WILL 2
作:アザゼル





 ☆ 第一話『テンビン』


「ほら、こっちのホタテのバターソテーも、とってもジューシーよ。取ってあげるから、お皿貸しなさい」
「そうだぞ。もっと食べなさい。そんな細っこい体じゃ、すぐ倒れてしまう」
「あ、ありがとうです……」
 イルの前のテーブルに、あいみの母特製のゴージャスな料理がどんどん積み重なっていく。
 それは瞬く間にイルの視界を覆い尽くし、小さなマウントを形成した。
 普段はピアノ教室の先生をやっている、おっとりとした長い黒髪の女性――あいみの母、相川綾子と、自称陶芸家の伸ばした髭が素敵だと思い込んでいる男――あいみの父、相川一登は、目の前の料理の山に目を白黒させているイルを楽しそうな眼差しで見つめている。
 二人の視線を一身に浴びて、萎縮するイル。
 そのイルに、一登が目を細めながら口を開いた。
「どうした。遠慮しちゃいかんぞ? これもこれもこれも……」
 言いながらイルの目の前の料理を指差していき、最後にホタテのバターソテーが入った器で指を止めると、さらに目を細める。
「これも――わしが作ったんだ」
「器をね」
 息ぴったりで合いの手を入れたのは、綾子だ。
 同時に参ったという風に、一登が豪快に笑い声を上げる。
 イルはそんな二人をやはり目を白黒させながら見据え、それからまるで初めて扱うかのように――実際初めてなのだろう――ぎこちなく、渡されたピンクの箸で湯気の立つ白いホタテを持ち上げた。
 恐る恐る、といった感じでそれを口に運ぶイル。
「どう、イルちゃん?」
 綾子がもぐもぐとホタテを咀嚼するイルに、笑顔で回答を求める。
 彼はしばらく口と頬を懸命に動かし続けた後、ごくりと一度喉を鳴らし、
「――おいしい、です」
 本当に心の底から感じたように、そう答えた。
 実際綾子の作る料理はプロ顔負けの味つけだったが、彼のその言葉には、それ以上の何かを感じさせる響きが含まれている。
 綾子と一登の顔が、同時に満面の笑みに綻んだ。
 イルもそんな二人の笑顔に、さっきまで強張っていた表情を僅かに緩める。
 食卓を包むムードがイルの「おいしい」の一言をきっかけに、本当の家族のようなナチュラルな雰囲気へと変貌を遂げ――
 「三人」の夕食の時は、和やかに夜を深めていったのだった――
 ――
 ――――
 ――――――――そう、「三人」の。
「……って、マエフリ長過ぎっす!!!!」
「あら居たの、我が家の不良娘ちゃん」
「おお居たのか、金髪怪獣娘」
 テーブルを力いっぱい両手で叩きつけて叫ぶあいみに、両親の冷たい声が同時に浴びせかけられる。
 その二人の言葉に――というよりは二人のイルへの対応に、彼女は小さく肩を落として、ため息を吐いた。
 正直、あいみはちょっぴり両親の「常識」というものに期待していたのだ。それが理由になれば陽にも格好がつくし、自分の良心にも諦めをつけさせることができる。
 あの時は勢いで守るとか言ってしまったが。
 後で冷静になって考えれば考えるほど、それは困難を極めるような気がした。
 謎の黒服集団と、それに追われて空から降ってきた少年。
 三流小説家でも書かないありきたり且つ陳腐なストーリーだが、現実に巻き込まれれば、ヒーローでも何でもないないただの女子高生であるあいみが、銃で武装した集団から少年を守りきれるわけがないのは明らかだった。
 彼女の脳裏に、物語の結末が一瞬よぎる。
 なぜか寂れた波止場の一角で、倒れ伏した美少女と立ち尽くす白髪の青年。
 青年の右手にはまだ煙を放つ銃が握り締められていて、反対の手には涙を流して地に伏した少女に向かい、何か叫んでいるイルが捕らえられている。
「――短い、人生だったっす」
 美少女の最期の言葉。
 嫌がるイルを無理やり引っ張って、その場を立ち去っていく白髪の青年―― 
「おい母さん。あいみが自分の分の料理が無いから拗ねてるぞ」
「あらあら、何も泣かなくてもいいのに……。あいみの分のカップうどんは、ちゃんといつもの戸棚の中に入ってるわよ」
「……期待したあいみが悪かったっす」
 両親の温かい言葉と錯誤した思いやりに、あいみはもう一度、大げさにため息を吐いて見せたのだった。


 「あいみの部屋」と彫られた、一登お手製のプレートが扉にぶら下がって揺れている、文字通りあいみの部屋――
 中は年頃の少女に相応しく、無秩序に様々な物が所狭しと転がっている。
 読みかけの雑誌。
 食べかけのポテトチップスの袋。
 中身が蒸発してほとんど残っていない香水。
 エトセトラエトセトラ。
 それらを片足で部屋の隅に追いやりながら、あいみは扉の所で突っ立ったままのイルを振り返って、中に入るように促した。
「そこら辺にテキトーに座るっす」
「入って……いいですか?」
「そりゃ、あいみが呼んだっすからね」
 イルの言葉に、床に散乱した雑誌を拾い集めながら、あいみが答える。
 彼はしばらく雑誌を拾い集めるあいみをぼんやりと眺めていたが、意を決すると部屋の中に足を踏み入れた。
「あ、足元気を付けるっす。飲みかけのペットボトルがその辺に……て、遅かったみたいっすね」
 勢い良く踏み出されたイルの足が、足元の一リットルのコーラのボトルを勢い良く蹴り飛ばしたのと、あいみが声をかけて注意を促したのは、ほぼ同時だった。
 フローリングの床に、炭酸の抜けた黒い液体が零れる。
「ご、ごめんなさいです!!」
 イルが慌ててボトルを元に戻したが、黒い水たまりは一瞬で部屋の床中に広がっていった。
「ごめんなさいです、あいみさん……」
「いいっすよ。
 下行って濡れタオル取って来るから、イーちゃんはここで待ってるっす」
 もう一度すまなそうに謝るイルを片手で制して、あいみは身を翻すと、部屋を飛び出していった。
 軽快なテンポで階段を駆け下りていくあいみの足音が、残されたイルの耳朶を叩く。
 彼はしばらくその足音に耳を傾けていたが、不意に視線を、広がるのを止めた黒い水たまりに向けると、まるで何かに魅入られたかのようにそれに目を奪われて凝視した。
 イルの漆黒の瞳の中。
 同じように漆黒の液体が、部屋の蛍光灯の明かりを反射して、不気味に煌いている。
 それがイルには、なぜか「不吉」な予兆のように感じられた。
「……」
 頭の中に湧き上がってくる不安を振り払うように、視線を零れたコーラから外す。
 改めて見回したあいみの部屋が、今度はイルの視界を支配した。
 勉強机の上に所狭しと並べられた、クレーンゲームの景品のぬいぐるみ。
 下だけが妙に散らかっている、二段ベッド。
 小さなバルコニーで、青々と伸びる何だか良く分からない観葉植物。
(温かい部屋です……)
 イルはそれらを見回しながら、胸中でそっと呟いた。
 それと同時に、彼の頭の中にもう一つの部屋が記憶として蘇ってくる。
 灰色のコンクリートで四方を固められた、冷たい部屋。
 ベッドの上の白いスーツと白い布団。
 コンクリートの床に散乱した、色彩々のカプセル状の薬品。
 誰も居ないのにいつも感じる、壁の向こうの視線たち――
「――イルちゃんを襲ったらダメよ、あいみちゃん」
「そんなに飢えてないっす!」
「なにぃ! あいみに男が!?」
「お父さん。あいみも年頃なんですから」   
「な、なんて不幸な……」
「不幸?」
「いや、同じ男として、我が娘と付き合う男があまりにも不憫でな」
「あらあら、お父さん。それはあまりにも正直過ぎるわよ?」
「こ、こんな美少女捕まえて、何を言うっすか!!」
 イルの意識を現実に戻したのは、階下から聞こえてくるあいみやあいみの両親たちの声だった。
 賑やかに聞こえてくるその声に、イルの口元が小さく綻ぶ。
「……僕はもう、戻らないです」
 囁くように吐き出したその言葉にどんな思いを乗せたのか――
 イルはすぐに元の表情に戻ると、もう一度あいみの部屋をゆっくりと見回した。


 二段ベッドの上――
 そこは家を出ていったあいみの姉が昔使っていた場所らしく、下の段のごちゃごちゃと散らかったあいみのベッドとは対照的に、整然と片付けられていた。
 敷かれた布団からは、微かに洗剤の香りが漂っている。
 綾子の持ってきてくれたその布団に、小さな体を潜り込ませたイルは、薄暗い部屋の中でただじっと天井を眺めていた。
 それは窓から差し込む月明かりを受けて、ぼんやりと白く輝いている。
 記憶の中にある無機質な灰色の天井とは違う、人の匂いの染み付いた天井。
 そして――イルの知らない天井。
「眠れないっすか?」
 天井に見とれていたイルを現実に引き戻したのは、もう寝てしまったと思っていたあいみの声だった。
 どうやらイルの寝息が無いことに、勘付いていたようだ。
「眠れないなら、一緒に横で寝てあげるっすよ?」
「だ、大丈夫です! 一人で寝れるです!」  
 続けて下からかけられた誘いに、顔を真っ赤にしたイルが慌てて答える。
 同時に彼は赤くした顔を隠すように、布団を深く被り、ずぶずぶと中に体を埋め込んでいった。
 もちろんイルのそんな様子は、下の段にいるあいみに窺い知れるはずはない。
 はずはないのだが、容易に察知することはできた。
「遠慮しなくていいのに。イーちゃんは、まだまだお子様っすからねえ」
 小さく笑い声を上げて、からかうように呟いたあいみの言葉は、布団に深く潜り込んだイルの頬をますます赤く染めさせる。
 だが、からかわれたイルは、なぜか怒りよりも不思議な心地良さを感じていた。
 それは彼がこういうささやかな「日常」を、かつて経験したことが無く、それゆえにそういうものに漠然と憧れを抱いていたからなのかもしれない。
 一般的な日常は、半端でない過去を生きてきたイルにとって、何物にも代え難い至極の宝なのだ。
 ――だが、同時にそんな彼を恐怖の感情が包み込む。
 それは不思議な心地良さよりも、より明確な形をとって彼を不安にさせた。
「あいみさん……」
 訪れる沈黙すら恐れるように、イルが布団の中からくぐもった声で口を開く。
「あいみさん。……僕は本当に、ここに居てもいいですか?」
「どうして?」
「だって、僕は……」
 何か言いかけて、そこでイルは不意に口を閉ざした。
 流れる沈黙と闇の中、彼がその何かを言うべきか言わずにおくべきか葛藤するような雰囲気が、下の段にいるあいみにも伝わる。
 だが彼女は、特に先を促したりはしなかった。
 イルの語り口があまりにも真摯で、口を挟む雰囲気ではなかった――というのもあるが、あいみ自身、それが強制して得るような言葉ではないことに気付いていたからである。
 沈黙は意外に長い間、部屋の中に横たわっていた。
 そして――イルが再び口を開く。
「だって僕は、人じゃないんです。僕は人の形を模して造られた、兵器なんです――」
「兵器?」 
 突然飛び出した突拍子もない単語に、あいみが思わず猜疑の声をあげて聞き返す。
 出会いが漫画的なら、喋ることも漫画的。
 そういう漫画を最近読んだことをぼんやりと思い返しながら、これが普通の近所の鼻たれ坊主の口から出た言葉なら、そのまま速攻で鉄格子付きの病院に送り飛ばすこと間違いなしだな、とか彼女は考えていた。
「都市殲滅型兵器イルネス。それが僕の正式名称です。僕を造るには、巨額の資金が投資されていたので、だから彼らも逃げ出した僕を必死に追っていたんだと思うです」
 神秘的で浮世離れしたイル。
 自分を造ったと言いきるイル。
 一切の感情を捨て淡々と機械的に喋るイル。
 そういう彼が言う台詞は、漫画的であっても、あいみにはどこか信用できるような気がした。
 だから、彼女はやはり余計な口を挟まない。
 ただ黙ってイルの淡々と語る話に耳を傾けていた。
「僕はもう逃げるのに疲れたです……。僕は逃げてから、多くの人間に会いました。でも皆、僕があの人たちに追われているのを知ると、僕から遠ざかっていきました。僕から遠ざからなかったのは、あいみさんが二人目です」
 ――二人目。
 そう言った瞬間のイルの声は、一瞬だったが酷く不鮮明に震えていた。
 思い出したくない、だが忘れてはいけない、そういう類のどちらかと言えば口に出したくない台詞を口にしたような響きが、そこには含まれている。
 だがあいみは意味深で気にかかるその台詞にも、問いかけを返さなかった。
 彼女が何も言葉を発しないのが不安になったのか、或いは何か彼女から喋りかけるのを待つためにイル自身が設けたのか、微妙な沈黙がまたも部屋に生まれる。
 静まり返った部屋に、下の階からテレビのニュースアナウンサーの声が途切れ途切れに届き、それは生まれた沈黙に波紋を投げかけるかの如く、しばらくの間部屋を支配していた。
「――ずっと、気になってたことがあったっすよ」
「え?」 
 打ち破ったのは、暗い雰囲気を一瞬で払拭するあいみの明るい声だ。
 イルにとって意外だったのは、下の段から聞こえてくるはずの彼女の声が、すぐ側から聞こえてきたことである。
 潜り込んでいた布団から思わず顔を出した彼の視界に、ベッドの端に掴まりひょっこりと顔だけを出したあいみの姿が映った。
「あ、あいみさん?」
 断首台の上に転がった生首のような格好のあいみに、顔を赤らめ声をかけるイル。
 そんな彼の様子に小さく笑みを洩らした彼女は、だがすぐに真剣な表情に戻ると、声のトーンを僅かに落として口を開いた。
「どうしても、これだけは答えて欲しいっす」
「は、はい……」
 いつもの調子とは違うあいみの問いかけに気圧されて、イルも声をひそめる。
 答えが違えば拒絶されるかもしれない、そういう緊張感が彼を包み込む中――彼女が放った言葉は、
「イーちゃん。どうして空から降ってきたっすか?」 
 全然関係の無い、疑問だった。
 ただイルには関係が無くとも、その問いかけを恐れる者はいるわけで。
 その遠い誰かの心情を察したのかどうか、彼は大きな眼をぱちくりと瞬かせた後、しばらくうんうんと唸って考え込んだ。
「……どうしてか、どうしても思い出せないです。彼らから逃げて、日本に辿り着いたところまでは覚えているですが……」
 すまなそうに頭を抱え、答えるイル。
 その彼に、あいみは首だけをにゅっと伸ばしてさらに詰問した。
「まさか、ファーストシーンだけでも盛り上げとこうとかいう、短絡的な意味で降ってきたんじゃないっすよね!? そんなゴンジーや空のお姫様の二番煎じ。誰が認めても、あいみは認めないっすよ?」
「え、あの…… 。意味が良く理解できないです」
 目と鼻の先まで近付いたあいみの顔に、もはやゆでだこ状態と化したイルが、声を震わせて答える。
 彼の深い漆黒の双眸に投射された、あいみの顔。
 いつもは上で一つに縛り上げている髪を、下ろしているせいか、薄暗い部屋の中でそこだけ妙に濡れて光る厚い唇のせいか――或いは「夜」という空間が演出するムーディーな雰囲気のせいなのか。
 目の前のあいみは、いつものあいみではなく、イルにとっては充分過ぎるほど大人な女に映っていた。
「わっ……!?」
 だが、イルにはどぎまぎとしている暇すら無い。
 首だけを出していたあいみが、突然飛びかかるように覆い被さってきたのだ。
 彼女の頭に、先刻の母の忠告が欠片でも残っていたかどうかは不明だが、間違いないのは、それを殊勝に受け止める彼女でないことだけは確かだった。
 ベッドの上で、マウントポジションを取ったあいみと、取られたイル。
 部屋の中は薄暗かったが、お互いの距離が近いせいで双方はっきりと相手の顔を捉えられる。
「ど、どうしたですか?」
 覗き込むあいみの視線にさらに心音を加速させながら、イルが無意味な質問を口にした。
 この状況で意味を成す言葉など、この世には存在しない――
 案の定あいみは何も答えずに、ただじっとイルを見据えるだけだ。
「あいみさん……?」
 静寂が流れるのを恐れるようにイルが再び声をかけるが、その声は虚しく沈黙の前に敗れ去り、霧散していく。
 部屋には時を刻む時計すらなく、静寂はどこまで行っても静寂だ。
 耳が痛くなるような無音の世界。
 凍りついた空間の中で、あいみは動いているのを感じさせないほどゆっくりと自然に、顔を自分の下にあるイルの顔に近付けていった。
「……ふえ?」
 同時に、イルの口から吐息とも喘ぎともつかぬ声が洩れる。
「耳たぶ」
「え?」
「他にも、わきとかお腹とか色々と。人には他人に触れられて気持ち良くなるとこがいっぱいあるっす」
 あいみの声はイルの耳朶のすぐ側で囁かれ、それが空気を震わせて鼓膜や耳たぶを刺激する度に、彼はくすぐったいようなこそばゆいような顔をした。
「大丈夫。イーちゃんは、人間っす。気持ち良くなる兵器なんか、無いっすから」
「でも僕は……んんっ!?」
 何か反論しようとしたイルの口は、あいみの唇に塞がれる。
 それは唇が重なり合うだけの、ただのフレンチキス。
 だが生まれてから一度も誰からもキスなどされたことの無かったイルには、どうとっていいかも分からない、全くの謎の行為で――それでいて酷く心地の良い行為だった。
 痺れるでもなく、快感に打ち震えるわけでもない。
 まるで大海に包み込まれているかのような、たゆたうような心地。
「――イーちゃんが人間だって、試してあげるっす」
 そう言ったあいみの手が、イルの着ていたタンクトップのシャツの中に滑り込んでいき、その細い褐色の肢体を優しく撫でていく。
 何かを探るようなあいみの手に、時折小さく反応を見せるイル。
 彼女が探していたのは、イルの人間という「証」なのだろうか。
 際どく危険になっていく描写のまま、夜は静かにゆっくりと、ゆったりと更けていったのだった……


「行ってくるっすー!」
 玄関で制服に着替えたあいみは、踵の部分をぺたぺたに踏み潰した靴を履きながら、家の中に向けて元気よく叫んだ。
 中からの応答は――無い。
 ただの屍のようだ。
「朝から騒がしかったのに、どっか出かけたっすかね?」
 不思議そうに首を傾げたあいみだったが、すぐに携帯の時計に目を遣ると、慌てて鞄を引っ掴んで家を飛び出した。
 遅刻的な時間だったらしい。
 だが走り出そうとしたあいみは、何者かに制服の裾を掴まれ、その場に押し止められる。
 何者かの正体は、裾を掴んだまま上目遣いで彼女を見上げるイルだ。
「――どうしたっすか、イーちゃん?」
「……」
 あいみが問いかけるが、彼は何かを訴えかける眼差しを向けるだけで、何も言葉を返さない。
 言葉を返したのは、彼の後ろから姿を現した、あいみの両親だった。
「イルちゃんは、あいみと一緒に学校に行きたいのよ」
「そして、お前にはその義務がある」
 現れた二人――一登と綾子は、口々にそれぞれ勝手なことを言い放つと、同時にイルの肩を軽く押してあいみの方へと促した。
 押し出されたイルを片手で抱き止めるあいみ。
 だが訝しげなその視線は、がっぷり四つで一登と綾子を見据えている。
 彼女が訝しんだのは、二人の格好だ。
 お揃いの色違いのアロハシャツに、七十年代チックなサングラス。それぞれの足元に置かれた巨大な旅行用トランクに、首元に下げられた重そうに揺れる古い型のカメラ。
 これでもかと言わんばかりの、観光者ファッションである。
「どこか行くっすか?」
「ハワイだよ、ハワイ。町内会のくじ引きでわしが引き当てたんだ」
「さすがお父さんだわー」
「……」
 一応問いかけたあいみに、一登は自慢気に答えると、しなだれかかる綾子となぜかいちゃつき始めた。
 その様子に、あいみが深い嘆息を洩らす。
「あ、そうそう。おみやげはマカデミアンナッツでいいわよね?」
「何を言ってるんだ。ハワイのお土産といえば、トーテムポールの置物に決まっているではないか」
「いや、どっちも欲しくないっすけど……」
「まあ、というわけで――」
 どちらに転んでもさして嬉しくないお土産に辟易とするあいみの肩に、一登が手を置きながら口を開く。
「イル君はお前が学校まで連れて行くように。その辺の話は、先生につけてあるから何の心配もない」
「本気っすか!?」
「じゃあ、お前はイル君を一人で家に置いて行く気か? もし一人で留守番中に押しかけ強盗が入ってきて、イル君をロープでぐるぐる巻きにした上、包丁でめった刺しにしたりしたらどうするんだ?」
「グロいっすよ……」
 リアルにえげつない想像を淡々と語る一登を疎ましげに見据えながらも、あいみの目には諦めにも似た色が浮かんでいた。
 彼女もそうまで言われて、さすがにイルを置いて行く気にはなれなかったのだろう。 
 昨夜のこともあるし、だ。
「じゃ、イーちゃん。あいみと一緒に行きますか?」 
「……はい!」
 あいみの言葉に、顔を紅潮させて頷くイル。
 その彼の様子を見て、あいみは、なぜだかさっきまで一緒に行くことを嫌がっていた自分がいたことをすっかりと忘れてしまっていた。
 その無垢で美しく――そして儚い笑みに心を奪われてしまったかのように。


「暑いっす、暑いっす、暑いっす……」
 青々とした晴天を仰ぎながら、あいみはさっきからずっと同じ台詞を繰り返し呟いている。
 太陽がアスファルトを焼いて、焦げたような匂いが辺りには立ち込めていた。
 汗だくの彼女と、その後ろをアヒルの子供よろしく歩くイル。
 その彼の褐色の肌には、なぜか一滴の汗も流れていない。
 それが或いは兵器たる彼の確固たる証拠の一端なのかもしれないが、そんなことは今の状況のあいみにとっては瑣末なことでしかなかった。
 今の彼女の求めるもの。
 砂漠の中のオアシス――
 またの名を自動販売機。
「はっけーん!!!!」
 それを視界にロックオンした彼女は、後ろを歩いていたイルがびっくりして、思わず地面から浮き上がるほどの声で叫んだ。
 同時に走り出すあいみ。
 後を追いかけたイルが彼女に追いつく頃、すでに彼女の手には一本のよく冷えたジュースが握り締められていた。
「やっぱ、夏といえばコレっすよ」
 言いながら、あいみが缶のプルタブを勢いよく開ける。
 炭酸が外気に触れる小気味いい音と共に、宙に弾け飛んだ黒い液体が数滴、彼女の頬を濡らした。
「んぐんぐんぐ……」
 腰に手を当てたオヤジングスタイルで、それを半分ほど一気に飲み干し、あいみは不意にイルの方を振り返ると、今自分が半分飲み干した缶をにゅっと差し出した。
「え?」
 差し出されたジュースの缶――局部的には彼女が口をつけた飲み口の辺りを凝視しながら、イルが恥ずかしさ半分、不思議さ半分といった表情で彼女を見つめ返す。
 そのイルに、あいみは逆ににんまりと笑みを返した。
「半分こっすよ」
「半分……こ?」
 あいみの言葉を反芻し、缶とあいみを交互に見比べながら、誘われるように手を差し出すイル。
 受け取った缶に恐る恐る口を近付け――
 今まさに少女漫画で恋が始まる瞬間ベストワンに堂々輝く、伝説の間接キスがなされようとした瞬間――その声が通りの彼方から響き渡った。
「こらぁー!! そこの頭金色の、見るからに脳みそ梅干な女ぁ! 朝っぱらから堂々と幼児誘拐の容疑で逮捕するー!!」
 その声にびっくりしたイルの手から、缶が地面へとするりと落下する。
 同時に、あからさまにげんなりとした顔つきで、あいみは声の方へとゆっくりと振り返った。
「誰ですか?」
「……あいみの敵っす。もみあげ泥棒に対する、年中コート刑事みたいなもんっすよ」
 イルの問いかけに答えるあいみの声は、なぜか柄にもなくどこか疲れた老婆のような響きを持っていた。
 焼けたアスファルトの上に、さっきイルが零したジュースの黒い炭酸が広がり始め、それが今のあいみの心情を象徴するように、じっとりシュワシュワと音をたてていたのだった――


 あいみの通う高校の屋上。
 時刻は十二時を少し回った、お昼休み時。
 あいみとあいみより若干背の高い黒髪の少女は、並んでぼんやりと空を見上げながら、お互い煙草の煙をもくもくと天に向けてたゆたわせていた。
「――ってわけなんすよ、ミランちゃん」 
「へぇ、なるほどね」
 ミランと呼ばれた少女――水乃濫子を縮めてあいみが付けたあだ名である――は、あいみの話に、さして興味なさそうに頷きを返した。
 あいみのはしょられた話の内容は、概ねイルとの出会いに関してである。
 衝撃的且つファンタスティックなその出会い話に、だが濫子の反応はあいみが考えるより遥かに薄かった。
「まあ、あいみが考える言い訳の内容としては、その辺が妥当かしらね。ただ、少し独創的過ぎて真実味に欠けるのが難点。上手な嘘ってのは、九つの虚偽の中に一の真実を含まなければならないわ」
 人生の酸いも甘いも知り尽くした――そういう表情で、濫子はメンソールの煙草をふかし込みながら、眼鏡の奥の凛とした切れ長の瞳を光らす。
 その彼女の視線は、屋上からちょうど見下ろせる中庭で、女子生徒に囲まれているイルの姿を捉えていた。
「逆光源氏もいいけれど……。勝手に少年を連れ去って囲うというのは、犯罪であることを忘れたら駄目よ。これは友人としての忠告。私としても、週刊誌の記者に、彼女も根はいい子だったんです――とか過去形で言いたくないからね」
「だーかーらー。ホントなんすよ、ミランちゃん!
 ホントにイーちゃんは空から降ってきて、悪い奴らに追っかけられてるんっす!!」
「あいみ……」
 必死に力説するあいみの肩に手を置きながら、濫子は憐憫の眼差しすらたたえて、諭すような口調で口を開いた。
「現実と妄想――。境界線がファジーになったら、鉄格子の付いた病院に入れられちゃうのよ? 私はそんなあなたと、面会という形でしか会えなくなるのはとても寂しいわ……」
 全然寂しそうに思っていない――そういった口ぶりで言う濫子に、あいみがもどかしいような、じれったいような表情を向けた時。
 屋上から見下ろせる中庭から、女子生徒たちの絹を引き裂くような悲鳴が突然、響き渡った。
 悲鳴は屋上にいた二人の耳にも当然届く。
「イーちゃん!!!!」
 悲鳴が上がったと同時に、屋上の柵から身を乗り出して叫ぶあいみ。
 まさに文字通り柵から身を乗り出したあいみを、なんとか制服の端を掴んで引き止めたのは、濫子だった。
「馬鹿っ! この高さから落ちたら死ぬわよ!!」
「だって――だって、イーちゃんが!!」
 涙声で叫ぶあいみをなんとか押さえて、濫子が眼下の中庭に視線を落とす。
 そこには怯える女子生徒たちを取り囲むように、この暑い中びっしりとした黒服に身を包んだ男たちが、手に手に銃を構えて立ち尽くしていた。
 だが女子生徒たちの姿の中に、さっきまでいたイルの姿は無い。
「ちょっと、あいみ! あれ、作り話じゃなかったの!?」
 常識を逸した光景に、それでも冷静さをぎりぎりで保ちながら、濫子が押さえつけたままのあいみに問いかける。
「だから、ホントだって言ったっすよー」
 答えるあいみの声は弱々しい。
 その様子に、一瞬濫子の制服を掴んでいた手の力が弱まった。
「イーちゃん!!!!」
 同時に濫子の手を振り払い、全速力で駆け出すあいみ。
 濫子がハッと気付いた時には、既に手は何も無い虚空を掴んでおり、あいみの姿は屋上から掻き消えている。
「あの馬鹿っ!」
 慌ててあいみの後を追うように走り出した濫子の耳朶を、今度は中庭の方から乾いた炸裂音が空気を震わせて打ちつける。
 ――銃声だ。
 彼女の足はその音と共に、さらに加速した。


 濫子が中庭に駆けつけると、そこには肩を押さえてうずくまる一人の女子生徒と、その子を心配そうに取り囲む、数人の他の女子生徒たちの姿があった。
 だがその中には、イルの姿もあいみの姿も見当たらない。
「あいみ、来なかった!?」
「濫子さん!?」
 現れた濫子に気付いた女子生徒の一人が、彼女の方を振り返る。
 ちなみになぜ同年代にしか見えないその女子生徒が、濫子のことをさん付けで呼ぶのかは、おそらく彼女が生徒会の会長であるとか、父親が大企業の社長であることとかとは無関係に、彼女のどこか威厳を醸し出す雰囲気のせいなのだろう。
 女王の威厳――というよりは、スケ番な威厳だが。
「濫子さん! 知らない黒服を着た人たちが突然現れて……!
 銃を向けてイルちゃんをさらって、止めようとしたチエコが撃たれちゃって!!
 それで、それで……私たちどうしたらいいか分からなくて!」
「落ち着きなさい!」
 支離滅裂にまくし立てるその女子生徒の両肩を掴み、濫子が一喝する。
 それだけで女子生徒はびくっとなったように我に返り、それから幾分落ち着きを取り戻すと、すがるような視線を濫子に投げかけた。
「とにかく……。チエコは保健室に連れて行きなさい。後あいみがここに来たはずよ。彼女がどこに行ったのか、もし知ってたら教えてもらえるかしら?」
 その視線を軽く受け流しながら、あくまで冷静沈着、丁寧な口ぶりで――しかし有無を言わせない語気は含ませつつ、濫子が問いかける。
「あいみは……。私たちの所に来て、イルちゃんを連れ去っていった連中の向かった場所を聞くと、すぐに後を追いかけていきました」
「どっちに行ったの?」
 濫子の問いかけに、女子生徒が指し示したのは校門の向こう側――
 あいみが向かったのは、どうやら学校の外らしい。
「ありがと」
 短く礼を告げ、校門に向かって駆け出そうとした濫子は、その時、校門の向こう側から何者かを背負って近付いてくる人影を視界に捉えた。
 駆け出し半ばで、立ち止まる濫子。
 その彼女に、人影がゆっくりと近付いてくる。
「やあ――」
 人影の正体は、アッシュブラウンの髪の青年――獅子崎陽だ。
 彼と何度かあいみを通じて面識のある濫子は、片手を上げて爽やかに声をかけてくる陽に、小さく顔をしかめた。
 彼の誰に対しても振りまかれる爽やかさ――そういったものに、どこか自衛本能のようなものが働くのかもしれない。
「久しぶりだね、濫子ちゃん」
「どうして、あなたがこんな所にいるんですか?」
 かけられた言葉には応じず、濫子が無愛想に疑問を投げかける。
 それに対して、陽は苦笑を口の端に小さく浮かべると、背に負っていた者を僅かに動かして濫子に見えるように仕向けた。
 陽の背の間から姿を現したのは、黒服たちに連れ去られたはずのイルである。
「イル君!?」
「――つまり、そういうわけさ」
 思わず声を荒げた濫子に、訳知り顔で答える陽。
 だが、そんな答えになっていない答えに、満足する濫子ではなかった。
「きちんと順序立てて説明してもらえる、陽さん?」
「説明も何も――。この少年がさらわれたというから、こうして助けに来ただけ。ただそれだけのことさ」
 問い詰める濫子に、それでも陽は飄々とした態度を崩さない。
「はぐらかさないでもらえますか!? 相手は銃を持った何者かも分からないような連中ですし、それにイル君がさらわれたことをどうしてあなたが知っているのかも、説明してもらってません!」
「……」
 諦めずに詰問を続ける濫子に、だがしかし、陽は何も答えない。
 その彼の顔に浮かんでいるのはやんわりとした微笑で、それは何もかもを知り尽くしているくせにわざと答えを教えない、家庭教師の先生のそれに通じるものがあった。
 プライドが人一倍高い濫子の中の、どこかで何かがプチンと音を立てて弾ける。
「いい加減に――!!」
「まあ、落ち着いて」
 激昂しかけた濫子の口を、これ以上ないタイミングで陽がその大きな手のひらで塞いだ。
 同時にもう片方の手で人差し指を立てると、それを口元に当てて、片目をぱちりと瞑って見せる。
「ほら。あんまり騒いだら、この子が起きてしまう」
 言いながら背負っているイルを小さく動かすと、さすがの濫子も仕方なく口をつぐんで黙り込んだ。
 イルは気を失っているのか、それとも気絶しているのか、固く目を閉じて、時折睫毛を震わせている。
「……じゃあ、あいみは? イル君を追いかけて、あいみも同じ方向に向かったはずなんだけど」
 そんなイルを気遣ってか、幾分声をひそめながら、それでも濫子は質問を止めない。
 彼女的にここまで足止めを食らったのだから、情報の一つも聞き出さないと――という意地もあったのだろう。
 その彼女の問いかけに、陽が初めて微笑を止める。
「あいみちゃんは――。彼女は今、おそらくテンビンにかけられているはずさ」
「テンビン?」
 顎先に伸びた不精髭を撫でながら、天を仰ぐ陽に、濫子が聞き返す。
「そう、テンビンだ。しかもこの星の運命を賭したほどのね――」 


 あいみは走っていた。
 万年女の日を利用して体育をサボっている上、煙草の吸い過ぎで持久力と根性などトコトン無い彼女にとっては、信じられないスピードで。
 校門を出た後は左右に伸びる一本道なので、道を間違う心配はない。
 汗は滝のように次から次へと噴き出してくるし、呼吸も荒々しくなっていくが、そんなことも今の彼女にとっては問題ではなかった。
 ただ――イルを助けなければならない。
 それだけがあいみの脳を支配している。
 どうしてそこまでイルに固執するのか、あいみ自身にも――というより自身だからこそ、彼女には理解できなかった。
 それに理解を超えた思いのようなものは、彼女に考える暇を与えない。
 ボーイミーツガール。
 少年は少女に、少女は少年に出会った――という事実があるだけだ。
 だから、あいみは今走っている。
「久し振りだね」
「――!?」
 彼女の疾走を止めたのは、どこかで聞いた覚えのある慇懃で嫌味な口調の声だった。
 無我夢中だった彼女が、瞬間に走っていた足を止める。
「……この前は僕の邪魔をしてくれて、ありがとう。君が追いかけているというのを部下から聞いてね。是非お礼をしなければと思って、待ち伏せていたんだ」
 あいみの目の前の曲がり角からにゅっと姿を現したのは、例の白髪グラサン嫌味男だ。
 彼はあいみに底の知れない笑みを向けると、手にした缶コーヒーに僅かに口をつけながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 ちなみに缶コーヒーは、当然ブラックだ。
「よ、用事を思い出したっす! お礼はまたの機会にお願いするっすよ!!」
 さっきまでの信念を一瞬で忘却の彼方にかなぐり捨て、片手をしゅたっと上げて、来た道を引き返そうとするあいみ。
 だがその退路は、わらわらとどこからともなく現れた黒服集団によってすぐさま塞がれた。
「そんなに邪険にしないでもらいたいね。僕としても、『イル』さえ手に入れば危害を加えるつもりは無いんだから。なんなら退屈凌ぎをさせてもらったお礼に、お茶でも奢らせてもらいたいくらいだ」
「イーちゃん!?」
 白髪の放った『イル』の言葉に、あいみが当初の目的を思い出す。
「イーちゃんをどこにやったっすか? まさか兵器だからって人権を無視して、××の××を体の中に埋めこんだり、××××の慰み物にするために××させてるんじゃないっすよね!?」
「い、いや……。そんな放送禁止なことをするわけないよ。あれは僕にとっても大切なものなんだからね」
 あいみのピーな発言にさすがに顔をしかめながらも、白髪が答える。
 同時に彼はあいみの退路を断った黒服たちに視線を向けると、ずれ落ちかけたグラサンを指で押し戻して、言葉を続けた。
「それに、『イル』はたった今回収したところだ」
「そ、それが……」
 白髪の言葉に、黒服たちの内の一人が怯えたようにびくびくと彼の方に進み出た。
「それが……逃げられてしまいました」
「…………」
 その報告に、一瞬辺りが沈黙する。
 次の瞬間――乾いた音と共に、進み出た黒服の男の額に小さな穴が穿った。
 突然の銃声に、あいみだけでなく黒服集団も顔を蒼白にして後ずさる。
「……ひょ、氷堂さん! 違うんです! 我々は確かに『イル』を捕獲したんですが、突然むやみに爽やかな奴が現れて。そいつが滅法強い奴で……」
 言い訳を始めた黒服の男も、続けて放たれた銃弾に額を貫かれて、どさりと地面に倒れ伏す。
 二人を一瞬で殺した白髪は、それでも怒りが収まらないのか、肩をわなわなと震わせ噛み砕きそうなほどの勢いで歯噛みした。
「……アルべドの野郎ぉ!! また僕の邪魔をするつもりか!? あれは――『カドウケウス』は、てめぇだけのもんじゃねぇだろうがぁ!」
 さっきまでの丁寧口調はどこへやら、意味不明な言葉を並べ立てて激昂する白髪。
 もはや彼に口を挟む者は無く、怒りの収まらない彼の怒声だけが、昼間の平和なはずの通学路に虚しく響き渡っている。
「畜生がぁ! いつもいつも僕の邪魔ばかりしやがってぇ。こんなクズ共に、何の未来を視る!? クズ共を粛清するための、『カドウケウス』 そのための、僕らじゃなかったのかっ!?」
 そこまで叫んでから、唐突に白髪は黙り込んだ。
 今度は彼の荒い息遣いだけが、辺りの空間を支配している。
「じゃあ、お取り込みみたいっすから、あいみはこの辺で……」
 その中をこっそり立ち去ろうとするあいみ。
 だがもちろん、見逃してもらえるはずが無いわけで。
「小娘っ!」
「は、はいっす!!」
 背に投げかけられた白髪の言葉に、あいみは思わず体を硬直させ返事を返した。
「どうやらアルベドは、貴様のようなダメギャルに希望を抱いているようだが……。分かっているな? 次に僕があれを奪いに行った時。もし邪魔をすれば、命は無いものと思え。自分の命と、他人の運命――テンビンにかけるほど愚かではないと、今は一応理解しておいてやる」
 それだけを一方的に言い放つと、白髪は他の黒服たちを促して、早々とその場を去っていった。
 足音が完全に消え去さるのを待ち、振り返ったあいみの目の前には、死んだ二人の黒服たちの姿すらない。
 おそらく彼らが運んでいったのだろう。
 目の前に残るのは、白髪の投げ捨てた缶コーヒーの缶だけだ。
 地面に転がったそれからは、黒色の液体が、まるで「不吉」の象徴のようにアスファルトの上をじわりじわりと広がっている。 
(あいみは……そこまで馬鹿じゃないっす)
 それを見据えながら、あいみは胸中で呟きを洩らした。
 同時に彼女の脳裏に、出会ってからほんの少しの間のイルの――だが、様々な表情が浮かんでは消えていく。
 レストランで助けてと悲痛な顔で訴えたイル。
 空き地で初めて笑顔を見せたイル。
 淡々と自分の正体を話したイル。
 唇を重ねた瞬間の戸惑った顔のイル。
「イーちゃん……」
 声に出して呟いたあいみの声は、僅かに吹き抜けた風に流され、静かに大気の中に溶けていく。
 学校の方からやっと追いついた濫子の姿が見えたが、あいみはそれにすら気付けず、ただ呆然と青く広がる空を仰いでいた。