天体観測
作:鈴羽 みゆう





 僕は星を見るのが好きだった。
 何故だか自分でも解らないんだけど、気がつくと空を眺めてるんだ。
 星の中から何かを探し出そうとしているのかもしれない。
 その何かを探そうとしている自分が好きだったのかもしれない。

 そう、彼女と出会い、そして永遠に会えなくなったときも、僕は星を見ていたんだ――


 第一夜

 午前二時をまわった。僕はいつもと同じように、軽い荷物をそろえて家を出た。
 もちろん、星を見るために。
 少しでも長く空を見ていられるように、歩きながらも顔を上に向ける。
 烏の羽のように真っ黒に塗りつぶされた空には、点々と輝くものがある・・・・・星たちは煌き、瞬いて、僕を夜空へと吸い込みそうになる。
 ぼんやりしすぎて躓きそうになった。そこで初めてはっとして、自分がどこにいるかに気づく。

 さっきまでどうやって歩いてきたのか、そこはすでに、草花がぼうぼうと生えている空き地・・・
 目的としていた場所だった。すぐそばにはフミキリがある。

 知らず知らずのうちにたどり着いていたなんて、体が道を覚えてしまうくらいここにきていたんだ、と
 あらためて解って、苦笑いする。
 空き地に踏み入ると、今まで鳴いていた虫達の声が途切れ、再び鳴きだした。
 リンリンと心地のよいBGMと、夜中の、不思議で心地よい空気が僕を包む。
 虫達のオーケストラにかこまれながら空き地の真ん中まで行き、そこに望遠鏡をおろした。

「ふう・・・・」

 少しだけため息をつき、ライトを照らして望遠鏡をセットする。
 望遠鏡をチラリと覗いてちゃんと見えることを確認し、どすんと腰をおろした。
 ここは、静かだ。本当に、虫の声と遠くの車の音しか聞こえない。
 この時間になれば、大抵、電車の数は昼間に比べて大幅に少なくなる。通らなくなる、に近い。だいたいは明け方近くに一本走るくらいだ。
 だから、この楽しみなときを、しょっちゅう電車が通ることで邪魔をされる心配は無かった。
 夜食のアンパンをリュックから取り出してかじりながら、ライトをくるくると回す。
 こうして空を見上げていると、今にも星達がふってきそうだ・・・なんてことを考えながらもう一度望遠鏡を覗こうとした。
 と、その時。

「・・・何、してるんですか?」

「・・・・!!!??」
 驚きすぎて、手に持っていたアンパンを取り落としそうになった。
 何故って、僕のものとは全然違う、か細くて綺麗な声が空き地に響いたんだから。
 その場を誤魔化すように大きく咳を二つして、振り向いた。
 振り向きざまにあてたライトにうつしだされたものは、一瞬幽霊がでたかと思うほど白い肌の、影がうすい少女だった。
 どこか哀しそうな、戸惑いを帯びた瞳がこちらを見ている。
 僕は、まだ早鐘のようになっている心臓を押さえるように深呼吸をして、
「ほ・・・星を見てるんだ」とかすれた声でいった。
「星?」
「ああ・・・うん。天体観測さ。」
「テンタイカンソク・・・・・楽しいの?」
「まあ、楽しいかな・・・」
 そこまで言って、ふと色々な疑問が頭をめぐった。
 何故、こんな時間にこんな少女が出歩いているんだろうか?
 けれど、すぐには口には出さなかった。彼女が、次に何か言うのを待った。
 彼女は黙ったままで、しばらくはただその瞳が、月の光をのみこんで色を変え続けるだけだった。
 僕のほうも何を言ったらいいか解らず、仕方なくアンパンをほんの少しかじり、何となく望遠鏡に手を触れた。と、彼女の視線が望遠鏡にうつった。
「・・・見てみるかい?」
 彼女は微かに頷いて、側に来た。
 望遠鏡を覗こうとする彼女を見ていた僕は、ふと異変に気づき、
「・・・どうしたんだ?」と声をかけた。
「・・・え?」
「震えてる」
 彼女ははっとしたように口を手でおさえ、望遠鏡からはなれた。
 その肩は、側にいないと解らないくらい細かく、震えていたのだ。
「・・・ご、めんなさいっ」
 そう一声発しただけで、彼女は小走りで立ち去ってしまった。
 僕は、ガサガサという踏まれる草の音が遠ざかっていくのを、その場に呆然と立ち尽くしたまま聞いていた。
 やがて、聞こえるのは、また虫達の鳴く声だけになった。



 第二夜

 今日も静かな夜だ。
 ちょっとだけ蒸し暑いが、そんなことは気にならない。
 いつもと同じように空き地の真ん中に腰をおろす僕のズボンを、草の雫が濡らした。
 今日は夕立があった。すぐ通り過ぎるだろうと思っていたが、予想通りだった。雨があったあとのホコリ臭さもすっかり消えている。
 晴れてよかった、はずなんだけど。
 星を見る僕の頭の中には、昨日の少女の顔が浮かんでいて。
 透き通るような白い肌、寂しげな瞳・・・・・・そして、震える肩。
 彼女はどんな声で喋ってたっけ?・・・・・
 カサリ。
 背後で草のこすれる音がした。でも大して気にもしなかった。・・・虫が跳ねることなんて、よくあることだし。
 しかし、もう一度草が音をたてたあとに、鈴の音が・・・いや鈴に似たか細い声が聞こえ、
 さすがに僕も振り返った。
「あ、あの・・・こんばんは」
 声が喋った。僕は仰天した。
 後ろに立っていたのは、たった今まで考えていた、あの少女だったのだ。
「昨日は・・・邪魔してごめんなさい。今日ここに来てないかもって思ったんだけど・・・何か気になって・・」
 僕は口をポカンと開けて答えないでいた。突然のことに、対応し切れなかったのだ。
 彼女は唇をぎゅっとかみしめ、何かに迷うように目を少し泳がせた。
 それからチラリと望遠鏡を見ると、うつむき加減の顔をあげて僕を見据えた。
「・・・望遠鏡、見させてくれませんか」
 何秒か間があった。
「・・あ、ああ、いいよ」
 僕が答えると同時に、彼女が望遠鏡に向かって歩き出す・・・が、やはりその体は震えている。あえて、言わないでおいたけれど。
 彼女は一歩一歩ゆっくりと進み、望遠鏡の前に来ると、そっと覗いた。
 望遠鏡の方向を変えるのはさすがに重たいようで、僕が手伝って動かしてやった。
 しばらく望遠鏡で空を見た後、彼女は静かに目を離した。
 だいぶ落ち着いたのか、震えが止まり、体の力も抜けている。
 彼女は、目を輝かせていた。
 軽く息を弾ませ、今まで生気がなかった肌にも、少しだけ赤みがかかっている。
「すごい・・・綺麗・・・」
 彼女はまた震えだしたが、さっきとはまた違うもので、感動に打ち震えているようだった。

「・・・私、優美。星野優美」
 僕が望遠鏡を覗いているとき、座っていた彼女がぽつりと言い出した。
「・・・・何歳?」
「十三。」
「へぇ・・・僕より三つ下だな・・・・」
 しかし、十三歳の子供がこんな夜中に・・・決して安全とは言えない、むしろ危険なときに歩いていていいのだろうか?
「あ、あのさ、夜遅くに出歩いてて怒られないの?夜道は危険だし、怪しい奴もいるだろうし・・・」
 僕の言葉に、彼女は戸惑ったような顔をしてうつむいてしまった。
「あああ、いや、つまり・・・その・・・・帰らなくて大丈夫?じゃなくって・・・ここにいるのがダメだってわけじゃなくて・・・だな。自分の安全を考えれば夜中に出歩くのもおかしくない・・・ってあれ?」
 あんまり慌ててフォローしようとしたもので、途中で言葉のつながりがおかしくなってしまった。
 急いで次の言葉をさがそうとすると、さらに口がすべりそうになる。けどその時、くすりと笑う声がした。

 ――彼女が、笑ってる。

 初めての笑顔。彼女の張り詰めていた何かが、なくなったような気がした。
 とりあえず、笑ってくれてよかった。
 ほっとした途端、足の力が抜けて座り込んでしまった。
 彼女は笑いがおさまってから、また話し出した。
「ごめんなさい。でも、笑ったの久しぶりかもしれない。それに・・・夜の空が、こんなに明るくて綺麗なものだなんて、知らなかったわ。もっと真っ暗で・・・怖いものだと思ってた・・・・」
「じゃあ何で夜歩きを・・・・」
 僕は尋ねたが、彼女は寂しげに微笑んだきりで、答えなかった。
「さてとっ」
 彼女は立ち上がると、軽く土をはらって伸びをした。
「私、そろそろ帰ります。」
「え、あ、あぁ。」
 僕の返事の後、彼女は少し黙り、何かためらっていたが、やがて切り出した。
「あの・・・また明日も来ていいですか・・・」
 一瞬だけ間があった。
「あ、ああいいとも!」
 彼女はさも嬉しそうに顔をほころばせ、立ち去っていった。
 フミキリが降りる音がして、電車が走っていった。



 第三夜

 今日はよく晴れていた。
 昼間にはいくつか浮いていた雲も、すっかり消え去っている。
 僕の心も、今日の天気のように晴れ晴れとしていた。うきうきと、まるで弾むように。空き地へ行く間の足取りも軽かった。
 何気なくラジオのスイッチを入れると、ちょうど天気予報がやっていた。ここ一、二週間の間は、晴天が続くらしい。
 そしてその二分後、彼女がやってきた。
 しかし、随分とゆっくり歩いているらしく、なかなかこちらにやってこない。
 不思議に思ってライトを照らすと、何か大きな物を持っているようだった。
 ずるずるとそれを引きずって、よろよろしながら歩いてくる。
 黙って見つめていると、こちらに気づいたらしい彼女が、汗をふきながらニッコリと笑った。
「これ、重くって」
 彼女はその一言だけを発し、なおも荷物を力ずくで持ってこようとする。
 近くに駆け寄ると、荷物は大きいだけでなく、見た目がごつごつとしていて、かなり重量感があった。
 これを、十三歳の少女が一人でがんばって引きずってきたのか。
「途中まではしょってきたんだけど・・・。一人で運べると思ったのになぁ」
 彼女が不満げにぶつぶつ言うのを聞いて、僕は思わず吹きだしてしまった。
「無理に決まってるじゃないか。そんな荷物、何に使うんだい?」
 彼女は笑われたことを不服に思ったのか、頬を膨らませて
「天体観測に使う道具だけど」と小さな声で答えた。
「そんなに大袈裟なモン、なくてもできるよ?詳しく記録をとろうってわけじゃないんだしさ。使い方もわからないし。この望遠鏡と、自分の目さえあればいいさ。」
「そ、そう?」
 彼女はどさりと荷物を離し、その場にへたへたと座り込んでしまった。
「なぁんだ・・・余計な力つかっちゃった」
 力なく笑う彼女を見て、僕もハハ、と笑ってみせた。
 それからラジオのスイッチを切り、何気なく望遠鏡を覗き込んだ。
 望遠鏡で夜空を見回す僕を、彼女は黙ってみていたが、しばらくして口を開いた。
「・・・何を、探しているの?」
 僕は望遠鏡を覗くのをやめて振り返った。
「そう見えるかい?」
「うん。・・・違うの?」
 僕は少し考えた。
 ・・・そうかも、しれない。
 もしかしたら彼女の言う通りかもしれない。

 こうやって夜空を眺めていると、不思議と色々な疑問が浮かんでくる。
 幸せとは、どういうことを言うのか。
 哀しいとき、それをどこに置いていけば元気になれるのだろうか。
 もちろん、そんなこと誰も教えてくれないだろうし、知ってもいないだろう。
 だから今まで、その答えを見つけるために、そのためだけに、星を見続けていたんだろうか?

 黙り込んでしまった僕の顔を、彼女が覗き込んだ。
「大丈夫?」
「・・・へ?あ、うん、ごめん」
 僕は我にかえった。
「前までは、色々探してたよ。というか・・・人は、ずっと何かを探しているものなんじゃないかな?」
 ノリで言っちゃったけど、我ながら結構名ゼリフだったかも。
 彼女は感心したように頷いている。
「まぁ、今は箒星を探してるかな。」
「ホウキボシ?」
「箒みたいに尾をひいてるみたいに見える彗星のやつさ。まだ見たことが無いから・・・」
「ふぅん。私も見てみたいな」
 彼女は言いつつ、腕についた蛍光時計をチラリと見て、はっとしたように立ち上がった。
「もう帰るのかい?」
 僕も慌てて腰をあげた。
「うん。あんまり出歩いてると、ばれちゃうかもしれないし・・・」
「えっ?」
 彼女は、しまったという顔で口をおさえた。
「なんでもないの!じゃ、じゃあさよなら!また明日っ」
 ぽかんとする僕をよそに、彼女はとっとと荷物を持ち、その場から姿を消してしまった。

 彼女の言葉はあまりに不自然だった。
 でも、何故か解らないが、そのときの僕は、すぐにそのことを忘れてしまったけど。



 第四夜

 この日、僕はいつもより早めに空き地に来ていた。
 一刻も早く、彼女の顔を見たかった。彼女と話したかった。
 僕が早く来たからって、そんなに意味は無いけれど。それでも家でじっとはしていられなかったのだ。
 彼女を待つ時間が、とても長く感じられた。その間にも虫は鳴き、星々は煌いている。
 足音に振り返れば、そこにはいつもと変わらぬ彼女の顔があった。
「こんばんは」
 知らぬ間に緩んでいた顔を、慌てて真顔に戻し、僕も挨拶を返した。
「やあ、こんばんは」
 星と月の明かりがいつもより明るかったため、彼女の顔がよく見える。
 でも、どこか・・・、どこか顔色が悪いような気がする。光の加減のせいだろうか?
 いや、きっとそうだろう。
 何せ彼女は、いつものように明るく振舞って、夜空をときどき見上げては「綺麗ね」なんていってみせる。
 僕は、彼女が何か言うたびに相づちをうちながら、自分の考えを取り消した。
 しばらく、いつものように星を眺めては色々なことを話し合った。
 あの星は何か、と彼女に聞かれたときには、自分なりに説明もした。
 彼女が話せば、その二倍僕が話し、さらにその二倍、彼女が話した。
 楽しかった。幸せといってもいい時間だった。
 別に彼女のことが好きとかそういうのじゃないんだけど(それは自分でも解っているんだ)、隣りに彼女がいるだけで心が落ち着き、気分がよくなる。
 それがこの上もなく不思議だ。時間の流れも忘れてしまう。――彼女が腕時計を見るまでは。
「・・・時間って、たつのが早いね」
 彼女はため息混じりに呟いた。
「・・・・・ああ。」
「『今』がずっと続けばいいのに、何でこう、すぐに『明日』になっちゃうんだろう。」
「でも、明日もまた話せるだろ?」
「・・・・・・・・・・・」
 僕が言ったあと、彼女は黙り込んでしまった。
 そしてふいに、空を見上げたかと思うと、
「・・・箒星も、すぐに流れていってしまうの?」と、耳をよく澄まさなければ聞こえないほどの声で呟いた。
「いや・・・彗星だから・・・・流れ星とは違うよ。まぁ移動はするけど・・・・」
「でも、その場所にずっとはいないのよね。」
 彼女は言うと、息を一つ吸い込んだ。
「同じだね、時の流れと」
 僕は何もいわなかった。ただ、彼女の言葉が、やけに意味ありげに聞こえていて。
 それからしばらくは沈黙だった。
 彼女の言葉の意味を頭で考えていた僕は、出た答えをそのまんま口に出した。
「明日になるのが嫌なら、『イマ』を追いかければいいじゃないか」
 彼女が大きな目をして僕を見る。
「・・・・・・え?」
「『イマ』を追いかければいいんだよ」
 僕は繰り返した。
 彼女は瞬きをし、声を潜めた。
「・・・追いつけるの?」
「追いつくんだよ」
 できるだけ力強く答える。自分にも、充分言い聞かせるように。
 彼女は、その瞳を大きく開かせて、僕をじっと見つめながら、必死に何か言おうとしている。
「・・いっしょに、追いかける?」
 彼女の声は、震えを帯びていた。
「ああ」
 僕は答えると同時に立ち上がった。彼女もつられて立ち上がろうとした。
 ・・・・・と。
 どさり。鈍い、何か重たい物が倒れたような音が後ろから聞こえた。
 僕は振り向いた。その途端、思わず出そうになった悲鳴。それを噛殺しながらも、僕の頭は真っ白だった。

 ――彼女が、青い顔をして、草の上で倒れていたのだ――


 僕は彼女の名前を呼んだ。反応は無かった。
 急に、全ての音が聞こえなくなったような感覚に襲われた。線路の向こうからライトが光り、電車が来るのが見えたが、その音が聞こえることは無かった。

 どうしたんだ?いったい、どうしたんだ?
 何が起こったんだ・・・・?

 同じ言葉が脳の中を駆け巡る。
 パニック寸前、彼女より僕がおかしくなりそうになったとき、彼女の体がぴくりと動いた。・・ような気がした。
 仰向けに起こすと、彼女はゆっくりと目を開けた。どうやら、無事だったらしい。
 しかし、その体は、この夏の気温の中ではとてつもなく冷たかった。
「・・大丈夫、か?」
 彼女は僕の言葉には反応せず、光の映らない瞳でぼんやりと僕を見ているだけだったが、だんだん意識がはっきりとしてきたらしく、急にその瞳が、哀しそうに歪んだ。
 だがそれは溢れてはこなかった。溢れる前に、開きっぱなしの目にすいこまれた。
 彼女は瞬きを一つして、上体を起こした。
 唇をギュッと結び、地面を見、傍らに黙って控えている僕を見て、また地面に目を戻した。
 僕が何か言おうとした瞬間、彼女が口を開いた。
「・・・・・ごめんなさい・・・・」
 細い、鈴のような声だった。
 けどなんで、彼女が謝らなくちゃいけないんだ?
「いったい、どうしたんだ?」
 僕はさまざまな疑問を押さえつけて、それだけを言った。
 彼女の瞳に、戸惑いが、迷いが、様々な思いが混じって映った。
 そして、うつむき加減に答えた。
「・・・・・病気なの」
「・・何だって?」
 思わず聞き返してしまった。
「病気なの。私も詳しく知らないんだけど・・・教えてもらえないんだけど・・・・・、治らない確率が高いんだって。本当は・・・・・本当は」
 彼女はそこで息を吸い込んだ。
「今にでも、手術しないと危ない状態なの」

 驚いて、声もでなかった。
 彼女が病気。しかも、かなり危険な状態の。
 そんな様子は、みじんもなかったのに・・・・・・

「じゃ、じゃあどうして」
 どうして今ここにいるんだ、と続けようとして、言葉を切った。
 喉が、声が、震えていて、ちょっとでも油断すると情けない声がでそうだ。
 でも続けなくても、彼女には解ったようだった。
「手術しても、成功する確率はかなり低いんだって。二十パーセント以下、とか。最初はそんなことも教えてもらえなかったけど、危なくなってきてから何とか聞き出したの。病気がなんなのか教えてくれないなら、状態くらいは教えて、って。自分のことは自分で知っておきたいもの。命が危険なら、なお更」
 彼女は寂しく微笑んでから、言葉をつなげた。
「それに手術って言っても、なかなか病院とかの予定がつかなかったらしいの。たくさんのお金も必要みたいで。
 やるかやらないか、っていうのも、お父さんとお母さん、迷ったみたい。だって失敗したら、手術をしないままでいるよりずっと早く・・・・・そう、麻酔をかけられたっきり、みたい。お医者さんとかのお話を、盗み聞きしたの」
 僕は呆然としていた。
 彼女が言った言葉も、頭の中に入ったのか入ってなかったのか、よく解らない。
「ごめんなさい、黙ってて」
 そう言った時に、ようやくはっとした。
 そうか、だから、だから彼女はあんなに『イマ』にこだわっていたのか。
 ともかく彼女に何か言わなければと、僕は口を開いた。
「・・・・・・・いや、それはいいけど・・・・と、ともかく今日は家に帰った方がいいよ。また具合が悪くなるといけないし・・・・」
「・・うん」
 彼女は短く返事をして、ゆっくり、ゆっくり、少しずつ、立ち上がって、
 そして、ときどき振り返りながらも、歩み去っていった。
 僕は、そんな彼女の後姿をしばらく見つめいていたが、ふいに気がつき、聞いた。
「・・手術の日って、いつなんだ?」
 彼女は立ち止まって振り向いた。
「明後日よ」
 ――アサッテ――
 そんな、すぐに。
 あと少ししかないじゃないか。
「なんで、病院にいなかったんだ?それに、夜中に、こんな夜中に歩いてたのはっ、どうしてだ?」
 僕は早口にまくしたてた。
「病院には、いてもたいしたことできないの。だから、家にいていいって。夜中に歩いてたのは、夜、寝ている時間も惜しかったからよ」
 彼女は僕とは対照的に、ゆっくりと答え、それから立ち去った。

 月が綺麗な夜だった。



 第五夜

 今日の空気は、どことなく湿っていた。空も曇りがち。
 天気予報では、晴れを告げていたけど。
 なんとなくぼんやりしているうちに、空き地に来てしまった。
 いつも鳴いているはずの虫達の声が、今日は聞こえない。
 聞こえるのといえば、ときどき遠くに響く、車や救急車の音だけ・・・・・

 救急車。

 僕はどきりとした。
 昨日の彼女の言葉が、頭の中をめぐる。
 耐え切れなくなって、空を仰いだ。
 星はほとんど見えない。空というよりも、重たい雲が真っ黒に染まっている状態だ。

 今日、彼女は来るのだろうか。

 黙って見上げていると、そんなことが頭に浮かんだ。

 やっと、やっと手に入れたと思った友なのに。
 何でも話せて、何でも解ってくれる友なのに・・・・・
 彼女の笑顔が大好きだったのに・・・・・

 かさ、がさ。
 草を踏みしめる音が近づいてきた。
 手探りでライトをとり、大急ぎで照らした。
 彼女だった。
 昨日より、もっと顔色が青く見えた。
 僕は息を呑んだ。
「あ・・・、やあ」
 彼女は、頭をちょっと下げただけだった。
 それから近くに来ると、
「今を、追いかけるよ」と呟いた。
「私は、私は今を・・・・・追いかけるよ。どんなに早く行ってしまっても」
 僕はなんとも言えなかった。うつむいている彼女を見ていることしかできなかった。
 と。
 ぽつり、何かが頭に落ちてきた。
 顔を上に向けた。
 ぽつり。
 また冷たいものが頬にあたる。
 水。・・・・・いや、雨だ。
 ぽつり、ぽつりと落ちる間隔がだんだん狭くなってきて、僕たちが無言で空を見上げている間に、
 どしゃぶりになってしまった。
「げほっ・・・」
 僕はむせた。鼻の中に、口の中に、雨水が流れ込んだのだ。
 彼女は唇を固く閉じたまま、目線を地面に落としている。
 彼女の漆黒の髪が、雨に濡れていった。同時に、服も肌も。
 僕は濡れていく彼女を見て、雨の音にも負けないように大声で話しかけようとした。
「具合が悪くな・・・・・・」
「『イマ』を!」
 僕の言葉は、彼女の言葉によって打ち切られた。
「『イマ』を・・・・・もし、私が障害をもつようになったりしてしまっても・・・・まだ、一緒に追いかけてくれる・・・?」
 だんだんと声は小さくなり、最後の言葉はやっと聞き取れるくらいだった。
 僕は戸惑った。ショウガイ・・・?生き残る可能性も少ないのに。もし生き残って、でも体のどこかしら、ましてや脳に障害が残ったとしたら、
 そのとき僕は彼女を支えられるのだろうか?
 そう思ったとき、「もし」なんてことを言葉の中にいれている自分に気づいた。
 何を言っているんだ。まるで彼女が死ぬと決めつけているようじゃないか。
 僕は考えもまとまらないまま、「どうだろうな」と告げた。自分でもイライラしてくるような、曖昧な答えだった。
 ・・・電車が通った。その音が、僕の言葉の余韻を、上手い具合にかき消した。
 それでも彼女の瞳が一瞬ゆれたような気がした。けど、彼女はすぐにうつむき、鈴が微かに揺れたような声で、「・・・そっか」と呟いただけだった。
「治ったら、その次の日に必ず・・・・・無理してでも、くるからね。抜け出してでも・・・・」
 彼女は震えていた。そう、全身。肩も、足も、手も。寒くて震えているのではない、というのには気づいていた。
 その震える手を、僕が握れたら、どんなによかっただろうか。
 彼女は、濡れて前髪がはりついた顔をあげ、もはや何も映っていない瞳を僕に向けて、草と土だけの空き地を駆け抜けていった。
 僕は動かなかった。濡れるのも構わず、彼女が立ち去っていったところをひたすら見つめていた。

 予報外れの、雨の日だった。



 第六夜

 昨日、あれからどうやって家に帰ったのだろうか。
 まぁ、昨日というよりは、今日の夜中といった方が正しいのだけど。
 空き地から家までのことは、何も覚えていない。覚えていることといえば、冷たい雨の感触だけだった。
 よく、風邪をひかなかったものだ。

 今日は、彼女の手術の日だった。しかも、昨日の夜からの雨も、まだ止んでいない中で。
 雨の中、天体観測はできない。星が見えるならやるだろうけど、雨というのは雲があるからふるのだから、しょうがない。
 僕は一日中、それこそ朝から家の中で、窓辺に座って外を眺めていた。
 もちろん、いつもなら星を見ている今の時間になっても。

 なんか、何も考えられないな・・・・・

 そう。頭の中にあることといえば、もやもやした白いものと、昨日の彼女の表情。

 もし、彼女が治ったら。

 また「もし」をつけている自分に気づかず、僕は思った。

 彼女が治ったら、今度こそ、しっかりと手を握れるように・・・・・
 もうあんなカオをさせないように・・・・・

 僕は、そんな渦巻く思いをかかえたまま、知らないうちに眠っていた。
 夢の中で、フミキリと電車の音を聞いたような気がした。



 第七夜

 丸一日続いた雨も止み、天気は晴天だった。道路はまだ濡れていたが。
 何だか無性に高鳴る胸の鼓動を抑え、僕は空き地に向かった。
 空き地の雑草も、やはり濡れていた。雫を宿し、きらきらと輝きながら。
 虫達の声は聞こえなかった。雨が止んだばかりだからだろうか?
 耳が痛くなるような静寂の中、僕は地面に座って、待った。・・・彼女を。
 雨がふったこともあって、かなり蒸し暑かったが、気にならなかった。彼女が来てくれるなら、と思えば。
 しかし、何時間待っても、空き地には彼女どころか、人の影さえもあらわれなかった。
 空き地にいるのは、僕と、望遠鏡だけ。
 望遠鏡も、いつまでも自分を使ってくれるものが無いのを、焦れったく思っているように見える。
 僕は苦笑いをした。

「もう少し、待てよ。彼女が来るまで――」

 望遠鏡は彼女のように答えなかったが、大人しくしていた。まるで、何か言ってはいけないことを抑えるように。
 と、突然、虫達の声が聞こえ始めた。
 いや、まず一匹が鳴きだし、それにつられて他の虫達も鳴き始めたのだ。

 リリリリ、リリリリ・・・・

 いくつもの音が重なり、大合唱になる。
 僕と望遠鏡しかいない、空き地に響き渡る―――

 相変わらず誰も現れない。
 月はいつまでも、彼女のいない草むらを照らし出していた。

 *   *   *   *

 それから僕は、毎日一人で待ったが、彼女が現れることは無かった。何日たっても。
 そう、たとえ入院していたとしても、退院できるくらいの日数はあったはずだ。
 つまり。
 つまりそれは、変えようの無い事実を表している。
 彼女は死んだのだ。
 きっと、手術室に入ったっきり。
 でも僕には信じられなかった。信じたくなかった。
 もしかしたら外出を禁止されて、これないだけなのでは、とそれらしく思える理由をつけて、毎夜毎夜彼女を待った。
 けど、彼女の「無理してでも、抜け出してでも来る」という言葉は嘘ではなかったはずだ。それならば、
 僕のつけた理由は見事につぶされる。

 僕は、本当に彼女がいなくなったのかを確かめるため、手紙を書こうとした。
 もちろん住所など知るはずが無い。しかも、彼女の健在を確かめる内容ではなく、気づくと彼女に向けたメッセージを書いているのだ。
 その中には、「ごめん」と。彼女の何回も言った、「ごめん」が、必ず入っていた。
 送れないままの手紙は積み重なり、さらに新しい手紙を書けば、また送れなくて手紙の山に入る。
 それの繰り返し。
 このままじゃいけないって解ってるんだけど。
 月日が経ち、僕の背が伸びていくにつれて、手紙に書きたいことは増えていった。同じように、行き場の無い僕の思いが書かれた手紙は、気がつくと崩れるほど重なっていた。

 そんなある日、僕はあの空き地で、ある物を見たんだ。――そう、箒星を。
 慌てて望遠鏡を覗き込んだが、僕が見たと思われるその場所は、すでに雲で隠されていた。

 でも確かに見たのだ。尾をひいたようにして、空に現れたものを。

「・・・・思い出した」
 僕は知らず知らずのうちに呟いた。
「彼女との約束・・・・・思い出したぞ」
 あのとき彼女は、あんなにも光る眼で僕を見つめた。そして言ったのだ。

『いっしょに・・・追いかける?』

 イマを、追いかけること。
 彼女に会った最後の晩には、僕は答えられなかった。むしろ、拒否さえしかねない言葉を発した。
 ・・・・・だから、今夜こそ、君に言うよ。・・・答えるよ。優美。
「たとえどんな姿になっても・・・一緒に、追いかけよう」
 彼女のいない空き地で、はっきりと、僕はそう言った。

 ありがとう、君と出会ったことが、君とであって知った痛みが、今も僕を支えてる。
 今僕は一人だ。一人で、君の言ってた『イマ』を追いかけてる。
 一人で『イマ』を生きている。
 でも、君がこの空にいるのなら、とても、近くにいるような気がするから。
 一人でいても、君が隣にいるような気がするから。
 星が輝けば、君が笑っているような気がするから。
 そして、一緒に生きていてくれるような気がするから。

 だから、また一緒に、追いかけよう。

 イマという箒星を―――

                          END