ep.05 僕のマーメイド
作:紳士





 僕のマーメイド。
 この話はロマンスの話なのか、それは僕にもわかりません。
 ただ、僕が仮に後に自叙伝を書くとしたら、間違いなく書かれることになる、そんな程度の話です。だって、その時僕はまだ、小学校に入っていなかったんだから。
 それでは僕のマーメイド、読んでください、色のない僕の記憶です。


 僕はその時何をしようとしていたんだっけ?
 今となっては思い出せないけど、そんな事はたいした事ではないし、家から数分の所に海があったので、一人で海に遊びにいくのは日常の一部だったのです。
 そうだ、確か門限か何かが原因で家出をしていたから、あんな夜遅く(当時の僕にとってだけど)に一人で海にいたんだっけ。僕の記憶の中にある最も古い海は、そのときの海です。
 波の音と潮の香り、それからほんのちょっとのドキドキとその何倍もある恐怖に僕は押し込まれていました。しかし時間がたつにつれて、次第に恐怖のほうがドキドキに勝っていきました。水面に映る満月を見て、吸い込まれてしまいそうな気がしたからです。周りはごつごつした岩場で、小さなフナ虫とかがかさかさと、しきりに動いていました。そのまま僕の秘密の岩場に三十分ぐらいいたけれど、僕は空腹と殆どなくなったドキドキとその代わりに僕の意志を支配していた恐怖に遂に勝てなくなって、家に帰ることにしました。
 シクシク泣きながら。
 何かの気配を感じて、ふっと振り返ってみると、僕たちの間で昔から(今でも)人魚岩と呼ばれていた――そういえば何故そう呼ばれているんだろう?――岩の上に、まるで人魚のような人影がいる事に気が付きました。涙で滲んだ世界に、ぼんやりと。あらゆる世界よりも幻想的に。
 僕はその光景を見たとたん、ボーっと見とれてしまいました。だって、本当に人魚みたいだったから…。まだ小学校に入る前の僕には、人魚を信じるだけの感受性が備わっていた事もあってか、僕の中の恐怖はまるで夢だったかのように、すっかりなくなってしまいました。夢?そんな事はありません。その人魚はよく見てみると、一人の金色の長い髪の少女でした。いや、少女と言うにもまだ幼すぎる、そんな女の子でした。
 僕はハーメルンのフルートに呼ばれるかの如く、その女の子に近づきました。物音を立てないように、慎重に。少し近づいてみてわかったのですが、月明かりを浴びているその女の子は、上半身が裸でした。そして碧い、目の前に広がる海からたった今上がってきたかのような碧い瞳を持っていました。そして髪の毛も少し湿っているようでした。本物の人魚のように…。
「人魚さん?」僕は思わずつぶやいてしまいました。
「…誰!?」その女の子は未成熟なまだ妖艶さとは程遠い、どちらかと言うと、雨上がりのアスパラガスの茎のようなみずみずしさで満ち溢れていた青い胸を両手で隠しながら、僕に向かっていいました。漣のように静かに。
「僕は…瑞樹っていいます」
「ミズ…キ?」
「はい、えっと、人魚さんは、なんていうお名前ですか?」
「うふふ、あたしは人魚じゃないわよ」
「え…?違うの?人魚さんじゃないの?」
「ごめんなさい、あたしは人魚じゃないわ。もしそれでも、もっとあたしの事が知りたいんだったら、明日もここに同じ時間に来てね」
 すると女の子は、湿った髪をさらりとなびかせて僕の逆方向を向いて、まるで人魚のように人魚岩から滑り降りて、どこかへ帰ってしまいました。その時、左耳がキラリと光りました。
 僕は暫くその場所に立ち尽くしていました。立ち尽くすと言うより、見とれていました。女の子の余韻に。そしてこの日の出来事は、確実に僕の心を波のようにさらっていきました。家に帰ってから受けた親のお説教よりも強く、ぼくは次の日のことを考えていました。それからあの人魚のような、美しい女の子のことを。


 翌日、朝起きて、朝食を食べると、僕は一人ですぐ海に行きました。そして一度だけ昼食を食べに戻ると、それ以外の時間はずっと貝を取ったり、海を泳いだりしていました。その日も一日晴天で、じりじりと太陽が照らしていました。日が暮れる頃になると、首筋がひりひりしました。そして家に帰って夕ご飯を食べた後、こっそりと自分の部屋の窓から抜け出しました。わくわくわくわくしながら。
 家の前の坂を走って下って、砂浜につくと左に曲がって昨日の岩場に駆け込みました。時間と言われても、よく覚えていなかったので、少し早めに着いてしまったのかもしれません。人魚岩の上には、まだ誰もいませんでした。僕は暫く海を見ていました。波の音と潮風が、優しく頬を撫でて羊水の中にいるような気分にさせました。昼間の疲労も手伝って、意識を失うまで、そう時間はかかりませんでした。僕にとって海は、三人目の親なのです。


 目を覚ますと、月が少し傾いていました。そして人魚岩の上には片膝を抱えて、じっと海の向こうの"何か"を見つめている人魚がいました。
「…こんばんは」僕は言いました。それ以外の言葉が浮かんできませんでした。思わず目を擦りたくなるぐらい、幻想的だったから…。
「可愛い寝顔だったわよ」
 見た目、年はそう変わりそうもないのですが、何故かとっても嬉しくなってしまいました。
「ありが…とう」
「でも、あたしが人魚じゃなくてもよかったの?」
「うん。だって綺麗だもん」
「あはは、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」女の子が空を見上げて、楽しそうに笑いました。救いを求めるように…。
「お世辞じゃないよ」僕は言いました。
「この海の向こうってさ、何があると思う?」女の子が唐突に切り出しました。
「海の…向こう?」
「そう、海の向こう。ほら、ここから見ても何も見えないじゃない。だからさ、何があるんだろーって思ったの。海の向こうにはさ、優しいお母さんとかお父さんがいるのかなって」
「いると…思うな」少し考えてから言いました。
「何で?何でそう言い切れるの?」女の子は少し強い口調で言いました。
「だって、だって…海の向こうだってさ、こことあんまり変わらない気がするんだもん」
「…ミズキのお母さんとお父さんって優しいんだ」抱えた膝をときながら言いました。「羨ましいなぁ」
「え?何か言った?」
「お母さんとお父さんが優しいんだなって言っただけ。何で?」
「いや、なんかその後にぼそって何か言った気がしたから…」
「気のせいよ。それよりさ、何で変わらないって、そんな事が言えるの?」
 女の子は話している間も、ずっと海を見ていました。今日も女の子は、上半身が裸でした。ただ今日はピンク色の小さなワンピースが脇においてありました。
「だって、僕はあんまり頭がよくないし、まだ子供だからそんな難しい事あんまり考えられないけど、ただ…優しくないお母さんやお父さんがいるって思えないから…いつも怒ってても、お説教ばかりされても、ずっと僕の事考えてくれてると思うし…」
 突然僕の方を見て女の子が言いました。
「毎日ぶたれても!?どんなにいい子にしてても、お母さんとお父さんに喜んで欲しくって悪い事一つもしないで、ずっとずーーっといい子にしてても、ほんのちっちゃな事で毎日ぶたれても!?二日に一日はご飯を食べさせてもらえなくて、そのご飯のときもパンのかすを少し落としただけで取り上げられて、暗い押入れにずっと入れられても!?お母さんの機嫌が悪いだけで、何もしていないのにお湯を掛けられたり、抱っこされたかと思ったら、突然床に頭から落とされたり、煙草の火を押し付けられても!?ねえそれでも!?それでもそんな夢みたいな事が言えるの!?」
 凄い勢いでした。僕の今までのささやかな五年間を一気に押し流すような、凄い勢いでした。僕には「ごめんなさい」としか言えませんでした。
「それじゃあ人魚さんはお母さんとお父さんが…嫌いなの?」
 時間が、止まりました。
「…あたしはコモ。人魚じゃないわ」
 そう言うとコモは前の日と同じように、ワンピースを掴むと人魚岩から滑り降りて、どこかへ帰ってしまいました。


 僕は夢を見ました。お母さんとお父さんと一緒にレストランに食事に行く夢です。
 とても楽しく食事を終えました。さあ帰ろうと言うとき、僕はコモになっていました。ピンク色のワンピースを着た。そしてお母さんとお父さんにぶたれました。何度も、何度もぶたれました。「生まれてこなければよかったのに」と言われました。何度も、何度も…。
 最後に僕は気を失うと同時に目が覚めました。びっしょりと汗をかいていました。


 夜になりました。
 今日も僕は人魚岩にきました。そして黄色い星のアップリケのついたTシャツを着たコモも人魚岩にきました。二人とも何も喋りませんでした。
 コモは膝を抱えながら、ずっと海の向こうの"何か"を見ていました。何かに向かって、手元に転がっている小石を投げました。
 僕は、コモの視線を追うように波のない水面に映る月を見ていました。月に向かって、手元に転がっている小石を投げました。
 水面がゆらゆらと揺れて、月がぐにゃりと歪んで、ばらばらになって、すぐ元に戻りました。
 コモは声を上げないで、表情すら崩さないで静かに泣きました。
 僕も声を上げないで、表情すら崩さないで静かに泣きました。
 そのまま何も言わないで、コモは岩を滑り降りて帰りました。僕は気付かれないように、後をつけていきました。
 岩を降りると、そこは砂浜になっていました。僕はビーチサンダルを脱いで、走って追い駆けました。素足に漣の音が響きました。コモはちょっとした夕顔の蔦の生えた斜面を登ると、コンクリートの塀をぐねぐねと曲がって、僕の行ったことのない外人さんたちのたくさん住んでいる所へ走っていきました。そこには白くて大きい家がたくさん建っていました。コモはその中の電気のついてない家に窓から入りました。表札を見ると『Lauren』と書いてありました。でも僕には読めませんでした。
 そしてそのまま帰りました。


「早く次の場所に行きたいの」コモが呟きました。
「あたしは宝物とか、自分のためのものとか一つも持ってないから早く行きたいの」
「次の場所に?」
「そう、この次に進みたいの。でもね、それってとっても難しいの」
「そうなんだ。僕は…僕には次があるのかな?」
「さあ」
 よく見かけるけど、名前も知らない鳥が飛んでいました。海は相変わらず、僕には広すぎました。
「あのさ…隣に行ってもいい?」
「うん」
 僕は人魚岩のちょっとした出っ張りに足をかけて、そのまま一気によじ登りました。そして僕も色の薄くなったナイキのTシャツを脱いで脇に置きました。
 近くに来るまで気が付かなかったけど、コモの全身には隠し切れないほどたくさんのアザや、火傷の痕がありました。薄くなっているものしかなかったけど。左耳には、透明なピアスがついていました。
「コモには“何か”が見えるの?」
「うん」
「それを見ていると悲しいの?」
「うん」
「じゃあ何で見てるの?」
「わからない」
「コモは何を見ているの?」
「わからない」
「コモって綺麗だね」
「…ありがとう」
 この後も暫く会話は続いたけど、よく覚えていません。月日が経ちすぎたってこともあるけど、何より空っぽだったから。ただ流れ込んできただけでした。どうしようもないコモの行き場のない願いが。感情が。心が。全てが。
 僕たちはそのまま朝がくるまで話していました。海と空が紫色に染まって、辺りの空気が息を吹き返し始めると、コモは何も言わずに帰ってしまいました。


 目覚めると、すでに闇が世界を覆っていました。僕が急いで人魚岩に向かうと、コモはすでに“何か”を見つめていました。僕がつくと、コモはこっちを向いてくれました。
「…よかった」
 前の日と同じように、コモは語り始めました。しかしこの日は、空っぽではありませんでした。
「あたし…産まれてきちゃいけない子供なの」僕は何も言わずに、漣の音を聞くかのようにコモの話しを聞いていました。
「お母さんに毎日言われたの。お父さんは滅多に家にいなかったけど、あたしの顔を見るたびに、そう言うの。それからぶつの。何回も何回もぶつの。痛くて、とっても痛くって最初は泣いていたんだけど、泣くともっとぶたれるの。だからあたしは泣く事をやめたわ。お父さんが帰ってくると、必ずお母さんと喧嘩をするの。それからあたしとお母さんをぶつの。あたしには産まれてくるなって言いながら。お父さんがどこかに帰ると、今度はお母さんがあたしをぶつの。何で産まれてきたの?産まれてこなければよかったのにって言いながらぶつの。それでもあたしは泣かないの。泣けないの。
 あたしはお母さんとお父さんが憎くってしょうがなかった…と思っていたんだけど、ミズキに言われてね気が付いたの。…大好きなんだって。必要とされなくても、お母さんとお父さんが。それでもしょうがないことなんだけど。あたしはきっと必要とされる事を望んじゃいけないんだと思う。だからあたしは産まれてきちゃいけない子供なの。誰からも、どこの世界からも必要とされないから」
 コモが話している間、音がありませんでした。漣の音も、潮風の音も。世界が音をどこかに隠してしまったかのように。コモの瞳には、話している途中一回も光るものが溢れた事はありませんでした。堪えていたのか、そうなってしまったかは分りませんでしたが、とにかく、コモは一筋も流しはしませんでした。
「じゃあ僕がコモを必要だって思っちゃいけないの?」
 コモは“何か”を見つめたままでした。
「…これ、あげる」
 コモはそう言うと、左耳についている限りなく透明なピアスをくれました。よく見るとそのピアスは、限りなく透明に近いけれど、透明ではありませんでした。
「いいの?僕なんかに」
「大人になってから、もし、もう一度逢えたら、そのときにまた、同じことを言ってくれるなら、そのときに返してね。そうじゃないなら、ミズキにあげる」
「…うん、大切にするね」僕には半分ぐらいしか、意味が理解できていませんでした。
 コモが少し笑っていたような気が…少しだけしました。


 一週間が経ちました。僕らの中のものは、何一つ変化しませんでした。何一つ。ただただ空っぽな会話を続けました。毎日魔法にでもかけられたかのように。それでもその空っぽな会話から、得ることが全く無かったわけではありません。それが何かなんてことは言えないけど。
 その日は、朝からなんだか不吉な霧雨が降っていました。僕の家には誰もいませんでした。一人での留守番です。ぼくは朝から人のいないサーカスに一人で行ったような、そんな気持ちに覆われていました。昼過ぎぐらいまでは庭の名前の知らない木が揺れる程度の風と、朝から続く不吉な霧雨だけでした。しかし日が暮れる頃になると、風は暴風雨と言ってもいいぐらいに強くなり、雨も不吉な霧雨から、よこなぐりの雨に変わっていきました。
 不幸なことに朝早くから両親が出かけてしまったので、天気予報を見ていなかったのですが、それは紛れもなく台風でした。いつもの時間になると、雨や風は不思議なくらいすっきりと上がっていました。空にはいつもより多くの星が輝いていました。人魚岩にはまだコモはいませんでした。
 祈るように手を合わせて、コモには見えている“何か”を見ようとしました。なんだかきらっと、一瞬見えたような気が、ほんの少しだけしました。暫くそのままの格好でコモを待っていると、だんだん雲が星を覆い始めて、殆ど無かった潮風が僕の手元に置いてあるアディダスのTシャツを煽りました。雨も、降り始めました。
 コモはなかなか来ませんでした。それでもあと少し、あと少しと思って待ち続けました。雨はどこまでも強くなり、全ての怒りを表しているかのようでした。風もどこまでも強くなり、全ての悲しみを表しているかのようでした。それでもコモは来ませんでした。僕はびしょびしょになりながら待ち続けました。いいかげん今日は来ないなと諦めて、帰ろうと立ったとき、僕は風に煽られ足を滑らせて海に落ちてしまいました。
 泳げないわけではなかったけど、どこまでも強い風と波のせいで、全く泳ぐことができませんでした。そして僕は一回、この時に死にました。


 でも僕は人魚に助けられました。はっきりと姿は見られなかったけど、僕は人魚に助けられました。絶対に人魚に助けられました。
 その人魚がどうなったのか、それはわかりません。もしかしたら死んでしまったかもしれません。しかも残念な事に、その可能性は非常に高いのです。
 僕のマーメイド…それでも君は今でもどこかで生き続けているのですか?
 祈りにも近い想いで、僕は想っています。信じています。
 だから、聞いてください。
 僕は今、大人と子供の境界線に足を踏み入れようとしています。もしも大人になってしまったら、この境界線に足を踏み入れて、一歩、たった一歩でも踏み出してしまったら。
 そうなる前に、僕はこのピアスを返します。
 今まで誰に何を言われようと、決して外した事のないピアスを。どうか僕に、ピアスを返させて下さい。
 決して美しくなんかない僕に。
 そうすれば僕は記憶に色をあたえてあげられる…と思います。そして僕は僕になれると思います。
 生き返ることが、できると思います。
 いつかまた、逢いましょう。















あとがき

 一応新作です。でも二年ぐらい前には書きあがっていたのは僕と君だけの秘密だ。
 え?前回のとネタが微妙にかぶってる?はい私は何も聞いてない(´兪)ノ〜♪
 これは幼児虐待をテーマにした作品だったんですよ。ほとんど関係ないですけど…。
 これでいったん短編は終了します。ここからは、長・中篇を出して、そのエピローグ的な作品になるはずです。はずったらはずです。
 それはそうと金髪っていいですよね〜。最近外人さんを見て思いました。黒のロングもいいけど金髪のロングもいいな〜。
 これはちょっとこの後のネタバレになってしまうのですが、“コモ”という名前は前にスキー旅行に行ったときに、某駅(名前忘れた)で売っていた『みそパン』!!に書いてあった地名です。(どこの地名かって?それはまだ秘密です)
 みそパンですよ、みそパン!あの便つきのパンツ…ではないです。すんません、下ネタです。
 今回はわけわからないあとがきになってしまいましたが、どうもありがとうございました。