ep.03 [白]-cruel night-
作:紳士





 私の頬を今撫でている風は、いつも私に涼しいとか、寒いとか感じさせてくれる風だし、私の頭上に広がる、お花見のときに敷く青いビニールシートのような青空は、いつも憂鬱な気分にさせられたり、時には小さな幸せを見つけたかのような気分にさせてくれる、変わることのない青空なの。
 もっとも、今日の夕方から明日の夜にかけて、天候が崩れると天気予報で言っていたのはまた別の話。
 つまり風だって青空だって瞬間に作られていると同時に、何億年もの太古の昔から全く変わらないとも言えるの。
 変わらない、永遠なんてそこいらじゅうに今の時期にぴったりな、すでにその役目と活動を終えて枯れ果てて茶色く変色した落ち葉のようにごろごろしていると同時に、この地球上の、いや、宇宙中を探しまわったって、絶対に見つかりっこないだろうってこと。つまりね。


 私は家で待ち続けている。なんだかこう言うと彼が私を独りきりで残していってしまったように聞こえるけど、そういう訳じゃなくて、ただ純粋にパフェの一番下のチョコレートみたいに彼を待っているだけ。
 自分から彼の家に行ったことはないの。だって恥ずかしいじゃない?彼はご両親と一緒に暮らしているんだもの。でも私たちのことをご両親は認めてくださっているんだけど、私ってそういうのダメなの。きっと上手く話せないし…。


 彼がなかなか来てくれないから、私は少し記憶を再生してみることにしたわ。
 確かあれは…一昨年のバレンタインデーだったと思うわ。
 彼は「なんでセント・バレンタインの殉職した日に、チョコレート業界の陰謀に踊らせられなきゃいけないんだ?」とか言って、チョコレートはいらないとかいうような事を言っていたけれど、私の家に来たときはしっかりマドベントカレンダーのチョコレートケーキを買ってきてくれたの。
 私は彼のそんなところが大好き。
 それから例年通り私たちは、甘いチョコレートの香りに包まれた町で、二人きりでいつもより少し特別な時を過ごしたわ。
 ところでなぜバレンタインデーなのに、彼がチョコレートを買ってきてくれるのかっていうと、さっき言ったような理由もあるけど、そこはやっぱりひねくれた彼の私をひきつける性格のせいなの。彼曰く、少しでも社会の構造に対する反抗の意思を表したいらしいわ。
 そのくせしっかりと社会構造の型にはまっているのだから面白い人だと思わない?
 でも私は彼が学生のころにもてなくて、どうせチョコレートをもらえないのならと、ドンキホーテみたいに嘘を言っていたら、本当に習慣になってしまったんじゃないかと思っているんだけど、彼には内緒。
 だって彼は彼で、その事実が変化するわけじゃないし、第一そこそこハンサムな(私にとっては最高にだけど)彼が学生時代にもてなかったのが不思議なくらいですもの。でも結局は彼を無理に怒らせる必要なんかないってことだけど。
 だけどね、そこまではいつもどうりだったの。なぜ一昨年が特別なのかというと、その後彼がプレゼントをくれたの。私の一番望んでいたプレゼントを。
 それは…カルティエのリングだったんだけれど、私が一番欲しかったものは約束だったの。
 約束をくれるなら、私は私であることの全てを差し出してもいいと思っていたわ。
 その時私も彼もまだ十九で、周りが反対するだろうと思っていたし、私たち自身も学生で誰かを養うだけのあらゆる力が足りていなかったから、まだ早いと暗黙の了解で思っていたの。でも彼は私に確かに約束をくれたの。
 彼がその時私に言ってくれた言葉。
「僕はボーイズUメンよりもマリリン・マンソン、ボン・ジョビよりもリンプ・ビズキッドって男だから、君に歯の浮くような台詞をいってあげることは難しいけど、体全体で気持ちを表すことはできるんだ。
 こんな僕にいつまでも付き合ってくれるのなら、次の雪の降るイエス・キリストの誕生日…結婚をしよう」
 それはとても曖昧な約束だったけれど…確かに約束だったから…。でもやっぱり温暖化の進んだ上に、都心である東京にはなかなかそうそういいタイミングで雪は降らなかったわ。
 そう、去年までは…。
 冒頭でも言ったけれど、今日の夕方から天候が崩れて雪が降ると、確かに言っていたの。彼はもう就職先も決まったし、私も大学院に行くことに決めた。もう何も私たちの新しい選択肢を惑わす道しるべはなくなった…。
 私は確かに今永遠を感じることができているの。これがきっと…永遠…。終わらない瞬間の連続。幸福の瞬間の連続。楽園のこちら側…。


 トン トン トン

 彼だわ!何故解かるのかって?トントントンというノックは、彼が来てくれた合図だから。私はすばやくこたつを抜け出すと、小走りで扉に向かった。そして扉を開けた。
 そこにはいつもと変わらない彼がいた、というかいるわ。でも少し寒いらしくて震えているわ。当たり前よね、今は十二月の終りなんだから。
「ほら、早く入って」と私が言った。
「ありがとう」そう言うと彼はいつものように優しく微笑んだ。本当に怖いくらいいつも通り。いつも通りの…永遠。
 私がコーヒーを入れようとすると、彼が冬の子猫みたいに何の違和感もなく、いつも通りに、すっとこたつにもぐりこんだ。それから彼は私の左手にされた指輪を見ると、いつも通りの笑顔で私にこう言った。
「約束、覚えてくれてたんだ」私はあえて今までこの指輪を隠していたから、彼はすぐに気がついてくれたわ。
「あたりまえじゃない。私が一番欲しかったものだったんだもの」
「その指輪が?」
「違うわよ、約束よ。約束」
 その時私たちのバックでは彼の大好きなアタリ・ティーンエイジ・ライオットの一番新しいアルバムが流れている。でも私はあんまり好きじゃないかな、アタリ・ティーンエイジ・ライオットって。だってノイジーなだもん。絶対グロリア・エステファンや、マライア・キャリーの方がいいわよ。グロリアはちょっと季節はずれかもしれないけど、マライアはクリスマスにぴったりじゃない?
 時計を見たら、夕方の5時になろうとしている時間で、今にも雪が降り出しそうだったわ。
「約束…ごめんね」そう言うと彼が、言葉の余韻と、いつも通りの笑顔だけをアリスの中に出てくるシャムネコのように残して消えてしまった。


 私は携帯電話の着信音であるベートーベンの月光で意識を取り戻した。いつの間にか机に伏せて、眠ってしまったらしくて。
 でも私が電話を取ろうとした瞬間に切れてしまった。どうやら携帯は随分長い間鳴っていたらしくて、机の端にあったはずが床に落ちてしまっていたわ。
 月光が流れるってことは、彼からの電話って証拠なの。実際着信を見てみたら、彼からの着信だったわ。
 でも今のって夢…だったの?そうよね、その証拠に彼からの着信があるし。きっと遅れるって連絡だったのね。あまりにも待ちかねていたからあんな夢を見てしまったのね。あれ?これはきみなからの着信、それも五件も…。
 私は机の上に置いてある、冷めた二つのコーヒーに目がいってしまった。
「雪…もう降り始めちゃったぞ…」


 結局彼はその日、帰ってこなかった。彼の携帯やきみなの携帯にかける勇気なんて…私持ってない。


 次の日…つまり12月25日、イエス・キリストの聖誕祭の日、約束の日、友人のきみなが私の家に来た。そして恐れていた、でも心のどこかで予感していた事実を語ってくれた…。
 …そう、彼の死…。
 不思議と涙は出てこなかったわ。驚くほどに冷静にその事実を受け止めている私がそこにいた。あまりにも冷静すぎて、本当は彼を愛していなかったんじゃないかって思ったら、とても、とっても怖くなってしまった。
 それからきみなに連れられて病院に行ったわ。そこには病院らしく、病的なほど白いベッド上に、静かな寝顔で横たわる彼がいた。
 私は一目だけ彼の顔を見て、そっと一瞬だけその冷たい頬に触れると、踵を返してすぐに家に帰ってしまったの。私にもわからない、何故かなんて…。
 外は例年にないほどの大雪だった。後1、2日は降りつづけるだろうってTVでは言っていたわ。おかげで都市通行のほとんどは麻痺してしまったらしいわ。電車も、バスも、タクシーも…。
 おかげで帰るときは一苦労だった。
 家に帰ってからもしばらくはきみなが傍にいてくれたわ。でも大丈夫そうだと思ったのか、一時間もすると帰ってしまったの。
 私はその後、海沿いの坂の上にある喫茶店に行った。そこは、彼と私の出逢いの場所で、デートコースにはだいたい含まれていたの。何度行っても飽きない、とても不思議な、そうちょうどGLAYの歌の歌詞にでもでてきそうな雰囲気を持っているお店だったわ。
 そこには、きみながいた。


「ねえ、羽子」羽子…それは私の名前…。
「わたしねえ、羽子が一人になったらきっとここに来るだろうなーってなんとなく解かったの。別にそれは予言とかじゃなくてよ。わたしの仕事、羽子も知ってるでしょ?ああいう仕事を長くやっていると、だんだんそういうことが解かってくるのよね。それにこの喫茶店って、不思議な雰囲気を持ってるでしょ?だからさ、そう思ったの」
 そこまで言うと、きみなはしばらく黙り込んでしまったわ。
 沈黙が電池の切れかけた時計の針のように、私ときみなの間で行ったり来たりしていた。
「羽子ってさ、ずっと彼と一緒にいたよね」きみなが口を開いた。
「わたしも彼のこと好きだったなー。あ、でもこれは恋愛感情がどうのこうのって言う問題じゃなくてだよ。よくダブルデートもしたよね。わたしとわたしの彼氏だった堅君、覚えてる?あの歌の上手かった彼ね、それと羽子と彼の4人で行ったディズニーランド。羽子と彼ってば途中でいなくなっちゃうんだもん、わたしたち必死で探したのよ、あの時」きみながクスクスと笑いながら言った。
 何が…言いたいの?私きみながわからない。
「羽子、何か思っていることがあったらわたしに言って。わたし達って、友達だよね」
「別に言いたいことなんて…」そういえば私が電話以外で喋るのは今日、初めてかもしれない…。
「あれさ、羽子は“エイエン”って…信じる?」
「永遠?」
「そう、エイエン」何かの鼓動が少しずつ近づいてくるのがわかった。
 永遠…エ・イ・エ・ン?
「羽子は気付いてるの?彼はさ…死んだんだよ。もう羽子に話しかけてくれないし、笑いかけてくれないし、もちろん抱きしめてくれないんだよ。彼はもう…いないんだよ。逢えないんだよ。これは悲しいけど事実なんだよ、ねえ羽子、気が付いてる?」
 彼はもう…いない?死んだ?永遠?もう逢えない?
「私…独りになっちゃったの?」地震の後しばらくして、巨大な津波が街に襲い掛かってくるように、感情が恐ろしいスピードで流れ込んできた。
「私…独りになってしまったのね」
「羽子?」
 私はこう呟くと吹雪が吹き荒れる喫茶店の外に出た。


 またしても不思議と涙は出なかった。でも絶望は、今まで感じた、あらゆるものよりも深かった。人として感じえる限界の様だった。だって…独りになっちゃったんでしょ?

ひとり…。

 彼はもういない。

 ここにいるのは…誰?

 私の中にいるのは…何?


「羽子、店の中に入ってきなよ」
「ハネコ?それは…何?」
「…ハネコ、それはあなたの名前。彼がこの世界にいたときに、最も愛した人の名前。忘れてしまったの?何度も繰り返し、彼に呼ばれた名前でしょ?それすらも、あなたの存在をもデリートしようというの?ねえ…羽子」
「ハネコ…私の名前?彼…彼…彼って…誰?」
「彼、淡井君まで忘れてしまったの?」
「アワイ?…いや。その名前を言わないで。私を…これ以上傷つけないで…!」
 そして私…ここに存在する独りの女性がが、その場にうずくまった。雪が、その女性をここから動かすまいとでもするように、激しく吹き荒れている。
「わたし、羽子を傷つけたくてこんな事を行っているんじゃない。まずその事はわかって。
 わたしもね、昔とっても大切な人を失ってしまったことがあるの。わたしの場合は思いっきり泣いたわ。それこそ明日空が降ってくるんじゃないかというぐらい、思いっきり泣いたわ。でもね、そんなことで忘れられるわけはなかった。それからいろいろあって…今のわたしがいる。いろいろって、本当にいろいろあったの。でもそのことを話し終わる頃には、多分わたしも羽子も凍えて冷たくなってしまっていると思うの。だからそれはまた今度ね。
 確かにさ、永遠なんてあまりに曖昧で、そして無意味なものだよ。でも、でもだよ、自分を捨てて全てで頼りきってしまえる存在があったら、もしその存在があることで歩みを止めることになるって言うのなら…ダメだよ、そんなこと。自分で歩かなきゃ、自分の足を使わなきゃ。何かに引きずられているまま、どこかもわからないようなところにいくなんて、たとえそれが愛する人であっても、それは間違っていると思う。愛を履き違えてるよ。だってそれはもうすでにデカダンにも等しいと思うし。傷なら…わたしが代わりに負ってあげる。それが私の存在意義であり、仕事だから」きみなはそう言うと極寒の中、ゆっくりと一枚一枚服を脱ぎだした。交通網が麻痺しているせいか、周りに人目はまったくない。
 そして一糸纏わぬ姿になってしまった。小ぶりだけれど、形のいい紅玉のような胸が、揺れている。
 きみなの体には、無数の傷が刻まれていた。しかしその全ての傷は墓標ではなく、道標であった。そしておもむろに純銀の鋭い古代ギリシア様式のナイフをどこからともなく取り出し、自分の腹部にゆっくりと傷をつけていった。傷口から血が流れ出す。この赤は何者よりも尊い。そしてそこにいるもう一人の女性に抱きついた。
「羽子ぉ、わたしあなたのことが好き。この好きは、恋愛感情にも似ているかもしれないわ。だから、お願いだから、わたしがいることに…気付いてよ」傷口からさらに血は流れつづける。流れる血は女性の服にゆっくりとイチゴジャムのようなしみをつけてゆく。
「き…みな?やめて、早く傷を…」
「わたしはもういいの。今日でこの仕事をやめるから。これは全て決められていた事だから、解かっていたの。それよりあなたは…羽子なの。そのことを思い出して。その権利を決して放棄しないで。羽子でいられるのはあなただけなんだよ!」
「思い出したから、私は羽子。白雪、羽子。思い出したから…もうやめて…!」
「本当に?」
「ええ、本当よ」
「良かった…」
「良くないよ、早く傷を…」
「そうね、さすがにこの雪の中だと…きついかな?」そう言うときみなは瞳を閉じてしまった。
「きみな?…きみなーーーーーーー!!!」
 私はすぐにきみなに下着だけを着せると、坂の上の喫茶店の中に運び込んだ。
「そんな、きみなまで…いなくならないよね?」
「わたしは大丈夫だからさ、その涙を…拭って」きみなはすぐに意識を取り戻した。
 でもきみなに言われて私は始めて気付いた。私…泣いてる。
「あれ?涙が…止まらないや…なんでだろう?彼のことを聞いた時だって泣けなかったのに」
「……それはいいことだよ、きっと。わたしは涙もろいからわからないけど、羽子にとってはきっととてもいいことだよ。それじゃあ、もう一度聞くよ…言いたいことが、思っていることがあるのならわたしに言って…」
「う…ん、わかった。私ね…彼に、死んでほしくなかった。彼とずっといっしょにいたかった!彼に何度も名前を読んでほしい、彼に何度も抱いてほしい!
 何で死んでしまったの?何で死ななければいけなかったの?
 やだよ、彼がいなくなっちゃうの、やだよ!好きだもん。自信を持って言えるよ。私彼を、愛しているよ!誰よりも、何よりも彼を理解してあげているよ!彼にとっての私と、私にとっての彼が同価値であった、必要不可欠だったと!ほんの少しのずれもなかったって!最高の二人だったって!だから彼とずっと一緒にいたいよ!私、間違ってないよね?間違いだとしても一緒にいたいよ!一緒にいたかったよ!他には何もいらないから彼を返してよ!死ではない永遠の中で二人を祝福してよ!認めてよ!許してよ!」


 
 涙が流れる。涙はあなたに届いていますか?叫びはあなたに届いていますか?この吹雪にかき消されはしていないでしょうか?
 それだけが、心配です。
 でも安心してください。私はどうやら独りではないらしいのです。
 あなた以外に、私は意味を見つけることができそうです。でもそれは、私の恋や愛とはあまりかかわりがないのですが。
 大丈夫、あなたの事は忘れません。たとえ他に愛する人ができても、私はあなたを忘れません。
 でもそれは引きずっているとかいう訳ではありません。ただ…忘れません。あなたは私の一部だから。
 全ての体内の器官が必要なように、あなたも絶対必要なのです。
 だから…忘れません。                    羽子でした。















あとがき

 どうも読んでいただいてありがとうございました。
 実はこの話で重要なのはただひとーーーつ!
 傷を負う仕事』です。これは後々重要になってくるので、覚えておいて下さい…。
 掲示板でありふれていると言われましたが…たまには正統派ラブストーリーも書きたかったんですよぉ。





 …正直この話は無くても良いんですけどね……やべ、言っちゃった……。