ステラ 〜宇宙(そら)に見る夢〜 中編
企画発案:tsukikasa
作:ASD、草渡てぃあら、と〜みん、tsukikasa、きぁ(執筆順)





第五話(作:草渡てぃあら)

 何度も繰り返される突然の展開に少しは馴れたつもりだったが、それでも僕らは圧倒的な広さの星空を前に、長い間言葉を掛け合えずにいた。夏草の揺れる丘にただ黙って立ち尽くす。眼前には墨を溶かしたような濃厚な闇――そして幾千もの星々が煌いていた。それぞれの星の光は小さく今にも夜の闇に飲まれそうだが、それぞれが強い輝きを持って存在している。僕は無意識に目を細めていた。
「キレイね……」
 独り言のようにつぶやいたアルケミーの声が隣で聞こえる。確かにその通りだった。その風景は間違いなく美しい。満天の星、気持ちの良い風が柔らかな草を揺らして――。
「……」
 僕は目を閉じた。感情がが大きく波打っているのが分かる。それは、悲しみや不安という具体的な気持ちになる前の不安定な精神の揺れだった。しかしその波がどこから来るのかが分からない。
 今までの流れを見る限り、ゲームの製作者、もしくはこの世界の創造神はアルケミーやサイファに関係のある空間を作り出し、それぞれのトラウマを自覚させてさらに解決へと導いているように思える。恐らく、次は僕の番なのだろう。
 確かにこの景色には見覚えがあった。しかし僕は、サイファのようにそこから派生する確かな記憶が思い出せないでいる。
「確かにキレイだけどもよ」
 我を忘れて見惚れていた自分を恥じるように、サイファは星空から無理矢理視線を外し僕の方を見た。
「何だよ、この能天気な空間は。イルキニーお前は何か? 星でも怖いのか?」
「いや、そういうことはないと思うんだけど」
「この場所ですごく嫌な思い出があるんじゃない? ずっと心に引っかかっていた不安とか、忘れられない過去の傷のようなもの……ね、何か思い出せない?」
 横からアルケミーも助け舟を出す。
 二人に迫られて、僕は途方に暮れてしまった。
(心に引っかかっている不安……忘れられない過去の傷……)
 アルケミーの言葉を反芻してみる。不安や傷といったマイナスの感情は、この満天の星空の下ではあまりにも不似合いだった。
 そうだ。あのとき僕は、この場所で初めて安らかな気持ちにさえなっていたのだ。
(安らかな気持ち?)
 己の奥底から甦る感覚に、ふと違和感を覚える。微かなものが心の片隅を横切った。
 僕は黙って空へと瞳を戻す。側では二人が、息を殺して見守っているのが分かった。
 静かに息を吸い込む。心の奥底の記憶が、ゆっくりと姿を現そうとしている。ゆらりと目前の星々が揺れたような気がした。
「……!」 
 次の瞬間、僕の瞳は大きく見開いていた。
「何か思い出した?」
「……僕は」
 甦る記憶は断片的で、思い出というにはあまりにも曖昧過ぎた。それでも。
「この場所で」
 唇が乾く。星の見えるこの丘で、僕は確かに安らぎを得たのだ。最後の安らぎを――けれども今の僕にはそれ以上を言葉にすることが出来なかった。
 僕は膝をついて短い草むらを掻き分ける。泥が爪先を汚していのも構わずに、僕は必死に【それ】を探した。
「ちょっと! イルキニー、何を探しているの? 何か思い出したの?」
 アルケミーの声が聞こえないわけではなかった。しかし、僕はそれの上手く反応できない。探さなければ。すべては【それ】を見つけ出してからだ。
 しかし同時に僕は、見つからなければいいとも思っていた。もし僕の記憶に間違いがなければ、僕はアルケミーやサイファと同じ立場ではなくなってしまう。
 「……あった……」
 しかし、僕の気持ちに反して【それ】はあっけなく見つかった。短い草と少し湿った土の匂いがする。
 それは白い錠剤だった。数粒がばらばらと地面に落ちている。
 過去の不安や忘れられない傷? 違う。そんなものじゃない。僕はなぜか可笑しくなった。
「違うよ」
 そんなことではないのだ。僕の記憶は今、悲しいほどに鮮明に甦ってきている。うずくまってしまった僕を、心配そうに覗き込むアルケミーとサイファ。僕が真実を告げれば二人との関係はどうなるのか、この世界がどう変わってしまうのか。
「イルキニー、大丈夫? 何が違うの?」
「僕は」
 僕の声は乾いていたはずだった。それなのに見開いたままの瞳からは、音もなく涙がこぼれ落ちる。それでも僕は言わなければならないのだろう。ゲームを進行させるために――。
「僕はこの場所で一度死んだんだ」




第六話(作:ASD)

 呟いてみれば、その言葉は意外なほどにするりと、僕の口からこぼれ出てきた。
「そう……死んでいるはずなんだよ。僕は、一度」
 草むらの上に膝をついたまま、僕は立ち尽くす二人を見上げた。
 サイファは、やけに怖い表情で僕を見つめていた。アルケミーはと言えば……普段の彼女からはちょっと意外な感じの、どこか同情的な視線を僕に投げかけていた。
 そんな彼女は無言のまま僕の側にしゃがみこんで、草むらに落ちていた白い錠剤をつまみ上げる。星灯りにかざすようにして、まじまじと覗き込んだ。
「……一体、何の薬?」
「薬物で自殺ってわけか」
 冷ややかなサイファの指摘に、僕は苦笑いを浮かべた。
「それは、ちょっと違うかな」
 どう説明したものか、とちょっと逡巡したけれど……僕はおもむろに、着ていたシャツをまくりあげた。アルケミーがちょっと驚いた顔を見せたけれど、でもまぁ、これを見せるのが一番手っ取り早いはずだ。
 アルケミーは最初は少し顔を赤らめたけれど、次の瞬間には、その表情がさっと曇った。
「イルキニー、その傷って……」
「手術の跡。みっともないでしょ?」
 僕はそう言って作り笑いを浮かべてみたけれど、二人は少しも笑わなかった。
 シャツを戻して、僕は二人に話す。
「昔からね。心臓の具合がよくなかったんだ」
「……」
 アルケミーが心配げに、眉をひそめた。サイファの方は、聞いているのかいないのか、そっぽを向いたまま黙り込んでいた。
「健やかな身体に生まれついていれば、それでよかったんだろうけどね。僕の身体がこんな具合だったから、父さんも母さんも、いつも口論が絶えなかった。確かに、治らない病気じゃなかったけれど……薬や治療費も決して安くはなかったし、最終的には心臓を移植するか、人工心臓を入れるしかないっていう話になって……そのどっちも、膨大な手術費用が必要になる。うちの両親には、とてもまかなえない金額だった」
「……」
「見ていられなくなったんだよ。僕のことで父さんと母さんは毎晩のように罵り合っていたけど、僕の前でだけは絶対に、どんな言い争いもしなかったんだ。いつだって仲良く笑っているあの二人を、僕が不幸にしているんだって……そう思うのは、耐えられなかった」
「その薬は、お前の心臓の薬だったんだな?」
「そうだよ、サイファ。それの服用を止めれば、あとは発作が起こるのを待つだけ」
「……そのために、この場所を選んだのね」
「うん。星の一番綺麗な夜に、僕はこの草むらに薬を全部捨てて、時が来るのを待ったんだ。ここに一人きりなら、誰も助けには来ないしね」
 そうやって。
 僕は、時を待っていたんだ。
 毎日定期的に飲まなくてはならないこの薬、服用を怠れば、すぐに心臓はいうことをきかなくなる。
 少し苦しい思いは、確かにするのだけれど……それで、何もかもが終わるはずだった。
「……おかしいよね」
「何がよ」
 笑いながら言った僕の言葉に、アルケミーが少しむっとしたように問い返す。僕の場違いな態度を、責めているように見えた。
「それで全部終わりだったはずなのに、僕はこうやって、君達とここに立っている。なんでだろうね、一体」
「それは、俺の方が聞きたいくらいだぜ」
 サイファも、少し怒ったような声で言った。
「大体、なんでお前はそんな満足そうな表情をしていられるんだ?」
「多分、後悔していないから、じゃないのかな……星もこんなに綺麗だし」
 僕は呟くようにそう言うと、目を閉じて、両手を軽く広げて、深呼吸する。夜の冷たい空気が肺に流れ込んでくるのが、妙に心地よかった。
 そんな僕の側で、サイファが愚痴をこぼすように言う。
「……まったく、呑気なものだぜ。俺たちの方は、思い出したくもない嫌な事を、無理やり思い出させられているっていうのに」
「それもそうだね。……きっと、僕にはこのくらいしか、適当な思い出がなかったんだよ」
 妙に不機嫌な態度のサイファの隣で、アルケミーが何かをじっと考え込んでいた。
「どうしたの、アルケミー?」
「何か、腑に落ちないのよねぇ……」
「何が?」
「あの時のサイファのうろたえっぷりは、かなりのものだった。私も、あんな事を今更蒸し返されて、ものすごく嫌な気分になった。……もし私があなたに何かを見せる立場にいるなら、死に際のこの場所じゃなくて、あなたが死を決意した、その両親の口論とやらをあなたに見せたでしょうね」
「……それも、そうだな」
 サイファが相槌を打って、僕を睨みつける。
「お前、何か俺たちに隠していないか?」
「何を隠すのさ、一体」
「ちょっと待って、サイファ」
 アルケミーが制止する。
「確かにこの件に関しては、イルキニー一人だけが特別な感じがするけど、それだけじゃないの」
「何のことだ」
「私と、イルキニーの名前」
「……名前?」
 眉をひそめるサイファに、アルケミーが突っかかるようにまくし立てる。
「だって、何か奇妙だと思わない? イルキニーとアルケミー、韻を踏んでいるみたいに語感が似ているじゃないの。それに、私たちの名前は他にはちょっと聞かない名前だけど、サイファ、という名前の人ならば探せばどこかにはいそうな気がするし」
「おいおい、それじゃ今度は俺が仲間外れってわけか?」
「そうじゃないけど……そのサイファってのはあなたの本名なのかしら? 私たちの名前は、明らかにこのゲームのために、誰かが用意した名前のように思えるんだけど」
「そう言われてもな……」
「そこに、意味があるのかないのかは分からないけれど。これも、あの部屋の謎と同じで、私たちがクリアしなければならない問題なのかも知れない」
 アルケミーの言葉に、サイファがうめいた。
 彼女は僕らを交互に見やりながら、こんなことを言い出す。
「……もしかしたら、今見せられた私たちの心の傷とかも、誰かに作られた、嘘の記憶なのかも知れないわよ? サイファはちゃんと友人を助けられて、私は親の期待に応えられる成績優秀な人間で、イルキニーの心臓は元から何ともなかったのかも知れない」
「かも知れないけど、それをどうやって証明するのさ?」
「例えば……そうね」
 アルケミーはしばし考え込んでいたかとと思うと、さっきの錠剤を僕に突きつけた。
「あなたがこれを服用していたのなら、薬の名前くらい、言えるわよね?」
「それは……」
 詰問されて、僕は思わず返答に窮してしまった。薬の名前……思い出そうとしたけれど、何も浮かんでこない。
「自分の名前が本名かどうかも覚えていないのに、そんな細かい事なんて覚えていないよ」
「うん、そうかも知れないけど……じゃ、こっちの証拠はどう? これは確実だと思うけど」
 彼女はそういうと、おもむろに……僕の胸に、手のひらを押しつけてきた。突然彼女に触れられて、僕はどぎまぎしてしまったけど……その指先が何をまさぐっているのかを、僕はすぐに知った。
 心臓の、手術の跡だ。
「……そもそも、あなたから今の話を聞いた時点で、おかしいと思うべきだったのよね」
「何のことさ」
「あなたの胸に、手術の跡がある。……でもあなたさっき、どうして死のうと思ったんだって言ってた?」
「それは……両親が、僕の心臓移植の費用を捻出出来ないから……」
 自分でそう言ってみて……僕は、愕然としてしまった。
 思わず一歩引き下がって、アルケミーの手を逃れてしまう。さっきまで彼女が触って確かめていた胸の傷跡を、今度は自分で改めて確認する。
 傷は確かにそこにある。
「……心臓移植が無事に行われていたとしてまで、あなたは死のうと思ったかしら? もし移植が済んでいたとすれば、それは両親が必死になって費用を工面したという事よ? そこまで両親の事を思っているあなたが、自殺なんていう、恩を仇で返すような真似が出来るとは思えない。……だとしたら、他に何か死ななくちゃいけない理由が、あなたにはあった?」
「……」
「つまり、これは欺瞞なのよ。あなたの死、そのエピソード自体が最初から存在していなかったのかも知れない。……あなたの死と、心臓の一件と、どちらか一方が虚構だったのかも知れないし、あるいは両方ともでたらめだったのかも」
 勝ち誇ったように、アルケミーが言い放った。
 そこに立っているのは、心の弱い部分を暴き立てられて泣き崩れているような、そんなはかなげな彼女ではなかった。その眼差しに、本来の強さが戻ってきていた。
 でもこれは少し、行きすぎてはいやしないか?
 僕たちの景色が暗転していく。星空も、草むらも、散らばった錠剤も、何もかもが闇の中に溶けだしていく。僕は戸惑うばかりだし、サイファも平静を装っているように見えて、やはり状況の変化に多少は面食らっているようだった。
 アルケミー一人が、何もかもを見透かした、とでもいうような、確信に満ちた表情を見せていた。
 彼女が、さっと右手をかざす。
「欺瞞を、一つ一つ暴き立てにいくわよ」
「……どうやるつもりなのさ、アルケミー?」
「私に任せなさい。……一つ一つ、検証していけばいいわ」
 彼女がかざした手の中に、光が徐々に集約していく。ひとたび濃密に塗りこめられた暗闇を、彼女のその光が、やがてゆっくりと満たしていくのだった。
 『正しさ』を司る者アルケミー。
 最初に覚醒を果たそうとしているのは、どうやら彼女であるらしい……。
 そんな風に脳裏に描いた後で、僕は自分がどうしてそんなことを知っているのか、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
 そんな僕の隣で、サイファが呻いた。
「くそ、先を越されちまったか……」
 彼が何を言っているのかもまた、まったく意味不明だったけれど。
 実感としては、あまりにはっきりと理解出来た。
 恐らくサイファ自身も、自分が何を言ったのかは分かってはいないだろう。けれど僕たちが彼女に先を越されてしまった、僕たちは出遅れてしまった、そのことだけははっきりと、確かなことのように思えた。
 アルケミーが導くままに、やがて僕らの目の前に、ひとつの景色が広がっていた。




第七話(作:と〜みん)

「ここは……」
 目の前に広がったのは真っ白な世界。そう、僕とアルケミーが出合った最初の閉ざされた空間だった。
「最初は私の記憶。なぜ気づかなかったのかしら?」
 白い頬がかすかに紅に染まっているように見える。悔しげなようすでアルケミーは唇をかむ。
「設問4『神様のダイス』……以下に定義される空間的特性を持った立方体の展開図の底面を持つ部屋は空間として物理的に成り立つか答えよ」
「それはさっき解いたじゃないか」
「成り立たないという答えはそれでいい。いえ、そういう答えもあると言ったほうがいいのかしら」
 僕の方を向いているようで、アルケミーの透明な視線はずっと遠くを見ていた。
「私の記憶の中では、どうやらその時答えが書けずに白紙だったとか、親の七光りで試験に受かったのだとかそんなことをうじうじと考えていたらしいのだけど……これがまず変なのよ」
「誰にだって答えが思いつかないことなんてあるだろ?」
 そう、アルケミーならきっとどんな試験にもすらすら解答を書き連ねるのが普通だったんだろうけれど、試験なんて時間制限もあるしとっさに答えが思いつかなくても不思議でもなんともない。しかし彼女は大きく首を振ったんだ。
「でも、私が解答を空欄で出すことはありえないわ」
「え?」
 断言するアルケミーに僕とサイファは唖然と声をそろえて問い返していた。
「その後だって、たった一問が解けなかっただけで不合格になるんじゃないかと思えるほど不安な試験ではなかったのよ」
「大した自信だな。さすが、というべきか」
 サイファの皮肉っぽい口調にアルケミーは、なんだか嬉しそうにも見える表情でうなずいた。
「あなたのその感情まかせの発言のおかげかもね」
「だから何が?」
 サイファの険しい顔が簡単に間の抜けたような頬の緩んだ顔になる。
「記憶の不自然さに気づいたの。私そんな風に皮肉られることには全然心が動かないもの」
 どういうことだろうと思いながら、同時に納得している僕がいる。サイファの僻みっぽい険のある話し方にアルケミーはただ名前を呼んでくれと指摘しただけだった。サイファの態度につっかかっていったのは僕だけだったような気がする。それに、そう、親の七光りだなんて言われても動じない彼女の方が彼女らしいと思ってしまうのだ。
「私は私である限り、自分の能力を信じている。確かに周りは私の父さんの部下ばかりの大人の中で育ってきたけど、別に客観的な視点を持てないわけじゃないわ。模擬試験の結果や過去の問題の内容も正答率も情報なんていくらでも手に入るでしょ。それで十分な能力があるという自信を持っていた。これは悪いことかしら?」
「……悪くはない」
 考えた末にぽつんとサイファは肩をすくめて答えた。
「ありがとう。多分サイファも知っているもの。そんな自信を持つためにどれくらいの努力がいるものなのか」
「あ、あぁ」
 何かに思い当たったようにサイファの顔に笑みが一瞬閃いた。
「じゃあ試験で答えを書いたの?」
 僕はアルケミーに問うてみる。空欄で出すことがありえないというからにはそう、何か書いたという確信があるんじゃないかと思って。いやもしかしたら、本当の記憶を取り戻したのか。
「書いたに違いないわ」
「……」
 断言するには曖昧な言い方だと思う。僕の表情に気づいてアルケミーは小首をかしげてみせた。
「記憶と矛盾するけど。もしも、と改めて考え直してみたの。私が私であるなら、どうしたのか。満足な答えは浮かばない。でも答えが思いつかないには思いつかないなりの理由があるはずなの。そしてこの時、私ならこう書くわ。その平面がそんな奇妙な空間特性をもつための条件を示してもらわない限り解答は不可能であると。だってそうでしょ? 単に壁を通り抜けて全然別の壁から出てくるというだけならまだ実用レベルにはなっていないけれど空間転移ゲートが存在していると考えればいい。でもわざわざ六面体の展開図にする必要はないし、立体にしたとき重なる線がつながっているという定義にも必要性が感じられない」
 アルケミーは部屋の壁に向かって歩いていく。
「もちろん満足な解答を思いつけない悔し紛れの答えではあるけど、悪くはないと思わない?」
「うわっ」
 僕は悲鳴を上げた。彼女の発言に対してではなく、目の前にある現象について。壁が崩れた時より、壁を通り抜けていった時より衝撃的な光景がある。アルケミーが壁に垂直に立っていた。立っているというのか生えているというのか、重力に逆らって体は宙に横たわって浮かんでいる。
「例えばこんな風に。ふふっ。やっぱりここは夢の空間みたいね。イメージどおりに動ける」
「そのマジックにはどんな種があるんだい?」
「神様のダイスは、人の知覚としては面の床だけの展開図をしているようにしか思えないけれど、実際にはそもそも空間が六つ重なってできていた六重立方体の展開した立体図だとしたら?」
「意味が分からない」
「本当はこんな風に、人は立方体の中を歩いているのよ。真っ直ぐ平面の空間を進んでいるように見えて、次の瞬間、別の方向に重力をもつ立方体の空間に移っている」
 上に向かってもう一歩踏み出した彼女は今度は天井から逆さまに立っていた。ただそう、彼女の髪は逆立ってはいないから彼女の周りには上向きの重力がかかっている、のかもしれない。彼女が手を伸ばして僕の頭を触ろうとしてでもなんの感触もなく、僕の頭の中から通り抜けて行く彼女の手が見えただけだった。
「あれ?」
「ほら、これなら同時に存在することもできる。実際にこの物が存在している空間は違う、から」
 僕は壁に向かって歩み寄った。その壁がないものと思って、目をつぶって踏み出してみる。さっき壁を通り抜けたのと同じようなものだった。僕は普通に立っていて、天井から逆さに立っていたはずのアルケミーが目の前に頭を突き出すようにして目の前の壁から生えていて、背後の壁から未だに呆然としているサイファが生えている。
「……エッシャーの騙し絵?」
 僕の曖昧な記憶の中から、思いついたのはそんな言葉だった。それは幼いころ、両親と一緒に行った美術館で見た印象的な、子供心にただ一つひきつけられた絵。物心ついて思いついて調べてみたら二十世紀の中ごろくらいのエッシャーという人の描いた錯視を利用した無限階段というものだと知ったけど、そうと分かっても僕は、そのとき買ってもらったポストカードを見ながらあの階段を上っている人になってずっと同じ階段を何周も上り続ける不思議に酔っていたものだった。
 僕は歩いてみる。どんなに行っても僕は白い四角い箱の端から端を真っ直ぐ歩いているだけだけど。
「そう、どこかゆがんでいるから可能なのか、空間が完全に閉鎖されているから可能なのか」
 アルケミーの声が大きくなる方向に歩いて、側に並んだ時、体温を感じてやっと側に来たのだと実感することができたんだ。
「サ、サイファ」
 アルケミーの存在を感じてほっとするのもつかの間、見上げた僕は悲鳴をあげる。サイファは境界線上にいた。壁に半分埋まった体と、その足元の踏みしめている面から半分通りぬけようとする体。存在しうるというのだろうか。
「この条件であるなら不可能ではないのよ。私たちの頭は三次元の一空間としか認識できないから奇妙だと感じるだけで。そしてこの展開した立体空間だと考えれば設問の定義でつながる面の相関がクリアになる」
 僕の疑問に答えるようにアルケミーはうなずいていた。確かに僕もこの場所まで来た以上二回は境界線を跨ぎ越してきたんだ。納得しようとした途端に別の疑問が浮かんだ。
「でも」
「そう、でも無理なのよね。そもそも六方向から別々に重力がかかるというのが物理的に可能とも思えないし、重複して存在する空間というのも口で言うのは簡単だけど具体的に描くことはできない。だから問題に難癖をつけてしまうでしょうね、私なら。大事な試験だからって関係ないわ。うん。こうやって口に出して言ってみて確信が持てる。私の記憶がまず偽物だってね」
 僕の言葉をさえぎってつぶやくアルケミーはいたずらっぽく笑った。ずっと子供っぽくなって無邪気に見える。僕もつられて微笑んでいた。アルケミーの像が揺らぐ。壁の距離が白い視界がゆがんで染め上げる。僕はそれでも今度こそ動揺したようにみせまいと無理矢理微笑み続けた。

 なんてことはなく、僕とアルケミーとサイファが並んで真っ白な空間に立っている状態に戻っていた。

「便利ね。三人で同じ夢にいられるなんて」
「夢?」
「夢というか、そうね。今は私の脳内にある空間だわ。私たちの名前を奪って、嫌な記憶を無理矢理ひっぱりだしているユニコーンは何者なのかは知らないけれど、脳に働きかけるものであることには変わりないわね」
「嫌な記憶……」
 僕は相変わらずアルケミーの言葉を捕まえて繰り返しているだけの自分にあきれながら首を振った。
「そう、記憶の片隅に残ってすらいないような一瞬感じた不安の想像を、記憶として引っ張り出されたのね。きっと」
「なるほど、そんな不安は感じたんだ? 親の威光でって?」
「私だって普通の子供よ。そんなにいつも自信満々というわけにもいかないでしょ?」
 なんだかアルケミーの普通の子供という言葉に笑ってしまった。彼女が普通だと言われても全然しっくりこないものだから。
「あっ」
「どうしたの? アルケミー?」
「ユニコーンはなぜ幼い子供たちを夢に引き込むか知っている?」
「ユニコーンって……確か古いおとぎ話の妖精か何かだっけ?」
「そう。ユニコーンは子供の夢の中に生きる妖精よ。森に迷い込んだ子供の名前を忘れさせて、そうして帰る家も親の存在も忘れてしまったその子の体が死ぬまで、一緒に夢に生きるの」
「怖い話だね」
「似てるでしょ? でもなぜ幼い子供しか狙わないか分かる? それは私たちくらいになってくるとそろそろ自我も芽生えて、名前や親の顔やいろんなことを忘れさせても、ふとした拍子に思い出してしまうからよ。私が私であるってことを」
「……ユニコーンが?」
「さあ、似たような存在がいるのかもしれないわ。ほらその証拠に私がここから追い出されようとしてる」
「え!?」
 僕たちの目の前で、白い少女の像が揺らぎはじめていた。僕は不安になって呼ぶ。
「アルケミー」
「うん。その名前も悪くないわ。アルケミストは正しい道を探しもとめた最も古いサイエンティストですもの。でも、違う名前で私を呼んでいるのが聞こえるの。私が私でいられる場所に戻る。目が覚めたら会いましょう、お二人さん」
 段々アルケミーの姿が、いや本当はそんな名前じゃないのかもしれないけど、とにかく今まで僕がアルケミーと思っていた少女の姿が薄れていく。
「あっ、サイファ、私あなた嫌いじゃないわよ。実験に犠牲が出るのはやむを得ないし、技術の発展のために自分が犠牲になるのも厭わないって言い切ったんですってね、上を目指すのなら……」
 最後の方が聞き取れなくなってそれと同時に少女の姿は掻き消えてしまった。崩れて行く白い空間。

 取り残されたのは男が二人。導いてくれる彼女はもういない。




第八話(作:ASD)

 目の前に広がるのは、ただ真っ暗な闇ばかりだった。
 そこには見慣れた真っ白な空間も、彼女の姿もない。今は僕とサイファだけが、ぽつんと取り残されているばかりだった。
「……行っちゃったね」
「ああ」
 呆然と呟いた僕の傍らで、サイファがぶっきらぼうに相槌を打った。ちらりと横目で見やると、彼は唐突に、怒気を露わにした。
「くそッ! ……お前は何とも思わないのか?」
「な、何を?」
「追い出される、とか何とか適当な事言いやがって。結局、俺達を置き去りにして、一人で抜け駆けしてさっさと行っちまっただけじゃないか、あいつは!」
 そんな風に悪態をついた彼に、僕は恐る恐る問いかける。
「ね、サイファ……?」
「何だよ?」
「君さ。自分が何に憤っているのか、分かっているの?」
「何だって?」
 そんな当然の事を訊くな、という態度で僕に噛みつこうとしたサイファは、大声を張り上げようとすっと息を吸い込んだままの姿勢で、ふと止まってしまった。
 彼の目が、言葉を探して宙を泳ぐ。けれど結局、サイファは先を続ける事が出来なかった。
「……おい、どういう事なんだ?」
「僕が訊きたいくらいだよ。……いい、サイファ? 彼女が消えて、あの白い部屋も消えちゃった。僕らはこんな、足元があるのかないのかも分からない暗闇に取り残されちゃってる。本来なら僕たちは、そもそもその事自体に、もっと驚いたり慌てたりするべきなんじゃないのかな」
「別に驚く事じゃないだろう。ここは夢の中だって、アルケミーも言ってたじゃないか」
「それはそうだけどさ。ここが夢なのか幻なのか、今更言ってもしょうがないんだけど、少なくとも僕たちは今の状況云々を深く考えもしないで、彼女に先を越された、ってそればかり腹を立てている」
「そういうからには、お前もやっぱり腹は立ってるんだよな?」
 少々嫌みを含んだ口調の問いかけを僕は聞き流して、諭すような口調でサイファに告げる。
「冷静に考えたらおかしいでしょ。普通は起きないはずの出来事を前に、僕たちは割と冷静でいられているばかりか、理由も分からないのに焦ったり、腹を立てたりしているんだよ」
 僕はそう言って、サイファの反応を窺う。彼は怖い顔で僕をしばし睨んでいたかと思うと、その視線をそのままついと逸らした。僕の言葉には、何も言い返さなかった。
 サイファのそんな様子を横目に、僕はひとつため息をついた。
「……それよりもさ。彼女、一人で大丈夫だと思う?」
「おいおい、今度は何を言いたいんだ?」
「あの夜の草原の事を覚えている? あのシーンの矛盾を付いて、彼女は欺瞞を暴き立てにいく、と言った」
「ああ、そうだったな」
「でも彼女は、自分の分の欺瞞だけをさっさと解き明かして、そして消えていった。……それだけで本当に良かったのかな、と思って」
 たどたどしい僕の言葉に、サイファが苛立ちを見せる。
「あいつはあいつの欺瞞を暴いた。お前の分の欺瞞はすでに解消済みだ。……残るは俺だけだからな。どうでも良かったんだろ、きっと」
「そういう意味じゃないんだよ。つまり、さ。……こういう事なんだよ」
 僕は言いながら、右手をさっと前方にかざす。そっと目を閉じて、ある風景を強く心に描いた。
 暗転。
 そして僕たちは、月明かりの下の例の草原に立っていた。
 サイファは少しばかり面食らった顔を見せたかと思うと、感心げに声をあげた。
「ほう。やるじゃないか」
「アルケミーほど、上手じゃないけれどね。……問題は、こうやって『空間』を移動する事が、僕らには元々可能だ、って事だよ」
「俺にも出来るのか……?」
 サイファがそう呟いて、目を閉じる。眉間にしわを寄せたかと思うと、気が付くと僕らは見覚えのあるリビングルームに立っていた。
「だったら、俺達は魔法使いか何かか?」
「そうじゃない、と思う」
「……そうだな。俺達に不思議な力があるんじゃない。この『空間』の方が、そういう風に出来ているんだ」
 今度はサイファが、場面をあの草原に移した。
「取り敢えずここまでは、俺達にも出来るようになった。あとはどうする? ここで今度は俺の欺瞞とやらを暴き立ててみるか?」
「そうしなくても充分でしょ。あれが欺瞞なのは分かり切ってるもの」
 僕はそう言ったけれど、サイファはあくまでもそこにこだわりたいみたいだった。リビングルームの奥のドア……前にここに来たときは、サイファがその扉の前で震えていたのだ。
 けれど今回のサイファは、何のためらいもなく向こう側へ踏み込んでいく。僕も恐る恐るあとに続いてみたけれど、そこには誰の姿もなかった。
「……やっぱり、そういう事だよな」
 部屋の片隅には机が一つ。その上に何やらごてごてと重そうな工具がひとつ、無造作に転がっていた。
 一見、古い戦争映画に出てくる機関銃のような、ごてごてとした無骨な形状だった。まるで銃器みたいなグリップにトリガーがついていて、それを引くと作動する仕組みのようだった。
 サイファが慣れた素振りでそいつに触れながら、独白するように語る。
「そもそも分子破砕機ってやつは、一定の分子密度を持った物質にしか作用しないように出来てるんだ。何でもかんでも破壊するってわけにはいかないんだよ」
「……そうなんだ?」
「のべつまくなしに何でも破砕してたら、工作にならないだろ」
 なるほど、と呟いた僕に向かって、彼は頼まれもしないのにレクチャーを始める。
「まず一度、切削する材質に向かって測定レーザーを射出する。……そう、こうやって」
 サイファはグリップの台尻にあるレバーをひねりながら、破砕機の先端を机の天板の上に押しあてた。ピピッと音がして、それから改めてトリガーを引くと、天板に5ミリほどの小さな穴が開いた。
「こうやって、破砕する物質とそうでない物質を判別するんだ。……こんなの、説明書読まなくたって分かる事だぜ。ちなみに人体の場合は」
 サイファはそう言いながら、さっと振り返って破砕機の先端を僕の肩に押しあてた。あっ、と僕が驚いて声をあげるのにもお構いなしに、彼の指が台尻のレバーをひねる。
「ちょ、ちょっとサイファ?」
 焦る僕を前に、サイファは意地悪そうににやにやと笑っているばかりだった。僕の狼狽を後目に、破砕機からはピッ、ピッ、ピッ、とさっきとは違う電子音が鳴り響く。
「と、まぁこうやってエラーが出て、トリガーは引けなくなる。……人の身体じゃなくても、柔らかいものは大体駄目だな」
「骨とかは?」
「骨にじかにってのはアリだが、そもそもむき出しになってるのって歯とか爪ぐらいだろ。歯科用の超小型出力のもあるにはあるが……何にしても、実際に刃がついてるのに比べりゃ、極めて安全な工具なんだよ、こいつは」
 こいつは旧型だからこんなに馬鹿でかいけどな、とサイファは付け加える。
 その破砕機の傍らに、つるんとシンプルな形状をした、手のひらサイズのオブジェが無造作に置いてあるのに、僕はそのときになって初めて気がついた。固い金属製の台座の部分に何やら落書きのような文句が、殴り書きのように掘り込まれている。へたくそな書き文字は何て書いてあるのか、判別がつかない。
「ロッシュのやつは手先が器用でな。こいつは学校の課題の工作なんだが、このカーブだって計測器を使わないで、フリーハンドで削り出したんだぜ」
「へぇ。綺麗なもんだね」
「そこにこんな無粋な落書きなんかしてみろ。あいつってば、かんかんに腹を立てちまってな。……それっきりあいつとは口もきかないまま、別々の学校に進学して、そのあと何となく別れちまった」
 そんな思い出話を語るサイファの表情は、どこかしら満足げに見えた。辛い記憶を辿っている風では、ぜんぜん無かった。
「今から思えばバカだったよな。……あいつ、今はどこで何をやってるんだか」
 ため息混じりに呟いたあとで、こう付け加えるのを忘れない。
「もっとも、そのロッシュの存在自体、本物かどうか分かったものじゃないけどな」
「……そうなんだよね。僕らが見せられてきたエピソードには、色々と食い違いがあるけれど、その真贋自体は、本当はどうでもいいんだよ、きっと」
「ユニコーンが夢を見せる、か」
 サイファが、アルケミーのセリフを引用して呟いた。
「そう。問題は、そのユニコーンが何を企んで、僕らをこういう目に遭わせているのか、ってこと」
 僕はすっと深呼吸をすると、手を前方にかざした。
 再び暗転。そして草原。
「……結局俺達は、今の時点で知っている場所以外には行けないんだよな」
「そうなんだよね」
 僕は大きくため息をつく。
「アルケミーは、彼女の物語の中で、その手がかりらしきものを見つけ出せたから、あの場所から解き放たれていった」
 僕の言葉を、サイファは神妙な顔で聞き入っていた。
「けど、それは本当に手がかりなのかな? もしかしたら、罠ってことも有り得るのかも」
 僕はそういうと、さっと手をかざす。
 薄暗がりの草原に、白い小さな粒がぱらぱらとこぼれ落ちた。
「例の薬だな?」
「ネガティブな事も、思い描けば簡単に実現する」
「何が言いたい?」
「つまり、コントロールするすべを覚えさえすれば、僕たちは自由自在に、何でも思い描いた通りに出来てしまうんだよ。気を付けなくちゃいけないのは、そこで見つけたものが、果たして自分で思い描いた物なのか、誰が恣意的に用意した物なのか、それをちゃんと見極めなくちゃいけないってこと。彼女は誰かが意図的に用意した手がかりを見つけてしまって、その誰かの思惑のままにどこかに導かれようとしているのかも」
 僕は言いながら、かがみ込んで散らばった薬を一粒ずつ拾い集める。特に意味があったわけではなくて、何となく手を伸ばしてみただけだったのだけれど。
 そんな僕の指に不意に触れた、冷たい感触。
 恐る恐る拾い上げてみるとそれは……十字架の形をしたペンダントだった。
「……ね、サイファ。これって」
「十字架が、どうしたんだ?」
 それがどうした、という調子で尋ね返したサイファだったが……僕の言いたい事に気付いたのか、よせやい、と首を横に振った。
「だからだ、っていうのか?」
「だってさ。そうじゃなかったら、ここにこんな物わざわざ落ちてるわけないじゃないのさ」
「まさか、そんなのあり得ねぇよ。……だから」
 サイファがむきになって声を荒げる。
「だから、あの部屋が十字の形をしていた、なんて」
 苛立たしげな様子のサイファの横で、僕は手にした十字架をまじまじと見やっているだけだった。
「わかんないよ。……大体、これが何を意味してるのかもわかんないし。アルケミーが間違っているって事なのかもしれないけど。最初にこれを見つけてれば僕らはきっとこれに意味があるはずだと思っただろうから、そういう風に僕たちをミスリードするための材料だったのかも。……分からないよ」
 サイファはしばし深刻に考え込む素振りを見せて、やがて口を開いた。
「……いいだろう。誰かの思惑がそこにあるのだとして、お前はどう思う? そういう思惑に、乗った方がいいのか、乗らない方がいいのか」
「どういうこと?」
「思惑に乗らなければ、罠にも引っかからないが、この状況から一歩も先へは進めない。思惑に乗ってしまえば、結果はともかくとして、前進か後退かのどっちかには進めるってことだ」
「サイファはどっちがいいの?」
「俺か? 俺は……そうだな。少なくとも、ここにずっと留まっていたいとは思わないな」
 再び景色が変わる。例のリビングルームの奥の部屋に、僕らは立っていた。サイファはデスクの上の分子破砕機をもう一度手にとって、しげしげと眺める。
「……何かこの場で、有効な使い道があるの? そいつに」
「ある。俺ならこう使う」
 言うなり、サイファは壁に破砕機を押しあてた。レバーを引いて測定が終わるのももどかしく、彼はトリガーをめいっぱいに引いた。
 最初に開いたのは小さな穴だったけれど、破砕機は徐々に出力を上げて、古びた外観からは想像もつかない勢いで穴を広げていく。
「何をしようっていうの?」
「お前さ。この壁の向こう側、どうなっているのか気にならないか?」
「壁の向こう……?」
 言われて、僕ははっとした。
 白い十字の部屋。
 リビングルーム。
 そして、あの草原。
 どれもこれも、ある意味では限定された空間に過ぎない。僕らの目に触れ、手に触れるのはあくまでもその限定された空間の「内側」に過ぎないのだ。
 アルケミーはあの白い部屋の謎をといた。あるいは解いたつもりになった。そしてあの場所の「外」へと出ていった。
 そして今、サイファが壁に穴を開けようとしている。それは文字通り、この空間の「外」へと通じる穴なのだ。
「ここに風穴を開けりゃ、すぐあの嬢ちゃんに追いつくぞ!」
「……サイファ、それは駄目だよ」
「何だと?」
「君はそれでいい。でも僕は多分、そこから外へはゆけない」
「……何を言ってるんだ」
「『力を司る者』サイファ。確かに君らしいやり方で、君はここを出ていこうとしているんだね」
「……」
「でもそれは僕の流儀じゃない。『揺らぎを司る者』たる僕は、僕なりの道を、僕自身で模索しないと」
「お、おい!」
 一歩二歩と後ずさった僕をサイファが呼び止めた瞬間、壁がどっと崩れた。僕はおろかサイファでも簡単にくぐり抜けられそうな大穴が、そこにはあいていた。
 その向こう側は隣室でも家の外でもなく、真っ暗闇が広がっているだけだった。
「……行くぞ! 四の五の言ってないで、とにかく俺について来てみろよ! 駄目なら、その時はその時だろうが!」
「そうだね。……そうかもね」
 僕はくすりと笑った。
 ――果たして彼は気付いているだろうか。アルケミーが『欺瞞をあばいた』途端、彼女にとっての欺瞞たるあの真っ白な空間は、闇に帰していった。そして今、サイファにとっての欺瞞であるこのリビングルームも、壁のほころびから順番にやがて消滅するだろう。
 けれど……あの月明かりの下のあの場所は、まだあのままなのだ。
 僕の欺瞞が、まだそこには遺されている、という事だろうか?
「よし、じゃあいくぞ! ……何としてでもあの女に追いついてやる!」
 何に焦っているのか、どこを目指すべきなのか、結局サイファにも分からないのだろう。それでも彼は今にもここから解き放たれようとしている。
 では、僕はどうなる。
 サイファがそんな僕の事情をどこまで把握していたかは分からなかったけれど……ともあれ、彼はためらい一つ見せないで、穴の向こう側の暗闇に飛び込んでいく。
 僕もまた、そんなサイファに手を引かれるままに、その闇をくぐり抜けていった。
 視界が、暗転した。