悲しい童話――the ugly baby duck―― |
作:鈴木大悟 |
少年は走る。
心臓が痛い。脈のドクリという振動が不快だ。息が荒くなるのを押さえられない。肺が痛い。視界が霞む。景色が遠くなる。ぐるぐるぐるぐる――回る。回って。廻って、歪んでいく。
後ろに振り向いて、絶望。すぐそこにいる。どうして。どうして。どうして。どうしてどうしてどうして?
どうしてこの足はこんなにも遅いのだろう。
霧深い森の中では前が見えない。
だから足取りが重くなるというのか。
朝露に塗れた草に足を滑らせないように走る。
だから歩幅が小さくなるとでもいうのか。
そんなことで大した違いが現れる筈がない。
何故なら相手も条件は同じなのだから。
そう。他に理由などない。
足が遅く在るべくして生まれたからだ。
何においても無能で在るべくして生まれたからだ。
だから今日もいつもの様に少年は捕まってしまうのだ。
転んで、泥塗れになって、泣き出す。
そしてその声によって少年は発見され、挫いた足を踏みつけられ、無様に地面で丸くなった所で、頭を蹴られる。尿を浴びせられ、口の中に靴をねじ込まれる。
それでも抵抗一つ出来ない。それが彼だから。それが彼という存在なのだから。
それが嫌ならば、走れ。例え無駄だと分かっていても、走れ。
万が一、億が一にも、逃げ切れるかもしれない。
だから走れ。死ぬまで走れ。
走れ走れ走れ走れ――。
悲しい童話
――the ugly baby duck――
01
薄汚い襤褸を纏った少年は、其処に立っていた。
太陽が沈む前、最後に放つ赤い光に照らされた、森の中。
ここがどこなのかは少年には分からない。
ここは子供たちの遊び場である森だというのに。
いつもの残酷な遊び場所。皆が、少年と遊ぶのではなく、少年で遊ぶ遊び場所。
確かにここがその森であるはずなのに、まるで実感がわかない。
目の前には、少年の住む家の、三倍ほどの大きさの館があった。
壁に所々ひびが入った古い館ではあるが、それ以外に変わったところはない。
強いて一つ上げるとするならば、少年の目の前にある玄関の扉だけがやけに美しい――高さがほぼ二メートルで、チョコレート色の木に、精巧な彫り物が施されている――ことだが、それは大した問題ではあるまい。
問題は、その館が、森の中に、ぽつんとあること。
それこそが何の異常もない、いつもの森の、いつもと違うところ。
気がつけば、少年を追い回す子供たちの声がやけに遠くに感じられるようになっていた。
それを意識すると同時に、全ての音が少年の耳から消えた。
誰の声も聞こえない、何の音も聞こえない、いつもの森。いつもと違う森。
少年は、逃げる事を忘れ、目の前にある扉を開いていた。
02
――目の前には純然たる闇が広がっていた。
何も見えない。開けた扉から差し込む赤い光は、大した助けにはならないようだ。
少年はそれに構わず、足を踏み出す。
ちょうど十歩進んだ時、背後で鈍い音が響いた。
少年は振り返る。扉が閉まっていた。
それを確認すると、もう一度、少年は振り返った。
――いつの間にか、そこかしこに蝋燭の灯りが点されていた。
「こんばんは、坊や」
しわがれた声。目の前に少年と同じ程の背丈の、人がいた。
「森に迷ったのかい?」
ローブですっぽりと頭を隠しているため、顔は分からない。ただその奥にある、瞳の赤い輝きだけが印象的だ。
――頭でそれを理解するより早く、少年の体が震え出していた。
「…………違う。そんな訳、ない」
声を、喉から搾り出した。
「僕はずっとこの森のそばに住んでるんだ。毎日この森に来てるんだ。ここのことならきっと何だって知ってる。毎日来てるから。どんな動物がいて、どんな植物があるか――」
言葉の途中で、老人がにやりと口元を歪ませて言った。
「ほう。ならば迷うはずもなかろうね?」
「うん……迷ったんじゃないんだ。ここに、逃げ込んできたんだ」
「何から逃げていたんだい?」
「皆――村の子供たち皆から」
「どうして追いかけられていたのかね?」
「僕が、馬鹿だから」
――いつしか震えは止まっていた。けれど少年はもう自分が震えていたことなど覚えてはいなかった。
「馬鹿だから、かね」
少年の震えが止まっていることを確かめ、老人はもう一度笑った。
「確かに……例え子供とはいえ、普通の者ならこんな怪しい――いつも来ている森なのに、まったく見たことのない――館には入らんじゃろうな」
「…………」
「入ったとしても、扉が閉まった時点ですぐ逃げ出すことを考えるだろう。今までの誰もがそうしたものだわ……それを騒ぎもせずにただその場に立ち止まっているなど、まるで生きる意志のない木偶じゃ」
明らかな侮蔑の言葉にも、少年は何も口答えしない。
「わしのこの赤い目が、怖くないのかね?」
少年は首を振って答えた。
「友達がいないことに比べれば、なにも怖いものなんてない」
「……皆に追い掛け回されることより、友達がいないことの方が辛いのかい?」
「うん」
「…………全く、とんだ愚か者がいたものだ」
そうして、三度、老人は笑ったのだった。
03
「お入り。今、明かりをつけよう」
老人が言うや否や、玄関の時と同じように、そこら中の蝋燭に灯が点る。
そこは、吹き抜けになった大広間だった。
少年の右手にも、左手にも、漆喰の壁一面にいくつもの美しい風景画が飾られている。
大小さまざまな額が所狭しと並べられているが、実はその中の絵は全て同じ風景を描いたものだと分かる。
「……これは……」
しかし少年が見つめているのはその異様な光景ではなかった。
少年が見つめているのは正面。そう、正面の壁に背をもたれさせ、床に座り込んだ数十の――。
「驚いたかい?」
老人が尋ねる。
少年は、答えない。答えられない。
そこにあったのは、西洋東洋老いから若きまで何人も何人も何人もの。
「死んでる……!!」
死体、だった。
「……そんな言い方をしてくれるな。皆ワシのかわいい子供たちじゃ」
老人が、少年の頭を撫でる。
「ワシはお前さんが気に入ったんだよ」
「…………」
「友達を、やろう」
04
「そうじゃな、この娘が年頃としても丁度いいだろう」
老人は一つの死体のそばでそう言った。
少年よりほんの少しだけ年上の、少女の死体。
死んでいる今でも、どんなにその少女が美しかったかが分かる。
すけるような肌。閉じられた瞳を縁取る、長い睫毛。緩やかに弧を描く黒髪は、まるで絹のよう。
老人が、少女の顔を手で覆おう。
少年はそれを――先ほどから動くことも出来ぬまま――大広間の入り口から見ている。
ぽぉっと、緑色の光が老人の手から漏れた。
どくん、どくん、どくん。
まるで
そう、
響いたかのような。
少女の瞳が開く。赤い瞳が。
それが少年には分かった。離れていても分かった。そう感じた。
「これは、屍人形(かばねにんぎょう)というんじゃよ」
老人が少年の方に振り向く。
「そして、ワシは死人商(しびとしょう)じゃ」
少年は、ただそれを聞いている。見ている。感じている。
「名乗るのが、少し遅くなったね」
05
「今この娘に魂を与えた。紛い物の魂だがね」
少女が、立ち上がる。
「さぁこれが坊やの友達だ。仲良くしてやってくれ」
老人と少女が、一歩、一歩、少年の元にやって来る。
「どうぞよろしくお願いします」
――お辞儀をして。
まるで現実感のない、調弦の狂った楽器みたいな声音で、少女が言った。
06
少年には何も分からなかった。
だけど、怖くはなかった。
ただ不思議で。
ただ嬉しかった。
僕には友達が出来た。
初めての、友達。
07
――それからは、毎日が楽しかった。
少女をいきなり家に連れて帰ったとき、それは少年の両親は驚いたけれど、少年の「僕の友達なんだ。初めての」という言葉だけで全ては打ち消されてしまった。
父親も母親も、涙を流して喜んだ。
よそ者にはとても厳しい村だったから、両親も少年に友達がいないだろう事はわかっていた。それでも何も出来なかった。
だから両親は喜んだ。涙を流して、「良かったなぁ」と言った。
そしてその時両親は初めて天の神に、そして少年は死人商に、感謝をした。
翌日、少年は皆からの遊びの誘いを断った。
もう少年には友達が居たから。あんな奴らと友達になる必要なんてない。
少年は少女と連れ立って、いつもの森に散歩に行った。
――森の動物、植物、色々なことを教えてやると、それだけで少女は手を叩いて喜んだ。
少年には遊び方が分からなくて不安だったけれど、それだけで良かったのだ。
それでいい。
そのままでいい。
――嬉しかった。
――安心できた。
――自信がついた。
その次の日も、少年は少女と森に行った。
やはり、皆の誘いは断って。
そしてその日も散歩をした。
いろいろなことを話した。少年の思っていること、感じていること、村の皆のこと。
少女は手を叩いて喜んだ。
いつも手を叩いて喜んだ。
いつも楽しそうにしていた。
――それだけだったけれど。
さらに次の日も、少年は少女と森に行った。
やはり、皆の誘いは断って。
そしてその日も散歩をした。
いろいろな事を話した。
少女は手を叩いて喜んだ。
――途中で、皆を見かけた。
そして、二週間の時が経った。
08
少年は、館の扉を叩いた。
「開けてくれ! 僕の話を聞いてくれ!」
どんどん、どんどん。
何回も強く扉を叩いていると、あの老人が扉を開けてくれた。
「――どうしたのかね?」
老人が問う。
「どうしたもこうしたもないよ!」
少年が、その右手で少女の耳をつかんだまま、答えた。
「何なんだこいつは!」
――少女は引き摺られる様に、こうやって連れて来られたのだ。
服が泥だらけで、けれど、少女は笑っている。いつもの様に。
「こんなやつはもう要らない! 何の価値もない! クズだ! 何をやっても、何を話してもただヘラヘラ笑ってるだけだ!」
「ほう」
「これじゃあただの人形じゃないか!」
耳から手を離すと、少年は乱暴に少女の頭をはたいた。
少女は、ただ笑っている。
「……それが嫌なのかい?」
「嫌に決まってるだろ!」
少年は履き捨てるように言った。
「何とかしてくれよ! あんたなら何とかできるんだろ!」
――老人は、何も答えなかった。
ただ、館を出て。
土の上に倒れこんだ少女の顔に手を当て、
ぽぉっと、
緑色の光をあてた。
「…………」
無言のまま、老人は手をどけた。
少女は瞳を閉じたままで、この前のように、すぐに目を覚ますことはなかった。
「コレが一体何になったって言うんだ?」
「その娘はもう人間と変わらん」
老人が少年の方を向かずに答える。
「そうかい。そりゃ良かった」
口元を歪ませて、少年が笑った。
「この娘は一時間後に目を覚ます。これで用は済んだだろう。帰るがいい。」
09
その後少年は少女を引き摺って、村に帰った。
そして、あの時からちょうど一時間が経過した。
暮れゆく日差しの中、少年は村の真中にある共同広場のベンチに腰掛け、地面に横たわった少女が目を開けるさまを見ていた。
「……おはよう」
少年が言った。
横たわったまま、少女は何も答えない。
「聞こえないのか? おはようって言ったんだ。この僕が。何か答えることがあるだろう」
少女は立ち上がる。
――そして、初めて少年が視界に入ったかのような驚きのまなざしを見せて、言った。
「誰、あんた? ずいぶんと醜いお顔ね」
「……??」
少年は、何も答えられない。
ベンチから腰を上げて、ただ、少女を伺うように、一歩一歩近づいていく。
――困惑。
こんなことが、あるはずがない。
「分からないの? 醜い顔ね。見ているだけで吐き気がするわ」
「……なんだと!」
今更になって告げられた言葉の意味を理解し、少年は叫んだ。
「大体何よその横柄な口の聞き方は。あんた絶対まともな奴じゃないわ」
少女が腰に手を当てて、酷薄な笑みを浮かべた。
「それ以上、あたしに近づかないで。大声を上げるわよ」
「……………っ!!」
少年が、こぶしを上げる。
「ふん」
少女は鼻を鳴らして、それを軽くよけると、少年の腹に蹴りを見舞った。
「あんた消えなさい。二度とあたしに近づかないで」
そして、少女は地面に倒れた少年をもう一度蹴って、広場を後にした。
10
――その後で。
森から帰ってきた皆と、広場を出た少女が出会ったこととか。
少女が皆の仲間になって遊んでいるのを何度か見かけたこととか。
何度も誘いを断った少年を、皆がもう二度と遊びに誘うことはなかったとか。
色々なことがあったけれど、少年にはもう何もかもがどうでも良かった。
11
老人は、こっそりと館を出て、いつものように、少し離れた場所から、広場を見ていた。
――そこには、 がいた。
ベンチに腰掛けて、誰も居ない虚空に向かってブツブツと独り言を繰り返し、たまに狂ったようにこぶしを振り回している。
時折、森のことを話して、自分で手を叩いて喜んでいる。
まだ壮年ほどの年のはずなのに、彼の髪は真っ白で。
もう壮年ほどの年のはずなのに、彼の言葉はまるで少年のよう。
「――カカカカカカカカカカカカ!!!!」
彼は、笑いすぎて口から泡を吹いて、
どさりと
ベンチから転げ落ちた。
「アヒャヒャヒャウヘウヘウヒャヒャゲへははははははははははははははははははははは!!!!」
それでも、彼は笑うことをやめない。
――黄色く濁った目をぎょろりと輝かせ。
――歯茎を剥き出し、ボロボロになった歯を見せて笑う。
「…………」
突如、彼が笑うことをやめたかと思うと。
地面に水が染み込んでいく。
放尿を終えると彼はまたよろよろとベンチに戻って。
もう存在しない森のことを話して、自分で手を叩いて喜んでいる。
皆が街に移り住み、村が廃墟になって、もう三十年もの月日が過ぎた。
それでもあの広場はあの時から何も変わっていない。
それはあの頃の村の皆の、せめてもの優しさ。
それだけが、あの日の少年の救い。
老人は、少し離れた場所でそれを見ていて。
誰にともなく呟いた。
「感情があれば当然拒否もされる」
老人はため息をつく。
「命令することを知っても、苛められることがなくても、それ自体で醜いアヒルの子供は一生醜いままじゃ」
「大人になっても、
永遠に醜いままじゃ」