紫の口紅
作:ショクパン





 俺はあの女が好きだ。紫の口紅の女。そして次のターゲット。紫の口紅の女……




 晴れた日。頬に当たる乾燥した空気がやけに爽やかだった。組織を抜け出して3ヶ月。もうホトボリも冷めただろう。こうして街を歩いていても拳銃を向けられる事も無くなった。紫の口紅の女。顔はしっかりと憶えている。仕事でそいつを探しているが一向に見つからない。そして俺はその女を殺さなければならない。まあ、食べて行く為に仕方ない。俺には人を殺す事くらいしか出来ないのだから。
 だが巡り合わせが悪過ぎる。なんで新天地での最初の仕事が、俺が密かに恋心を抱いていたブルース歌手なんだ。しかも世間的にもそこそこ有名。
 特に断る理由も無い。少し好きだっただけだ。要するにファンってやつだな。でも、あまり良い気分がしない。

「マスター。ビール」

 酒場に入った。いや、バーと言うべきか。照明が暗く、全体的に濃い赤で統一された店内。ブルース歌手を探すには、バーが1番だ。彼女にとっては、稼ぐにはここが1番だからな。1人で酒を飲むのは寂しいが、仕事だ。前金を貰ってるからには文句は言えるはずもない。
 ジョッキに入ったビールを飲むと、流れてくるピアノの音に耳を澄ませた。聞き覚えがある曲。その落ちついた何とも言えないメロディに心地良さを感じながら、ピアノの方をチラッと見る。その光景に俺の心臓が大きく縮み上がった。
 表現は悪いかもしれない。だが、誰かに心臓を鷲掴みされたかの如く、身をすくめてしまう。ピアノを弾いてる女性。紫の口紅の女。『リリアン・ヴィクトル』がそのピアノの演奏者では無いか。まさかピアニストになってるとは。どうりで最近噂を聞かないわけだ。歌って無いんだから。

「良い曲だろ?俺が作ったんだ」

 と、俺がその光景に見とれていると、横にカウンターの席の横に座る金髪の若い男。俺は30だが、そいつは明らかに20代前半か、いってないか。それくらいの若さ。

「ああ、とても良い曲だ。あんたは?音楽屋さんかい?」

 ビールを飲む。横の若い男は笑ってみせた。俺は嫌いじゃない。こういう明るい感じの奴は。

「おや?俺を知らないのか?ウォンク・ヘイナーっていう結構有名な作曲家なんだけど……」

 頭を掻く仕草と、幼さが残る笑顔。子供をそのまま大きくしたような感じの人間に、天才は多い。彼もその1人なんだろう。若くして成功を掴んだ輝かしい人間。俺とは正反対だ。

「ウォンクか。良い名だ」

 本心では無いが、言うべきだろう。社交辞令みたいなものだ。

「あなたは?差し支えなければ名と職を教えて欲しいんだけど」

 ウォンクは俺の名を聞く。こんな下らない男の。

「俺か?俺の名はジャックだ。仲間内ではJで通っている。好きな方で呼んでくれ」

 偽名。本名を知られるとマズイ職業なので良く使う。ウォンクは握手を求めた。馴れ馴れしいと思うが、断るのは失礼と解っているので応じる。

「よろしく。酒をおごらせてくれジャック」

「ああ、頂こうか」

 少し酒が入ってるし、陽気な気分になっていた。

「良い女だな。リリアンは」

 俺は笑顔だった。ピアノを弾いているリリアンを見ながら。今からあいつを殺さなければいけないのに。

「フフフ。良い女だろ?俺のフィアンセなんだ。手出ししないでくれよ」

 驚く。まさか、婚約しているとは。

「本当か?フフ。ショックだな」

 冗談ぽく言う。だが、今からショックを受けるのはお前の方だ。何故なら、もう間もなくリリアンは死ぬからな。

「彼女未亡人なんだ。4年前に結婚していて、夫が殺された」

 さらにショックを受けた。信じられない。まさか結婚してたなんて。ちょっと目が回りそうになる。これでは恋心を抱いていた俺がバカみたいだ。

「本当か?信じられないな」

「だから彼女はその復讐をする為にある組織のボスを殺した。血まみれの彼女は僕の家に転がりこんできたってわけさ」

 笑顔で語るウォンク。だが、それですべて解った。なぜ彼女が狙われるのか。俺も逃亡中の身。逃亡者が逃亡者を殺すなんて茶番だ。ちょっと笑いそうになる。

「だから彼女はなるべく目立たないように歌わずにピアニストに。彼女の歌、好きだったのになぁ」

「そうか。あ、申し訳ない。俺はまだ仕事があるから失礼させてもらう。ゆっくりしていってくれ。ジャック」

 金を置いて席を立つウォンクを笑顔で見送る。さあ、今からが仕事の本番だ。リリアンの最後の演奏を味わいながら聞き入る。実に素晴らしい演奏だ。曲が良いのもあるが、奏者の感情が、悲しみの感情が伝わってくるような。心に響く。少しもったいない。こんな素晴らしい人物を俺の手で殺すなんて。殺し屋の宿命だな。こういうのは。ちょっと自分に酔ってしまいそうだ。








 路地裏。太陽の光が照る事が無い湿った空気が充満する道。酒場の裏口もここに通じている。

「騒ぐな。俺は殺し屋だ。殺す前に聞きたい事がある。ついてきてもらうぞ」

 俺は、ついにリリアンの背中に拳銃をつきつける。

「そう。ついに見つかっちゃった。好きにして」

 リリアンは溜め息をつく。予想通りと言えば予想通り。こういう潔い女性はタイプだ。リリアンはこうでなくては。しかも笑っているではないか。抵抗した方が殺しやすいのだが。俺はそのままリリアンを人気の少ない倉庫に連れ込んだ。金の在り処を聞き出さなければ。

「さて、逃走資金は何処に?まさかあんな大金全部使えるはずないよな」

 リリアンは組織の金を持ち出し、それを逃走資金として使っていた。それを取り返すのも仕事の1つ。俺はいつもの仕事装束、黒い鼻まで覆うマスクをしている。死にゆく者にせめてもの弔いの気持ちだ。

「デルスのバーミンガム銀行。口座番号3944103に1億6000万。4000万は逃走時に使っちゃったから勘弁して」

 と、リリアンは鞄の中をあさり始めた。

「ちょっと待て!鞄をよこせ。カードは俺が探す」

 リリアンは銀行のカードを出そうとしてたが、間違って拳銃でも出されたら厄介だ。鞄を渡すように指示を出した。

「もう良いでしょ?早く殺してよ」

 あっさりしている。ここまで自分の死を受け入れる人物は初めてだ。紫の色の口紅が妖艶に光ってセクシーだ。

「最後に言い残す事は?それくらいは聞いてやる」

 リリアンはフッと笑いを漏らす。その笑いは段々大きくなり、俺は彼女がおかしくなったと思った。そして彼女はこう言った。

「あなたの負けよ。殺し屋さん」

 気付いた時には遅かった。後ろを振り返る暇も無い。俺はとっさに横に転がる。しかし、銃弾は俺の右肩を直撃。右肩に激痛が走り、俺は初めて後ろを見た。

「お前は……ウォンク!」

 そう言い終わると同時に、銃弾がもう一発、二発、俺の腹部と胸部を襲った。俺は遠のく意識を確認できた。痛みよりも先に恍惚が感じれる。最悪だ。殺し屋が素人に殺される。せめて同業者に……





「リリアン……良かった。無事だった」

「ええ、ウォンク。ありがとう」

「さあ、帰ろう。こんな所一刻も早く!」

「ええ、ウォンク。そうね。こんな所……」





「死ね!」

 俺は立ち上がり銃の引き金を引いた。それがウォンクの後頭部にヒット。吹っ飛ぶように前方に倒れ込んだ。

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 悲鳴を上げ、その場に腰を抜かして座り込むリリアン。俺は容赦無くそのリリアンにも弾丸をプレゼントした。

「俺はあんたのファンだった。こんな別れ方をするなんて。不本意だ」

「う、う……」

 力無く苦しみ、声にならない呻き声をあげるリリアン。俺は悪魔か?死神か?いや、死後の世界へと誘う天使だろう。そうでも思わないとやってられない。防弾チョッキに身を包んだ体。素人らしい失敗だ。だが、肩への一撃は効いた。さて、大金も入る事だ。ちょっと長い休暇でも貰ってバカンスでも楽しむかな。