明日咲く花 プロローグ1
作:優樹





プロローグ1 再会を祝して


 そこは粗野なざわめきに満ちていた。
 安酒特有のきつい香りがたちこめ、男たちのユーモア感覚のない冗談と笑いがいたるところで起こっている。
 そんな一角に、談笑の波にかくれるようにして静かなテーブルがひとつあった。女と男が向かいあっている。奇異なのは男の顔で、まるで能面をかぶったように無個性だった。
 妖艶な美女は、質量のある唇から、小さく響く声を流しだす。
「よくやってくれたわね。うちのボスも喜んでいるわ。どうやってマルカネッタの鍵を盗み出したの?」
 男の指にはさまれた煙草のけむりが、蜘蛛の糸のように上にのぼっている。
 男は短い沈黙のあと言った。
「では五百万リラで交渉成立ですな」
 男は煙草を灰皿へと押し付けた。
 反対に女は煙草に火をつけた。
 吸い込み、言う。
「百の仮面を持つ男ハンク・ヴァレンタインか。まったく嫌な男だよ」
 男は笑ったように見えたが、能面をかぶったような白くのっぺりとした顔からは、何もうかがい知ることができなかった。
 酒場をでて裏道に出ると、男は指をつかってぐにゃぐにゃと皺をのばしたりつくったりし始めた。
「まあ出来る変装は五十くらいなんだがな」
 しかも男に限定だ、と彼はぱちんと最後の皺をもどした。
 銀髪に薄氷色の瞳をした、美青年といえる男が顔をだした。銀髪といっても白髪にちかく、はじかえす光は弱々しかった。これも変身の一部である。
 彼が独特の歩調で歩き出すと、高い女の声が聞こえた。
「あぶないっ」
 言うや遅し。
 女とハンクはぶつかっていた。
「いてて……」
 頭をかかえて上半身を起こすと、上にのっかっていた女が言う。
「ごめんなさい。急いでたものですから、これでも使ってくださいね」
 差し出されたものは絹のハンカチだった。小さなダイヤがあしらわれている。見ると女は長い豪奢な金髪をもった、香るような気品のある女だった。薄い緑のモスボンに身をつつんでいる。
「では、失礼しますわ」
 女は血相をかえて走り出した。
 やや憮然としてハンクが上半身を起こすと、腹をふんづけて目の前を人相の悪い黒服の男達が走りぬけていった。
「げふっ」
 ハンクはあまりの痛さに顔をしかめて、振り返らずに去っていく男達をみた。
「謝罪もなしかよ」
 ハンクは少し考えて、「そういやあの女の顔どっかで……」古い知り合いの少女を思い出し、つぶやくと、女と男達の走っていった方向に目を向けた。
「カマをかけてみる価値はあるな」
 ハンクは立つと、男達の去っていった方向に走り出した。
みるみる黒服たちの至近距離にせまると、彼は壁に足をかけて、壁を走っていった。そして女を見つけると、壁から降りて隣まできた。
「おい」
「きゃっ」 
 女はおびえた声をあげた。
「どうしたんだ? レイチェル・ノーフォーク」
「なんであたしの名をっ!?」
 女が驚愕の声をあげた。
 ビンゴだ。ハンクは笑った。
「あいかわらずだな、覚えてないか? ライルだ。今じゃあハンク・ヴァレンタインと名乗っているが」
「あ、あのライル!?」
「あのとはなんだ、あのとは―――で、一体どうしたんだ? 場合によっちゃ助けてやるぜ、1万リラでいい」
「あいにく、そんな持ち合わせないのよ、ライルさん」
「つけでいいぜ」
「まあやさしい。それが生死をともにした仲間への言葉なのね!」
「助けてやるってんだから、素直にきけよ」
「嫌よ! 私は命よりも」
「金が好き、か? かわってねぇなあ」
「そう思うんだったら助けなさい! じゃないとあんたの生い立ちと、本当の容姿を情報屋に流すわよ! ついでにあんたが寝ションベンしたことも、身の程知らずにも五歳児にしてマドンナ先生に迫った事も、みんな面白おかしく話してやるわっ」
「おいレイチェル……」
 ハンクは顔を蒼くした。
 ちなみにふたり、全力疾走中である。
 角を曲がると、そこは行き止まりだった。振り向いて急停止する。逆光で男達の影が見えると、彼女はスカートの中に手をいれ、太ももにつけられていた小型銃をとりだすと、影に向かって構えた。
「だからさっさと……」
 撃つ。硝煙が広がって、周りが白につつまれる。
「助けなさい!」
「しょうがねぇなあ。貸しだぞ!」
 舌打すると、ハンクは煙にむせる男達をタコ殴りにした。煙が消えると、そこには気絶した男達と、息ひとつ乱していないハンクの姿があった。
「さすがライル!」
「ハンクと呼べハンクと」
「さすが天下のハンク・ヴァレンタイン様っ」
「それはいいから、さっさと逃げるぞ」
「了解」
 走り出すハンクをおい、レイチェルも駆け出した。


「で、何だお前は」
「何だ、とは何よ?」
「いったい何をしてたんだ?」
「決まってるでしょ。お金儲け」
「まぁ、お前の行動理由はそれだけしかねぇからな」
「失敬な」
 トイレで変装をといたレイチェルは、桃色のかかった、不思議な光沢のする栗色の波打つ長い髪を二つにくくり、珍しい水色の瞳をした、薔薇色の頬の愛らしい少女だった。
「で、一体どういう魔法をつかった?」
「金粉をまぶして金髪にして、サファイアを削ってできた薄い石を目にはめて、真珠を削って出来たパウダーを肌にぬりつけて、はいお嬢様の完成。変装は完璧だったのにどうして正体がばれたのかしらね?」
 やや呆れ気味に男はいった。
「あいかわらず宝石にも目がねぇな」
「あったり前よ! 私の通り名、しってる? 鴉よ鴉。鴉は光物が大好きなのよ」
「その黒い服のせいもあるだろうが。葬式かよ」
「あら、黒は女を一番美しくみせる色だわ」
 気取っていうとレイチェルは、ステーキを口に運んだ。大衆向けの、安めなレストランであったが、しかしレイチェルとハンクの座るテーブルに積もった皿の数をみると、ゆうに1000リラは越えているようにも思える。
「少しは遠慮をしれよ」
 珈琲だけを飲むハンクは、自分が奢らされることを理解していたので、そういった。
「あら、少しは学習したようね」
「10年前の試験のときも俺が金を払わされたな。変装用の宝石類から、宿泊費食費まで。34560リラしたぜ」
「よくそんなに覚えてるわね」
「記憶力だけはいいからな。それより、ここで出会ったのもひとつの縁だ。俺はお前の力を借りたい」
「ん、どうしたの?」
「さるお方から、偽装結婚の依頼をうけてるんだ。俺の変装を評価してくれたらしいが、あいにく俺は男専門なんでね。断わってもいいんだが、報酬が破格な値段だからな。手伝ってくれないか?」
「あんたのいう破格な値段って、どのくらい?」
「一億リラ」
 レイチェルは思わずむせこんだ。
「い、一億リラ!? 一生遊んで暮らせそうな金額じゃない」
「ああ、少しおかしいが、まぁ金持ちだからと思っているんだが……」
「金持ちほどケチってしらないの?」
「充分過ぎるほどしっている、お前で」
 レイチェルはハンクの言葉を無視して、いった。
「金持ちはね、見返りが期待できる場合にしか大金を動かさないのよ。ビバ自分なのよ。善意のために金をやるなんてとんでもない! 人間的に嫌な奴ばっかりなのよ」
「自分のことを悪くいって楽しいか。しかもかなり偏見まじりだぞ」
 レイチェルはまたもやハンクの言葉を無視して、顎に手をあてた。
「なんかにおうわねぇ」
(ばれたか……)
 ハンクは後ろで手をぱたぱたさせて、お尻からでたガスの臭いを拡散させた。


 こうして過去の遺物であったはずの絆を復活させた、少女と少年。
 時はしばし逆光し、過去へと戻ることを、お許し願いたい。
 再会を祝して。