WILL 1
作:アザゼル





 相川あいみの視界には、明るいアッシュブラウンの髪を無造作にかき上げながら、カップの中のコーヒーをすする青年――獅子崎陽が、眩しく映っていた。
 センター街のこれと言って取り柄のないレストランの窓際の席。
 そこに彼は、風景に溶け込むかのように静かに腰を下ろしている。
 窓から洩れる日の光が、あいみの中の陽の男前度を二十パーセント増しくらいまで引き上げていた。
 恋は盲目。
 恋せよ乙女――
 某大学に通う彼と女子高生のあいみが知り合ったきっかけは、彼の大学の文化祭で、チョコバナナ屋の店員をしていた彼に、あいみが一目ぼれして話しかけたのが始まりだった。その当時付き合っていた彼氏のことなど彼方に忘却し、あいみが猛烈にアプローチをかけたおかげで、今二人は「恋人」という関係一歩手前まで発展している――と、あいみ自身は信じている。
 あいみは陽に気付かれないように、店内をそっと彼に向かって近付いていった。
 抜き足差し足でひょっこりひょっこりと動くその様は、端から見れば気付いてくれと言わんばかりの怪しげな動きだったが、彼女自身はもちろんいつになく真剣そのもの。
 店員と他の客が、初めて他人の家に忍び込む新米泥棒のようなあいみの動きに、明らかに訝しげな視線を送る中――
 彼女は彼の座る席のすぐ後ろまで、ようやく到達した。
 陽の後ろ頭に、あいみの手がそろそろと伸びる。
 彼女の手がまさに今、彼の髪の毛の先端に触れようとした瞬間。
 ベストのタイミングで、陽はスッとあいみの方を振り返った。
「おはよう」
 同時に大きめの彼の口から飛び出した爽やかな朝の挨拶と、浮かんだ人懐っこい笑みが、あいみの顔を音速の早さで朱に染めていく。
 金髪を上で一つに縛り、ピンクのグラサンをかけた今時の女子高生あいみ。
 だが、好きな人の前ではやっぱり純情で、そんな自分がちょっぴり可愛いとか思ってしまうところは、やはり今時の女子高生か――
「ま、待ったアルか?」
 中国の人は絶対使わないだろうナンバーワンに、堂々輝きそうな怪しげな言葉遣いで、あいみは答えると、素早い動きで彼の向かいの席に腰を下ろした。
 それとほぼ同時に、店のカウンターの向こうからウエイトレスが、残像が残るほどの早足で注文を取りに来る。将来は忍者になるのが夢で、日々精進に励んでいる――というわけではなく、ただ単に暇なだけなのだろう。
「御注文は?」
「アイスココア。青春ど真ん中風味でお願いっす」
「かしこまりました」
 おかっぱ頭のやたら胸のでかいウエイトレスは、あいみの意味不明な後半の注文を完全にシカトして、伝票のココアにチェックを入れると、来た時と同じように残像を残してカウンターの奥に引っ込んでいった。
 そのウエイトレス――というよりも、ウエイトレスの揺れる巨大な胸を僅かに気にしながら、
「……いやぁ、まいったまいったっすよ。電車が混んでて、ちょっぴり遅刻したっす」
 あいみは陽の方を向き直るなり、悪びれた様子もなく謝る。
 ちなみに現在、時刻は十二時五分前。
 待ち合わせた時刻は十時だ。
「ははは。電車が混んでいるのが遅刻の原因になるなら、世のサラリーマン、OLさんたちは大変なことになるよね」
「……アハハハハ。そりゃそうっすよねー!」
 陽の言葉にこめかみ辺りをピクピクさせながら、あいみもとりあえずやけくそで一緒に笑ってみる。
 しばらく二人の乾いた笑い声が虚しく合唱し――
 あいみは突然しょぼんと表情を暗くすると、グラサン越しに上目遣いで陽をじっと意味深な眼差しで見つめた。
 彼女の厚くてぽっちゃりとした唇が、まるでタコの口のようにつんと尖がる。
 その仕草は、彼女が長年かけて習得した、男に媚びる四十九の殺人技の一つ「困ったらとにかく可愛く拗ねてみやがれ」の秘技だ。
「もしかして……陽さん、怒ってるっすか?」
「いやいや。怒ってなんかいないさ。あいみちゃんの、そのズボラなとこは、君を形作るための一つの要因でもある。長所とか欠点とかは関係ない。要は、認めるか認めないか――さ」
 陽は変わらずの爽やかな笑みを浮かべたままそう答えると、顎の先に剃り残した不精髭に手を遣り、軽く撫で回した。
「……そういうもんっすか?」
「お待たせしましたー」
 うまく丸め込まれたあいみの前に、その時、さっきのおかっぱ乳オバケ――もとい、ウエイトレスがアイスココアを運んでやって来た。
 あいみの前のテーブルに、ココアの入ったグラスが置かれる。
 グラスの口からはみ出るほどの氷と、表面に浮き出た水滴。
 薄茶色の液体と――液体に浮く、つんと立った茶柱。
「……て、なんでココアに茶柱立ってんすか!?」
「ど真ん中、ですから」
 あいみのツッコミに、ウエイトレスはぴくりとも表情を変えずに答えた。
 呆気に取られるあいみ。
 それを無表情に見下ろしながら、ウエイトレスはさらに言葉を続ける。
「つまり、ここでの茶柱は青春をモチーフとして……」


 ――世界はどこまでも穏やかで、緩やかだ。
 異常なことなんて、ココアに茶柱が入ったりすることくらいで。
 普通に生まれて、普通に年を重ねて、
 普通に恋をして、普通に結婚して。
 日本の女の平均寿命八十二才。
 残り後、六十五年。
 平平凡凡プラス適度な刺激。
 そんな人生を送ると、
 あいみも漠然と信じていた。
 今日、この日、この時まで――


 ☆プロローグ『イル』


「……というわけで、理解頂けましたか?」
「そんな漫画な、途中ぶっ飛ばしの説明で理解できるわけないっすよ!」
「いや、小説ですし」
 さらに突っ込むあいみに、ウエイトレスが不条理に正しいことをきっぱりはっきりと答える。
 ――真の「異常」は、次の瞬間に起こった。
 あいみがウエイトレスから諦めたように視線を逸らした瞬間と、ウエイトレスが満足げに微笑んだ瞬間とも同時だった。
 レストランの木造の天井をぶち破り、何かがあいみと陽の座るテーブルに落下してくる。
 それは適度に重く、どうやらナマモノのようであった。
 落下により加えられた荷重とか、地球の重力とか、物質そのものの質量とかで、木製のテーブルは瞬時に真っ二つに破壊される。
 時間は観覧車に乗った別れ際のカップルの空間よりも、スローに展開されていた。
 あいみの目が最初に認識したのは、皮肉にも宙を舞うアイスココアと、アイスココアに浮いていた青春のモチーフだ。
 光の後に音が追いつく花火のように。
 事件の後に、あいみの悲鳴が追いつく。
「んきゃあぁああ! サプライズサプライズ!! コーションコーションっす!!! 一体何なの!? どうなってるっすか!? 陽さんは無事!? あぁあああ、ラピュタはやっぱりあったんだぁあああああ!!!!」
 もはや叫びに収拾がつくはずもなく――収拾のつく叫びがあるかどうかはさておいて、あいみは漫画なら吹き出しがコマをぶち抜くような金切り声で、ひとしきり叫び続けた。
 ――だが、事件はそこが終わりではなかった。
 飛来した何かがテーブルを真っ二つにしたのに遅れて、今や未曾有のパニック状態に陥っているレストランの入り口から、黒服の怪しげな集団が店内に雪崩れ込んでくる。
 それらの手に握られた黒光りする拳銃が、さらにパニックに拍車をかけた。
 もちろん例外なく、あいみも、
「隕石の後は、怪しい黒服集団っすぅうううう!? 国家秘密諜報員っすか? グリーンベレーっすか? それとも、未確認飛行物体の確認に、NASAの方々がお出ましっすか? あいみの前に突如現れた謎の集団。薄幸の美少女の運命やいかに!? ……次回に続くっす!!」
 頬を両手で押さえて絶叫を繰り返す彼女の言葉通り、気になる展開は次回――に続くはずもなく、チャンネルはそのまま。
 CMが流れる余裕すらなく、進入してきた黒服たちは、手に持った銃を店の中でパニくる客たちに向けて次々と構えだした。
 騒然としていた店内が、一瞬で静まり返る。
「――騒がせてしまって、すまないね。僕たちは怪しいものではない」
 充分過ぎる以上に怪しいその集団の内一人が、そこから一歩抜け出て、慇懃な口調と共にさらに店内へと進み出た。
 白髪の、嫌味なほど整った顔立ちの青年。
 彼は鼻にかかった小さな黒いグラサンを一度指で押し上げると、軽く店内を見回して微笑した。嘲ることに慣れた、嫌われるためにあるような笑みである。
 いつの間にかカウンターに移動していたおかっぱ頭のウエイトレスが、彼の笑みに嫌悪を露わに顔を逸らした。
 だが青年はそれを気にした様子もなく、ゆっくりと静かな口調で言葉を続ける。
「僕たちは、あるものを回収に来ただけだ。だからそれが完了すれば、すぐにここを出ていく。もちろん君たちには危害を加えたりしない。……だが、もし邪魔をする者がいるなら――」
 彼の言葉尻と共に、乾いた音が店内にこだました。
 同時にウエイトレスの頭のすぐ隣にあった壁に、小さな黒い穴があく。
 「日常」には無い硝煙の香りが、瞬時に辺りに立ち込めた。 
「ひぃっ!」
 洩れた悲鳴はウエイトレスのものだ。
 彼女の立っている下の床に、ぽたぽたとアンモニアな滴が零れ落ちる。
 彼女に駆け寄ろうとしていた他の店員が、失禁に気付き、思い返してこそこそと彼女から離れていった。
「――容赦はしない。僕らは危害を加えるつもりはないが、それはあくまで基本的に、だ。まあ、何もしなければいいだけの話。隷属的に支配されたがっている君たちには、簡単な話だろ?」
 諭すように朗々と言葉を並べながら、青年は銃を構えていた手を下ろす。
 だがその隙をついて動き出そうとする者は、もちろん皆無だった。否――一人だけ、その恐怖に支配された空間で、動きを見せる者がいた。
 ――獅子崎陽。
 彼はちょうど白髪の青年から背を向けた格好で椅子に座っていたので、動きが悟られることは無い。
「……で、どうするんだい。あいみちゃん?」
 陽はこの「異常」な状況にもまるで同じた様子を見せず、顎の不精髭を撫でながら、前に座るあいみに小声で尋ねた。どうやらそうするのは、彼の癖のようなものらしい。
 あいみは白髪男を気にしながらも、訝しげな視線を陽に送り聞き返す。
「どうするって、何がっすか?」
「その子さ」
「その子?」
 陽が視線で促した先は、真っ二つに破壊されたテーブルの下。
 あいみがそちらに促されるまま目を向けると、破壊されたテーブルの破片の間に挟まれる形で、さっき落下してきた何かが蠢いていた。
 蠢いていたのは、隕石や未確認飛行物体などではなく、線の細い褐色の肌の少年だ。
 どうやら気を失っているらしく、まるで少女のように長いその睫を、苦しそうに時折瞬かせては小さな呻き声を上げている。
「こ、この(子が、さっき降ってきた奴っすか!?)」
「(どうやらそうらしいね)」
 大声を上げそうになったあいみの口を手で封じながら、陽は真摯な顔で頷きを返した。
 それを受けて、あいみはもう一度まじまじと少年の方に視線を戻す。
 褐色の肌と、ウェーブのかかった長めの黒髪。
 苦しそうに呻く淡いピンクの口元の下には、小さなホクロが一つ。
 どこか浮き世離れした容姿のオリエンタルなその少年は、あいみが今まで見たどの少年とも違う、神秘的な感銘を彼女に与えた。
「(もしかしてあの黒服集団が探してる、あるものって……。このオリエンチックな少年っすか!?)」
「(もしかしなくても、この少年だろうね。状況から推測して、ほぼ間違いなく)」
「何の話し合いかな?」
 二人のひそひそ話に勘付いたのか、白髪の青年がゆっくりと近付いてくる。
 その時――
 少年の瞼がぴくりと小さく動きを見せた。
 同時に、薄っすらと見開かれる少年の眼。
 深く透徹した漆黒のその瞳は、これ以上何か少しでも手を加えれば全てが台無しになってしまいそうな、儚い宝石のようだった。
「(で、どうするんだい?)」
 その瞳に吸い寄せられるように見入ってしまったあいみに、陽が先の質問を繰り返す。
 目を開けた少年は、無表情にあいみを凝視していた。
 何を語るでもなく、何を訴えるでもない――
「(どうするって……)」
 瞳に見入られたまま、あいみは胸中で叫ぶ。
(どうするって、渡すしかないっすよ! 渡さなかったら……鉄砲でバンバンっすよ? ドバドバ血が出て死んじゃうんすよ? あいみはそんなスリリングな死に方はごめんっす……)
 叫びながら、ちらりと彼女は陽の方を向き直る。
 彼は腕を組んで、いつになく真剣な表情であいみの様子を窺っていた。
 同時にあいみの視界に、彼の背後から白髪のグラサン男が着実に二人のテーブルに接近しつつあるのが、飛び込んでくる。
 そんなギリギリの状況の中――
 彼女の心中で、分裂した二つの勢力が口論を始める。
(あの白髪に、この色黒少年を引き渡す! それで全て終わり。事件解決っすよ!)
(何言ってるっす! 陽さんのあの何かを期待する目を裏切るつもりっすか!?
 陽さんに、あいみが冷たい冷血女だって思われてもいいっすか!?)
(命あってのものっす! この際、陽さんのことは関係ナッシング!! それにこの少年も、別に捕まったからって酷いことをされるって、決まったわけじゃないっす。迷子になった外国のお金持ちの子で、それを探しに来た人たちなだけかもしれないっすよ!?)
(銃を持って一般人を脅す人たちが、まともな人なわけないっす!)
(だとしても、あいみは自分がかわいいっすよ!!)
(陽さんの前で、そんな――!!!!)
「……助けて」
 延々続きそうな口論に終止符を打ったのは、少年が洩らした蚊の鳴くような声だった。
 ハッとなって自分の世界にトリップしていたあいみが視線を戻すと、そこにはさっきと変わらない無表情な少年の、何を懇願するわけでもない、ただただ透徹した双眸が彼女に向けられているのが映る。
 思考を置いて先走る行動――
 気が付けば、彼女は少年の頭をその腕の中に抱きしめていた。
 ウェーブのかかった黒髪から放たれる不思議な香りが、彼女の鼻腔をふわりとくすぐる。
 好きな人の前で、格好つけたかっただけなのかもしれない。
 或いは、どこかペシミズムを匂わせる少年に、母性が刺激されただけなのかもしれない。
 それでも彼女は、この瞬間、自分の口からその台詞を放ったのだ。
「(この子を連れて逃げるっすよ)」
「(あいみちゃんなら、そう言うと思ってたよ)」
 陽が、にっこりといつもの笑顔で頷く。
 同時に彼は、自分の座っていた椅子を片手で持ち上げて、すぐ側の窓ガラスに叩きつけた。
 店の薄いガラスが、一瞬で粉々に砕け散る。
 破片がきらきらと宙を舞い、それはまるで狙ったかのように、近付きつつあった白髪の青年に降り注いでいった。
「……くっ!?」
「氷堂さん!」
 他の黒服の男たちが、白髪の身を案じて駆け寄る。
 だが彼はそれを片手で制して怒声を上げた。
「逃がすな! 絶対に逃がすんじゃない!! あれは……『イル』は、僕のものだ!!!!」
 その白髪の青年の言葉に、一瞬他の黒服たちがぎょっとしたように彼を振り返る。
 諌めるような黒服たちの視線。
 だが彼は意に介した様子もなく、銃を構えて、あいみたちの追跡を再度促した。
 黒服たちもリーダーである彼の言葉には逆らえないのか、渋々といった感じで窓外に飛び出していった、あいみや陽たちの後を追いかける。
 白髪を残した全ての黒服たちと、あいみや陽、それに空から降ってきた少年が消えたレストランの中――
「……アイスコーヒー」
 一人残される形でレストランに留まった白髪の青年が、まるで今の騒動など無かったかのような静謐とした口調で、口を開いた。
 視線の先は、先のショックで立ち尽くしたままのおかっぱウエイトレスだ。
 彼女のスカートからは、未だ滴がぽたぽたと垂れ落ちている。
「砂糖は要らない。ミルクもせっかくの黒が濁るから駄目だ。渋くて苦い大人の味って奴を頼むよ。そう――激渋って感じだ」
 それだけ言い放つと、彼は視線を割れた窓の外に向けた。
 センター街を往来する群衆の中には、すでに溶け込んでしまったのか、あいみや黒服たちの姿は見当たらない。
 彼はだが何かを見据えるようにそちらに視線を送ったまま、意味深に口の端を小さく歪めたのだった――


 センター街の中心から僅かに外れた、小さな空き地の中。
 雑居ビルに囲まれたその空間は、回りからちょうど死角となって、身を隠すには絶好のスペースになっていた。
「も、もう……一歩も歩けないっす」
 謎の黒服軍団から逃れるように辿りついたその場で、ぺたりと地面に崩れ落ちるあいみ。
 同時に彼女の背にもたれかかるように、例の少年も腰を下ろす。
 二人の吐く荒い息がしばらく、ビルの間隙を吹き抜けてきた風と共にハーモニーを奏で、空き地の中を支配していた。
 そんな二人の様子を、陽がどこか微笑ましそうに見下ろしている。
 彼も二人と同じように先まで全力疾走で走っていたはずなのだが、その表情には疲れのようなものは微塵も窺えない。
「そうしてると、仲のいい姉弟みたいだね」
 顎の不精髭をなでながら、なぜか楽しそうに陽が口を開いた。
 その言葉に、肩で息をしていたあいみが敏感に反応を示す。
「えぇー!? 全然似てないっすよ。あいみはこんなに黒くないっすー」
 言いながら、自分の背にもたれていた少年の頬を、振り返ってぷにぷにと両手で横に引き伸ばす。
 ちなみに少年は自分の頬を引っ張られても、まるでそれが他人事のように表情を変えず、なすがままされるがままだ。
「それに、顔グロはもう流行らないっす。これからは色白美白な時代。ナチュラル&ビューティーがトレンドっすよ!」
「い、いや……。論点がずれたのは置いといて、そういうアレな発言は危険だからやめようね、あいみちゃん」
「危険?」
 珍しく焦った様子の陽の言葉に、不審気に聞き返すあいみ。
 だがそれには答えず――世の中には、得てして詮索をしてはならないことがあるものだ――陽はアッシュブラウンの髪から覗く双眸を細めると、あいみにレストランでしたのと同じ問いかけを口にした。
「で、どうするんだい?」
「どうするって……」
 問いかけられた台詞を反芻して、あいみは少年の頬を引っ張っていた手を止める。
 少年の表情は変わらない。
 彼女はしばし考え込むふりをして、
「そりゃ、やっぱり……警察とか?」
 まるでそれが悪いことみたく、声をひそめて言った。同時に自分の回答が合っているかどうか確かめるように、上目遣いで陽を見上げる。
 太陽が、ちょうど三人の頭上を照らし出していた。
 逆光のせいで陽の表情は、彼女には分からない。
 ビルから吹き込んだ一陣の風が、長い間手付かずだった空き地の中の雑草の葉を揺らすし、その音だけがあいみの耳朶を責めるように打っていた。
「ダメ……」
 風に掻き消されそうなほど小さく弱い声で反論したのは、さっきからずっと黙ったままの少年本人である。
「けいさつはダメ……」
 あいみを振り返り、大きな漆黒の眼を日の光で揺らしながら、もう一度悲壮の声で訴える少年。
 あいみの心のどこかが、少年の懇願するその顔を見てちくりと痛む。
「で、でも……。悪い奴らに追いかけられてるんだったら、やっぱり警察とかに事情を話して、保護してもらうのが一番安全っすよ? そのための警察。そのための治安国家っす」
 胸の痛みを気にしないようにしながら、あいみが説得を試みる。
 だが少年は、小さく首を横に振るだけだった。
 先までの無表情で無機質だった瞳に、薄っすらと涙が滲んでいて、それが零れないように、少年は懸命に長い睫を震わせて耐えている。
 少年の脳裏を蝕む恐怖の正体を、もちろんあいみは知らない。
 だが――端正で美しい少年の顔が恐怖に歪むその様をみて、あいみは不謹慎にも「きれい」と感じてしまった。
 この世でこんなに綺麗で儚いものがあるのが、彼女にはショックだった。
「……助けて」
 レストランで少年が放った言葉が、再び同じ少年の口から放たれる。
 同時に。
 少年の右目から大粒の涙が頬を伝い、糸になった涙が口元の小さなホクロを濡らした。
「あいみの家に、来るっす!」
 涙が滴となって地面に零れ落ちるのと同時――
 バネ仕掛けの人形のごとく勢いよく立ち上がったあいみは、自分でも気付かない内に声を大にして叫んでいた。
 叫んでから、また思考を追い抜いていった自分の行動に彼女自身が驚く。
「あいみが君を守るっす! 守ってあげるっすよ!!」  
 だが、一度堰を切った言葉は止まらない。
 彼女は今まで生きてきた中で最高の笑顔を少年に向けると、彼の顔の前にすっと手を差し出した。
「……」
 その手を呆然と見据える少年。
 差し出された目の前のあいみの手と、あいみの顔を、信じられないものを見るような眼差しで何度も交互に見比べる。
 それは少年にとって、地獄でしかなかった世界に差し込んだ一条の光明――
「良かったな、少年。あいみちゃんがいい人で」
 ポンと頭の上に置かれた陽の手に、こそばそうに目を細めながら、それでも少年は大きく頷いて見せた。それからゆっくりとした動きであいみの手を握り返すと、自分もすっと立ち上がる。
「ありがとうです、あいみさん。」
 そう言って、初めてその顔に笑顔を覗かせる少年。
 少年の温もりが彼の手を通してあいみに伝わり、彼女の頬を僅かに朱に染めた。
「お礼なんかいいっす。困ってる人がいたら助けるのはジョーシキだって、草葉の陰でおばあちゃんも言ってるっすよ」
「死んでたの?」
「縁側でお茶をすすってるっす」
 照れ隠しだったらしく、あいみは陽の突っ込みに、頭を掻きながら笑った。
 その笑いは、陽と少年にも伝染する。
 土手で殴り合ったケンカ相手とケンカの後に笑い合う、あの無駄に爽やかな笑い声と同質の笑い声が、しばらくの間空き地の中に響き渡った。
 林立するビル群で。
 年の違う三人の男女が笑い合う。
 UFOを呼ぶ集会でもなく、悪魔の降誕を祝うサバトでもなく、一年前に死んだ総長の追悼の儀を行う暴走族でも無い。
 それは、この星の運命を決める始まりの出会いだった。
 だがそれを予見できた者はこの中には――
「僕は、イルというです。あいみさん、よろしくです」
 たどたどしい言葉で少年――イルはそう言うと、今度は自分からあいみに手を差し出す。
 だがあいみはその手を取らない。
 しばし何かを考えるように空を見上げた彼女は、照りつける太陽の向こうに何かを――或いは覚悟のようなものを見つけると、差し出されたイルの細い褐色の腕を掴んで、自分の方に強く引き寄せた。
「えっ……?」
 視界が急に暗転したのに、イルが驚きの声を上げる。
「よろしくっす。イーちゃん」
 そのイルの耳朶を、あいみの小さな囁きが打った。
 あいみの体から微かに香るデュエンデの香水の匂いと、風が運ぶ空き地の雑草の青い匂いと、頭上の太陽の焦がすような匂い。
 それら全てが合わさった心地良い匂いの中で。
 優しく包むあいみの腕と胸の中で。
 イルはもう一度、その頬に一筋の涙を伝わせたのだった。