WILL 3
作:アザゼル





☆ 第二話「シルシ」


 テーブルの上に並ぶのは昨夜の豪勢な手作り料理ではなく、コンビニで適当に買われた惣菜や缶詰の山である。
 出来合いのパスタに、インスタントスープ。
 焼き鳥の缶詰に、デザートはモモ缶――
 その寂しい食卓を囲むのも、イルとあいみの二人だけだ。
「……」
「……」
 並べられたそれらを、無言で黙々と口に運ぶ二人。
 静寂の中、お互いが口の中で咀嚼する音だけが虚しく響いている。
(イーちゃん……)
 プラスチックのフォークでパスタを突つきながら、あいみは焼き鳥のタレに悪戦苦闘しているイルを上目遣いで盗み見ていた。
 浅黒い肌と、深い漆黒の瞳。
 瞳と同じ艶やかな黒髪と、口元の小さなほくろ。
 一度見たら誰もが愛でるような容姿の彼だったが――事実、高校に連れていった彼は、その日に女子生徒たちのアイドルになっていた――あいみが惹かれたのは、そういう見た目だけの意味ではない。
 もっと根深い――言うなれば、彼の「魂」のようなものに惹かれたのだ。
 深い絶望と、淡い未来に、それでも何かを託している魂の匂い。
 それは彼があいみにレストランで助けてと懇願した時――初めて視線を交錯させた時に、感じたものだ。
 きっかけになったのは、陽の前でかっこを付けたかったことかもしれない。
 でもそれだけでは無いはずだというのも、彼女は理解していた。
 ただ――
(それでも自分の命とイーちゃんの運命を、同じ秤にかけられるほどいい奴じゃないんすよ……)
「あいみさん……?」
 いつの間にか思慮に耽っていたあいみを現実世界に引き戻したのは、イルの不思議そうな声だった。
 声に気付き、同時にフォークから転げたパスタがテーブルの上に散乱しているのに気付いたあいみは、慌てて指でそれを摘み上げると躊躇なく口の中に放り込む。
 もぐもぐと口を動かしながら、曖昧な笑みを浮かべるあいみ。
「……」
 そのあいみを、しばらくの間イルはじっと凝視していた。
 イルの瞳に映るあいみの表情は、彼が見つめている間に、刻一刻と変化していく。
 慈愛、憐憫、焦燥――そして、後悔。
 彼女が何に対して後悔しているか、それは今まで幾度となく同じ眼差しを浴びせられてきたイルにとって、容易に想像がつく。
 後悔の理由。
 自分を助けた――自分に関わった、こと。
「やっぱり――」
「どうしたっすか?」
 何か言いかけたイルに、あいみが聞き返した。
 その時には、彼女の表情はすっかりいつも通りのものに戻っている。
 イルはだからその先の言葉を続けるのを止め、口の端についた焼き鳥のタレを手で拭うと、先のあいみと同様に曖昧な笑みを浮かべるだけに留めた。
「何でも無いです。それよりあいみさん。頬っぺたに麺が付いてるですよ?」
「マジっすか?」
 イルの指摘を受け、大げさに驚きながら、あいみがオーバー過ぎるアクションでぺたぺたと自分の顔を手で探り始める。
 だがその光景は、一向に売れないお笑い芸人が壇上で客席との温度差を何とか埋めようと無駄にはしゃいで、さらに温度差を広げる悪循環に陥っているのと同じ、空々しい虚しさがあった。
「……んじゃ、そろそろ片付けて寝るっすか」
 さすがに温度差を感じたのか、頬に張り付いた麺を指で払いながら、あいみが立ち上がる。
 同時に立ち上がったイルは、しばらく片付けをするあいみをじっと見据えていた。
 その視線に気付かないのか――或いは気付きながら気付いてない振りをしているのか、黙々とテーブルの上の残り物をコンビニ袋に放り込んでいくあいみの表情は、ぴくりとも変化しない。
 白髪に脅され、彼女自身これからイルにどう接していいのか戸惑っているのだ。
 歩み寄らなければ、失った時の悲しみは少ない。
 だが良心の呵責や、陽の手前や――何より惹かれてしまった自分の思い自体を否定することに、彼女は悩んでいた。
「……」
 テーブルの上をすっかりと片付け、あいみがイルのいた方を振り返った時、そこにイルの姿は無かった。
 だが視界の中に残る彼の残滓は、否応もなく彼女の心のどこかに痛みを訴えかける。
 痛みはズキズキと間断なく彼女を責め続けたが、あいみは敢えてそれを無視すると、拳を軽く握り締めてゆっくりと自分の部屋へと足を向けた。


 イルと「彼女」は名も無い小さな街の、うらぶれた裏路地に逃げ込んでいた。
 二人とも身に纏った衣服は長い逃亡生活のせいか、灰に突っ込んだように薄汚れていて、遠目から見るとまるで二つのぼろ雑巾が突っ立っているようである。
 二人が路地に逃げ込むと同時に、通りの向こうを数人の黒服たちが走り抜けていった。
「……行ったみたいね」
 その黒服たちの姿が完全に視界から消えるのを待って、「彼女」が安堵のため息と共に小さく口を開く。
 エメラルドグリーンの瞳と、イルと同じくウェーブのかかった長い金髪。
 歳は二十代後半――といったところか。
 「彼女」がイルと出会ったのは、イルが研究所を逃げ出して最初に流れ着いた国の、今居る場所と同じような小さな街の中だった。黒服たちに捕まりそうになっている彼を、「彼女」が機転を利かして助け出したのが始まりだ。
 その時から約半年――
 二人は今まで共に様々な国を渡り歩いて、執拗な追跡の手から逃れてきている。
 「彼女」がどうして何もかもを捨ててまで、逃げ切れない逃亡などという、不毛な行動をイルと共にしているのかは分からない。それはきっと誰にも分からないことで、彼女自身に聞いてすら明確な解答などは出てこないだろう。
「――さん」
「どうしたの、坊や。お腹でも空いたのかしら?」
 見上げるイルの弱々しい呼びかけに、「彼女」は今の今まで命の危険から逃げていたことなど微塵も感じさせない軽い口調で答えた。
 不安に怯えていた漆黒の双眸は、「彼女」のその語調に僅かに安心したように細まる。
「ううん。違うです。ただ……」
「それ以上は言わなくていいわ」
 イルが言いかけた台詞を、「彼女」はきっぱりと遮った。
 彼の言う台詞はいつも同じ、「彼女」に対する謝罪の言葉であることを知っていたから。
「坊や。私は私の意思で、あなたを助けたいの。あなたはまだ守られるべき子供だし、そして――」
 言いながら背を屈め、包み込むようにイルを抱きしめる「彼女」。
 金色の長い髪がイルの肌を優しく撫で、こそばゆいような、心地良いような顔をした彼の耳朶に、「彼女」の言葉の続きが囁かれる。
「そして、その価値があなたにはあるの」
「……」
「まだ分からなくていいわ。でも、いずれ坊やにも私の気持ちが分かる時がくる。そう思える相手に、きっと出会える――」
 正直にイルにはその時の「彼女」の言葉の意味は、難解過ぎて理解できなかった。
 ただ無条件に温もりを与えてくれる者に、彼は戸惑いという形でしか感情表現が出来ないでいた。だがそれはそういうものを他人から与したことの無い彼には仕方がないことで、「彼女」にもそれはよく分かっていたのだろう。
 もう少し長く時が続けば、或いはイルに「彼女」自身が教えてあげることも出来たかもしれない。
 だが――
「見つけたぞっ!」
 荒々しい声は、裏路地の入り口から二人の耳に轟いた。
 同時に発砲音が二度、続けざまに放たれる。
 一発目は「彼女」の近くの地面をえぐり――二発目は正確に彼女の胸を後ろから捉えた。
「――さん!?」
 エメラルドグリーンの目を見開き、ゆっくりと自分に倒れかかってくる「彼女」を必死に抱き止めるイル。
 口の端から零れ落ちた真紅の血が、彼の頬にリアルな熱を伝えた。
「……ぼ……うや。逃げな……さい!」 
 腕の中で息も絶え絶えの「彼女」が、最後の力を振り絞って言葉を紡ぎ出す。
 白い肌はさらに白く、さっきまであったはずの温もりが急速に冷えていく。
「で、でもっ!!」
 これからもずっと一緒にいるだろうと思っていた「彼女」の突然の死に、イルは生まれて――というよりも造られて初めて、激しく取り乱した。
 どうしてなのか。
 どうして自分を助けてくれたこの優しい人が、殺されなければならないのか。
 そんな、世界全ての不条理を呪う声が彼の心の奥底で生まれる。
「坊や……」
 だが生まれかけたイルの中の黒い声は、「彼女」の、もはや空気の洩れる音に近しいほどの弱い声と、頬に添えられた柔らかい手によって淡雪のように溶かされた。
 それが結果、世界の寿命を延ばすことになったことにはもちろん「彼女」は気付かない。
 「彼女」はただ、真摯に彼に思いを伝えただけだ。
「逃げなさい。あなたが今ここで捕まれば、私があなたといた時間が全て無駄になるのよ。私がここで死んだことも無駄になってしまう。坊やは……私が生きてきたことを、無駄にするつもり?」
 見事な理論のすり替え――全くな詭弁である。
 だが、それを理由にしなければ、間違いなくイルは最期の時まで「彼女」の側を離れなかったはずだ。例えその後に自分の身が捕われ、再び地獄のような苦悶の時を過ごすことになろうとも。 
 だから「彼女」は頬に添えた手にさらに力をこめて、言葉を続けた。
「……行きなさい、坊や!!」
 その手にこめられた思った以上の力と、血を吐くような「彼女」の激昂に、イルは弾かれたように駆け出す。
「逃がすなっ!」
「多少目立っても構わん! 絶対に捕えろ!!」
 後ろで黒服たちの怒声が響き渡るが、イルは一切後ろを振り返らなかった。
 もし捕まれば――それこそ何もかもが水の泡であることを、彼は悟っていたから。
 だからただ無心に彼は走り続けた。
 どこをどう走っているのかも分からず、自分が一体何のために走っているのかさえ頭で考えられなくなってきたが、それでも必死に走り続けた。 
 だが、所詮は幼い少年の脚力。
 追っ手たちの追跡の手は、彼のすぐ側まで迫ってきていた。
 一人の黒服の手が、イルの背に微かに触れる。
 瞬間――
 彼の体は翼を生やした鳥のように、突然宙へと舞い上がった。


「……っ!?」
 がばっと跳ね起きたイルの視界に飛び込んできたのは、ぼんやりと輝く白い天井――この間までは未知で、すでに既知となったあいみの部屋の天井だ。
 全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、その濡れた体にクーラーの風が当たり、イルはぶるっと身を震わせた。全身は震えるほどに冷えているのに、胸の奥は今見た夢のせいか激しく熱を帯びている。
「――さん」
 夢の中の「彼女」の名を口に出して呟くイル。
 その彼の耳に、二段ベッドの上で眠るあいみの静かな寝息が聞こえてきた。
 彼女も何か夢を見ているらしく、寝息と共に苦々しい口調で「あいみはそこまで馬鹿じゃないっす」とかなんとかいった寝言を発している。
 意味はもちろんイルには分からないが、楽しい夢でないことはその口ぶりから容易に想像でき、それが自分の存在のせいではないかという、ネガティブな発想を彼に連想させた。
(やっぱり……)
 小さなその手を弱く握り締めながら、イルが胸中で呟きを洩らす。
 台詞の続きは現実の声となって、狭いあいみの部屋にこだました。
「やっぱり、僕は『イル』です――」


「――相変わらず、イル君人気はすごいわね」
 校内の中庭。
 照りつけるような日差しの中で、あんパンをかじりながら濫子がぼそりと呟きを洩らした――と同時に、ベンチの自分の隣に腰かけるあいみの横顔をそっと盗み見る。彼女は別段いつも通りの顔つきで、イルを囲む女子生徒の集団にぼんやりと目を遣っていた。
 そう――別段いつも通り何も変わらない表情。
 濫子はだが、彼女のその顔にほんの微かにかげる不安のような色を感じ取っていた。
「それにしても、学校というのはどうにしても閉鎖的な空間よね。昨日のあの事件も、チエコは銃で撃たれたっていうのに、結局学校は警察とかには届けなかったみたいだし」
「……そっすか」
「まぁ、そんなことが周知になれば、来年の受験生もぐっと減るだろうからねぇ。何て言うか、学校にしてみれば死活問題とか?」
「そっすね……」
「……」
 感じ取ってはいたが、濫子は敢えてそこには触れない。
 あいみの返事はそっけなく、心ここにあらずといった感じで、ただ口先だけで濫子の言葉に反応しながら、じっと視線はイルの姿を追っていた。
 イルの方は数人の女子生徒に可愛がられたり、弁当のおかずを食べさせてもらったりしながら、しかしこちらも心ここにあらずといった風にぼんやりと彼女たちの間で立ち回っている。
「ま、チエコも大事にはならなかったし。イル君は無事に戻ってきたし。とにかく、一応はめでたしなんだからさ――」
「めでたしめでたし……すか」
 濫子の言葉を口の中で吟味するように繰り返すあいみ。
 その含みのある言い方に、さすがに彼女は少し苛立ったように顔をしかめた。
「らしくないわね、あいみ」
 同時に思ったことを口に出しながら、残りのあんパンを無理やり口の中に押し込み、すっくと立ち上がる。
「もっとお気楽なのがあなたのモットーでしょ? イル君を助けたのだって、カッコつけたかっただけなんでしょ?」
「そ、そうっすけど……」
「思いつめるような使命とか、宿命とかじゃないんでしょ?」
「……」
「それでもね。私は嫌いなのよ、中途半端なのは。カッコつけるなら最後までカッコつけて見せなさいよね」
 それだけを吐き捨てるように言い放つと、さっさと濫子はどこかに歩いていってしまった。
 残されたあいみは校内に消えていく彼女を、やはりぼんやりと見据えながら、小さく口の中だけで呟きを洩らす。その呟きは誰に向けて放たれたものでもなく、音にすらならずに口内で小さく反響しただけだ。
「……カッコつけるのに命をかける奴なんて、いないっすよ」


 二つのシルエットは極端だった。
 いやに細長くまるで枯れ木のような影と、極限まで膨らませたバルーンのような影。
 それら二つの影は細い路地の曲がり角で、ぼそぼそと何か喋り合っている。
「……だからこれ以上待たせたら、氷堂さんは間違いなく俺らを消してしまうぞ?」
「あ、あにきぃ。じゃあ、おでらはどうすればいいぶー」
「ふん。相変わらず頭の悪い奴だな。そんなもの決まっているだろう? 俺らが捕まえればいいのさ。あのイルとかいう小僧を」
「さ、さっすがあにきぶー。頭の冴えが半端じゃないぶー」
「ぶーぶーうるさい! 感心してる暇があれば、お前は辺りを見張ってろ!! そろそろ学校とやらが終わる時間らしいからな」
「はいぶー」
 その脳の足りなさそうな喋り方をする横に長い方の影は、体躯に合ったのっそりとした動きで路地から身を乗り出した。同時に彼にとってはひそやかに――だがどこから見ても目立つ大げさな身振りで、路地の左右を見渡す。
 その彼の視界に、路地の向こうから歩いてくる二つの人影が映った。
 強い日差しを浴びたアスファルトからの熱のせいか、人影は蜃気楼のようにぼんやりと揺れている。
「あ、あにきぃ!」
「声が大きいぞ、ぶた!」
「で、でも……」
 細長い方に叱咤されて、みるみる声を小さくするぶた――もとい、バルーンな影。
 だが彼の視界の中では、その二つの人影はどんどん大きくなっていき、そしてそれが制服に身を包んだ女子高生と少年であると認識でき始めた頃、彼はまたおずおずと口を開いた。
「あにきぃ。やっぱり奴らが現れたっぽいぶー」
「な、何ぃ!? そんなことは早く言え、このぶたっ!!」
「さっきも言ったぶー」
 理不尽な縦長の怒りに、バルーンはぷっくらとした顔をさらに膨らませて見せた。もちろんそんな拗ねた仕草も、恐ろしいほど可愛くない。
「まあいい。とにかく……例の男が嗅ぎ回っている可能性もあるんだ。とっとと『イル』を回収するぞ」
「あの女はどうするぶー?」
「しらんっ! お前の好きなようにしろ!!」
 縦長は吐き捨てるようにそう言うと、こちらは体躯に合った鋭敏な動きで路地から反対側の路地へと移動した。あいみとイルがそこを通った時に、横長と――ちなみに彼らに名前などが付くことは無い――挟みうちがとれるようにという考えからだろう。
 何も知らない二人が、通りをどんどんその場所まで歩いてくる。
 照りつける夏の太陽の日差しを浴びて、横長の破裂しそうな顔面から滝のような汗が地面に滴り落ち始めた。それは熱をもったアスファルトに落ちると同時に、蒸発しては気化していく。
 ジュウジュウと、焼けた鉄板の上のような音が小さく鳴り響く中――
 遂に二人がデコボココンビの身を潜める場所まで辿り着いた。
 まず最初に飛びかかったのは、もちろん縦長の方だ。その痩身の体をバネのようにしならせて、イルの体を背後からがっしりと締め上げる。
「イーちゃんっ!?」
 突然の襲撃に驚きながらもとっさに反応したあいみが、手をイルの方に差し伸ばそうと身を翻す――が。
「きゃっ!」
「ぶー」
 続けて路地から飛び出した横長バルーン男に、今度は彼女の方ががっしりと捕えられてしまった。
 横長のブヨブヨとして脂ぎった指が、あいみの両腕に食い込む。
 その感触の気持ち悪さに、思わず彼女の全身が総毛立った。
「は、離すっすー!!」
「駄目ぶー」
 横長の力は男のものである――というだけでなく鍛えられているのか、意外なほど強かったので、体力も根性もないただの女子高生であるあいみに振り解くことなどはできそうもない。
「やめるですっ! あいみさんを離すです!!」
 イルの必死の叫び声が、辺りにこだまする。
 だがすぐにその口は、後ろから羽交い締めにしていた縦長の手によって塞がれてしまった。それと同時に、縦長が腕の中のイルに向けて嘲るような口調で口を開く。
「くっくっく。殲滅型兵器さんよ。これはあの時と同じような光景じゃないか? ん?」
「――!」
「あの時の女も、お前に関わっちまったばかりに酷い目にあったんだよなぁ? まあ、あれだ。結局お前は誰かと関わるだけで、こうなっちまうってことだ。呪われてるんだよ、お前は」
 その言い方には容赦がない。
 無論、あいみには縦長が何を言っているのか良く分からなかったが、ただ一つ――それが酷くイルを傷付けているということだけははっきりと理解できた。
「イーちゃんを虐めるなっす! この――枯れ枝おばけ!!」
「か……かれえだ?」
 縦長の額に、ピシッと青筋が浮かび上がる。
「枯れ木は山をにぎわせるのが仕事っす! イーちゃんを虐めるなんて、枯れ枝――もとい、脇役失格っす!! 脇役は脇役らしく、道の片隅でほっそりひっそり立っていればいいっす!」
 だが一度口をついて出た罵倒の言葉は、長年せき止められたダムの崩壊が如く、留まることを知らない。
 その間にも、縦長の顔はどんどんと朱に変色していく。
「枯れ木役なんか、どうせ学芸会でも人数合わせに仕方なく作った端役中の端役っす! イーちゃんみたく主役になるために生まれてきた人間とは違うことを、さっさと悟るっすよ! ほら、分かったら――」
「……殺れ」
 なおも勢いづくあいみの暴言を、縦長は静かな口調で遮った。静かだが、そこには明確な殺意が含まれていて彼女の口はぴたっと止まる。
「犯っていいぶー?」
「好きにしろ」
 短いやり取りが、本人の意思と無関係のところで展開される。
 そのやり取りはあまりにも一方的で、あいみには口を挟める余裕など与えられなかった。
「見ておくんだな、殲滅兵器『イルネス』よ。お前をかばった人間の、愚かな末路を」
 縦長の――そろそろこの言い方もどうかと思うのだが――その言葉を合図に、横長はあいみの制服の中にするりと脂ぎった手を差し込んだ。
 ぞくりと、悪寒があいみの全身を駆け巡る。
「――い、いやぁっ!!」
 それは女として生を授かって、一番味わいたくない感触。
 だが一方的でおぞましい行為は、彼女の悲鳴など歯牙にもかけず――というよりもむしろそれを調味料として、留まることを知らない。
「や、やめるです! やめるですよ!!」
 目の前で展開される光景を必死に食い止めようと、イルがあらん限りの力を振り絞り、叫び、そして縦長の手を振り解こうともがく。
 だがイルのあらん限りの力は、大の大人で訓練を受けた男の前には圧倒的に及ばない。
 焦燥感だけが空回りを繰り返す。
 通りにはまるで計ったかのように人通りはなく、助けは期待できそうにも無かった。
「若い肌はスベスベぶー」
「やめてぇ!!!」
「やめるですっ!!」
「ははは! これで分かったかぁ!? 所詮お前は兵器。お前に寄る人間全てに災厄――イルをもたらすだけの存在だということが!」
 四者四様の叫び声や罵倒が交じり合い、熱にうかされた世界に虚しく響き渡る。
 縦長の狂ったような笑い声と共に、横長のあいみへの暴行は拍車をかけて増長していき――やがて彼のごつくぶよついた手が、彼女の衣服をあっさりと縦に裂いた。
 絹が引き裂かれる嫌な音。
 同時にイルの中で、何かが弾け飛ぶ音が響いた――気がした。
「うわぁああああああ!!!!」
 幼いイルの口から吐き出される、信じられないようなボリュームの雄叫びがその場にいた三人の鼓膜を震わせる。
 そして雄叫びと同時に、奇妙な現象が縦長と横長のデコボココンビを襲った。
 現象を引き起こしたのは、目に見える何かではない。
 ただ中空を波紋のように伝わったそれは、あいみだけを避けて、細長いのと丸いのの体だけに異変をもたらす。
「う、な、なんだこれは……!?」
「か、体が消えていくぶー!」
 二人の言葉通り、二人の体は腕の部分からまるで魔法にかかったように細かな粒子となって掻き消えていった。それはこの世に起こりうるどんな現象にも当てはめることが出来ない、奇妙な現象。
 さっきまで悲鳴をあげていたあいみも、呆然となってその光景を眺めていた。
 その間にも、二人の体はどんどん細かな粒子となって空に散っていく。
「消えるぶー!!」
「ま、まさかこれが……!」
 最後に縦長が何かを言いかけたが、その言葉の残滓すらも何もかも、最初からそこに存在していなかったが如く消え去ってしまった。
 後には地面に力なく腰を下ろすイルと、まだ呆然としたままのあいみだけが残され――


 それらの光景を、通りのかなり離れた場所で見続けていた人物が一人いた。
 アッシュブラウンの髪を温かい風になびかせた青年。彼は通りの向こう側の騒動が落ち着き、静寂を取り戻す頃、誰にともなしに小さく呟きを洩らす。
「単体に影響を及ぼす『カドウケウス』の力か。公平であるべき断裁の力には、生まれてはならない力だ。彼女らに残された時間も後僅か――というわけだな」
 言葉の意味は、彼以外の誰にも理解されないものなのだろう。
 だがその声の響きは少し寂しそうで、そしてどこか憂いを帯びていた。


 イルは、すっかり見慣れたあいみの部屋の天井を、静かにぼんやりと見つめていた。
 思考はさっきからずっと停止している。
 何も考えていないのではなく、何も考えられない――そんな状態。
「僕は……イル」
 ぽつりと呟いた声は、無機質な機械が発するような冷えた声だった。
 イル――災厄。災難。災い。
 彼は自分の名の意味がもちろんそこからきていることは、とっくに気付いていた。創作者は彼を兵器として作ったのだし、どう考えてもプラスのイメージをもったネーミングを付けるわけもないのだが、ただこのネーミングはあまりにもそのまんまだ。
 生きていることが、災いにしか繋がらない。
 それでも彼は生きることを放棄するわけにはいかなかった。
 「彼女」が生きてきた意味を失わせることになるし、そして彼の死はそのまま起爆装置としての意味合いも兼ねていたからである。
 もしそうなったら――
 力を発動させた今なら、それはぞっとしない結果を容易に想像させた。
「イーちゃん」
 イルの停止していた思考を現実に引き戻したのは、耳の側で囁かれたあいみの声だ。彼が顔を声の方に向けると、そこにはなぜかキラキラと目を輝かせた彼女の顔があった。
「ど、どうしたですか?」
「ふっふっふ。やっぱりイーちゃんはすごいっす。イーちゃんはあいみの勇者様だったんすね!」
「へ?」
「あいみを救ってくれたから……だから」
 戸惑いの表情を浮かべるイルに、目を輝かせたあいみの手がゆっくりと伸びる。そしてその手は彼の小さな頭を抱きかかえると、ぐいっと強い力で彼の顔を彼女の方に引き寄せた。
 ――むっちゅうぅ。
 マウストゥマウス。
 この前のよりも断然に深く、そして濃厚なキス。
 動き出した思考が、今度は痺れたように止まっていくのをイルは感じていた。
「……だから、ごほうびっす」
 数十秒の長いキスの後、ようやく口を離したあいみは、そう言ってにっこりと笑って見せた。
 同時にもぞもぞと身体をイルの入る布団の中に潜り込ませる。
「イーちゃんはあいみを助けてくれたっす。だから、今度何かあった時はあいみがイーちゃんを助けるっすよ。そのためのシルシを付けるっす」
 布団の中で囁かれる声はくぐもって小さい。
 言葉の意味も、イルにはよく分からない。
 でも、この時イルは思った。
 この温もりを、決して失いたくないと――
「ひゃっ!?」
 そんな真摯な誓いをたてていたイルの身体に、衝撃が走る。
 ぴょこっと布団から出したあいみの顔は、いたずらっ子のような表情を浮かべていた。
「今日は乳首を開発するっす」
 とかなんとか。
 そんなことを言いながら、やっぱり危険な描写のまま夜は静かに更けていくのだった。















あとがき

 ようやく完成しました。
 長かったですねえ、ホント。
 このまま作者がどっかに逃げ出すのではないかと、びくびくしてました←おい
 さてさて、ストーリーの方も進んだのかどうなのか。全く進展が見られないし、これからどうなるんじゃって勢いですし、アザゼルは欲求不満なのか色々とアレだし(爆)
 まあ、とにかく。
 改行の件は彼も深く反省して訂正したようですので、どうぞ最後まで暖かく←ここ重要(笑) 見守ってやってくださいまし。
 でゅわ!