空言人と魔法使い
作:沖田来々





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 文学部哲学科二回生 学籍番号01399715 川上鈴 テーマ『空言人と魔法使い』 

 森。真昼間の森。街からそれほど離れているわけではなく、危険な魔物が出るわけでもない。そういうわけで、空言人は特に恐怖を感じることなく木洩れ日の下を練り歩いていた。
 空言人は上等なスーツに少し大きめの三角帽子をかぶっている。両方とも混じり気無しの赤色で、埃一つない清潔さだ。肌の色はカブトムシみたいに黒で、空言人はその色の対照がとても好きだった。普通の人間に比べるとやや大きすぎる目を細めて、木々や鳥や虫たちを眺めている。
 その日は実は少しだけ暑かった。しかし空言人は平気だった。なぜなら、空言人は少しだけ魔法を使うことが出来たからだ。その才能の全部を使って、今は身の回りの温度を少しだけ下げている。
 そんな快適な空間の中から、彼――空言人のこと――は一つの小屋を見つけた。首をひねる。この森は街からは少しばかり遠すぎる。それに、こんな外れに建っているにしては少しばかり立派過ぎて、まだ新しいみたいに綺麗な小屋だった。
 空言人はどんな人が住んでいるのか興味を持って、その小屋に近づいてみた。なんと表札らしきものがあった。『魔法使い』と書かれていた。彼にはそれが表札なのか看板なのか判断が付きかねた。
 空言人はノックをした。中から出てきたのはいわゆる魔法使いの格好をした、空言人よりも背が倍は高い普通の人間の女性だった。空言人とは対照的に黒で統一した服装。三角帽子も彼と同じだったが、薄手のワンピースからは白い腕が伸びていた。魔法使いは、『何か御用ですか?』と空言人に尋ねた。空言人は少し考えて、『この小屋に住んでいるのがどんな人なのか知りたくて、お尋ねしました』と言った。魔法使いはゆっくり微笑んで『それではお入りください』と彼を自宅へ招いた。

   *

 文学部心理学科二回生 学籍番号01399235 藤井倣 テーマ『空言人と魔法使い』

 男がいた。その男は半端者で、悪いことはしたが酷いことはしなかったので、世の中では一番生きるのが難しいタイプだった。当然、金も無かった。
 ある日、彼は公園に建てたダンボールの家で過ごしていたが、たまたま隣になった老人と意気投合した。彼は老人に何年ぶりかの酒も飲ませてもらった。男は酒に酩酊しながらも、一つの疑問を抱いた。どうして自分と同じ境遇のこの老人は、酒を買う金など持っていたのだろう、と。男はそのことを尋ねると、老人は少し顔をしかめて、ある女のことを話してくれた。
 その女は、ここではないが近くの公園に時々来るということだった。とてもお金持ちで、それは着ている服から自ずと知れた。ただ、親の過保護か、生まれつきか、その女は他人の言うことをあまりにも無条件で信じ過ぎるという欠点があった。
 偶然そのことを知った老人は、女から少しお金を騙し取ったというのだ。男がどうやって騙したのかと聞くと、彼女自身を魔法使いだと思い込ませた、という。その上で、魔法使いならお金を出すなんて簡単なことだろう、と老人が尋ねると、突然魔法使いになってしまった女は、安心したようにお金を差し出したのだという。男はすぐに同じことをしようと思った。
 次の日、男はさっそく老人の言った公園へ出向いてみた。緑が少なく、ゴミの多い公園だった。そもそも、場所がもう町から外れているのだ。自治体がもう見捨てている、という感じの場所。その中で彼女はベンチに座っていた。白いブラウスとロングスカートで、髪は綺麗なブロンド。恐ろしく清潔なその人物を仰ぐように、ゴミの群れが横たわっている。
 男は彼女に近づいた。魔法使いにされた女性は、男に気付くことなく宙を見ている。
「こんにちは」
 男は多少の罪悪感とともに声を掛けた。女性はゆっくりとこちらを向いて、それよりもさらにゆっくりと男に瞳の焦点を合わせた。男はやり辛さを感じながらも、ひとまず本題を切り出した。
「君は魔法使いなんだってね。本当?」
 彼女は微笑んで頷いた。
「じゃあ、これだけお金を出せるかな?」
 男は指を十本広げて見せた。すると彼女は財布を出して、要求の額だけきっちりと男に差し出した。
 男は礼を言って、首を捻りながら帰った。

   1

 倣(ならい)はそのレポート用紙から顔を上げ、目の前に座る川上に目を向けた。
 今日の川上は黒のワンピース。それが彼女のお気に入りだということに倣は最近気が付いたが、長いストレートの髪形と相まって魔女のように見えることは黙っていた。
 川上はしばらく反応を保留にしていたが、やがて顔を上げてこちらを見た。テーブルの上には倣が読んでいたのと同じA4用紙が二枚並べられている。彼女も読み終えたようだ。鋭い目がこちらを睨む。
「ねぇ、続きはどうしたの? さすがに来週には出さないとまずいと思うんだけど」
「俺も同じことを言おうと思った。お互い、怠惰な性格だけは共通点だ」
「あなたと一緒にしないでよ。私はもう頭の中では出来てるの。ちょっと書くのが億劫なだけ」
「俺だってそうさ。まぁ、ボチボチ書こう。何せまだ一週間もある」
「提出期限は先週で、教官に頼み込んで延期してもらっている身分とは思えない発言ね」
 二人はテーブルの上のコーヒーに手を伸ばし、小さな取っ手をつまんで口に運んだ。誰もいない店内で、コーヒーを啜る音だけが僅かに響く。
 カフェ『エア・ポケット』。その名の通り、大学へと続く道路沿いに立地をしながらほとんど客が来ないという店である。店主がどんなつもりでこの名前を付けたのか、それは倣の中で五本指に入る興味の対象である。
 悪い店では全くない。木製の床と壁はニスで仕上げられて綺麗だったし、少し暗めの店内はテーブル同士の間隔を上手く取っており、落ち着いている。
 強いて難点を挙げるならば、恐ろしく無愛想な老婆が一人で店を取り仕切っている、という点だろうか。年齢は分からない。背はまっすぐ伸びており、ウェイタの服がとてもよく似合っていたが、注文の際に一言も喋らないのが客の学生に圧力を与えているのかもしれない。倣はそれが気に入ってこの店に来ているのだが。
 川上が何かに気付いたように倣の方に手を伸ばした。それは彼の色を抜いた前髪に届いて、小さなゴミを取り去っていった。彼女の手は陶器のように白くて、手首に通る血管が魅力的だった。
 二人は一ヶ月ほど前から恋人になった。出会いは少し奇妙なものだった。
 その頃すでに『エア・ポケット』唯一の客としての地位を確立していた倣は、カウンタ席でコーヒーを飲みながら文庫本に目を落としていた。店長の老婆はカウンタに居らず、奥の部屋へ引っ込んでしまっている。倣がおかわりを頼むと時々出てくるのみだ。
 そこへ、川上がやってきた。ドアに付けられた呼び鈴がなる。倣は客が来た事実に驚いて顔を上げる。だが彼女はそれ以上に驚いた顔をしていた。そして言う。「あなた……別人よね?」。どうやら客では無かったらしいことに頷き、倣はひとまず出てきた店長にコーヒーのおかわりを頼んだ。
 それ以来、『エア・ポケット』で倣が座る位置はカウンタ席からテーブル席へと移り、一日の平均客数は二倍に跳ね上がった。それでもガラガラの店内で、店に入る倣の顔が知り合いに似ていたのだ、と後で川上は説明してくれた。
 ちょうど前期の授業登録をする頃で、同じ学部ということもあり、多くの授業で二人は一緒になった。
「そもそもね、取った授業が間違いだったと俺は思うね。レポートで短編小説を書いて来いってどうよ」
「ちょっと待ちなさい。初めにその授業を推したのはあなたよ」
「そうだっけ?」
 倣の趣味は読書である。いかなる分野のものも広く読むが、特に小説の比率が多かった。
「ええそうよ。シラバス見て、好きな作家が取り上げられてるとか言って、すぐに決めちゃったんじゃない。結局授業は寝てばっかりだし」
「詰まらなかったからな。おまけにレポートはきつい。まるっきりの外れくじ」
 川上によって書かれたレポート用紙の下に、プリントアウトされたコピー用紙が一枚挟まっている。倣はそれを抜き出した。レジュメと呼ばれるもので、一回一回の授業の指針が書かれている。
「二人一組同一テーマの短編小説。作家の側からの作品へのアプローチと、ペアの相手との批評により客観的な文章力を得る……ね」
「一ヶ月ごとに提出だから、前期で四編も書かなきゃいけないなんて……地獄ね」
 川上はため息をつく。
「でも倣はいいわよ。私なんて小説を読むのに馴染みがないってのに……ましてや書くなんて」
「でもやる気あるみたいだけど?」
 倣は何気なくそう言った。
 川上は不機嫌そうに、なによそれ、と倣を睨んだ。
 睨んだ彼女の顔は嫌いではない。倣は表情を変えずに答える。
「何か色々伏線張ってて、これからの展開が期待な感じだけど」
「嫌な言い方ね。もうオチが読めちゃった、って奴?」
 倣は少し微笑んだ。
「いや、オチが分からなくて気になる、って言ってるんだよ。少しは楽しくなって来てるんじゃない?」
「そりゃまぁ……ね。楽しいって言うか、物語を作ろうとすると昔のこと思い出しちゃって、なんかいい加減に扱えない気分になってくるの。でも文章にするのは面倒ね」
「ふーん、じゃあ意味深だな。テーマを決めたのも川上だし」
「秘密」
 やっぱりね、と倣は思う。彼女は昔のことを尋ねてもほとんど答えてくれない。そのくせ、自分からはときどき匂わすようなことを言う。
「あなたはそういうのないの? 物語に過去が反映されてしまう、ってこと」
「さぁ、どうだろう。意識はしないな。ホームレス経験は今の所ないし、友人にも、多分、いない。さらに言えば、要求通りにお金をくれる人間に会う事は一生涯ないと確信してる」
「誘拐やって身代金でも要求すれば?」
「そういえば、目の前に手頃な娘がいるな」
 川上は鼻で笑って、倣の書きかけのレポートに再び目を落とした。
「うーん、どんなオチだろう……この女の子か老人が本当の魔法使いでしたってオチじゃない?」
「おいおい、オチを先に当てる気かよ」
「当てられるようなオチなら書き直し……」
 口元を上げ、下から見上げるように倣を見る。
 その視線にちょっと体を引いて、倣は熱を伝えなくなったコーヒーカップをソーサーごとこちらに寄せながら答えた。
「それじゃあ誰が空言人になるんだよ」
「んー……その辺は上手いこと辻褄合わせてさ」
「残念だけど、違いますね」
 飲み終わったコーヒーを置いて、時計を見る。そろそろバイトの時間だ。
「気になるなぁ。もうさ、完成までは見せ合わないことにしない? それまでにオチを当てた方の勝ちってことで」
「勝者には?」
「愛情を」
「世の中不況だしな」
「どういう意味よ」
 倣は立ち上がった。
「帰るの?」
「バイトなんだ。まぁ、お互い頑張ろうぜ」
 憂鬱そうに川上はため息をついた。
「あーあ、昔はレポートなんて彼氏がやってくれたのになぁ……」
 ポツリ、と彼女は呟いた。ため息のついでに落としておこう、という程度の、なんでもない口調だった。
 彼女の前の彼氏の話は聞いたことがある。倣にとても顔が似ているそうだ。出会ったときに間違えた『知り合い』でもある。
 倣は答えず、清算のために姿の見えない店長を呼んだ。


   2

 アスファルトが割れて歩きにくい駅前を、人ごみを避けながら徒歩で移動した。それほど近い距離ではないが、倣は歩くのが嫌いではなかった。
 地方都市にしては大きめのビルの五階。エレベータの中に貼ってある案内図によると『ブックネスト』という店らしい。欲しい本があって、近くの店でも良かったのだが、新しく出来たという本屋に倣は出向いてみた。今日は例外的に暇な日だから。
 ドアが開かれたとき、かすかにインクの匂いがした。
 『ブックネスト』は倣が思っていたよりもずっと大きな店だった。五階のワンフロアを全て使っている。背の低い本棚ばかりなのでフロア全体がとても明るい。客も多く、良い雰囲気だ。今度から本はここで買おうかな、と少し思う。
 適当な棚の前に立って、面白そうな本を探す。
 悪魔召還の仕方について。
 処刑法の種類について。
 錬金術の学び方について。
 少々まずい棚だったが、乱読家の彼にしてみればおおいに興味のそそられる対象である。惜しむらくは、それが高価なハードカバーであることだ。
 しばらくそれを立ち読みした後、次の棚へ。
 そうこうしているうちに脇には数冊の本が抱えられ、最後に本命である小説のコーナーを探す。それは目立ちやすい一角を占領しており、すぐに見つかった。
 比較的地味な表紙で延々と並ぶそれを、倣はぼんやりと眺めた。歩いたり、立ち読みしたり、とにかくずっと立っていたので少し疲れたのだ。
 無意識に、思い出される記憶。
 本当に小さな頃、母親に本屋に連れてこられることが良くあった。
 絵本だったか、図鑑だったか、とにかく母親は一人息子に本を読ませようと夢中だった。すでに記憶はおぼろげ。しかし父親が後にそのことを何度も聞かせてくれたので間違いはないだろう。
 倣はとんち話が好きだった。幼稚園にも入らない頃、漢字の混じった本をすでに何冊も読んでいた。
 別に頭が良かったわけではない。一般的には誤解されているが、文字の複雑さは読みやすさに影響しない。倣はその類の本をねだった。しかし母親は微笑んで、ひらがなばかりの本を買ってくれた。
 それが不満だったので、本屋のレジで彼は泣きじゃくった。母親は困ってしまったそうだ。
 そういった倣の正直さが、後年、母親を自殺に追いやった。
 それから彼はたまに嘘を付くようになった。
「すいません、ちょっといいですか?」
 サラリーマン風の男が、片手を出して倣の前の本棚から文庫を一冊抜き取っていった。
 倣は我に返る。謝ろうとしたが、男はすでにレジに向かっていた。
 時計を見るとかなり時間が経っている。それでも小説の棚でずいぶん粘った後、結局欲しかった本だけを手に取った。
 レジは三つで、そのうちの一つが開いていた。店員が明るく「いらっしゃいませ」と言う。
 相手の顔は見ずに、五千円札を一枚出した。

 実のところ、倣の一週間は忙しい。
 基本的にはバイトを中心にスケジュールが組まれる。そこに川上とのデート――これはほぼ『エア・ポケット』で雑談することと同義である――や多少の勉学をはめ込むと、精密なモザイク画のように隙間が無くなる。
 しかし、例外があった。水曜日である。
 倣は寝転がっていたベッドから立ち上がる。読み終わった文庫本が床に落ちた。
 狭い部屋。しかし清潔感があって彼は気に入っていた。白と青を基調にシンプルにまとめた部屋だ。
 食卓にしている四角テーブルの上に携帯電話が転がっている。多くの下宿者と同じように、彼は固定電話を持たない。
 電話で川上の番号を呼び出す。若干のノイズが入った後、予想通りの声が聞こえた。
『……の電話番号は、電源を切ってあるか、現在、電波の届かないところに……』
 切る。
 携帯電話をベッドに投げ、冷蔵庫からペットボトルのアイスコーヒーを取り出してそのまま飲む。
 水曜日は倣のバイトが午前だけである。すると午後は川上と過ごす予定になるのだが、これがそうはいかない。彼女と連絡がつかないのだ。メールを送ろうにも、なんと倣は彼女のメールアドレスを知らない。教えてくれないのだ。
 水曜は川上も倣も授業が一つも入っていない。それにも関わらずこの曜日にだけは絶対に彼女と会えない。一度だけ質問してみたのだが、彼女は答えなかった。つまり、倣は水曜に彼女がどこで何をしているのかを知らない。
 彼は次の本を取り出し、読み始めた。


   3

 木曜。午前に授業、午後にバイト。日が完全に落ちた後、倣は『エア・ポケット』に向かった。
 当たり前のように店内は空いていた。店長が顔を出したので倣はコーヒーを頼んだ。入り口から一番遠い壁際の席に川上が座っているのを見つける。こちらを向かず、耳にはめたイヤホンでMDを聴きながら目を閉じている。
 彼女はラフな服装だった。ジーパンにシャツの重ね着。こういう服装のとき彼女の機嫌は最高に……悪い。
 機嫌を取るような態度は逆効果な彼女である。観念した倣は、普段どおりの調子で声を掛けた。
「よう」
 長い睫が面倒そうに持ち上がる。川上は目だけを動かしてこちらを見た。イヤホンは外さない。
「これ聴き終わるまで黙ってて」
 三十分後、ようやく彼女は倣と会話をする気になったらしくMDプレイヤをしまい、店長を呼び、スパゲッティを頼んだ。
 川上は一度大きく息を吸い、吐く。
「ごめんなさい。もの凄く苛々してたの」
「いいよ。何も言わずに苛々してるよりもずっといい」
 コーヒーカップを置いて倣は答えた。
 川上は少し微笑んだ。
「それにしても、何も聞かないわね」
「何のこと?」
「色々よ。詰まらないことはよく話すけど、お互いのことには全然触れないでしょう? もう付き合い始めて一ヶ月は経ったわけで、少し変じゃない?」
「俺の方は聞いたけど、答えてくれなかったじゃないか。そっちこそ本当にこっちのことを質問しない」
「してもいいの?」
 倣は笑った。
「なんでもどうぞ」
 そう言うと、川上は胡散臭そうな眼つきで彼を見た。こんなことを言えば怒るだろうが、川上の表情で一番いいのは怒ったり疑ったりしている顔だと倣は思っている。
「相変わらずの嘘つきね、あなたは。それも、あなたの物語の男のように罪悪感を感じる嘘つきじゃない。本当の嘘つき」
 そう川上は言い切って、席を立った。手洗いの方へ向かう。
 付き合い始めた頃を思い出した。おかしな出会いだっただけに、その後の付き合いもおかしなものだった。映画館もレジャー施設も利用せず、ひたすらこの人の来ないカフェで雑談をするだけの関係。たまには大学で過ごすこともあるが、適当なベンチに座って雑談をするだけで中身は変わらない。そして話の中身も恋人同士の話題としてはあまり適当とは言えなかった。
 俗に言う「甘い会話」は一切なく、議論的な会話を好んだ。お互いの専門である哲学や心理学はもちろん、社会問題から食べ物の味についてまで広く浅く話した。ただし、深く、相手のプライバシーに触れる話題は確かに少なかった。
 そういうわけで、ペアを組んで短編小説を書かなくてはならなくなった時、川上が言った言葉には少し驚いた。
 ――あなたは嘘つきね。
 これまで彼女が相手の性格について評することは全くなかったからだ。倣は自分が嘘つきであることを自覚していたので、案外、それは悪い気分ではなかった。
 その日も確か木曜だった気がする。ラフな服装で、機嫌の悪い川上。荒れていて、普段のクールさは消えていた。そして突如そう言った彼女は、続けて自らを魔法使いだと宣言した。

 ――なんで俺が嘘つきで、川上が魔法使いだよ。
 ――うるさい。黙ってなさい。魔法使いがいいのよ……そうだ、テーマはこれにしましょう。嘘つきと魔法使い……いえ、ソラゴトビト、の方が格好良いわね。空言人と魔法使い。決定よ。

 思えば、彼女が荒れるのはいつも木曜だったかもしれない。空白の水曜の後。だから覚えている。木曜だ。
 川上が戻ってきた。ちょうど良いタイミングで店長が料理を持って現れ、倣の飲み終えたカップを持ち去った。
「そうそう、分かったわよ、あなたの話のオチが」
 フォークを立てて指先で回しながら、川上は言った。
「あの男が魔法使いなんでしょう?」
 倣は首を振った。彼女は眉間にしわを寄せる。
「……ヒントを寄こしなさい」
「なぁ、別にいいだろ? オチなんか当てなくても」
「嫌。当てたいのよ」
 倣はため息。珍しく深い話題になるかと思ったのに。どうやら木曜の川上は話が飛ぶ傾向にあるらしい。
「じゃあ、お互いに話の続きを少しだけ言うことにしよう。いい?」
「オーケイ。……じゃあ私から言うわ。ええっと、空言人が魔法使いの家の中へ入ったのよね。実はね、その家の中は非常に現代風なの。企業のオフィスみたいな感じ。空言人が驚いて見回すと、どれもこれも、冷蔵庫も音楽再生機も、最新式なのよ」
「読んだときにちょっと思ったんだけどさ、川上の話の舞台ってどんな所なわけ?」
「そうね……ファンタジっぽい近未来かな。妖精とか普通にいるの。共存って奴? 素晴らしいわ」
「ファンタジっぽい近未来……? あと、なんで空言人は肌がカブトムシみたいになってんだ? 背も低いし。人だよな?」
「そうねぇ……そうだ、その世界では、嘘をつき過ぎた人はそんな姿になっちゃうのよね」
「まぁ、いいか……。それで?」
 話しながら器用に食べる川上。少し水を飲み、紙ナプキンで口を拭った。
「それで、魔法使いと空言人は話し始めるわけよ。この家具は一体どうしてるんですか、ここまで運ぶのは大変でしょう、って具合にね。質問された魔法使いは微笑んで、これらは全部自分の魔法で作りました、と答えるの。その会話の中では、こんなのも出るわ。空言人が言うのね。『お互いのことを分かり合うには、好きになるもの、嫌いになるもの、これを教えあうのが一番だ』」
 沈黙。川上は倣をじっと見ている。
 本当に今日の彼女はおかしい、と彼は思った。そして笑い出した。
「失礼ね。今の笑うところ?」
 睨みを利かしたいい表情で彼女が喋る。
「ああ……笑うところだね……。俺のも続きを行こう」
 スパゲッティを食べ終わった彼女は、続けてコーヒーを注文した。倣は何も頼まなかった。
「あの後、やっぱり男は罪悪感を感じずにはいられなかった。特に彼は女子供に弱かったから。しかしお金は欲しい。そこでまた彼女のところへ言って、指を九本広げて見せた。前回のよりも少ない。彼女はやはり言った通りのお金を出した。次の日には八本、その次の日には七本。そんな調子で貰えるお金は少なくなっていったわけだけど、気付いてみると男はその女性に惚れていた。それは減った収入に反比例していって、ついに立てる指がなくなった時、男は一つの決断をするんだ」
 川上はコーヒーも飲まず真剣に聞いていた。右手の甲を左手で握り、その目は不自然なほど鋭かった。
 思わず体を引く倣。恐る恐る呟く。
「ここ……まで」
「……ムカつく。分からないわ。ちゃんと納得できるオチなんでしょうね? これで下らなかったら許せないわ」
「許せないといわれても、それは保障しかねるね……」
「男は何でその女性に惚れたの? 本気で愛してる?」
 倣は笑みを作る。
「そう、惚れていた。愛していた。本気で」
 川上は唇を噛む。
「……また苛々してきたわ。悪いけど、帰る。……ああ、もう!」
 彼女は両手をテーブルに叩きつけ、さらに右手を壁にぶつけた。立ち上がった拍子に椅子が倒れたがそのままドアに向かい、殴るように両開きのそれを開いた。そして『エア・ポケット』から出て行った。
「すいません」
 倣は店長に謝り、彼女の分も払った。老婆はいつもと変わらない表情でいつも通りに清算を済ませた。
 素敵な店だ、と倣は思う。


   4

 金曜。朝から晩まで予定が詰まっていて、川上とは会わない日だ。倣は帰宅直後にベッドでうつ伏せになり、一時間ほど寝た。
 起きる。コンタクトレンズをはめたままだったので、目の表面に糊でも塗られたみたいに目蓋の開閉が上手くいかない。乾燥しているのだろうが、どうして閉じているのに乾くのか甚だ疑問である。医学部の友人に聞く気にもなれず、白く濁った視界で目薬を探し、点した。
 その後はしばらくレポートを書いた。例の短編小説である。川上にも言ったが、すでに頭の中に物語は出来ている。それ故に書くのが面倒だったのだが、さすがに切羽詰ればなんとかなるものである。文章の美しさはさておき、不可を食らわない程度には書けた。レポート、完成。
 インスタントコーヒーを飲むためにヤカンを火にかける。続いて、普段は出番の少ないテレビのスイッチを入れる。見たい番組があったわけではない。しかし時々つけたくはなる。
 冷蔵庫の横に置かれた三段シルバーラック。上段のトースタ、下段のMDコンポに挟まれて、そのブラウン管は虫の羽音に似た音とともに起動した。倣はテーブルに腰掛ける。
 ニュースが出た。チャンネルを回すのも面倒だったのでそのまま見た。倣が一度も会ったことのない人物が離婚した、というニュースがトップで流されていた。その次に、倣が地図帳で名前を知っている国の人々が貧困で苦しんでいる、というニュースだった。
 ヤカンが呼ぶ。
 コーヒーを片手に戻ると、今度は増税でタバコの値段が上がったというニュース。この番組は喫煙者の擁護に回るようで、どこかでインタビューした彼らの不満を放送していた。
 男性会社員。
 OL。
 タバコ販売業者。
 皆が皆、慣れないカメラの前で若干の興奮を隠しながらコメントする。それらの映像を流し終えた後で、キャスターがユーモアの利いた、少しだけ主観的な意見を述べて次のニュースに移った。
 コーヒーからは湯気が昇る。まだ一度も口を付けられていない。倣の頭の中はタバコのニュースで止まっていた。
 茶化して、川上に言ったことがある。

 ――おい魔法使い、火とか出せる?

 どんな流れでその台詞を使ったのかは覚えていない。多少はユーモアが利いていたのかどうか、少し不安になるが、とにかく彼女の仕草はユーモラスだった。
 笑わず、そっぽを向いて、不機嫌そうに、バッグから取り出した不似合いに大きなライタを肘を曲げて掲げ、カチッ。
 その直後に彼女の表情は崩れ、二人で笑った覚えがある。
 それだけで、タバコを吸わない倣がタバコ増税のニュースに釘付けになる。
 これが魔法だろうか……と、そんなナンセンスなことまで考える。とても川上に言えはしない。
 ただし、その後には手痛い仕返しを食らったが。

 ――しかし、タバコ吸うんだな川上。そのライタ、お前のにしちゃ大きすぎないか?
 ――吸わないわよ。これはね、前の彼氏のライタ。盗んできちゃったの。

 温くなったコーヒーは空の胃にはきつかった。
 倣は顔をしかめ、そういえば夕食を食べていなかったことを思い出す。すでに零時が回りかけていたが、大学の裏のファミリーレストランならまだ開いているだろう。

 食べ終え、帰る途中。倣はとても『気味の悪い』光景を目にした。
 彼は今、店を後にして、ネオンも遠のいた歩道を一人歩いている。右側には二車線の道路が通っていたが、車はまばらに通る程度。少しの肌寒さを感じながら、月など眺めて気分はなかなか良い。
 倣は特に意識してもいなかったが、進行方向の左側には居酒屋やカラオケボックスが並ぶ区画がある。その居酒屋の一つから、男が出てきた。細身に見えるが、長身で筋肉質の男だ。
 男は車で来ていたのだが、その大型車は居酒屋の前の駐車スペースから大きくはみ出し、となりのカラオケボックスの自転車置き場を占領するようにとめられていた。大学近くのカラオケボックスは不夜城である。客足は深夜も衰えず、男が店に入っている間に男の車を包囲するように自転車は増えていった。珍しくもない、普段どおりの光景。
 普段どおりでなかったのは、男の様子である。
 何かを呟き続けている。目線は下がり、手元で必死に何かを操っている。携帯電話だ。両手の親指を使って、ひと時も休まず打ち込み続けている。
 男が車の方へと向かう。が、下ばかり見ていて自分の車が自転車で囲まれているのに気付かず、まともに突っ込んだ。足を取られ、転倒する。
 ここで初めて倣はそちらの方を向いた。自転車の海で誰かがもがいている。大方、酔った学生だろうと苦笑。あまり見るのも可愛そうなので、目線を外す。
 男は起き上がった。転倒の際に落とした携帯電話を拾い、自転車をのけ、なんとか車に乗り込む。
 そして、未だ無数にとめてある自転車に構わず、そのままバックをした。
 平穏な夜は壊された。連続して起こる破壊音。それは霜柱を踏む音に似ていた。
 通り過ぎようとしていた倣は驚いて振り返り、呆然とした。あまりの音に居酒屋とカラオケボックスの両方から客と店員が飛び出してきた。
 危ない、と倣は思った。
 車はくるりと向きを変え、カラオケボックスの入り口の方にそろそろと進み始めた。
 車の動きが理解できないという顔の人々。急加速する車。
 今度は霜柱程度では済まなかった。景気の良い看板と、七色のイルミネーション。それらが破砕する音といくつも重なる悲鳴。人がタイヤの下にいる所を倣は初めて目撃する。もちろん、玄関のドアが突き破られる所も、そこへ乗り込む大型車も。
 バック。もう一度誰かが踏まれた。車から男は降りた。痛みにのた打ち回る被害者に対し、馬乗りになって何度も殴る。店員が電話に叫んでいる。
 男はまた車に乗り込んだ。今度は車道へ出ようとする。
 その先には硬直した倣がいた。
 割れたフロントガラス越しに、男の顔が倣から見えた。
 男も倣の顔を見た。
 目が合う。
 まるで『鏡が笑った』ように、倣には見えた。
「あ……あああああっ!」
 体を投げ出して車を回避する。
 回る視界。続けて、衝突音。すぐさま起きて危険が迫っていないか確認する。すると、車道へ出るところでたまたま通った車に男の車が衝突していた。横からぶつかられ、反対車線のガードレールに叩きつけられた相手の車。男の車はそれでも何事もなかったように動き始め、去っていった。


   5

「よう」
 土曜。学校は休み。バイトは晩のみ。
 いつものように『エア・ポケット』でコーヒーを飲んでいた倣は、白いブラウスにロングスカートの川上に右手を挙げてあいさつした。
 川上は目を丸くする。
「ちょっと……どうしたの、その怪我」
 あの時は気付かなかったが、車に轢かれそうになるのを避けたときに怪我をしていた。そんなに大変な負傷ではない。しかし頬を二箇所切って、利き腕ではない左は痛くて動かない。高校時代に負った怪我で、骨にひびを入った時に似ていた。それぞれガーゼと包帯がしてある。
「いや、大したことじゃないんだ。アパートの階段を転げ落ちた」
 倣は笑ったままそう言った。
「馬鹿」
 彼女は少し青ざめている。血に弱い人というのがたまにいるが、そういった所が川上にもあるのだろうか。
「ところで、機嫌は直った?」
「え? ああ……この間は本当にごめんなさい」
「俺はいいから、店長に謝っとけ」
 川上は店長に謝り、コーヒーを頼んだ。店長は一度鼻で笑った。どんな笑い方にせよ、この老婆が笑うところを倣は始めて見た。おそらく弾数が少ないのだろう。笑うべきところでのみ笑う。一撃必中が信条。弾切れでもトリガを引き続ける自分とは大違いだ。
 そんな下らないことを考えていると、気を取り直した川上が話し出した。
「レポート書けた?」
「ああ」
「私も書けた。めでたしめでたし、ね。じゃあそろそろ本格的にオチ当てゲームを始めない?」
「そんなことしなくても、明日原稿を見せるよ」
「駄目。当てたいの」
「こだわるね。川上はよく物事をゲームに見立てたがるけど、一日経つとすぐ忘れてたよ。なにかあるの?」
 川上が息を呑むような気配を見せ、黙った。
 倣はポケットからタバコを取り出した。
「……タバコ、吸う人だったっけ?」
「昔はよく吸ってた。金が無いから止めてたけど、そんなこと言ってられない気分なんだ。……悪いけど、ライタを忘れた。貸してくれないか?」
 川上は今までで一番きつく倣を睨んだ。倣は無表情のまま川上を見た。
 バッグから取り出した例の大型ライタを倣の口元に寄せる川上。しかし倣は首を振り、それを手で受け取った。
 魔法使いならぬ倣でも、ライタは無事に火を吐いた。当たり前のことだが。タバコの煙は目にしみてブランクを感じさせた。
「機嫌が悪いの?」
「ああ。水曜日の後の川上みたいにね」
「ライタ、返してくれない?」
「その前に、このライタの本当の持ち主について教えてくれないか? どんな人間で、どんな別れ方をしたのか。……ついでに、水曜日に何があるのかも。深い話をしよう。たまには」
 川上は倣の目を凝視している。しかし、そこは単なる目のやり場に過ぎない。倣は彼女の頭の中で起こる思考のスピードを想像しながらタバコを吸った。
「……いいわ。でも先に一つ答えて。その傷、もしかして彼にやられた?」
「人違いでなければね。確かに似てたよ。俺よりも筋肉質で背の高い男だろ? はっきり言うけど、その人逮捕されるよ。昨日派手に車で人を轢いてたから」
 ああ……、と川上はうめいた。手のひらを顔に当て、それから続ける。
「そろそろヤバイと思ってたのよね……」
 そこで川上のコーヒーが運ばれてきた。忘れそうになるが、この場は二人だけではない。この先、店長に聞かれてはまずい会話もあり得る。倣は小声で、場所を変えるか? と彼女に聞いた。
「いいわよ、別に……。こうなったらもう警察上等だもの。少し騒ぎでも起これば、この店の認知度も上がるんじゃない?」
 二人は同時にコーヒーを啜った。
「話を聞いてると、水曜はその男と会ってたってこと?」
「いいえ。会ってはいないわ。水曜日は週に一度の調査日なのよ。彼にメールを送って、帰ってくるか調査するの」
「へぇ、楽しそうだ。一日中?」
「一通だけ。こちらから一方的に送って、返信を見るだけ。こちらからの再返信はないわ。あなたにメールアドレスを教えられなかったのは、そのメールを送るたびに私がアドレスを変えてたから。その調査を終えた後は、もう私、駄目なのよ。気分が完全に滅入っちゃって。しかも次の日まで引きずっちゃうのね」
「ふぅん……で、どうしてそんなことを?」
 川上はすっと目線を下げた。話の内容に反して明るかった雰囲気が、それらしいものに変わっていく。カウンタの方に倣は目をやるが、いつも通り店長は消えていた。
「……あなたは、自分に他人と比べておかしな所があると思う?」
 彼女はそんな話題から切り出してきた。
 倣は少し考えた。タバコを灰皿に押し付け、答える
「あると思う」
「それは好きになるものか、嫌いになるものについてじゃない?」
 川上の物語を思い出す。空言人のセリフだ。
「広義で考えればそうだと思う」
「そう。人間は感情のために生きているの。全ての行為は好ましい感情を増やすために行われる。他人とて、その行為を達成するためのツールでしかない。……こういう考えを哲学のレポートに書いて出したら、浅い考えだと再提出を求められたわ。でも、私はこの考えが正しいと思ってる」
 彼女は話を続けた。
「その考えは、私が中学生の時に芽生えたものよ。それ以来、一度もこの考えで説明できない事態はなかったわ。間抜けなことに、こんな大袈裟なこと言っておいて、男の子に初めて振られた経験がこの考えの起源なの。何ていう名前の男の子だったかな……大勢と付き合ったから、忘れちゃった。本当に大勢と付き合った。初めの男の子が一番長くて、それからはどんどん別れるまでの時間は短くなっていったわ」
 そこで彼女は今まで見せたことのない笑い方を見せた。自虐の笑みだった。
「ところで、私が相手を振ったことは何度あると思う? 二十人は少なくとも付き合ったんだけど、たった一人よ。それまでは全部相手から別れ話を持ち出してきたの。私が振ったのは最後の人だけ。それが彼よ。
 彼は私の前通っていた大学の同級生だった。私はこの大学へ転入学したの。もちろん彼と会いたくなかったから。言わなかったけど、実は倣より一つ年上なのよ?」
 彼女は以前の大学名を挙げた。今の大学よりも2ランクくらい偏差値が上の大学で、名門だった。
「好きになるもの、嫌いになるものの話だけど、彼と付き合う頃、すでに私の好きになるものは一つに絞られていたわ。それは、『人間は自分の感情のためだけに生きている』という考えを確かめること。これだけよ。特に、そう、愛を否定することに執着したわ」
 彼女はまたコーヒーを飲んだ。目を黒い水面に落としている。涙を落としていないか確かめるようだった。
 彼女の言うような考えは倣も持ったことがある。また、彼の学ぶ心理学はそれを支持している所がある。だが倣は何も言わなかった。
「私は実験をするように男たちと付き合った。私が相手の感情を正の方向へ動かそうとしている期間は良好な関係に。逆に、負の方向へ動かそうとすれば破綻する。心理学科だったら、これをただ当たり前のこととは思わないでしょう? なぜ、『私』という存在は変わらないのに、愛情が変化するのかしら? つまり、これは人間が相手の存在そのものを愛するわけではないということね。変化したのは相手の行動。それに伴った雰囲気。人間は、その雰囲気を愛するの。いくら相手の見た目が良くても、自分が憎まれた雰囲気では愛せないの」
 口調から徐々に熱が引いていく。他人事のように、早い口調で淡々と語る。
「でも、イレギュラーが生じた。どんなに私が苛烈な態度を取っても彼は態度を変えなかった。彼は少なくとも表面上は、私の存在そのものを愛しているようだった。私はぞっとしたわ。まさか、このまま私が醜く歳を取っても、どんなにわがままな態度を取っても、彼は私のことを愛し続けるんじゃないかって。つまり、自らの理論の破綻に恐怖したの。だって、中学の頃から何年間もしがみついて来たものなんだから。しかし事実から逃げるわけにはいかない。私は実験をすることにしたの」
 そこで彼女は言葉を止め、倣の目を見た。
「……彼の腹を包丁で刺した。そのまま救急車も呼ばず放置した。挙句に、見舞いに行って別れ話を出した。そのまま彼の制止も聞かず病室を出て、すでに用意していた引越し先に向かった。もちろん住所は彼に教えていない。その後はいたぶる様に週一度のメールを続けた。……理論の証明、彼の愛情が潰えるのを、それで確認できると思ったから」
 長く喋り続けた川上は、息を付いて天井に顔を向けた。
「そして、未だ実験は成功していない……」
「わかった」少しして倣が口を開いた。「俺はその話に何も感想を持たなかった」。
 川上が少し泣いているのも見なかった、と自分に言い聞かせた。
「昨日の晩の事件だけど、実はかなり大学から近いところだったんだ。知ってるだろ? 一番近くにあるカラオケボックスだよ。そこで大型車に乗り込んだ男が、店の入り口に突っ込んだんだ。新聞見た限りじゃ死者こそ出なかったが重傷者一名。俺は帰り際の奴に轢かれかけて、それを避けた時に怪我した。警察に話も聞かれた。おかげで家に帰ったのは明け方だ。全然眠気が来なかったからいいけどな」
 後半の軽口は聞こえていないようだった。川上は目を見開いている。
「近い?……そんな馬鹿な……私は住所も大学も彼には教えてない……なんで?」
「誰かに引越し先を喋った?」
「大学名くらいは……。でもほんの少しの友達にしか喋ってない。きつく口止めしたから、漏れるはずないわ……そんなことしても、彼女たちに得はないんだから。誰も嘘つきになりたいわけじゃない」
 他人の信じ方がアンバランスだ。
「……今の話を聞く限り、川上の居場所に見当をつけて探している可能性がある。少なくとも、お前を見かけたら何らかのアクションは取る」
 川上は体を震わせた。
「川上の選択肢は二つある。男が警察に捕まるまでの間、どこかに隠れていること。せいぜい二、三日だと思う。もう一つは、警察に保護を求めること。ただし後者の場合、傷害罪もしくは殺人未遂を問われることは言うまでもない。また、その後の彼との面会は避けられないだろうね」
「……」
「どうする?」
 彼女は両手で肩を抱いたまま考え込んでいた。
「……ちょっと……手を洗ってくるわ……」
 そう言って立ち上がった彼女は、真っ青な顔をしていた。吐きに行くのだろう、と思いながら倣は頷いた。
 暴力よりも、警察よりも、あの男に会うのが恐ろしい。
 倣は思う。だったら何故、似た顔の自分を選んだ?
 店内を見回してもその答えは落ちていなかった。小さな窓から光が差し込むものの、やはり薄暗い。川上はいない。店長もいない。まるで牢屋のようだ。嘘つきは牢屋に入れられる。特に、進んで嘘つきになりたいようなひねくれ者は。
 一人でいる時には、色々と思い出す。
 川上の物語を思い出す。
 母親のことを思い出す。
 そして、川上と付き合い始めた頃にした一つの決断を思い出した。それは彼の物語に出る男の決断と似ていた。だが一つ決定的に違うのは、物語の男が純粋に相手の女性のために行動するのに対し、自分は自分のためだけに行動するということだ。
 倣は目を閉じ、開いた。テーブルの上にはソーサー付きのコーヒーカップが二つ。紙ナプキンの入れ物が一つ。倣の吸殻が乗る灰皿が一つ。
 そして、川上が置いていった小さなバッグがあった。


   6

 土曜の次は日曜である。
 結局彼女は前者を選んだ。そうだろうと思っていたので、倣は何も言わずに昨晩から彼女に家を貸している。
 午前と午後のアルバイトを終え、帰宅したのは日が暮れかけている頃だった。
「ひどいじゃない」
 玄関でまだ靴も脱がないうち、川上はそう言ってこちらを睨んだ。ベッドの上であぐらをかいて座っている。着ているのは倣のジャージではなかろうか。
「何が? 夕食を買ってきたよ」
「あなたの恋人が危険にさらされているっていうのに、普段通りバイトに行くなんて。しかもあなたの部屋って本しかないし」
「自分で撒いた種じゃないか」
 倣はため息をつき、右腕だけで冷蔵庫に食品を入れ始める。さすがにこの家の位置が知られるはずはない、と川上は思ったのだろう。少しずつ自制を取り戻し、もうこんな調子だ。
「まぁ、いいわ。ところで昨日は私が一方的に喋ったんだから、今日はあなたが喋ってよね。深い話題を。あなたって、変な人だわ。それなりの話があるはずよ」
「変かな……?」
「変よ。自分で言うのもなんだけど、犯罪者かくまってるんですからね」
「そうか……そうかもね」
 倣は冷蔵庫のドアを閉め、コンロが一つしかないキッチンの前に立った。ガス栓をひねり、点火。
「ちょっと」
「喋るよ。でも料理を作りながらね。大した話じゃ全然ないんだ」
 かがんで台所の下から油と包丁を取り出す。
「簡単に言うと、俺は正直すぎたんだ」
「そうなの? 大層な嘘つきだと思ってたわ」
「そのことがあってから、俺は嘘つきって奴を見直してね。軽蔑の対象から、一気に尊敬まで見直した」
「極端だわ」
「そう……その辺は、やっぱり元から変だったのかもしれない」
 玉ねぎとキャベツをまな板の上で適当な大きさに切る。
「俺が中学生の頃、母さんが入院したんだ。癌でね。それでも早期だったもんで、なんとかなるだろうって話だった」
 父親が出張でしばらく見舞いに来れていない時期だった。
 父が見舞いに来なくなって三日目で、母親の様子がおかしくなった。見捨てられた、と口にし始めたのだ。倣がこのことを父に伝えると、父はすぐさま母親へと電話した。しかし今度は、電話の声が父ではないと言い出した。
「俺はとにかく『父さんは出張だから』と繰り返した。母さんは『私よりも大事な出張?』と聞き返す。はっきり言って、父さんの仕事がどの程度重要なのか俺には分からなかった。だから『分からない』と答えてたよ。正直だろう?」
 川上は眉を一度上げて話を促した。
「愛してる? と聞かれたんだ。母さんに。中学生にはなかなか厳しい質問さ。だけど俺は答えた。愛してる。母さんは続けて、どうして愛してる? と言った。一人前の大人でも逃げ出したくなる質問だ。だけど俺は答えた」
 包丁を一瞬止めた。
「『そりゃあ……親だから、だよ』ってね。次の日母さんは病院の窓から飛び降りてた。正直だろう?」
「……そうね」
 料理が出来上がって、二人で食べた。食べ終わり、倣が食器を洗っているとき、ドアがノックされた。
 一瞬、川上の体が震えたのが分かった。
 倣は手を拭き、はい、と答えてドアを開く。
「倣、ちょっと待……」
 カチャン、とドアの開きがチェーンで制限される。
 そこから顔を見せる倣。
 川上は悲鳴を上げた。
 ドアの隙間から伸びた腕が、倣の首を掴んでいた。
 ドアの向こうの男は、涙声で「やっと会えた!」と叫んだ。


   7

 倣はそのままドアを思い切り閉めた。男はうめき声を発し、首を絞める力を緩める。続いて倣は右手と足で壁を踏ん張り、ドアに挟まれたその腕を痛めつける。
「あああっ!」
 叫ぶ男。鉄製のドアである。男はついに手を離した。
 錯乱状態の川上。彼女の腕を掴み、倣は即座にベランダへと出た。この部屋は二階。飛び降りるのは不可能ではない。
「……!」
 川上はためらわなかった。手すりを越え、最小落差で降りる。
 倣も飛び降りる。足の裏に痺れが来たが、充分動ける。
 日は落ちて見通しが悪かった。そこは砂利が敷き詰められた駐車場で走りにくかった。おまけに後ろから追ってくる足音ははっきりと聞こえて、川上は何度も悲鳴を上げた。
 倣は川上の手を引っ張ったまま駐車場を抜け、今度は逆にアパート正面に向かった。
「倣……どこへ、行くの?」
 息を切らせた彼女はなんとかそれだけ言った。倣は無言で指差す。
 アパート玄関の前、『道路の白線ギリギリ内側にとめてある』バイクだ。
 倣は滑るようにバイクにまたがり、『持っていた』キーを挿してエンジンをかける。
「あなた……まさか……!」
「いいから、後回しだ! 早く乗れ!」
 男はもうすぐそこまで来ていた。鈴、と川上の名を呼び、嫌だ、と悲痛に叫んでいる。
 川上を乗せたバイクは急加速した。左手が痛む。
「嫌だ……鈴! やっと会えたのに!」
 その声が遠ざかって消えるまで、川上は倣の背に顔を押し付けていた。

 バイクをとめたのは倣の下宿からそれほど離れていない寂れた公園だった。ちょうど、彼の物語に出てきたような公園だ。ペンキの剥げたベンチが一つ見える。
「説明しなさい」
 川上は無表情でそう言った。
「なぜ彼を呼び寄せたの? どうやって彼との連絡を取ったの?」
 倣は肩をすくめた。
「後の方のは分かってるんじゃない?」
「ええ、そうね、私の携帯電話を見れば分かるわ! トイレに立った隙に、バッグの中に入れていたのを盗み見れば!」
「それは本当に悪かった。ただ、川上に了解を取ろうとしてもとても無理な計画だったから」
 倣はベンチへと腰掛ける。手で川上にも席を勧める。眉間にしわを寄せたままの彼女は、それでも荒々しく腰掛けた。
「あの男を殺すんだ」
 静寂。
「あいつがいたら、川上はずっと怯え続けなくてはならない」
「あなたには関係のないことだわ」
「関係あるね」
「どうして?」
「好きだから」
 静寂。
「そうなの?」
「そうだよ」
 少しの間。
「例え包丁で腹を刺しても?」
「例え包丁で腹を刺しても」
「例え私が姿を消しても?」
「例え川上が姿を消しても、愛するし、あの男のように迷惑を掛けたりはしない」
 倣は続けた。
「ねぇ、川上。あの男はもう愛情とかそういうのじゃない。狂ってる。狂気で追いかけてるに過ぎないよ。どうせ実験するんなら、俺でやり直すといい。……初めて会った時から、そのつもりだったんじゃないの?」
 川上が一度大きく息を吸い込んだ。眉間のしわは綺麗に取れ、清々しいとも言える表情で夜空の月を仰いだ。
「恋人なら当たり前かと思ってたんだけど、それにしても最近は不自然だった。絶えず俺の愛情を確認するようなことをしてたよね? わざわざ恋人の話題を出してみたり、物語のオチを当てたいと言い出したり。あれは俺に川上の物語を考えさせる手段だったんじゃないかな? どの程度深く自分のことを考えてくれているのか……果たして気付いてくれるのか。川上の物語に出てくる魔法使いが実は」
 川上の表情は動かない。
「魔法が使えないということに」


   8

 もう頭が狂いそうだった。いや、今はまだマシだ。満たされたグラスのように揺れがあればこぼれてしまう危うさだったが、今はマシだ。
 鈴に刺され、見捨てられた直後には完全に気が狂っていた。何故だ、何故だ、と叫びながら何人も医者を殴ったらしい。考えに考え続けて、結局は彼女本人に直接会って聞くしかないという考えに至った。メールは駄目だ。メールには「死ね」の一言しか書かれていない。こちらからいくら返信しても反応はない。どうにか鈴を捕まえて、二人だけで話し合わなくてはならない。
 彼女を探すのは難しくもなんとも無かった。個人情報を知るには知っている人間に口を割らせるだけでいいのだから。
 しかし、鈴の大学が判明して、そこからは難しかった。大学の事務室にはデータがあるだろうが、あの大学には警備員が常駐していた。今の俺は一見してまともじゃないのが分かるらしく、道を歩いていても気味悪がられるのだ。うかつに動けば警備員に捕まってしまう。
 携帯電話では常に新着メールがないのか確認を行っていた。毎週水曜にしかメールを寄こさない彼女だが、もしかしたら別の日にも来るかもしれない。それならば一秒でも早く見たいではないか。例え、「死ね」の一言でも。
 だが状況はどんどん厳しくなった。この間、車でやったことが致命的となって、ついに警察が本気になった。もう逃げられない。そう絶望していた頃、一件のメールが舞い込んできた。
 鈴からだ。そう思ったが、違っていた。今まで一度も見たことがない。送り主の名前は『空言人』。
 
sub:(non title)
 あなたの探す川上鈴の居場所を知っています。次の場所に、午後八時ごろ、携帯電話を持って来て下さい。そのアパートの男に川上さんは匿われています。くれぐれも今まで犯行に使った車で来ないように。
 疑うなら来なければいいでしょう。これは警察の罠かもしれません。
 空言人が自ら空言人を名乗っています。嘘か、本当か、考えてください。ただし、あなたにとってこれはラストチャンスとなるでしょう。

 俺は即断した。もちろん行くとも!
 古ぼけたアパート。背の低い二階建てだ。
 落ち着いて落ち着いて……ノックを三回。ドアが開く。俺はすばやく手を伸ばして相手の首を掴んだ。喉から空気の抜ける音が聞こえた。顔はよく見えないが、そんなことはどうでもいい。奥であの懐かしい声が聞こえたからだ。
 鈴の悲鳴だ。包丁で俺を刺したときに似ていた。
 ……だが、失敗した。
 呆然とし、道路に膝をついた。
 携帯電話が鳴る。メール着信。『空言人』から。

sub:(non title)
 バイクの去った方向へ進んでください。ほとんど曲がることなく小さな公園に着きます。そう、徒歩なら一時間くらいで。走らなければ彼女たちは移動してしまうかもしれませんね。
 警察に見つからないように気をつけて下さい。健闘を祈ります。


   9

 川上が去った後、倣はベンチの腰掛け部分を背もたれにするように地面に座り込んだ。彼女から貰ったライタで、タバコに火をつける。あの男のライタだ。左手がひどく疼く。白い煙は照明に照らされ、闇まで届くことなく消えていった。
 あの男がここに来るまでにはまだ時間がある。警察に捕まらなかったとして、だが。
 警察に捕まってもらっては困るのだ。そう、実に困る。『エア・ポケット』では言わなかったが、例え男が逮捕されたとしても川上が無事になることはない。男の口から彼女の罪が暴露されてしまうからだ。川上は警察に捕まっても構わないようなことを言っていたが、それでは倣が困る。
 わざわざ男の暴行の現場を人間の密集する夜のアパートで作り、逃げ、過剰防衛あわよくば正当防衛で殺害するという計画が全てオジャンになってしまう。
 タバコ。吸う。吐く。
 彼女が『愛を否定すること』に執着するように、倣にも執着するものがある。遠い母親の記憶。未だに離れないあのときの後悔。
 
 ――ねぇ、倣。私を愛してる?
 ――……うん、愛してるよ。
 ――どうして愛してる?
 ――え……どうしてって……そりゃ……親だから、だよ。

 その晩、母親は病院の窓から飛び降りた。
 歳を重ねるごとに、あの時の自分の愚行が思い出される。
 あの時に付くべき嘘はあったのだ。なんと単純に、嘘が悪いことだと思い込んでいたことか。
 だから藤井倣は執着する。『嘘によって他人を救う自分』に執着する。嘘を付くときだけ、本当に笑うことが出来る。そして、これからも自分は笑い続けたいと、そう倣は思う。
 吸う。吐く。火が僅かに音を立てる。
 思考は川上へと飛ぶ。彼女は倣の物語で男がした決断が分かっただろうか? 
 彼の物語では、あの後偽の魔法使いである女性に惚れた男が、なんとか彼女を本物の魔法使いにしようと努力することになっている。そして最後には、彼女は本当の魔法使いになる。
 作者とすれば自然な流れだと思うのだが、やはり彼女のような伏線がなければ分からないものかもしれない。そう、他人に知ってもらいたがっている、あのような伏線がなければ。魔法使いの機器に頼った生活や服装、魔法が使える空言人というキャラクタの配置を考えると、あのラストは容易に予想される。
 笑ってしまう。二人の物語に魔法使いなどいなかったのだ。二人とも、物語の中で自分の弱さを目一杯吐露している。愛情を信用しきれず、かといって支配しきれない自らの力不足を、魔法が使えない魔法使いに置き換えた彼女。願望をストレートに物語にし、さもそんなことが可能なように自分を騙す自分。
 だけど、そんな彼女の弱さに惹かれ、彼女を騙し続けたいと倣は思った。川上は、理論の実証を今一度イレギュラーに似た男で試そうとした。倣はこの先、熱烈に彼女を愛した後に彼女と別れるという演技をするのだろう。
 何の問題も無い。全く無い。魔法の使えない魔法使いと、他人を救いたい空言人は、パーフェクトなペアだ。
 その結論に至ると、倣は痛みを感じながら立ち上がり、男を迎え撃つ準備を始めた。
 怪我。体格差。勝つ方法は一つしか思いつかなかった。


   10

 足はもう震えていた。
 約束の公園に着いたはず……だ。『空言人』は公園としか言わなかったので、自信がない。
 何もない古びた公園だ。ぐるりと垣根で囲まれた他には、錆びた滑り台、どこからどこまでがそうなのか分からなくなった砂場、そして薄汚れたベンチがあるのみ。
 暗い。明らかに照明の数が足りていない。ほとんどの照明は壊れているようだ。アパートに居た男が後ろから不意打ちをしてくる可能性がある。俺は後方にも気を配りながらゆっくりと歩いた。
「鈴……」
 口から漏れる呟きを止めることは出来ない。
 どうして刺した? これほどまでにお前を愛した俺を。いや、刺すことと愛することは矛盾しない。だが、遠く離れることも矛盾しないだろうか? その説明が聞きたいんだ……。
「鈴……」
 数少ない照明に照らされた辺りに踏み込んだ時、見覚えのあるライタが転がっているのを見つけた。
 あれは……。
 俺がそれに近づき、屈んだ瞬間、強い光にさらされて俺は目を覆う。
 バットが数十本も同時に折られたような、凄まじい音がした。俺には光でよく見えない。どうやら、この光は車のライトらしい。上下にうねる一本の閃光。単車?
 ギクリ、とした。まさか。
 公園を区切っていたのは緑で作られた垣だった。公園の入り口は車やバイクの進入を防げるようになっているが、馬力の強い車や単車なら、その気になれば垣を突き破って入れる。
 まさか、まさか、まさか……。
 エンジンが唸る。
 まさか!
 真っ直ぐこちらへ向かってきたため、ライトと風除けで運転している人物が見えない。
 体勢が悪い。
 この速度、逃げ切れない!
「こ、殺すつもりなのか!? 奴か? 鈴か?」
 ドライバの姿は見えない。
「教えてくれ! 鈴なのか!? だったら、何故なんだ!」
 声が弾けた。


   11

 倣はバイクから降りた。
 念のためと思って確認したのだが、男は生きていた。
「……」
 倣は両手でそっと男の鼻と口を塞ぐ。意識の無い男は、一瞬苦しそうな表情を見せたが、次第に緩めていった。
 全く憐れな男だと思う。なにせ、刺された時点で川上の罪を警察から隠蔽したほど彼女を愛していたのだから。
 過剰防衛でも通じないかな、と倣は思う。
 男の携帯電話を回収し、ポケットへ入れる。代わりに自分のもので川上の番号を呼び出した。
 繋がらないことも予想していたのだが、川上はすぐに出た。
「今どこにいる?」
「待って、そっちに行くわ」
 しばらくして、彼女が来た。
 倣に壊されて数の減った照明が、徐々に川上の姿を照らし出す。彼女は男に一瞥もくれなかった。
 ゆっくりと歩いている。髪はわずかに揺れている。瞳は光を吸って、ブラウンに輝いている。
 魔法使い。本当にいるならば、こんな感じだろうか?
「これからあなたはどうするの?」
「弁護士さんと話し合って、川上が被害を受けず幸せになるよう努力する」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「私ね、あなたの物語がわかったわ」
 川上は手を差し出してくる。倣はそれを掴む。
「また話がしたい。あの空白の場所で。私たちが今、お互いにどれだけ理解しあっているのか、どれだけ理解できていないのか。それが、知りたい……でしょ?」
 倣は頷き、そして微笑んだ。
「そう……知りたい……」
 二人手をつないで歩き出した。