WILL 6
作:アザゼル





 ☆ 第五話「フタリ」


「な、何がどうなってるっすか!?」
 紅く染まった異様な世界を呆然と見渡し、同じ疑問を再度あいみは口にする。
 だがさすがの濫子も、この異常現象に対する解は引き出しに無かったらしく、あいみと同様呆けた表情で空を仰ぐことしかできない。
 夕焼け――などではない。
 時刻はまだ午前だし、この現象が例え夕焼けであったとしても、このような急激な変化は起こりえるはずの無いものだった。瞬きのする間に世界が血の紅に染まる気象の変化など、少なくとも日本では観測されたことがない。そして何よりも――たかが気象の変化では感じることのない異様な雰囲気を、二人とも肌でひしひしと感じ取っていたからだ。
「――始まったな」
 静謐で荘厳ささえ感じさせる声は、二人のすぐ後ろからかけられた。
 同時に振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか獅子崎陽が髪をかき上げながら、二人ではなく、変貌した空の彼方を透徹した眼差しで見据えている。そこにはこの怪奇現象に対する驚きは見られず、むしろそれを予見していたかのような静けさしか見受けられない。
「シナリオ通り……っすか?」
「死海文書ね」
「……どこの世界の話なんだい、それは?」
 あいみはさておき、濫子までもが意味不明な台詞を吐露するのに、さすがに陽は呆れたように彼女らに視線を移した。その眼差しがまず濫子を一瞬捉え、次にあいみを捉えた時――彼の双眸が僅かに細まる。
(なるほど、決意は既にできたというわけか)
 そこに何を見出したのか、胸中で納得の声を洩らす陽。
 だが彼が一人で何もかも分かったような顔をしているのを、良しとしない人物がいた。
「……今回もまた、肝心なことははぐらかすつもりなのかしら?」
 前回はぐらかされたことを揶揄しながら、疑問を口にしたのは濫子である。その口調には、先ほどあいみに乗って冗談を口にしたとは思えない真摯さが込められていた。あいみの親友として、ともすれば陽に敵対心すら抱き問いかける彼女のひたむきさに、陽は口の端を小さく吊り上げる。
「いや、確かに。君にも真実を知る権利はあるね」
 胸の前で小さく両手を上げて降参のポーズを作ると、彼はいつもの爽やかな笑みを濫子に向けた。
「とはいえ、時間はあまりにも無い。簡単に言うと、始まったのは世界の審判だ」
「世界の……審判?」
「そうさ。この世界は俺たちの創った、断裁の時を迎えたんだよ。創り出した試金石にかけられたのは、君たち人間全てだ。そして、試金石とは――」
「イル君、てわけ?」
「ご名答」
 濫子の出した答えに、陽は小さく拍手を送る。
 彼女は陽のそんな態度に忌々しそうに小さく舌打ちすると、今度は本当の敵愾心丸出しの眼差しで彼を睨めつけて、片手を振りかざしながら声を荒げた。
 ちなみに二人の会話から置いてきぼりのあいみは、興味なさそうに明後日の方を向いて煙草をふかしている。
「じゃあ、イル君はそのためだけの存在だって言うの? それで、あなたは高みの見物ってわけ!? 一体どれだけの存在だっていうのかしら、あなたは?」
「そうだね。確かに、俺たちはどれほどの存在なんだろうね」
 激昂にあてられながらも、陽の返した言葉はむしろ穏やかだった。
 それが皮肉や嘲りに彩られたものだったら、濫子の応答もまた変わったのだろう。実際に彼女は続けようとしていた罵倒の言葉を飲み込み、それでも睨めつけるような眼差しだけは彼を捉えたまま、しばらく思慮に耽るように黙り込んだ。
(それにしても……聡明な少女だ。まさか俺の言葉をそのまま信じ込んでいるわけではないだろうが、おそらく本質にあたる部分には勘付いているはず。こういう子がトリガーであれば――)
 そこまで考えて、陽は小さく頭を振った。
 断裁が公平かつ平等であるには、彼がそれを望むことは許されないことだからだ。
「……陽さん」
「ん?」
 濫子と同じように思慮に陥った陽を現実に引き戻したのは、二人の会話が終わるのを見計らっていたあいみのいつになく真剣な声である。彼に向けられた表情もその声色以上に真摯なもので、そこには覚悟にも似た決意の様相が見て取れた。
 屋上に流れた一陣の風が、彼女の金色に染められた髪を揺らす。
 前髪から見え隠れする双眸は強い意思の光を放ち、日の光にも負けぬ煌きを見せていた。
「どうしたんだい、あいみちゃん?」
 いつもの彼女とは明らかに違うその様相に、陽は顎の不精髭を撫でながら、優しく先の言葉を促す。
「私を、イーちゃんの元まで連れていってください」
「……俺が、かい?」
「はい」
 あいみの願い出に、陽は一瞬面食らったように聞き返したが、それに対して彼女はきっぱりと頷きを返した。彼が面食らったのは、彼女の台詞にではないだろう。原因は彼女の口調に宿る、前までの彼女からは考えられぬほどの明確な意思のベクトルを感じ取っていたからだ。
「最初は、陽さんの前でミランちゃんの言うようにカッコつけたかったからだけでした。でも今は違います。私は――私自身が、イーちゃんを助けたい」
「なぜ、俺なんだ?」
「イーちゃんと出会った時にも陽さんがいました。そして、今目の前にも陽さんがいる。出会いに理由があったのなら、きっと再会にも理由があるはずだから。そうっすよね、ミランちゃん?」
 突然話を振られた濫子は、それでもすぐに小さく首を縦に振る。
 陽が初めて会った時のあいみと、今のあいみ――
 彼は先の自分の思いを心中だけで恥じ、それから彼女に向けて片手を差し出すと、いつものいつもとは違う爽やかな笑みを浮かべた。本来なら彼の立場ではあり得ない、心根からの笑みである。
「俺にできるのは、彼の元に連れていくことだけだ」
「分かってるっす」
 差し出された大きな手を握り返しながら、あいみもニッと笑った。白い歯の零れる、少女に相応しい無垢な笑みだった。


「こ、これで行くっすか?」
「大丈夫。こいつは、空も飛べるさ」
 陽は言いながら、えらく古い旧式のバイクのシートにまたがって、あいみにも後ろに乗るように勧めた。
 彼女はだが彼の勧めにはすぐに応じず、疑わしい眼差しでバイクを一瞥する。
 元はパールホワイトだったカラーリングは時の流れに煌きをなくし、見る者が見れば良き年代物の渋みを、そうでない者にとってはただの薄汚れただけのイメージを隆起させた。もちろんあいみは後者である。
「少年が空から降ってきたのが、君の物語の始まりだ。それなら、ラストもそれ相応のシーンを演出しなければならない。空を駆るバイク――なかなかのクライマックスだとは思うんだけどね」
「あいみは、どうせなら翼とか付いた派手な奴が良かったっすよ」
 ぼてっとした厚めの唇を突き出し、彼女が文句を言った瞬間。
 先に轟いた甲高い悲鳴のような音が、再び世界に波紋が如く広がった。同時に空を染めていた紅が、さらに朱を強くする。
「もう、時間がない。カドウケウスの杖は、一度世界のあり様を決めると戻ることは叶わない。さぁ、クライマックスの始まりだ――」
「世界の、っすか?」
 後ろのシートにまたがったあいみが、陽の腰に手を回しながら楽しそうに呟いた。
 彼はあいみがシートに着座したのを確認し、これまたバイクと同様に年代物の幅広のゴーグルを装着すると、アクセルを吹かしながら口の端を大きく歪めて答える。
「君の、さ!」
「きゃっ!?」
 二人を捉えたのは、圧倒的な浮遊感だ。
 どういう構造になっているのかはこの際問題の外だが、加速なしに翼も持たないバイクが学校の屋上から空へと飛び上がるのは異様な光景である。物理法則を完全に無視したそれは、宙空を文字通り空を駆る天馬のように飛翔した。
「ひゃあぁああああああ!!!!」
「口は閉じておいた方がいいぞ。舌を噛むと痛いからね」
「きょほぉおおおおおお!!!!」
 陽の注意も耳に届かないのか、あいみは珍妙な――としか言いようのない絶叫を、空の上で迸らせ続ける。だが、どちらかというと彼女のそれは、ジェットコースターを楽しむ子供の叫びに近しいものがあった。この先で待ち受ける事態を想像だにしていないのか、或いはすでに覚悟を決めていて、過酷な運命に身を投じることを享受しているがゆえの開き直りなのか、彼女の能天気な今のはしゃぎぶりからは窺い知れない。
「行くっすよぉ!」
 拳を上げて叫んだあいみの台詞に呼応して、バイクがさらに一段高く紅の空を駆け上る。
 ――遠ざかっていく騒々しいバイクは、しばらくすると、やがて空の彼方へと掻き消えていった。
「……非常識ね」
 残された濫子が、バイクの消えた空の向こうに視線を這わせたまま呟く。
 その呟きはだが口ぶりの無愛想さからはほど遠く、祈りの響きすらも含ませて―― 


 あいみの視界に見えてきたのは、巨大な鉄の塔――東京タワーだ。
 赤い鉄塔は紅い空とあいまって、朧のように霞んでいるような、まるでそこにあるのにそこにはないような印象を彼女に与える。もしくは夢の続きとか――そういうあやふやなイメージ。
 空を駆っていたバイクは近付くにつれて段々と速度を緩め、タワーの展望室となっている幅広の部分の数十メートル手前で、完全に宙に停止した。
「……ここだな。どうやらニグレドは、ここを第二の生命の樹に見たてるつもりらしい」
「陽さん、あれは……?」
 物語の核心に触れそうな陽の台詞をさらりと放置して、あいみは展望室の一角を指差した。その指先が指し示す方向には巨大な窓ガラスがあり、外から丸見えの内部には異様な光景が広がっている。
 異様な光景を演出しているのは、展望室内の至る所に倒れ伏す黒服の男たちだ。
 男たちはすでに事切れているのか、ぴくりとも動きを見せない。
「あ、あれって……。イーちゃんを追いかけ回してた、黒服軍団っすよね?」
「そうだね」
「……みんな、お昼寝タイムっすか?」
「永遠に目覚めは来ないだろうけどね」
 恐い解答をさらりと口にしながら、ゆっくりとまたバイクを始動させる陽。
 バイクは徐々に展望室に向けて近付いていき、お互いが衝突しそうなほど接近した瞬間――まるで彼らを待ち構えていたかのように、窓ガラスの一部が円の形状に口を開けた。その口をゲートとして、バイクは易々とタワー内部へと侵入していく。
 展望室内のフロアーは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
 音のない世界と、地面に倒れ伏す黒服たちの姿が、この場所だけが世界から不気味に切り離された異空間であるかのような錯覚をあいみに与える。
「誰がこんなことを……」
 後部シートから累々と横たわる死体を避け身を降ろした彼女は、半ば呆然とした面持ちでそれらを眺めながら呟きを洩らした。
「ニグレドの仕業だ」
「あの、白髪嫌味男の?」
「ああ」
 まだバイクにまたがったままの陽が、あいみの洩らした問いかけに頷く。だがその口調には、目の前の非道な行為に対する人間的な憤りの色は含まれず、そのせいか彼女は僅かに嫌悪の色を顔に走らせた。
「あれにとったら、しょせんは偽装の一部でしかないからな」
「怪しい組織の仲間、じゃなかったすか?」
「そんなものは形骸に過ぎないのさ」
 肩をすくめ、陽はなぜか少し寂しそうに答えると、バイクのエンジンを始動させる。
 静寂の世界に、エンジン音がやけにけたたましく響いた。
「さぁ、時間だ。俺は君をここまで連れてきた。後は君が君のしたいと思うことを成せばいい。結果、世界が――」
 言いかけ、彼は唐突にそこで口を閉ざす。それから微苦笑を浮かべると、結局先の言葉は告げずにバイクを宙へ躍らせた。
 ――空へと飛翔していく陽のバイク。
 それが紅の彼方に消えるのを待たずに、あいみはその場からさらに上――イルのいるであろう場所へと、足取りを向け歩き始める。もはやお気楽な彼女にすら残された時間が少ないであろうことは、理屈ではなく、周りを包む世界の様相から本能的に理解できたから。
 或いは――クライマックスの足音が脳裏に警鐘を鳴らしたから。


「イーちゃん!」
「……遅かったね」
 あいみのあげた悲痛な叫び声に返答を返したのは、まるで彼女の来訪を重々予見していたかのような台詞だった。
 だが、彼女の視線は声の方には向けられず、ただひたすらに上方に注がれている。
 展望室のさらに上に位置する、通常は人の立ち入ることのできない吹きさらしのスペース。そこから見上げられるタワーの先端部位に、十字架に磔にされたキリストが如く、イルが縛り付けられている。ウェーブのかかった艶やかな黒髪が時折風に流されるが、本人は瞳を閉ざしたままぴくりとも動きを見せないので、遠目からは死んでいるのか生きているのか定かではなかった。
「安心していい。まだ、死んではいない」
 じっと見据えるあいみに穏やかな口調の言葉が、先の声の主から投げかけられる。
 そこで初めて彼女は、キッと声の主――白髪の青年の方に眼差しを向けた。
「イーちゃんを離すっす」
「一度は諦めたんじゃなかったのか?」
 憤りを押し殺したあいみの言葉に、皮肉めいた言葉を返す白髪。いつもの黒いグラサンから覗く彼の切れ長の眼が、あいみの双眸を観察するように捉えている。それは常人なら思わず臆して逸らしてしまうほど、不気味で静謐な眼差しだ。
 だが、彼女は逸らさない。
 むしろ睨みつける眼光の煌きは損なわれることなく、光を強めて彼女の意思の堅固さをより強く顕わしていた。
「交わした約束を破棄するつもりか?」
 それが無駄とは知りつつも、彼は会話を楽しむような感じで、声音だけは真摯な色を含めたまま問う。
「悪人との約束なんて、守る必要ないっす。大切なのは、大切な人との約束だけ。あいみはイーちゃんを守ると約束したし、そちらが先決。だから、離すっす」
「殺されてもか?」
 予期した返答に、用意した質問をさらに重ねる白髪。
 だがそれでも、彼女は一瞬の躊躇もなく返答を返した。
「殺されても、彼だけは助けるっす」
「なるほど……」
 白髪はきっぱりと言い放ったあいみが、彼に見えないと思っている位置で、何かを隠し持っているのにとっくに気が付いている。それはおそらく、ナイフとかそのような類のもので、真の意味で彼と刺し違えても構わないと彼女は考えているのだろう。もちろん彼女がどれだけ不意をついたところで、訓練された警官たちですら相手にならなかった彼と刺し違えるなど、到底不可能であることは明白ではあったのだが……
 それでも、命を賭ける理由がそこに存在する限り、それはあいみにとって決して愚行などではなかった。世には自分の命を鑑みる必要すらないほど大切な何かがあることを、彼女は既に知っている。
「今度の決意は、簡単には氷解しそうもないようだね」
「……」
「人がこれほどに変われるとは、まだまだ捨てたものでもないということか。アルベドはこれを僕に証明したくて、やっきになっていたのかもしれないね。だとしたら、その試みは成功したことになる。ただ……残念ながら、僕の願いは奴ほど崇高ではない」 
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くイーちゃんを解放するっす!」
 意図の取れない独り言にも似た白髪の口上に、あいみは苛立ちを募らせたように声を荒げた。だがその激昂とは裏腹に、彼女は冷徹な眼差しで彼の一挙一動に神経を集中させている。ここがタワーの最上部で、辺りに柵と呼べるものが存在しないという状況は、言うなれば隙を突きさえすれば――そして命を投げる覚悟があれば、彼女が彼と刺し違える可能性というものも出てくるはずだ。
 それが今、彼女を支配している考えの全てだった。
 この白髪との会話も全てはその道程でしかなく、内容などは彼女の頭の中に一切入ってきていない。
「分かった」
 だから彼が放ったその言葉の意味を、あいみはまるで理解できなかった。
「……へ?」
 一瞬間を置いて、彼女の口から間の抜けた声が洩れる。白髪が何に対して「分かった」と理解の色を示したのか、先の自分の台詞を必死に心中で反芻させてみるが、それがあまりにも予期していた事象からすっぱりと抜け落ちていたため、なかなかそこに思考を至らせることができない。
 そんなあいみの目の前で、白髪は指をぱちりと鳴らして見せた。
 つられるように、彼女の視線が軽快な音を奏でた彼の指に向けられる。
「君のその不動の決意に敬して、それは返却しよう――」
 もったいぶった言い回しの言葉と共に、あいみの背後でどさりと何かが地面に崩れ落ちる音がした。
 条件反射気味に、後ろを振り返るあいみ。
 その彼女の視界に映ったのは――
「イ、イーちゃん!」
 白髪がどのような手法を用いたのか、そこには先までタワーの先端部に磔にされていたイルが地面の上に横たわっている。
 彼女は慌てて駆け寄り、すぐさま褐色の細い四肢を乱暴に抱き起こした。身の軽い彼の身体を抱きながら気付けのために何度か揺さぶる内に、ぴくりと瞼が微かに動いたのを見て、再び彼女は少年の名を呼びかける。
「イーちゃんっ」
「……? あ……いみさん?」
 開かれた目の、濡れた漆黒の瞳が、自分を心配そうに覗きこむ少女の姿を捉えて、イルは遠い記憶の中から思い出したようにその者の名を呟いた。同時に少年の心の中でこれはきっと夢の中のことなのではないか、とかいう思いが泡のように生まれる。
 ――自分を助ける者など、世に存在するわけがない。
「良かったっす……」
 だがその生まれ出た思いは、強く抱きしめる腕の温もりに、生じた時と同様に泡のように掻き消される。

「……でも、いずれ坊やにも私の気持ちが分かる時がくる。そう思える相手に、きっと出会える――」

 頭の中に突然浮かんだ台詞は、誰のものだったのだろうか。
 それを言った者のことはなぜか全然思い出すことができなかったが、そういうものがあるとしたら、それはきっと眼前の少女のことに他ならないとイルは確信していた。
 あいみは弱く――それでいて明確であるという、不思議な笑みを浮かべたイルの表情に、心のどこかで張っていた糸を切られたように泣き始める。次から次へと留まることを知らずに溢れ続ける涙が、イルの顔を何度もうちつけては濡らしていき、その度に彼はこそばゆいように目を細めた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
「……泣かないでくださいです」
 謝り続けるあいみの頬を伝う涙を、イルが小さな手で懸命に拭ってあげる。
 ――それから少年は、涙を拭うために頬にかざした手を少女の後頭部に回すと、ゆっくりと引き寄せて唇をそっと重ねた。
 突然のキスに、さっきまで泣いていたあいみの顔がみるみる朱に染まる。
「好きです、あいみさん」
 さらに追撃のように放たれた台詞に、文字通り茹でた蛸のように、沸点を超えた彼女の顔からは蒸気すら上がり始めていた。そう――それはまるで、恋を初めて知った純真無垢な少女が如くの様相だ。
「あいみも……」
 なぜか妙にしおらしい口調で、彼女が口を開きかける。
 だが、その言葉が最後まで紡がれることは無かった。
 なぜなら彼女の口から溢れ出たのは、言葉ではなく真っ赤な鮮血で――
「あ、あいみさんっ!?」
 イルの視界の中で、ゆっくりと、緩慢に、スローモーション再生のコマ送りのように、あいみの身体がぐらりと傾く。金色の髪がふわりと重力に逆らってなびき、見開かれた双眸が必死に何かを訴えかけようと煌いたが――結局は沈みゆく身体を留めることは叶わず、何かを伝えることもできずにその四肢を崩れさせた。
 慌ててそれを腕の中に抱きかかえるイル。
 あいみの苦しそうな吐息が、彼の顔の間近で吹きかかる。
 急速に腕の中で冷えていく彼女の身体は、零れ落ちていく生命のせいか、どんどんと無機質な重みを増していっていた。
「……イルネスよ。人でない貴様は、人であるが故の幸せを見つけられたか?」
「……」
 崩れたあいみの先に悠然と立ち尽くした白髪は、未だ硝煙の昇る銃を手に、答えを期待していない独り言のような呟きをぼそぼそと洩らしている。口元は微妙に吊り上げられていて、酷く陰惨な笑みがそこには刻まれていた。
「何度も言っただろう? んん? 人で無いモノがこの世界で、それを手に入れることなど叶わぬ望みだってことが」 
 呟き続けながら、時折ヒヒッと底意地の悪い笑いを発する。
 その間にもイルは、腕の中で刻一刻と死に向かうあいみを揺さぶったり呼びかけたりして必死になっていたが、どうあっても少女の生は助かりそうにもなかった。
「しょせん貴様は、僕の思い描く世界の断裁を、自身が下すためだけに生かされていたんだ。クックック……。貴様の感じている虚しさとか憤りとか絶望とか、それすらも僕のシナリオ通りにね」
 白髪の言葉など、もちろんイルには届いていない。
 だがそれでも、彼のほとんど独白に近いそれは続けられた。
「トリガーに感応することで、世界の結末を決定する――『カドウケウスの杖』の力。僕を憎み、人を呪い、世界に絶望すればいい。そして、貴様に与えた全てを『プリマ・マテリア』へと還すその力を、存分に解放するんだ。そうすれば監視者としての死ねない僕が生きている意味すら、必要なくなるのだから――」
 白髪の物言いは彼以外には全く不明のものであるが、そこにははっきりと込められている感情がある。
 ――底無しの孤独。
 そしてそれこそが、彼の行動理念なのだろう。
 彼はイルを人でないモノと呼んだが、彼もまた人でないモノ――彼自身が過去に言った言葉を借りるなら、プログラムなのだ。プログラムは世界が終わらない限り存在を義務付けられ、それゆえに彼には死という概念が存在しない。永劫の生を与えられた者が切に願う願望。それは――
 白髪は腕の中に死にゆく少女を抱いた少年を、静かに見下ろしていた。
 辺りは空間が凍りついてしまったかのように、何物の音もしない。鉄塔の最上部で、確かに横からも下からも強い風が吹き荒んでいるにも関わらず、そこには音も動きも何もなかった。
 その静止画像の世界で、小さな変化が起こる。
 少年の腕に抱かれた少女が彼に向けて微かに唇を動かし何かを伝え、それと同時に二度と開かれることのない瞳を閉ざした。慌てた少年が、少女の瞳を再び開かせようと何度も呼びかけるが、もちろんそれが叶うことはない。
 少年の瞳から、一筋の涙が流れた。
 少年の喉から、絶叫が迸った。
 ――キシッ
 刹那――どこかで何かが軋むような音が響き、同時に凍りついていた紅い世界が、ガラスのようにパリンッと粉々に砕け散る。


 まるで海の中をたゆたうような心地に、あいみは包まれていた。
 酷く懐かしいような、それでいてどこで味わったのかは絶対に思い出せないような、そういう感覚である。
(あいみは……死んだんじゃなかったっすか?)
 不可思議な心地の中、彼女は茫洋とそんなことを考えていた。
 確かに自分はあの白髪の青年に殺され、美人薄命が如くその短い生涯に幕を下ろしたはずである。死というのが魂の根絶であるのなら、では今こうやって何かを考えているこの存在は一体何なのだろうか、とか。そういうことも同時に考えていた。
「心です、あいみさん」
 答えは彼女の周囲のあらゆる方向から、直接脳裏に響いてきた。
 意識を向けると、彼女を包むように何人ものイルが彼女の方だけを見て立っている。
「心のスープ、です」
 そして、言い直した。
(なんだかよく分からないっすけど、おいしそうっすねぇ)
 それに対して、彼女は愚にもつかないことを口走る。同時に自分が喋っているはずなのに、声というものが口から洩れていない奇妙さに気が付いた。
 だが元来のお気楽な性分のせいか、別に頓着はしない。
(それにしても……ここはどこっすか? あいみは死んだんだから、天国っすかね?)
「違うです。でも、もしそういう風に呼ばれるものがあるのなら、そうかもしれないです」
 あいみの問いに、複数のイルは声を揃えて否定と肯定の交えた、言っている自分もよく分からない答えを口にした。
(ま、何にしても悪い感じはしないっすね。あいみはイーちゃんと居られれば、それがどこだって構わないっすから)
「……ありがとです」
 恥ずかしげもなく放った彼女の台詞に、複数のイルは同時に頬を赤らめる。それから彼――いや彼らは、少しだけ寂しそうな顔をした。
「でも、間もなく、この世界の有様も終わるです。本当は僕を創った人たちは、僕がただそれだけのためにこの事象を成したことを怒るかもしれないですけど……」
(そんなの関係ないっすよ。例えイーちゃんが誰かに創られたのだとしても、イーちゃんにはイーちゃんの意思があるっす。それを犯すことなど、誰にも権利はないっす)
 イルの言う言葉の意味などまるで理解していないにも関わらず、あいみはなぜかきっぱりと断言する。そこには根拠も何もないが、しかし揺らぐことのない己だけは感じられた。そして、それこそが彼女の「成長」の証なのかもしれない。
 イルはそのあいみの言葉に救われたように、安堵の表情を浮かべた。
 同時に――この世界が終わる前に、最後の質問を彼女に投げかける。
「あいみさん。ずっと一緒に居てくれるですか?」
(当たり前っす。だって、あいみもイーちゃんのこと、大好きっすから!)
 極上の笑顔で答えたあいみの言葉を最後に、全ての意識が深い深い深淵の底に向けて落ちていった。
 イル――
 災厄。災難。災い。
 だが、彼は未来を共にする存在を手に入れた。
 もはやフタリで歩む未来にあるのはILLではない。例え様々な困難や、どうしようもないような窮地が彼らを待ち受けていたとしても、一人ではないのだ。フタリであればどんなことにでも立ち向かっていけるだろう。フタリの行く末にある未来――WILLに向けて……
 
 ――世界を包んでいた紅い生命の海が、あるべき姿へと戻った。