WILL 5
作:アザゼル





 ☆ 第四話「ケツダン」
 

 綾子と一登はタクシーから降りると、久方ぶりのマイホーム――ちなみにローンはまだ数十年先まで残ってはいるのだが――を見上げ、意味もなく感無量な気分に浸っていた。
「やっぱり我が家が一番、よね」
「わしもそう思ってたところだ」
 綾子の言葉に、一登が頷きながら答える。
 まあ、旅に出た大方の人間が思うようなことを口にしながら、二人はそのマイホームへと足を向け――
「……?」
「どうした?」
 玄関の扉の前で立ち止まった綾子に、一登が山のように抱えた荷物と格闘しながら語りかける。
「なんだか知らないけど、家の中から負のエネルギーが溢れ出してるような……気がするわ」
「負のエネルギー?」
 首を傾げて放った一登の疑問を無視して、綾子は鍵を外すと扉をゆっくりと開いた。
 家の中の空間は、彼女たちが旅行に出る前と何ら変わりがない。
 だが――そこには、何かが足りない気がした。
「……あいみちゃん?」
 玄関のすぐ側の台所に亡霊のように立ち尽くす娘の姿に気付き、綾子がなぜか語尾に疑問符を付けながら呼びかける。
 ――返答はない。
 というよりも、彼女はどうも綾子の呼びかけに気付いていない様子だった。
「あいみ?」
 もう一度呼びかけたところで、彼女は初めて気付いたようにゆっくりと自分の母親の方を振り返った。その顔には、綾子が一瞬ギョッとするくらい生気というものが抜け落ちている。そんなあいみを見るのは、綾子は初めてだった。
「……帰ってたっすか」
「え、えぇ。ちょうど今着いたところよ。あ、そうそう。お父さんが、あいみちゃんにお土産いっぱい買って来たわよ」
「あいみの大好きなマカデミアンナッツに、トーテムポールの置物ハワイ直産だぞ!」
 綾子の後ろから現れた一登が、両手に持ったぎっしりの紙袋を抱え上げて見せる。むろん我が娘のツッコミを期待しての台詞だったのだろうが……。
「ありがと」
 期待に反して、あいみは無感動にそれだけを口にすると、二人の間を通り抜けていこうとした。
 その娘の肩を、綾子が掴み引き止める。
「あいみちゃん。イルちゃんは?」
 問いかけに対し、あいみは身体を異常なくらいビクッと震わせた。そしてそのまましばらく無言で固まってしまう。
 綾子はかける言葉を見つけられず、娘からの返答をただ待つことしかできない。
 ちなみに一登は娘からのツッコミが無かったのがよほどショックなのか、買ってきたトーテムポールを台所のテーブルの上に寂しそうに並べる作業に没頭していた。
「……帰ったっす」
 言葉少なく、消え入るような声で答えるあいみ。
「帰ったって?」
「……」
 綾子が聞き返すが、あいみはもうそれ以上何も言うつもりはないのか、ただ押し黙ったまま背を向けて立ち尽くすのみだ。
 娘の肩をよく見ると、微かに小刻みに震えている。
 なぜかそんな彼女の様子を見て、綾子は自分の子がどこか酷く遠くにいってしまうような錯覚を覚えた。巣立ちの日を迎えた雛鳥を送る、親鳥の心境とか――
「あいみがそう言うんだ。帰ったんだろう。なぁ、あいみ?」
 いつの間にかトーテムポールの置物を並べ終えた――その作業に意味があったかどうかは別として――一登が、綾子の後ろからあいみに語りかける。
 あいみはそんな父を虚ろな眼差しで見上げながら、それでも小さく頷いた。
「……あいみ、ちょっとミランちゃんとこ行ってくるっす」
 そして、そのまま彼女は両親から逃げるように、家を飛び出していってしまった。
 残された二人は、娘の飛び出していった扉の向こうを静かに見据えている。不安げな眼差しで視線を送る綾子の肩を、一登はそっと優しく掴むと、いつものふざけた口調とはうってかわって真摯な声色で呟きを洩らした。
「――人は誰でも決断しなければならん時がある。それが例え過ちだったとしても、過ぎ去っていく過去に救いが無いと知っていても……それすらも自分自身の一部となるのだからね。そうやって、わしらも大人になってきたんだ」
「ええ……」
 肩に置かれた一登の手をぎゅっと握り締め、綾子は彼の言葉に小さく頷く。頷きながら、それでもやはり視線は不安げなまま、娘の『行く末』を見据えていたのだった――


 濫子のゴージャスな邸宅の前まできて、あいみはふと、自分が別に大して用事などないことを思い出した。ただイルのいない家と両親から逃げ出したくて、気が付くと足が向いていただけだ。
 呼び鈴に伸びていたあいみの指が、そのことを思い出すと同時にぴたっと止まる。
「……何をしてるっすかね、あいみは」
 自嘲気味ともとれる笑みを口の端に浮かべながら、独り言を呟くあいみ。だがそんな風に声に出して呟いてみないと、今その場で砕けてしまいそうなほど、彼女の心は不安定に揺れていた。まさか彼女自身も、イルの存在が自分の中でそれほど大きくなってしまっていたなど思ってもいなかったのだ。
 だからこそ――
 誰かにすがりたい気分で、あいみは濫子の所を訪れたのかもしれない。
「なあに暗い顔して、人の家の前で陰気に突っ立っているのよ?」
「ミランちゃん……?」
 顔を上げた彼女の前に、仁王立ちになった濫子が太陽をバックに現れる。
 どこかに出かける用事でもあるのかいつもラフなジーンズにTシャツといった格好を好む濫子にしては珍しく、薄いフリルのついたブラウスと黒いスカートという女の子らしい格好をしていて――その出で立ちに、あいみは思わずどぎまぎした。
「な、何でも無いっすよ。ちょっと近くを通ったから寄っただけっす。それよりミランちゃんは、これからお出かけっすか?」
「まあね。美形の王子様とデートってとこ」
 あいみの問いに、濫子はそれ自体にはまるで興味が無さそうに答える。年頃の女の子がデートを語るには、あまりにもそっけない口調だ。
「で、そんな令嬢みたいな格好ってわけっすか?」
 あいみが続けて今度はからかうような口調で問いかけたが、その問いに対して濫子はちょっと不機嫌そうに眉をひそめただけで何も答えなかった。おそらく、令嬢という言葉に反応したのだろう。彼女の父はこの街では知らぬ者がいないほどの企業の社長で、言葉通り彼女は令嬢に違いなかったのだが、そういう風に言われるのを濫子は極端に嫌っていたからだ。
 そのことを思い出し、あいみはすぐさまばつが悪そうに謝る。
「ごめんっす」
「いいわよ別に。それより、あいみの王子様は今日は一緒じゃないのかしら?」
「……」
「イル君がどうかしたの?」
 質問に応答のないあいみの様子に何か異変を感じ取ったのか、濫子はまるで責めるような口調で彼女に問いただす。
 だが、あいみは何も答えない。
 否――何も答えられなかった。
「……何かあったのね」
 一息ついて、濫子が無言の応答から導き出した答えを吟味するように呟く。同時に彼女は、手にした淡い色のピンクのポシェットからメンソールの煙草の箱を取り出し、一本口に咥えた。
 火を点け、肺に煙をゆっくりと吸い込みながら、俯いてしまったあいみを冷たい眼差しで見下ろす濫子。
 吐き出された煙が、辺りをぷかぷかと無邪気に漂っている。
「で、私に何をして欲しいの? まさか慰めて欲しい――なんて言うつもりじゃないでしょうね?」
「……あいみは、どうすれば良かったっすか?」
 容赦ない濫子の言葉に、力なく頭を垂らしたままあいみがぼそりと呟く。
 あいみは決して認めないだろうが、結局彼女は誰かに自分を許して欲しかったのだ。イルを見捨ててしまった自分に、誰でもいいから優しい言葉をかけて欲しかった。だがその相手に濫子を選んだのは、あいみにとって果たして良かったのか悪かったのか――少なくとも、濫子は欺瞞に満ちた優しさで相手を慰めるような人間ではなかった。
「前にも言ったでしょ。私は嫌いなの――」
 言いながら彼女はもう一度大きく煙を吸い込み、手にした煙草をアスファルトの地面に無造作に投げ捨てる。
「中途半端なのは嫌いなのよ。カッコつけたんなら、最後まで責任持って貫き通しなさい。それができなければ初めからくだらないカッコなんてつけないことね」
「……ミランちゃんにはわかんないっすよ」
「分かりたくないわね」
 震える声で反論したあいみの言葉を、濫子は即座に切り捨てる。同時に地面に投げ捨てた煙草をヒールで踏み潰すと、彼女はあいみ自身をも踏みつけるような冷然とした口調で言葉を続けた。
「分かりたくないし、それはあいみの問題。私には私の問題があるように、あなたにもあなたの問題がある。それに干渉するような馴れ合いを――私は少なくとも友情とは思わないわ」
「……」
 今度こそ完全に、あいみは押し黙ってしまった。
 濫子の言うことはいちいち正論で、だからこそますます彼女の心を追いつめる結果となる。世には必ずしも正論のみを欲する人間ばかりではないということを理解するほど濫子は大人でもなく、そしてまたそれも一つの答えであると割り切れるほどあいみも大人ではなかった。
 二人ともしばらくお互いに口を開かず、太陽が地面を焦がす音だけがじりじりと彼女らの耳朶を刺激する。
 そんな沈黙のヴェールを破ったのは、けたたましい車のクラクションだった。
「――時間ね」
 腕にした装飾時計に目を遣りながら、濫子が誰にともなしに呟きを洩らす。
 その時、クラクションを鳴らした一台の外車が、二人のいる辺りに狭い路地もお構いなしの速度で近付いてきた。路地幅ぎりぎりのその見るからにデラックス仕様な車は、二人のすぐ目の前でまるで見せつけるかのように急停車する。
 一瞬の間をおき車から出てきたのは、背の高いかなりなハンサムさんだった。
「ヤハ! 待たせたね!」
 ハンサムさんは濫子の姿を見つけると、嬉しそうに手を上げて歯をきらりと光らせながら笑顔を彼女に投げかけた。一昔前のメロドラマから飛び出てきそうな、少し時代錯誤な好青年ではあるが――ハンサムなのに間違いはない。
 だが、その青年の登場に一瞬濫子の表情が陰ったのをあいみは見逃さなかった。
「父の取引先の企業。そこの社長の息子よ。取引先とのパーティーで私のことを気に入ったらしいわ。正直気乗りはしないけど、扶養されている身だから父の命令には 逆らえないってわけ」
 あいみの視線に気付いた濫子が、口早にぼそぼそと説明する。
 だが青年が近付いてくると、彼女は曇っていた顔を瞬く間に溢れんばかりの笑顔に変え、青年に向けて微笑みながら口を開いた。
「そんなことないわ。あなたのような方と時間をご一緒できるんですもの。少しくらい待つのは、昂揚する自分を押さえるためにちょうどいいくらいよ」
「かわいいことを言ってくれるね、濫子は」
 言いながら濫子の手を取り、その甲に軽く口付ける青年。どうやら仕草まで時代を錯誤しているらしい。
「じゃ、行こうか。今日は君のために、オータニのスペシャルなレストランを予約してあるんだ」
「まあ、素敵ね」
 手を叩いて大げさに喜ぶフリをした彼女は、彼に勧められて車に乗りこむ前に、あいみの方にそっと身を寄せると耳元で小さく囁きを洩らした。
「――あなたの問題に決断を下せるのはあなただけよ。誰のためでもない。自分のために、しっかりと答えを選択しなさい」
「ミランちゃん……」
「どうしたんだい、ハニー。早く乗らないと、とっておきのフルコースが冷めてしまうよ?」
 先に車に乗り込んだ青年が、車の中から濫子を急かす。
 それに適当に相槌を返し、彼女はもう一度あいみの方を振り返ると、先の囁きとは打って変わって軽い口調で口を開いた。
「ま、後悔はしないことね。私たちが輝ける時なんて、ほんの僅かなんだからっ」
 それはまるで、自分にも言い聞かせているかのような言い方だった。
 残されたあいみは、低い爆音と共に去っていくその車をじっと見据え――通りの向こうに完全に車の姿が消え去ってしまうのを見届けると、やはり先までと何ら変わることのない虚ろな表情のままため息のような呟きを洩らす。
「……これ以上後悔なんて、できないっすよ」
 

 センター街のスクランブル交差点。
 休日も平日も関係なく人でごった返すその交差点の中に、こちらへ向かって歩いてくる陽の姿を見つけた時、あいみはなぜか不意に涙が溢れそうな自分に気付いた。もちろん無数の視線があるわけだから、実際にその場に泣き崩れるようなことはなかったのだが、ここがどこかもっと人のいない所であれば間違いなく彼女はその場に立っていられなかっただろう。
「陽……さん」
 まだ彼が声の届かない範囲にいるのを確認し、あいみは小さくその名を呟いてみる。つい数日前までは普通にデート――のようなものを繰り返し、何度も口にしてきたその名前が、なぜか今は酷くぎこちない響きをもって自分の中で反芻するのを彼女は感じていた。
 あの時と今で何が違うのだろうか。
 生まれた疑問に、だがあいみは明確な解答を見つけることができない。或いは答えが彼女の中で出ていたとしても、自身の贖罪の念から彼女は自らその解答に気付かないフリをしていたのかもしれなかった。
「やあ、久し振りだね」
「陽さん……」
 思いに耽っていたあいみの前に、いつもの爽やかな笑みを浮かべた陽がいつの間にか立っている。だが彼の目が本当は全然笑っていないことに、彼女はすぐに気が付いた。 
 ちょっと前の、恋に盲目な彼女ならおそらく気が付かなかっただろう。彼が実は初めから一度も本当の意味で、彼女に笑顔を向けたことなど無かったことに。そしてそれは、そもそも笑うなどという人間らしさから彼が程遠い存在の証だった。
 もちろん、少々おつむの弱いあいみにそこまでの勘ぐりは無かったのだが――
「どうしたんだい、今日は? 君からの誘いを受けるなんて、あの日以来だね」
「そ、そうっすね……」
 あの日が何を指しているかは言わずもがな。
 陽の言葉に分かり易く動揺するあいみを、彼は静謐とした眼差しで見下ろしている。侮蔑でもなく、憐憫でもない――ただただ湖面の水面のような眼差し。
 その視線は、だが俯いたあいみには窺い知ることはできない。
「あの少年は元気かい?」
 続けて放たれた彼の言葉に、彼女は先よりもさらに動揺し、びくんと身体を震わせた。
「い、イーちゃんは帰ったっす……よ」
「帰った?」
「……そう。イーちゃんは帰ったっす……」
「あるのかい、あの子に帰るべき場所が?」
 質問は詰問に近かった。
 あいみはその場から逃げ出したい気持ちを必死に押さえ、しかし何も答える言葉すら思いつかずに、ただ黙って陽の視線から逃げるようにじっとアスファルトの地面を見つめ続けている。
 周囲の雑踏が、酷く遠い彼方から聞こえてきているようだった。
 隔離された非日常の空間。
 始まったのは、あの日あの時あの場所で――少年が空から降ってきた時からだ。
(どうして、こんなことになったっすか?)
 今自分が置かれた――日常の延長ではありえなかった不条理な境遇に、彼女は恨みの言葉を心中で吐き出す。
 彼女が思い描いていた未来は、確かにあの日著しく軌道を変えた。
 イルに出会わなければ、彼女は危険な連中と関わることもなく、必死に決断を迫られることもなく、平々凡々と気楽な日常を今も生き続けていたはずだ。
「――俺は別にあいみちゃんに特別な期待をもっていたわけじゃない。君が引き金に選ばれたのは偶然でしかないし、そうでなければこれには意味がなかったからね。ただ、偶然の事象には必ず必然となる意味があるというのが俺の持論だ。あの少年が君と出会ったことには、きっと誰にも分からないような意味があったんだよ」
 陽の声も、あいみには周囲の雑踏と等しく遠くから聞こえていた。
 非現実な感覚が、彼女から思考するという気力を奪い去っていく――というよりも、彼女は自分の身の保全のために彼を見捨ててしまったあの時から、自ら思考することを止めてしまっていた――


「――まんざら、考えなしのダメギャルってわけでもなかったわけだね」
「……」
 対峙するあいみに、白髪はなぜか少し憂いを帯びた口調で口を開いた。
 早朝の強い日差しが、蒼天を白く染めている。
 あいみはさっきからじっと、白髪の顔を生気の抜けた顔つきで見据えていたが、それはただ単に横で物言わずに立ち尽くすイルから視線を背けるためだけであろう。
 彼女が理由も告げずにイルを連れ出そうとした時、彼は何一つ彼女に聞きはしなかった。
 だが――だからこそ、あいみにはもう彼の顔を見ることなどできるわけもなかったのだ。
「どうだい? 決意なんて、しょせん薄氷。覚悟の裏には、諦めるしかない冷たい海が広がっているだけだということが分かってもらえたかな?」
「……」
「だんまりか? 前の女はもう少し頑張ったと思うけどね」
「……」
「――ちっ」
 明らかな挑発にも乗ってこないあいみに、白髪はなぜか思い通りにいったのに、苛立ちをあらわに舌打ちした。舌打ちしてから、同時に彼はなぜ自分が苛立っているのかふと疑問を感じる。
(これで望みは叶ったはずだ。僕は願いの要を手に入れた。なのに、なぜ――僕はこんなに苛立っているんだ?)
「残念だったな、『イル』よ。これで貴様も分かっただろう? しょせん創造物が創造主に抗うことなど、徒労でしかないことが」
 生まれた疑念を払うように、矛先をイルに変える白髪。
 だがイルもあいみと同様に沈黙を守ったまま、漆黒の双眸を宙に虚ろわすだけだ。
 物言わぬ二人を白髪はしばらく耽るように眺めていたが、それもほんの一時の間だけで、やがて大きく嘆息を洩らすとイルの褐色の小さな手を引っ張り掴んだ。
「……約束は守ろう。もう貴様の前には現れない。これから僅かに訪れる最後の時間を有意義に生きるんだね」
 イルを引きずるように連れ去りながら、白髪はもう完全にあいみに興味をなくしたように、どうでもいいと言わんばかりの投げやりな口調で言い捨てた。
 そのあまりにも乾いた言葉が、あいみの心をずきりと突き刺す。
 去っていく二人に視線を送りながら、彼女はそれでもその姿が完全に視界の彼方に消え去るまで、イルが振り返ることに僅かでも期待して見つめ続けていた。
 だが、結局一度として少年が少女の方を振り返ることは無く、
「……イーちゃん……」
 あいみの視界の中から、彼らの姿が無常にもロストした時になって、彼女は何度も何度も押し寄せる後悔の念に押しつぶされるかのようにその場に崩れ落ちたのだった――


「誰も君を責めることはできないさ」
 陽は先からずっと口を開かないあいみに向けて、不精髭を撫でながら囁くように呟いた。耳朶に心地良く響く甘露のような囁きだが、それでいてやはり底冷えするような冷たさも兼ねている不思議な声色だ。
 だがそれすらも彼女の耳には届かないのか、沈黙を溶かすには至らない。
「責められるようなことでもないし、強制されることでもない。そうでなければ意味がないし、そうであるべきなんだからね――あの少年のハートのスイッチたる者には。だから俺はあいみちゃんには何も言わない。自分の感じるように、自分が思うように行動すればいいさ。君の親友の言葉を借りるなら、後悔だけはしないように、くらいかな? 俺が今の君に贈れる言葉は」
 まるで青春ドラマの年上の彼氏が放つ、使い古されたようなキザな台詞回しである。それをキザと感じさせないのは、おそらく彼にはあいみの印象を良くしようなどというそういう恋愛の駆け引きの延長上で物を言っていないからだ。
 もはや時間が無く、既に引き金が決まってしまっては他者を選定することもできない。
 だからこそ、今口をついて出たのは彼のその性質による本音の部分だった。
「残されている時間は、人生と同じように限られている。未来を紡ぐ無数の道から一つを選択するのは、その道を行く者のみだ。打算して道を選ぶ者もいれば、心に愚直に従う者もいる。だから君は君だけの、君にしか見つけられない道をよく考えて選ぶんだ――」
「……陽さんの言ってる意味が分からないっす」
 久方ぶりに開いたあいみの口から洩れたのは、弱々しくも彼女らしくない嘆きの言葉だった。
「それにもう、イーちゃんに合わせる顔なんてないっすよ……」
「それを決めるのは君か?」
「え……?」
 陽の台詞に、あいみははっとしたように彼の顔を見つめ返した。
「少年は君に別れの言葉を告げたのか? もし告げていないのなら、君との再会を彼は待っているのかもしれないね。或いは――」
 あいみを見つめ返しながら、陽はその顔にいつもの春風のような爽やかな笑みを浮かべると、言葉を続ける。
「或いは――その再会を信じているのかもしれない」
「そんな……」
 わけがない、と言葉を続けようとしてあいみは留まった。言葉にすればそれが現実となって、二度とイルと会うことができないような気持ちになったからだ。
 存在の価値は、失ってからでないと気付かないとはよくいったものである。
 彼女は今この瞬間になってようやく、自分を追いこみ、追い詰められて、そして結局離れていってしまった存在の大切さに気付いてしまった。
 ただただ純粋に――少女は少年に恋してしまっていたのだ。
 虚ろだったあいみの双眸に輝きが戻るのを見て、陽はそれ以上言葉を紡がずに背を向ける。もはや彼にはことの結末を見守ることだけが、残された仕事だった。そしてそれこそが観察者たる彼の――
「ケツダンを下せるのは自分だけ。なら、それはあいみの好きにしろってことっすね!?」
 何かを吹っ切ったような声色の彼女が振り返った先には、さっきまでいたはずの陽の姿がない。
 通りを行く人々が、突然大声をあげたあいみを物珍しそうに見つめていく。
 そんな中で、彼女は恥ずかしさに頬を赤らめながらも、決意の拳を軽く握り締めたのだった。


 もう一度、イルに会わなくてはならない。
 それは同時にあの白髪の男との再度の対決を意味していて、容易にいくことでないことだけは理解できたが――
 一体どうすればその対決に辿りつけるのか――手段があいみには思いつかない。
 白髪にイルを引き渡してからすでに丸一日が経っている。
 あの連中が例えまだこの街に残っているとして、一介の女子高生である彼女にその居場所を突き止める術は見つかりそうになかった。
「なあに、たそがれてんの? キャラじゃないわよ、あいみ」
 声は唐突に後ろからかけられた。
 振り返ったあいみの視線の先には、濫子が昨日と同じ令嬢ファッションで仁王立ちしている。
「ミランちゃん……。どうしてここが分かったっすか?」
「別にあなたを探して来たわけじゃないわよ。ただ、何となくここには足を向けただけ。言わせてもらえば、登校日でもないのにこんな所にあいみがいることの方が、場違いな気がするんだけれどね」
 あいみの疑問に答えながら、濫子は首を軽く回して辺りを――誰もいない学校の屋上を見渡した。
 日差しを遮る物のないその場所は陽光が直に降り注ぎ、立つ者の姿すら揺らめかせるほどの清々しい熱気に覆われている。
「……ま、人間が考えるにホームは近過ぎるし、かといって知らない場所は落ち着かないし――てわけね」
「深いっすねぇ」
 濫子の台詞に感嘆しながら、あいみはスカートのポケットからマルボロの箱を取り出すと一本口に咥えた。同時に見計らったように、その煙草の先端に火が灯る。差し出されたライターは、濫子のものだった。
「高そうなライターっすねぇ。あのキザなイケメンさんのプレゼントっすか?」
「ま、ね」
 自分のメンソールの煙草にも火を点けながら、濫子はその金のジッポを洋服のポケットに戻すと、煙と共に大きく嘆息を洩らした。端正な彼女の横顔は、心なしか疲れて見える。
「つまらないことやってるのは分かってるんだけどね。無下にもできないわけなのよ。とはいえ、もちろんこの身の操はなんとか守り通したけどね」
 言って、彼女にしては珍しくイタズラっ子のような顔でぺろりと舌を出して見せた。
 なぜか彼女のそんな表情がアンバランスで、あいみはおかしくなって吹き出す。
 初めはその態度に憮然とした濫子だったが、すぐに彼女もおかしくなって、あいみと一緒にけらけらと笑い出した。
「――で、ケツダンはできたの?」
 ひとしきり笑い合った後、思い出したように濫子があいみに問いかける。
「……」
 その問いかけに、唐突にあいみは真面目な顔に戻ると、濫子の顔を正面から見据え小さく首を縦に動かした。指に挟まれた煙草の先端が、灰になって地面へと落下していく。 
「陳腐かもしれないっすけど、やっぱあいみはイーちゃんと離れたくないっす。気付くのが遅かったけど、あいみはイーちゃんが好きっす。でも、今は彼に会う手段が思い浮かばない……」
 弱まっていく語尾の言葉に濫子が返したのは、優しい微笑みと頭を撫でるという行為だった。あいみの金髪をくしゃくしゃと撫でながら、彼女はまるで実の妹に語りかけるような慈しみをもって口を開く。
「気付く時に遅いも早いもないわ。大切なことは、気付くことそのものなのだから。人は生きていく上で数え切れないほどのかけがえのないことを、気付かずに終えてしまう。でもね――だからこそ、気付けさえすればそれがどんな叶わぬことに思えても、何とかなるものなのよ。そして出会いには必ず理由があるように……」
「あるように?」
「再会にも理由がある」
 濫子の言葉を受けて聞き返したあいみに、彼女が答えた瞬間。
 脳に直接響き渡るような甲高い音が、世界中に波紋のように広がった。
 同時にさっきまであんなに青々と広がっていた空の色が、真紅のヴェールを垂らしたように、禍々しいまでの血の赤に染まる。
「な、何!?」
「どうなってるっすか!?」
 唐突な世界の変わりように、二人は一様に驚きの声を上げる。
 ――そしてそれが、少女と少年の終わりにして始まり、始まりにして終わりの幕開けだった。















 あとがき

 やっと漕ぎ着けて、最終話まで後一回です(とはいえ、前もそんなことを言ってたような)
 なんだかストーリーは捻じ曲がっていっているのは、アザゼルの性格の故でしょうか?
 それにしても、本当に変わらず意味不明なお話ですなぁ(他人事)
 さぁ、次回――
 「破滅への葬送曲〜閉鎖世界の歌姫〜」
 乞うご期待!!(ぉぃぉぃ)