予定運命の輪 〜questions of the witch〜 第二章
作:沖田演義





   第二章 〜奇術師は耳元で〜


   1

 こみ上げて来るものを抑える事は、もはや出来なかった。
 胃の中のもの全て吐き出したはずだが、数分前――いや、もっと前だろうか?――に放った銃の硝煙のように、嘔吐物は一切出てこなかった。
「……ちっ」
 体をごろんと転がす。仰向けになって眺めても、相変わらず距離感のつかめない闇ばかり。それが上を見ているのかさえ定かではない。
 回想の中で思い出されたものは、生ぬるく甘ったるいその死の感触は、未だ後頭部の辺りに淀みのごとく残っている。
 大切なものを二つ失ったその絶望は、おそらくいつまでも拭い去られることはない。
「お目覚め?」
 その声を聞いて、一瞬誰だかわからなかった。
 しかしすぐに思い出して、それを睨む。
「だいぶ自分の世界に没頭してたみたい。何度か呼んだけど、気付いてもいなかった」
 赤い瞳の、真白い髪の、なぜここにいるのかわからない少女はそう言った。
 彼女は相変わらずルクセインよりも数メートル上の辺りに浮いていたが、軽い微笑を浮かべながら、するすると同じ高さまで降りてきた。同じ高さとは言っても、かなりの身長差がある二人なので、彼女は目線の高さを基準にしたようだ。
 完全な八つ当たり。しかし紛れもない殺意を胸に、ルクセインは訊ねた。
「……ここは、どこだ?」
「質問するときは、まず自分のことから明かすべきだと言わなかった?」
 苛立つ。
「巻き込まれた者には聞く権利があるだろ?」
「巻き込まれた? 面白いことを言うね」
 少女は鼻で笑ってみせた。
「キミが死んだのは、ちゃんと予知までしてあった事故にわざわざ自分で首を突っ込んだからでしょ? しかも仲間を二人も巻き込んで。私はただ拾っただけ。道端に落ちている小石を拾うのと同じ感覚だよ」
 怒りとは、一瞬の炎と持続的な氷だ。
 その出来事やそれを連想させるようなものを思い出すたび、爆発にも近く燃え上がって、しかしすぐに消し止められる。そしてその時以外は、自分でも怖くなるような負の冷気が心の中に充満する。
 犯罪などはよく前者のときに行われるが、ルクセインは今まさにその状態だった。
 歯軋りの音は反響するように響き、相手を睨みつけるその目は、腰に下げてある銃よりもよほど役に立ちそうだった。
 そう思った瞬間、その腰の銃に重しがかかったような感覚に襲われる。
「なにっ!?」
 腰を見やると、マシンガンであったその銃は、古い時代ではかなりの重装備であったであろうバズーカ砲に変わっていた。
 そうだ、そもそもなぜ、自分はマシンガンなど持っていたのか。
「あははっ!」
 少女の笑い声。純粋な楽しみと、それと同じ程度の嘲りを含んだ。
「それはね、あははっ、キミの感情を武器の形で具現するよう設定してあるんだ。わかりやすいと思わない? キミは今、私を跡形もなく吹き飛ばしたいほど憎んでるんだ、心外だね」
「感情を具現?」
 試しに、なるべく心を落ち着かせようとする。
 すると案外あっさり、それは元のマシンガンに形を戻した。
「へぇ、凄いね。やろうと思ってもなかなか出来ないことだよ」
「……もういい」
 ため息をつきながら、ルクセインは投げやりに言った。
「俺はルクセイン=クゥだ。これでいいのか?……といっても、てめぇは全部見透かしてんだろうがな」
 少女は満足そうに微笑んで、それから少し困った顔をした。
「……どうした?」
「いやね、キミの……じゃない、ルクセインの名前をその口から聞き出すのに執着しすぎて、自分の名前を忘れてた。なんだったっけ……?」
 ぶん殴ってやろうと考えると、すぐに腰に重みが来た。小さくうめいて、落ち着ける。
「まぁいいか、名前なんて。そのうち思い出すね。それまでは……そうだな、質問者、《questioner》とでも呼んで」
「長ぇよ」
「あははっ、まぁ待って。そのうち思い出すよ。本当の名前はとても短かった気がするんだ」
 そこで少し間が出来て、《questioner》は「さて」とつないだ。
「ルクセインが自分の世界に入ってしまう……ああ、こういうのは『あっちに行っちゃってる』って言うんだっけ? まぁいいけど、その前に私は言ったよね? 私が次のゲームを仕掛けるまで時間をあげる、と」
 こちらの返答を必要としていないようだったので、黙っている。
「私はこれからゲームを仕掛ける。ルクセインにも十分なメリットがあるし、普通じゃなかなか出来ないことだから、喜んでいいよ」
「いいからさっさと内容を言えよ」
 突然、ポンッという音とともに少女が消えた。消えたあとには色とりどりの紙吹雪が残り、漆黒の背景にそれはやけに映えた。
 あっけに取られていると、後ろから首に手が回され、自分の顔の横に少女の顔が置かれた。
 血の通っていないような魔女のはずなのに、彼女はひどく暖かかった。
「あんまり急がないほうがいいよ、これから先は長いんだ」
「……くっつくな、離れろ」
「それと、天邪鬼も」
 くすくすと笑い、少女は白い髪とローブをなびかせながら、再び上のほうへ昇っていった。
「それじゃ、始めるよ。まずはルール説明、チュートリアルだ」
「チュートリアル?」
「ちょっと昔に流行った、ロールプレイングゲームってやったことない? 始めにチュートリアルを選ぶと、実演付きで教えてくれる」
 必ずしも実演付きではないだろうが、彼女は気にしないようだった。
「あれをやろう。といってもルールはそんなに難しくないんだ、ゲームの目的もそのうちわかるよ」
 質問者を名乗った少女は、軽く腕を振り、握られた拳を開く。
 するとそこには、本当にわずかな光を発する球体が浮かんでいた。
「質問者ってより、手品師だな」
「あははっ、マジシャンなんて、古風なことを言うね」
 光はだんだんと大きくなり、球体から一本の細長い棒の形になった。
 少女がその棒の近くで、なにもないはずの空間をつかみ、ゆっくり引き寄せる。そうすると棒はその横幅を広げ、闇を光で押しやった。
 そう、その棒は『ドア』から洩れた光であり、少女のつかんだのはドアノブであった。
「じゃあ、どうぞ……。偉大で、完璧で、どうしようもなく無慈悲な、運命の輪の上へ」
 少女の言葉をいぶかしむ間も無く、ルクセインは光に飲み込まれていった。


   2

「じゃあルクセイン。この武器の使い方はわかるかい?」
「あー、なんだったっけな、それ。中級兵器の《defender》に似てるな」
「いや、合ってるよ。僕が改造しただけさ」
 目の前にいる新しい相棒の名はミゾレというらしいのだが、彼の部屋はガラクタで埋め尽くされており、足の踏み場もないような有様だった。
 ルクセインは通信回線付きの机に、ミゾレはガラクタの中から座りごこちの良さそうなものを選び、足を組んで座っている。
 そのミゾレが、手首から肘までをすっぽりと包み、その上から無数のパイプが突き刺してあるような兵器をこちらに見せて、その使い方を知っているかと訊ねたのだ。
「……確か元はもうちょっとシンプルだったよな、そんなハリネズミみてぇなデザインじゃなくて」
「失礼な人だね。この筒の部分には力場を発生させるための燃料となるものが詰まっているんだ。だからこれをちょっと増設しただけだよ」
「別にいいが、動くのに邪魔じゃねぇか? 重くなるし」
 ぴたりと、ミゾレの動きが止まる。
「大体たかが十七のガキにあっさりと超えられるようなもんを、維機が標準装備に採用するはずねぇだろ? あれはあれでバランスなんだよ」
「……ま、まだ試作品だからね、これからなんとかするのさ」
「それの改造にいくらかかった? 燃料部分だけでも小遣いパーってとこだろ」
 うつむいて黙ってしまったミゾレを満足げに眺め、ルクセインは立ち上がった。やや長めの金髪がそれに合わせて踊り、黒と赤を基調とした派手な服装で、何気なくガラクタを一つ蹴り付けた。
「……乱暴は止してくれよ」
「ん? ああ、わりぃな。それより維機の軍服はどこにある? この国には派手な奴らが多いってんで、それに合わせて着たんだが……軍服ばっか着てたせいで、他の服に違和感がしていけねぇ」
「そこのクローゼットの中に支給されたものがあるはずだよ」
 ミゾレが指差した方向を見ると、そこには大きな銀色の球体があった。
「……なんじゃこりゃ?」
「クローゼット」
 黒髪の少年は一言だけ返してきた。
 とりあえず手で触れてみると、なにやら生温かい。それが次の瞬間、煙とともに真っ二つに割れた!
「……なんじゃこりゃ?」
「クローゼット」
 もう一度同じ事を言うと、ミゾレも全く同じ一言を返答し、そして「僕が改造した」とだけ付け加えた。
「クローゼットが煙を吹く必要性が、この地球上のどこにあるってんだ?」
「煙を吹いた? 気のせいだよ」
「んなわけあるかっ!」
 とりあえず叫んでからその巨大な銀球を覗き込むと、中には一着の軍服が架けられていた。
「クローゼットに一着しか服が入ってないってのはどういうことだ? てめぇ俺を実験台に使いやがったな!」
「……もしかして、不便かい? その煙にはあらゆる虫を撃退しつつ、人体には一切影響を与えないという神がかり的な成分が入ってるんだけど……」
「鉄で密封された空間に入り込めるような虫が、この宇宙のどこにいる?」
 しばらく停止して再びうつむいてから、ミゾレは小声で顔を洗ってくると言い、部屋を出て行った。
「なんなんだ全く……」
 USからこっちに移って、早三日が経とうとしていた。初日は旅の疲れもあってほとんど何もせず、二日目は上司のヴァンソン――だったと思う――と派手に喧嘩になり、この国の伝統らしい正座というものをやらされた。
 そして今日、相棒を紹介され、早速仕事かと思えばこの調子だ。どうもバカにされているとしか思えない。
 とりあえず時計を見上げると、午前が終わりかけていた。初日に維機本部内の案内はしてもらっていたので、上のお偉方がいる部屋はだいたいわかる。あの間抜けな相棒を変えてもらおう。
 そう思って、時計から目を離した瞬間だった。
(いいの? 数年後には立派に成長する、金の卵を手放して)
 普通ならば、声の聞こえた方向を振り向くべきだったろう。しかしそれは適わない。声の聞こえる方向というものがなかったのだから。
(これは二年前だね。そのくらいの長さも似合うじゃない、髪。切っちゃたら?)
 十七歳のルクセインは、その場から一歩も動けない。
 そして、見た。何も無いはずの空間から、一本の腕が伸びてくるのを。その腕は白く、華奢で、人差し指を立てていた。
 その指が、固まっている青年の額に触れた。
(更新作業、開始)


(……終了。どう? 気分は)
 十九歳のルクセインは、体をふらつかせ、ついにその場に倒れてしまった。
「な……んだ? さっきまでの映像が夢じゃなけりゃ……ここは……」
(夢じゃないよ、夢ってのは生きてる人間が眠ったときに見るもの。ルクセインは死んでるんだから)
 少女は笑い声でそう言った。
 自分の姿が今どうなのか、それが確認したくて振り向いた場所には、あるべき鏡が貼り付けられていなかった。
 そうだ、この時点ではまだトキと知り合ってもいないのだ。
(ちなみに、姿は十七歳だよ。いきなり髪が伸びてたら相棒君がびっくりする。それに、私はその髪型のほうが好きだな)
「うるせぇ、心を読むな」
 彼女の姿は見えなかったが、それはむしろ当然のことのように思えた。彼女は決して現(うつつ)にあるべきでない……あってはならない存在なのだと。
(さて、ルクセイン。キミはちょっと忘れていることがあるよ。この日、今私と話していた数十秒に、キミは何をしていたかな?)
 意味を理解するまでに大分かかった。そして、愕然とした。
 ――この日この時間、俺はこいつと話してはいなかった! 過去が、変わってしまっている!
(あははっ、気付いた? でも安心して。過去のルクセインはこの時間、あの面白いクローゼットをいじくっていただけなんだ。それによってキミはあのクローゼットの構造を多少理解するけど、それは別段どうでもいい知識だよね? もしかしたら今も覚えていて、その行動を行ったのと同様の知識を持っているかも知れない……へぇ、覚えてるんだ?)
「心を読むなと言ってんだろ」
(まぁまぁ。で、結局ルクセインはこの時間私と話をしても、特に問題は無いということになるわけだ)
「そういう問題じゃねぇだろ」
 ルクセインは床にへたりこんだままの自分に気付いて、イスに移動ながら言った。体はもう慣れたようだ。
「そりゃ確かに、この先生きていく上で、その知識がないと死んじまうってことはない。だが、それでいいのか?」
(それでいいのさ)
 何がおかしいのか、少女はまた笑いながら答える。
(またゲームに例えるけど、一つの街を発展させるシュミレーションゲームをやったことはないかい? その街には数万人の人口があって、その中になにか大きく街の発展に貢献する人が一人いたとする。……そうだね、仮に温泉でも掘り当てたとしようか)
「今更そんなもんはでねぇよ」
(どうもキミは頭が固いね、例えさ。それで、もしもその温泉を発掘するはずの人が、なんらかのトラブルでそれをしなかったら? これは大問題だ。だけど、他に貢献しない人……例えば、毎朝ジョギングをする人が、その日もジョギングをするはずだったのに、しなかった。でもこれは街にとってなんら関係がない。そういうことさ)
「納得できねぇな」
 駄々をこねるように、ルクセインは唇を尖がらせて言う。
「街にとってはどうでもいいことだろうが、そのジョギングする奴本人にとっては問題じゃねぇか」
(……ああ、キミは、純粋だね)
 声の調子がやや落ちて、《questioner》は呟いた。
(世界が、個人個人のために存在すると思っているんだ。でも実際、世界はそこまで生き物に寛容でも、優しくもない……キミも、そのうちわかるよ)
 声が少しずつ遠ざかっていく。
(私が今説明したことを念頭に置いて、そこでしばらく色々と試してみるんだね。真面目にやったほうがいいよ、この後が本番だから。……さて、相棒君が帰って来るみたいだから、私はしばらく消えるよ。注釈が要りそうだったら、また来るから)
「帰ってくんな」
 そのときルクセインが言った言葉を、ちょうど帰ってきたミゾレ――機嫌取りのつもりか、リンゴを持ってきている――が聞いたらしく、彼はひどくショックを受けた顔をしていた。
 まだ彼と別れて――そう、死に別れて、そんなに時間が経ったとは感じていなかったのに、ミゾレの顔を見た瞬間、うまく言葉に言い表せない感情がルクセインを浸した。
 とりあえずここは、あの時と同じように、リンゴを食べながら相棒と話をしようと思った。


   3

 ミゾレという青年について、ルクセインはあまり多くのことを知らなかった。
 無論パートナーである以上、性格やスキルなどについては熟知していたが、経歴などについては全くだった。
 そのことに気付いたのは、午後に対応ランク4の大事件が起こるはずの、こちらにきて三日目の今日になってからだった。この頃のミゾレは、改造技術では二年後の彼に遠く及ばなかったが、話術に関してはすでに卓越していたようだ。何度か気になってそのことを聞いてみたが、いつもいつも知らないうちに話が逸れて、忘れてしまっている。
 よくよく考えれば自分が間抜けだったのかも知れないが、とにかくミゾレは自分の過去の深いところを、決して人に話したがらなかった。
 正午、すでに彼のスペースとなった机に座っていたルクセインは、角砂糖が二つ入っている甘いコーヒーを啜りながら、映像面に映るニュースを眺めていた。
(あと三時間……)
 事件の犯人は単独犯、去年までC地区の維機に勤めていた二十歳の青年で、ルン=キャパスという名前だった。
 まだ維機に入りたてのルクセインは事件に関わらせてももらえなかったが、対応ランク4ともなると後の教訓ということで、上官がくどくどと語っていたのを覚えている。
(まぁ当然だろうな。元維持機構官の、上級兵器を使ったテロ事件だ)
 ルクセインはこの三日間でいくつか、《questioner》の言う『ルール』を確認していた。
 一つ、過去と同じように行動すれば、未来は確実に予定通りに進む。
 二つ、彼女の言う『問題のない行動』をしたとしても、未来は大筋で予定通りに進む。
 三つ、『問題のない行動』の許容範囲はかなり広く、上司のヴァンソンとの喧嘩頻度を倍に増やした程度では、未来は何も変わらない。
(そうだ、どの程度の行動が『問題のある行動』に当たるか、それが重要だ……)
 そこで彼が考えた案。未来の知識を最大限に活かし、ルン=キャパスの犯行を未然に防ぐこと。
 この事件によって失われた人命や、破損した建物は数え切れないほどある。まさにうってつけというわけだ。
 ミゾレは私用とやらで今はこの場にいない。真実を話してもよかったし、異能者について理解のある彼ならばおそらく信じてももらえただろうが、この時代――という言い回しが正しいかどうか――に長く留まるつもりはなかったので、とりあえずあの少女のことは秘密にしておく。
(被害を防ぐためには、あいつが兵器を使う前にとっ捕まえるしかねぇ。現れる場所も時刻もわかってるんだが……問題はどうやって捕まえるか、だな)
 この頃のルクセインには、二年後のように上級兵器の使用許可が出されていなかった。十八歳という年齢制限のためだ。
(ミゾレもタメ年だから無理。かといってどんだけ中級兵器を持っていっても上級兵器には及ばない。それに結局戦闘になっちまったら同じこと……)
 考えながら、とりあえず部屋を出た。あまり時間はないのだ。
(……ふむ。ここはとりあえずあいつを使うかな?)
 『あいつ』のいる部屋はルクセイン達の部屋よりも二階上、上級維機官の住む階層にあった。
 相変わらず誰もいない廊下を抜け、階段を使ってのぼる。自分の記憶よりも階段の手すりや壁がきれいで、今自分が時の狂った世界にいることを思い出させた。
 その階にある部屋のドアについていたのは、ナンバープレートではなくその部屋の使用人の名前だった。
 ヴァンソン=ロールクッド。
 ルクセインはノックもなしにドアを開けた。
 部屋は明るく――ルクセイン達の部屋とは、照明からして違うのだ――、趣味の悪い柄のソファーが真っ先に目に入った。
 そして、そこに座っているビール腹の男も。
「……ノックを忘れてるんじゃないかね? ルク君」
「敬意ってのは、尊敬してる相手に対して使うもんだろ?」
「というより、それは常識だ」
 ヴァンソンはゆっくりと体を起こし、オールバックで茶色に染めた髪を、軽く何度か撫でた。
 ――そして、拳を握って指を鳴らし始める。
「ルク君……これが見えるかね?」
 ヴァンソンは軍服の襟についているバッチを見せた。
「これは私がキミより何階級も上の維機官だということを表している。というわけで、キミは私の部下に当たるわけだ。そして、部下にはしつけが必要だ」
「しつけってのは、殴ることとは違うって知ってたか?」
「しかし、甘やかすこととも違う。……世の中には、愛のムチという便利な言葉があるのだよ!」
 毎度の口上を述べ、とにかく二人は掴みかかった。あまりにも頻繁に起こりすぎる喧嘩のため、そして喧嘩をしても絶対に深刻な怪我を負わないため、来日三日目にしてすでにスキンシップの一種と周りに見なされるこの二人の争いだが、お互いに真剣勝負だった。
 そしてこの二人の勝負には、暗黙の約束が一つあった。
 負けた方は、勝った方の言うことを何か一つきかなくてはならない――
「しゃああああぁぁ!」
 普段の口調とは一変したヴァンソンの叫びが部屋に響く。
 ヴァンソンは確かの腹の出た男だし、足も短かったのだが、柔道の達人だった。一度投げ飛ばされてしまえば、どんな屈強な若者でも数十分は立ち上がることが出来ない。
「ぐぬ……!」
 仕掛けられた投げ技をなんとか回避し、今度はルクセインから責める。部屋を端から端まで組み合ったまま走り回る二人は、さながらド下手同士のウィーンワルツだったが、それに気付く者も指摘する者もこの場所にはいない。
 永遠に続くかと思われる攻防だが、決着は一瞬だった。
 足を払われ、空中に体を浮かされたルクセイン。それが逆にヴァンソンの足を払ったのだ。
「つ、燕返しっ!?」
 驚愕に染まったヴァンソンの声は、彼自身が床に叩きつけられる音とともに、しばらく部屋に余韻を残した。


「……つまり、キミはこう言うのかね? 正体不明のタレコミ屋から、その事件が起こる時間と日時の情報を得た。これを被害ゼロで鎮圧するには、上級兵器とそれを使える人間が二つずつ必要だ。それを私に手配しろ……と」
「そう、まったくその通り」
 例によって無傷のヴァンソンを目の前に、ルクセインは胸を張って答えた。
 ソファーに座って彼の部屋を見回すと、その趣味の悪さにしばし沈黙するはめとなった。いや、これでもこの部屋に来るのは初めてではないのだ、最初来た時のショックは今でも忘れることができない。
 花園の描かれた絵画の横に置かれる手榴弾(最新型の、防御用力場も抜けるやつ)や、平和の象徴であるはずのハトの置物にたてかけられた厚刃のナイフ、極めつけはあちこちの壁に貼り付けられた、彼自身の写真。
「しかしなぁ……それはちと無理というものだよ、ルク君」
 こちらの考えには全く気付かず、ヴァンソンは答えを返してくる。
「無茶だとは承知してるさ。さすがにタレコミ程度じゃあ上級兵器は使えねぇ。だからヴァンソンは、整備とでも称していつでも使えるよう準備してくれてりゃいい。あと一人腕利きのを用意してな。そのほかの手回しは俺がやる」
「まぁその程度なら構わんがね……しかし、どれを持っていく? 私が適正があるのは《MIST》と《SERPENT》くらいだが」
 ルクセインは少し考えてから、
「『霧』と『蛇』……か。あいつのエモノは『嵐』だからなぁ……『蛇』でいくか。もう一人はなんでもいい」
「……やけに細かく情報を持っているのだね、そのタレコミは」
 ルクセインは一瞬身を堅くしたが、口の端を少し吊り上げてこう答えた。
「ああ、未来から来たと言ってたからな」


   4

 塞翁が馬。
 ルン=キャパスが育った国には、そういう言葉があった。いや、育った国というのはあまり適切な言い方ではない。彼が育ったその場所は、国の保護を一切受けていなかったのだから。
 C地区のアント廃墟街。彼はそこで育った。いつどこで生まれ、どういう経緯でここに来たのかは覚えていない。極貧の生活と他人とのしのぎ合いの中で、その言葉を知った。
 いつか自分のこの境遇が、将来を切り開く武器となるかもしれない。
 その思いは彼の中で徐々に大きくなり、生活の形態が食料を探すだけのものから、食料と知識を探すものへと変わっていった。なんとか手に入れた『外』の本からは一般教養を学び、廃墟街では手に入る武器全てに熟達した。
 そして彼はある日、廃墟街出身という身分を隠したまま維持機構官の試験を受け、見事パスした。そこで給与をもらい、初めて『外』の生活がどういうものかを知った。
 なんて幸せな日々。
 仕事にも慣れた頃、どこかで誰かが噂をし始めた。ルン=キャパスは廃墟街出身。
 彼は勿論そのことを認めなかった。
 しかしそんなことはお構いなしの、突然の退職勧告。
 その頃の彼の楽しみは、この世で最も強いとされる上級兵器をいじくることだった。その腕を買われ、開発部にも意見を求められもした。
 職を失い、友も失い、彼に残ったのは破壊の知識だけ。
 自分の選択が間違っていたのだろうか?
 あのまま廃墟街にいれば、こんな思いもしなくて済んだのではないか。
 塞翁が馬。塞翁が馬。塞翁が馬。
 それは一体、どういう意味だ?
 『外』には自分の半分も努力できないような連中が、社会の恩恵を溢れるほどに受けている。
 この不公平を……許してなるものか。


   5

 C地区のアント廃墟街。そこが現場になる予定だった。
 クール廃墟街とは全く違う雰囲気。あそこはなにか乾燥したようだったが、ここは逆に湿っぽい。鼻をつく異臭はいつまでも慣れることはなく、足元は雨でも降ったかのように濡れている。
 最大の違いは、人だろうか。
 クール廃墟街では襲われた。彼らには襲うという行動が起こせる活力があるということだ。仲間というものがあり、敵があるということだ。
 ここの住民は違う。敵を作るだけの目的がない。敵がなければ自衛せず、仲間は生まれない。仲間がなければ協力できない、話せない、笑えない。
 そう追い込んだのは自分たちだと、心の奥で誰かが語る。ルクセインはそれを無理矢理に黙らせた。
 地に臥す白骨と、そうなりかけた住民たちを尻目に、彼は歩いていた。ルン=キャパスを探しているのだ。
 彼の立てた筋書きはこうだ。まず最低でも犯行が起こる三十分前……つまりは、あと二十分程度でルン=キャパスを発見する。彼が上級兵器を持っているところを画像で維機に転送、準備させておいたヴァンソンに対応ランク4の事件として報告させ、上級兵器の使用許可を取らせる。そこで『偶然』上級兵器の整備を行っていたヴァンソンたちが、準備のタイムロスなしでここまで飛んでくる。
 そして、降伏勧告。
(問題は、画像転送から勧告までの時間的余裕がないことか……。《蛇》の射程なら維機からそのままここにぶち込むことも可能だが、それじゃここの住民が巻き込まれるのと、なにより俺が死んじまう)
 今回持ってきているのは通常装備一式のみ。仕事以外で維機の管理下にある武器の持ち出しは重罪だからだ。
 維機官が来ていると情報が流れ、ルン=キャパスが逃げてしまうといけないので、今は軍服の上に古びたマントを一枚はおっている。ただ毎日洗っている体、手入れされた金髪、どう見ても廃墟街の人間のものではない。すぐにばれてしまうだろう。発見を急がなくては。
 少しして、ある三階建てのビルに目をつけた。元々ある程度の高度から使ってくると予想しており、その条件にこのビルは全く一致したのだった。彼のそれなりに長い軍歴の感もそう告げている。
 昨日支給されたばかりでいまいち馴染まない《lance改》を手にとり、いつでも撃てる状態に撃鉄をコッキング。ゆっくりと一歩踏み出した。


   6

 あまり意味のあることとも思えなかったが、シャワーは浴びることにした。
 カビだらけの浴槽に裸足で踏み入れると、当然だがひんやりと全身が冷える。彼は急いでお湯を出そうとするが、出たのは凍るような冷水。こんな瞬間まで間抜けな自分に、ルン=キャパスは一人で爆笑した。
 湯気の立つ体を拭きながら、とりあえずこのビルだけには水と電気を通しておいてよかったと思う。
 自分が街を離れてから、ここには新しい支配者がついたようだった。しかし前の支配者が戻り、持っている装備を目にした現支配者は、腰を低くして迎えてくれた。
 王の再臨。逆らえる者はいない。
(だがそれも、あと少しだ)
 ひび割れた鏡の前に立つ。そこにはほとんど色の落ちたような金髪の青年。背が高く、まともに立つと鏡からはみ出てしまうため、やや腰を曲げている。眼光は……弱い。
 腐りかけた木の床に、二種類の衣服がばら撒かれている。クローゼットは愚か、脱衣籠すらここではまともに手に入らないのだ。
 一方はただボロボロなだけのTシャツとジーパン。もう一方は彼の唯一の栄光、維機の軍服だった。
 彼は迷う、自らの終末にふさわしいのはどっちだ。
 前者には、なんのことはない普通の生活、それに対する羨望とそれをさせなかった運命への恨み。
 後者には、一瞬でも絶望から抜け出せた誇らしさ、そして力が。
 彼は目を閉じる。それぞれの象徴と、自分の心とを照合させるために。
 そうすると、自分がとても落ち着いていることに気付く。世界の全てを一度恨みはしたものの、今ではもうそれに疲れていると、許しかけているのだとわかる。
 だとすれば、手にとるのは後者か。
 不思議とこの計画を止めようとは思わなかった。親に手をひかれて歩く子供のように、なんの疑いも持たず先へ。
 軍服を着ると、いよいよだという気がしてきた。部屋に一つしかないドアの向こうで、何かがカタンと音を立てたような気がしたが、今さら気にかけはしなかった。
 殺風景な部屋の中、一つだけ輝くように鮮やかな青い箱。それに手をあてると、その箱は事務的に語り始めた。
『上級指定兵器《TEMPEST》起動。ユーザー、ルン=キャパス確認。ユーザーガ適正ヲ有スルコトヲ確認。ロック解除シマス』
 その箱を見て彼がいつも思い浮かべるのは、バイオリンを入れるハードカバーだ。大きく不恰好な容器だが、その中には芸術品にも近い美しさが眠っている。
 箱の中のそれは、なるほどバイオリンに似た形のものだった。しかし明らかに違うのは、バイオリンでももう少しマシな装飾が施してあるだろう、シンプルな青一色。そしてそれらから飛び出す、先端にナイフのような薄刃のついた細いコード。
 これを持ち出すのにどれだけ苦労したことか。維機にいる間に稼いだ金を全てつぎ込み、全く同じ形、同じ重さのものを造り、本物と入れ替える。毎日欠かさず行われる自動チェックでエラーを出さないための偽装もほどこした。幸い上級兵器が使われる機会というのは極端に少ないため、それまではばれずにおけるはずだ。
 彼はコードの先端についた刃に、そっとひとさし指を這わせた。たちまち血が宝玉のように浮いてくる。
 その血をぺろりと舐めながら、彼はゆっくりと微笑んだ。
(笑い納め……か。結局、皮肉なユーモアにしか恵まれない人生だった……)
 舌に広がった味が収まった頃、彼は一つ深呼吸をした。
(さぁて……終わらせようか)


   7

 時間は少しだけ遡る。
 意外にも無人であったビルの中を、ルクセインはじっくりと進んでいた。
 この廃墟街の中において、これほどの状態を保った建築物は少ない。それがからっぽということは、権力を持った者が独占していると考えるのが妥当だろう。そしてこの街における権力とは、金でも人望でもない。
 力。純粋な破壊力だ。
(上級指定兵器……それは大きく三つに分類される)
 こちらのルート――この呼び方が一番しっくりと来た――でD維機に配属されて三日間、その中で再び教えられたことを彼は胸中で復唱する。
(光学兵器、空間兵器、気象兵器。それぞれに長所・短所はあるが、中で最も効果範囲が広く、無差別なのが気象兵器……)
 二階への階段を見つけ、最低限の注意は払いながら駆け上がる。
 二階を一通り見て回って、ルン=キャパスが三階にいることを確信する。
 上への階段を前に、ルクセインは胸ポケットにしまっていた小型カメラを取り出した。撮った瞬間、維機へ転送されるように設定してある。
 時間を確認すると、ギリギリだがまだ間に合うようだった。
(あとは、画像を手に入れるだけ……)
 それだけで、数万から数十万の人命が救われる、子供の笑顔が減ることもない。
 そして、自分の目的にも……
(……そういや、これを止めたらどうなるんだったっけ?)
 あの忌々しい少女は言った、これはゲームだと。
 しかし全く変わらない世界、変わらない人。これを完全に幻想と割り切ることが、果たして人間に出来るだろうか? ルクセインは生活の中で、このルートに馴染もうとする自分の一部分を感じていた。
(もしこのまま……ルン=キャパスを止めずに、元のルートに沿って生きていったらどうだ? そして少しずつずらしていく。あの炎に焼かれないように、俺とミゾレとトキが、死なないように)
 もう一人の自分は、この考えを肯定していく。
(回りくどくねぇか? これによって、問題のある行動がどの程度なのかを見極める。そしていつ出てくるかわからねぇ魔女を待って、さらにそいつの指示に従うなんて……)
(そうだね)
 突然の声に驚き、思わず足音を立ててしまった。
 息を殺して待つが、部屋の中にいるはずの主は気付いていないようだった。
(キミの考え、おもしろいよ。キミがそれを望むのなら、私は二度と現れないことを誓おう)
 頭の中に響く声が誰かなど、疑うのも愚かしい。
 文句を言おうとして、声を出すのはまずいことを思い出す。
(ここで人々を救えなくたって、キミには何の罪もない。そうだろ? 元々死ぬ運命にある人たちだ)
「……」
 彼女の声には抑揚が全く感じられない。
 それは、彼と初めて会った時点の彼女に酷似していた。値踏みするような、見下した目。二回目の接触ではいくらか薄れていたように思っていたのだが……。
(さぁ、選びなよ……。あまり時間はないんでしょ?)
 そして同時に、それはルクセインをひどく揺さぶる声音だった。
 あり得ない。自分がこんなことで迷うとは。この手の考えを思い浮かべることはある。それは仕方のないことだし、想像に善悪はない。
 しかし、自分は……ルクセイン=クゥという人間は、その考えを即座に打ち消せる人間ではなかったか? まして、気に入らない相手にそれを促されて、そのまま従う人間だっただろうか?
(……そんなこと解りはしないよ。人が他人を信用できるのは、その人を中途半端に知り、どんな人間かを勝手に決め付けるからさ。人は自分を決め付けたりは出来ない。自分というものを、知り抜いているから)
 そうなのだろうか? 彼女の言うように、自分にもそんな部分があるのだろうか?
(当たり前じゃないか。ないと思っていたんなら、それはひどい傲慢だよ。無知とも言えるね。時間はないよ、さぁ早く……)
 甘い甘い声に誘われて、ルクセインは瞼を閉じた。


   8

 ルン=キャパスは《TEMPEST》を肩に担ぐようにして固定。それが納めてあった箱の中から、一つ小瓶を取り出した。
 その中には白いカプセルが一つだけ。それを水も使わずに飲んで、目を閉じる。
 まぶたの裏がじわじわと赤くなっていく。太陽をまともに見たときのような感覚、しかし閉じるべき瞼はすでに閉じられていて、これ以上閉じるわけにもいかない。
 彼は震える右手を水平に持ち上げた。そして音声認識を持った《TEMPEST》に対し、命令する。
「マウント」
 上級兵器を最強であらしめる要因に、他の兵器との動力源の違いがある。
 腕に巻き、防御力場を発生させる中級兵器《defender》は固形燃料など外部からのエネルギーに頼っていたが、上級兵器は内部から調達する。
 すなわち、人間の体内から。
 カプセルを飲み、身体の一部に激痛を与えると、脳から特殊な分泌物が出る。カプセルには麻酔……とは若干違う、『痛みを無視できる』効果が含まれており、使用者は痛みを意識しないままにその成分を分泌する。
 その分泌物が発見されてから、まだ十年と経たない。これが上級兵器の……嵐すら引き起こすエネルギーの根源となるとわかってからは、まだたったの五年。その間にここまで進歩したのだ。
 今まではだらりと下がっていたコードが、青年の命令で動き始める。そしてその先端についた刃がだんだんと彼の伸ばした腕に近づき、そしてそのまま飲み込まれていった。
「……くっ……っはは」
 カプセルにはかなり強い興奮効果――一部では麻薬ではないかとの噂もあるーーも含まれており、このため使用者にはいくつもの試験が課せられ、その精神力を試される。
「不公平……公平……不公平……はははっ」
 飲んだ直後は自制を失う。よって上級兵器にはすべて、マウントから二十分間外れない安全装置がかけてある。その間にやられては元も子もないので、同時に防御力場も発生。使用後については、しかるべき医療機関での治療が義務付けられていた。
「……終わらせて……」
 なんにせよ、今の彼には関係のないことだった。腕の傷が残ろうが、そのまま狂おうが。
 どこに残っていたのだろう。良心とか、罪悪感とか呼ばれる部分が、必死に何かを叫んでいる。
 その声を、身を巡り焼く炎の音で掻き消して、ルン=キャパスは最後のカウントダウンを始めた。


   9

「どういうことだ……くそ!」
 小型カメラを地面に叩きつけながら、ルクセインは叫んだ。
 そこはすでにビルの中ではなかった。あの時、導かれるように彼女の言葉に従う彼を、部屋の中から響く狂った笑い声が救った。少女は消え、すぐさま我に返ったルクセインは、ルン=キャパスが《TEMPEST》をマウントする画像を納め、やれやれと外に出た。しかし安心したのもつかの間、なんとこのクズ鉄がエラーを出してしまったのだ。
 全く予想外のことだった。ここまで来る途中に何度も故障がないか確かめたし、無論何か強い衝撃を与えたということもない。
 何かがおかしい……。先ほどの心の迷いまで含めるつもりはないが、不具合が多過ぎる。
 とにかく、計画はおじゃんだった。
 全く考えていなかったわけではない。証拠画像……それも明らかに上級兵器を所有している場面のものがなければ、上級兵器が使えないという制約はやはりきつかったからだ。
(そりゃ時間がなかったのは認めるがな、こんなイレギュラーまでは考えられねぇぞ!)
 ルクセインは銃を構えた。
 最後の手段。ルン=キャパスを暗殺すること。これならば現行犯でなんとかなるだろう。法的には、の話だが。
 上級兵器は大砲ではない。射程にはこだわらないのだ。
 よって相手に気づかれる前に、敵の脳を破壊しなければならない、気付かれれば銃弾などたやすく防がれる。
 チャンスは一度、マウント後の待機時間終了と同時に撃つ。防御力場が消え、使用されるまでの間に。
(……可能か?)
 維機では暗殺の仕方を教えてくれない。当然だ。しかしざっと想像しただけでも、適切な武器、ポジション、気配を殺す技術、ためらわない精神。あまりに多くが欠け過ぎている。
 その時――ふと見上げたビルの屋上に、人影が見えた。
(ルン……キャパス……)
 遠目にも様子が尋常でない。ふらふらと歩きながら、何かをつぶやいている。
 すでに彼は人生を捨ててしまったのだろう。それは世界を引き換えにしたつもりかも知れなかったし、ただの自滅願望だったかも知れなかった。
 どちらにせよ、くだらない。自分一人の独断で、関係のない人を巻き込んではいけないということ。そんなことはこれから彼に何千と殺されるはずの子供たちでも知っている。
 そんなくだらないことの処理に、手をこまねいている自分が気に入らない。
 ――あいつを、殺す。
 そう心に決めると、欠けている要素の一つは埋まった気がした。
 とにかく物陰に身を隠して、ルクセインは最良のポジションを探し始めた。
 目標の立つポイントから、確実に命中させることのできる距離を目算する。ライフルではなかったし、精密な射撃があまり得意でないルクセインでは、かなり狭くならざるを得なかった。さらにその中で身を隠せるほどの遮蔽物がある場所となると……。
(あの倒壊ビルの二階部分か……)
 ここから五十メートルほどの距離にある横倒しになった茶色い建物を見て、彼は胸中でうなった。
(屋上たって広いからな、奴がずっとあの位置とは限らねぇ……。気まぐれで動かれたりしたらアウトだな)
 しかし、他に方法は思いつかない。
 そう割り切って、ルクセインは物陰から飛び出た。ルン=キャパスに発見される恐れもあったが、あの様子ならおそらく大丈夫だろう。
 結局悟られた様子もなく、目的地に滑り込むことができた。倒れたビルの中は外以上にかび臭く、暗い。天井に空いた穴を駆け抜け、二階部分の窓から標的の様子を探る。そして呼吸を静め、心臓の音までも押さえようとする、しかし。
(鼓動がどんどん速くなりやがる……)
 左胸に銃を握った手を当て、震える瞼をそっと閉じ、これから数分後のことをシュミレート。いつものように、他人事のように思考が加速していく。


 照準を合わす。
 力場が消える。
 奴が放とうとする。
 引き金を引く。
 奴のこめかみに黒点が一つ。
 奴が倒れる。
 魔女が来る……はず。
 問題ない。
 だから落ちつけ。


 割れてしまってガラスのない窓に肩を預けて、両腕をまっすぐに伸ばす。
 本来ならもっと長いはずの髪を、ゆるやかな風が撫でていく。
 しばらくして、その風が不意に止まった。
 ルン=キャパスが両手を広げて何かを叫んだ。
 標的だけを見つめ、彼以外の背景が真っ白になる。
 合図だ。引き金を引け。
 聞こえた射撃音は、聞きなれた音とは違っていた。
 叫びは未だ聞こえている。そして、彼の抱える《TEMPEST》が青白く光り、それを中心として竜巻を描いた。それはどんどん大きくなってゆく。どんどん、どんどん……。
 やがて巻き込まれるほどの大きさとなった嵐を目の前にして、射撃手は気付いた。
 支給されたばかりのはずの、整備もつい先ほどしたはずの、暴発した銃。欠けた両腕。
 『問題のある行動』に対する、『運命』の対処法をその身に刻み、ルクセイン=クゥは二度目の死を迎えた。