傾ければすぐにわかることだね?だが、人を殺めることを禁止したのは人間自身であり、それはみんなが都合よく生きていく為の、いわば社会のルールに過ぎない。神の意志はもっと別にあるのだよ」
「……神の、意志? 」
 ごらん、と彼は空を仰いだ。
「自然界には殺生が満ち溢れている。いや、殺生で成り立っているといった方が良いかもしれない。それが“神”の造られた世界だ。だが、人間だけが殺人を罪としている。自然のままに自由に生きていくには、人間はもともと弱すぎるのだよ。生きるために必要な命以上のものを求めてしまう。そして、そんな己の中の残酷さが怖くて自らを縛りつけようとしているのだよ。この神殿も人間の弱さの象徴に過ぎない。そしてその矛盾、神に逆らった世界の認識に、あの魂は気づいてしまった……」
 クロノスのことだ。シドは思った。
「彼は神の声を聞いた。だからこの神殿から出て行ったのです。そしてシド、あなたもまた聞いたはずだ」
「……ああ」
 シドはゆっくりと目を閉じた。確かに、自分は聞いた。
「神はなんと? 」
 彼は穏やかな眼差しでシドの答えを待つ。
「生きろ、と」
「よろしい。生きていきなさい、精一杯。それが仮に誰かを傷つけようと、正しいと思った道を進みなさい。悪を恥じることも善を気取ることもない。人に向けた刃は、必ず己を貫く。その傷で倒れ、動けなくなるまで、ひたすら生きればいい」
 それはおおらかで優しく、そしてなにより残酷な罰だった。シドは涙が止まらなかった。世界は、今日も残酷な美しさに充ちている。善いことも悪いことも、祈りも殺意も、みな同じようにひとつのエネルギーとして世界を巡り続ける。
 泣くことも忘れて駆け抜けて生きてきたシドが、今初めて泣いていた。この街で痛み耐えて生きるアロやティーノ。覚えていない両親やいたかも知れない兄弟達。そして自分の人生のすべてだったクロノスの為に。
 声もなく泣きつづけるシドを、彼は黙って見守っていた。
 その涙――生きることにひたむきな魂のかけらこそが、どんなに懺悔しても許されない罪を癒すのだと、この少年はいつ気付くのだろうか。
「行きなさい……あなたの場所に」
 優しく背中を押す。どんなに神殿で地位が高くなろうと、今の自分にできることはそれだけだ。まだ震えている小さな後姿は、それでも前に進もうとしている。
 痛みに耐え、孤独に怯えながら自分の道を歩むことを選ぼうとしているのだ。そんなシドの背中を、海からの優しい風が包んでいた。
 祈祭御聖大水師様、と遠くで呼ぶ声が聞こえる。そして聖守者の一人が、丘でたたずむ彼に駆け寄った。
「どうかなされましたか? 」
「ああ」
 天使が、と彼は静かに言った。聖守者は慌ててその方向を見た。が、すでにシドの小さな背中は消えようとしていた。
「天使が一人……街に帰っていきました」
 そういって、穏やかに目を閉じる。
 海からの優しい風は、そんな世界を愛しむかのように草木を揺らして街を巡り、再び空の高みへと消えていった。