予定運命の輪 〜questions of the witch〜 第三章 |
作:沖田演義 |
第三章 〜吊るされた男は点滅し〜
1
「思い出した」
もう慣れてしまったのだろうか、初めの違和感も嘔吐感も今はない。なにかを失ったような空しさはあったが、さりとてそれを悲しむほど余裕があったわけでもない。
そんなぼんやりとした感覚の中で、ルクセインは溜息を一つ落とした。
「……なにをだよ」
「あっ、ちゃんと話してくれるようになったね。もっと不機嫌かと思ってたのに」
そこは無論、あの闇の世界だった。彼女――これも言うまでもなく、白髪(はくはつ)の少女だが――の声は、先ほどのルートで聞くよりもはるかに調子のいい……認めたくはないが綺麗な声だった。
「もう意地を張る元気もねぇよ。なんだ? さっきのは。どんなつまらねぇゲームでも、ルールくらいはきちんとしてるもんだぞ」
「銃が暴発するのが、そんなに不思議?」
「ああ、不思議だね!」
ルクセインは立ち上がって、やや上方から見下ろす彼女に声を荒げた。
「カメラはエラー出す、銃は壊れる。ちゃんと整備したにも関わらずだぞ! こんなもん真冬に桜が咲くくれぇあり得ねぇだろうが!」
「残念、冬桜ってものが……」
「揚げ足取りはいいんだよ!」
出得る限りの大声で叫んだつもりだが、一定以上は音量が大きくならない。ここがそういった空間であることに疑問を覚えはするが、聞いてもどうせ答えてはくれないだろう。
こちらの苦悩はつゆ知らず、彼女は上機嫌で話を続ける。
「まあまあ、そんなことはひとまず置いておいてよ。私の名前が思い出せたんだから」
「そんなこと……」
体から力が抜けて行くのを感じた。
「私の名前は、キリ、って言うんだ。きちんと名前で呼んでよね」
「知るか、ボケ」
「名前で呼ばないと、ずっとここに閉じ込めちゃうかな?」
さらっと恐ろしいことを言う彼女……キリに、ルクセインの腰に下がった武器が答える。この感触と重さは……そう、ハンマーだ。
「前から思ってたんだけどね、なんでルクセインの具現する武器はみんな、そう古典的かな。もうちょっと良さそうな武器もあるだろうに……頭が古いからかな?」
「ぐっ……」
あの冷淡な喋り方も気に入らないが、こちらはこちらでルクセインを休ませない。
しかし、馬鹿話をすると落ち込んだ気分が少し戻ってきた。
「……で、次は何をしろってんだ? 言っとくが次もあんなオチなら暴れるぞ」
「んー、誰に言ってるのかなー?」
両手を耳に当てて、キリはくるくると体を回しながら言った。本当に上機嫌のようだ。
「ここには二人しかいねぇぞ」
「聞こえなーい」
「キリ! てめぇだ!」
これでもかとばかりにルクセインが叫ぶと、彼女は手を挙げて、はい、と答えた。
「ルクセインはもう一杯一杯みたいだけど、今までのは単なるルール説明だよ? これからが本番さ。わかっただろうけど、無理に運命を変えようとすると、『偶然』の名を語った抵抗力が働く。この世に100%がない以上、これにまともにぶつかっても勝てはしない……さて、どうする?」
「ヒントよこせ」
「少しは考えなよ……私が思うに、ルクセインの脳はすでに老化し始めてるんじゃないかな」
「うるせっ!」
腰のハンマー――今回はなかなか元に戻らない――で、宙に浮くキリに殴りかかってみた。それはわずかに彼女の足を掠めたが、手応えが全くない。
「反則ばっかか、く……」
くそ、と言いかけて、一つ頭に思い浮かぶことがあった。
「……分かった。こっちも反則を使うんだ」
それは冗談のつもりで言ったのだが、彼女は軽く口笛を吹いた。
「正解! さすがに若いねぇ」
こちらよりも数段幼い容姿でそう言われ、ルクセインは二度目の溜息をついた。
「また頭が堅いだのなんだの言われそうだけどな、反則ってのは使えねぇから反則なんじゃねぇのか?」
「うん、そうだね。だから反則という言い方は正しくない。でも、私は最初に言ったよね、これはゲームだって。ゲームがゲームとして成り立つためには、必ずクリア方法が用意されてなきゃいけないでしょ? だからゲームの中の主人公が超えなきゃいけない苦難に出会ったとき、クリアを導くための……」
「アイテム?」
「そ。でもアイテムとも限らないよ? それは魔法の呪文であったり、深い洞窟の奥にいる老人の言葉だったりするかもしれない」
人に頭が古いと言っておきながら、彼女の例えも微妙に古い。
そう頭の半分で考えながら、もう半分では先ほどのルートを思い出してみる。
どこかに魔法の呪文があっただろうか?
「さて、じゃあ本番について少しだけ解説だ。ルクセインの言葉を借りるなら、次のルートは君が死んだ日の初め……午前零時零分からスタートだよ。もう言わなくてもわかるよね?」
それまでからかうような表情を浮かべていた彼女が、一瞬だけこちらを睨んだ。
「プレイヤーの目的は生き延びること。そしてもう一つ、あの廃墟街で起こった爆発を食い止めること」
それは願ったりな目的だった。どのみち、自分と仲間二人を殺した爆発をそのままにして置くつもりはない。
しかし最後に彼女は、それこそ魔女の笑みを作ってこう言った。
「ちなみにね、今回は本番だから、死んだら消えちゃうからね」
頭は抗議の言葉で埋まっているのに、口からは一つも放たれない。
徐々に狭くなる視界で、これは彼女の力なのだと悟る。次のルートへ移動しているのだ。
そして視界が閉ざされ、意識まで閉じかけた瞬間に、その会話は滑り込んできた。
――そんなことない!
――いや、エラーをチェックする。
――私は人間、エラーなんて言い方はやめて!
――言うことを聞いてくれよ、姉さん……。
その声は二つとも聞いたことがあるようで、少し違っていた。
一つは普段よりも取り乱して。
一つは普段よりも冷徹に。
ルクセインは確信し、そして眠りの中で忘れていった。
それが、魔法の呪文の一部であると。
2
見えたのは、空に溶けた草原。
視界を遮るものが何もない。開放感と同時に不安も誘う、ただひたすらに曖昧な蒼の地平線。
トキは夢を見ていた。見る夢は喜ばしいものだったり、そうではなかったりする。別に自分に限ったことじゃない。ただ、自分はそれが普通よりも両極に寄っているのだ。常に正夢という付加効果のせいで。
その思考は自然と消えた。この世界では一つの考えを長く考えることは出来ない。
ふと、小さなハートが矢の先端についた弓を見つけた。恋人でもできるかしらと、小さく笑う。
その向こうに、三つに千切れたタロットカードを見つけた。『世界』だった。意味はわからないが、楽しくはなさそうだった。
そのさらに向こうに、輪の形をしたベンチに座る、四人の男女を見つけた。タロットカードにならうなら、風貌からして愚者、奇術師、隠者、吊るされた男といったところだった。つまり、実際に座っていたのは三人ということになる。
吊るされた男が愚者に手を伸ばす。愚者は気づかず隠者と話し込む。隠者は愚者に適当に相槌を打ちながら、奇術師に何かを命令している。奇術師はその命令に適当に相槌を打ちながら、全体に対して笑いかけている。
『見』た時の映像は謎かけ的で解りづらいものが多いが、ここまでのものは見たことがない。
一つだけ読み取ることができた、愚者はきっとルクだということ。口調が彼そっくりだ。ほかはわからなかった、知らない感じの人ばかりだ。
とにかく悪いことが起きそうな気がした。どうせ目覚めても忘れてしまっている記憶だ――覚えていることもあるが、大抵ごちゃごちゃになって役に立たない――、これ以上見ても意味はないだろう。
そう思って引き返そうとすると、今まで千切れた『世界』が落ちていた場所に、十枚以上のカードの束を見つけた。手にとって一枚ずつめくってみる。『女教皇』『女帝』『皇帝』『法王』『戦車』『正義』『力』『死神』『節制』『悪魔』『落雷の塔』『星』『月』『太陽』『審判』。
まったくわからない自らの予知に首をひねりながら、トキはそこで夢を終了させた。
3
気がついた瞬間の気分は最悪だった。何か大きな忘れ物をしたような……その前後は思い出せるのに、忘れ物をした場所だけは思い出せない、そんな感覚。
とにかくルクセインはベッドから飛び起きた。硬いスプリングの、部屋に唯一のベッド。これはミゾレも使うことはあったが、彼はほとんど毎晩自分の実験室――どこにあるのかも知らない――に泊まっているので、もうすっかりルクセインの体になじむようになっていた。
時計を見ると、零時一分。確かこの日ベッドに転がったのは、昨日という言葉もふさわしくないような十一時半頃。つまり三十分も寝ていないことになる。それにしては体に全く疲労がない。キリがどうにかしたのだろう。
急いで顔を洗って、服を軍服に着替える。そしてコーヒーにパン一枚という簡単な朝食を作りながら、ルクセインはしなくてはならないことを全力で考えた。時間はあと、十五時間。
まずは一連の出来事をおさらいする。自分はヘマをした。それによってミゾレとトキを失ってしまった。そして、自分の体も失われる……はずだったのが、キリによって今は弄ばれている。
(そうだ……あいつはなんなんだ? 誰と接点が会って俺に……いや、そもそもこんなことをする目的は? 遊んでいるだけなのか?)
いきなり考えが途絶えてしまった。それにやや舌打ちをしながら、とりあえずそこは飛ばして考える。
(他に不自然なことはなかったか? あの廃墟街での爆発はなんなんだ? あの露出狂の死に方は? キリのいるあの空間は? ただ異能者というだけで説明がつくのか?)
それぞれの疑問にに二〜三個ずつの推測が答える。どれもありそうで、しかし確定的なものは何もなかった。
(結局のところ、持ってる情報が少なすぎるんだな……。知識も足りねぇ、ミゾレを呼ぶしかねぇか……)
焼き立てのパンを口に挟みながら、ルクセインは机の映像面に手のひらをあてた。いつものプロセスを経て、それはミゾレとつなげてくれる。
最近、自分が自分で考えることを投げ出している、と思うことがある。普通はこんなことには陥らない……そうそう身の回りに、完璧な知識を持った人間などいるわけはないのだから。
しかし今映像面に映っている彼は、まさにそれとしか言えなかった。こちらが出した問いに対し、正解とまではいかなくとも、納得のいく答えをくれる生き字引。
「どうしたんだい? ルクセイン。君はいつも十二時前には寝るものだと思っていたけれど」
「ミゾレ、今なにやってる?」
「それは言えないね」
苦笑しながら、ミゾレ。彼にこの問いを出すと、いつもこれだ。普段は気になりもしないことだが、今はひどく苛立たしい。
「……まぁいいさ。ちょっと笑えねぇ事態になっちまってな、今からぶっ飛ばしてここまで来れねぇか?」
「これでは話せないことかい? そこに置いてあるのは僕の改良型で、ほとんど盗聴は不可能なものだけど」
人間が直接会って話したい理由というのは、何も盗聴を恐れての場合だけではない。そう言いたかったが、彼にそんなことは理解できないだろう。結局ルクセインは、そのままミゾレに今までのことを全て話した。
「……それで、君の言う魔女とやらの能力は本当に異能なのかどうか、それが知りたいんだね?」
「それだけじゃねぇ、お前の考えは全部くれ。あと十五時間も残ってねぇんだ」
キリについて、ルクセインは全て『魔女』とだけ言って説明した。もしも彼女がこれを聞いたなら、即刻名前で呼ぶよう訂正しに来たことだろう。ということは、彼女はこの会話を聞けないもしくは、今までのようにこちらに関与できないということだ。
そのことに少し気分を良くしながら、ルクセインは会話を進めた。
「別に脅すわけじゃねぇがな、ありゃかなり規模のでかい爆発だった。たぶんここも終わりだな。そしてお前の《eyeZ》……おっともう[になったんだったかな? そいつでも正確に判別できないもんだったぜ?」
「それは聞き捨てならないね……しかし、《eye[》に判別できないとなると、まともな材料を使ったんじゃなさそうだよ。考えられるのは……」
そう言いかけてミゾレが口をつぐんだ理由が、ルクセインにはよくわかった。
おそらく、あれだ。
「《NIGHT》……」
そうつぶやくルクセインに、ミゾレが少し取り乱した口調で答えた。
「まだそうと決まったわけじゃない。でも、万が一ってことはある。それとさっき言ってた『魔女』の力についてだけど、僕は無理だと思う。ルクセインの説明だと、その少女は最低でも三つの世界を支配していることになる。考えてごらんよ、現実の世界と区別もつかないような視覚、触覚、嗅覚まで。それを一つの脳が全部よどみなく処理する……とんでもないことだよ」
「じゃあ、トキはどうなるんだ?」
「全然勝手が違うよ。人間には、自分をある別の状況に置いた場合をシュミレートする能力がある。それを発展させたものだとすれば、未来予知の説明も難しくない。それに、彼女のはきちんと安全弁がかけてある。忘却というね」
相変わらず長いセリフを詰まらずに喋り、なおも彼は続ける。
「正攻法は通じない。だったらやっぱりその『魔女』の言ったように、魔法の呪文とやらを探すしかないね。そして見つけるためには動くしかない。時間もないことだし、とりあえずは現場であるクール廃墟街に向かうことを提案するよ」
それはそうだった。あそこの住民は比較的裕福なこともあり、事の次第を話せば協力者が得られるかもしれない。
「わかった……だがその爆弾を発見できたとして、どうする? 無力化しようとしても絶対爆発するぜ?」
「そうだね。でも、どうしようもないだろう。それとも分の悪い賭けはしたくないかい?」
彼は意味深に笑いながら、そう言ってきた。
それに対する反応は、いつも一定だった気がする。
「……いや、やってやるさ。お前そこから中級兵器の使用許可を申請できるか? 俺がやるよりお前の方が通りやすいだろ。あの露出狂の死に方考えると、それくらい持ってないとな」
「わかった。僕も一時間くらい遅れるけど、そこへ行くよ。トキはどうするんだい? 今僕らが持ってる手札の中で、対抗出来そうなのは彼女くらいだし」
規定睡眠時間には全く足りていない……が。
「死んじまったら元も子もねぇ。がんばってもらうさ」
ミゾレのとの通信を打ち切り、少し冷えたコーヒーを飲み干す。
装備一式を体に纏い、扉の前へ進み出た。そこには鏡がある。十九歳の彼の姿が映っている。
もう二度、この時間、この場所を失うまい。
そう心に決めて、いざ顔体操と思うと、突然ドアが開いた。
そこにいたのはヴァンソンの助手……ではなく、寝巻き姿のトキだった。
今思えば最悪だったあの予知を思い出しながらも、急いでトキに駆け寄る。
「なんでお前ここに……いや、それより大丈夫なのか?」
トキはやはり調子が悪そうに見えるが、あの時のように取り乱してはいない。
「話し掛けないで、忘れちゃう……」
そう言って彼女は肺を空気で満たすように吸い込むと、
「吊るされた男が愚者に手を伸ばして、愚者は隠者と話しこんで、隠者は奇術師に、奇術師は全体に、そして愚者はあなた!」
言いきって、トキは大きく息をついた。そしてこちらに持たれかかるように体を預け、聞いてくる。
「ねぇ、私の言ったこと、覚えた? 私はもう忘れちゃった」
ルクセインはそこでようやく合点がいった。彼女は、夢で見たものをこちらに教えてくれたのだ。おそらくはその予知能力で、なにか緊急事態であることを察してくれたのだろう。
意味はわからない。だが、それが魔法の呪文の一つであることを願うしかない。
ゲームは今、スタートしたのだ。
4
星を眺めると、悲しくなる。
一番近いのは望郷の念だろうか。ルクセインには焦がれる故郷などありはしなかったが、それでも……だ。
しかしその悲しさはこの街を見れば跡形もなくなる。夜の廃墟街を。
「……怖い……ね?」
目立ちすぎる青い髪を野球帽子で隠して、トキが聞いてくる。
あの日の昼間、ここの住民に囲まれても吐かなかったセリフを、街に入って数秒で彼女は言った。
「にしてもお前、よく野球帽なんてあったな」
それには答えず、ルクセインは辺りに視線を送りながらそう言った。
まだ砦までは来ていない。日中誰もいなかった灰色の地に、今は多くの住民が移ってきていた。
明かりとなっている幾つかの焚き火はドラム缶。そこからは日常嗅ぐことのないような香りが漂っているが、壁のように男たちが群がっていて近寄ることは出来ない。
(麻薬か何かか……? いや、そんな上等なもんがあんなにあるわけねぇ。自家栽培した香草か。ほっといても大丈夫だろ)
ふと、トキが黙っていることに気づく。
「おい?」
「あ……ごめん、ちょっと眠くて」
微かに、笑う。
維機本部からここへの《feather cat》の中で、彼女にも事の大筋は話した。それに関するような予知をしてもらおうかと思ったが、顔色を見てその気が失せた。
「だから寝てろって言ったろうが。中級兵器の使用許可も案外楽に下りたし、心配ないって」
「ルクセインは約束を守らないからね。監視しなきゃ」
何かずっと誰かに馬鹿にされ続けている感がなくもなかったが、言い返せないのがなんとも悔しい。
「持って来たのはそれだけ?」
ルクセインが両腕にはめている腕輪を指差して、トキが聞いてくる。
「それだけっても、これは右手が《breaker》で攻撃用。左が《defender》で防御用で、なかなか強力なんだぜ? コンパクトになったもんだな」
おもわず二年前のミゾレを思い出す。時の流れは恐ろしい。
「さて……見えたな。あそこから中へいくぞ。もしかしたら襲われるかもしれねぇから、覚悟よろしく」
「すごぉい! すごいね、ルク!」
砦に入ったトキの感想は、あの時のルートとなんら変わりのないものだった。
ミゾレのように嫉妬するでもなく、ルクセインのように分析するでもない。純粋な感動。彼女を見て、それがすでに自分から失われていることを感じる。
砦の中はその密封性により、昼も光が差さない。だからこの時間でも人が起きているだろうと予測をつけたルクセインだが、大きく外れた。
彼らは予想以上にきちんとした生活習慣を形成しているらしく、この点でも都市に住む人間を上回っている。少し情けなくなってきた。
今二人がいるのは、らせん状のプレートを少し登った辺り、販売店のあるエリアだ。もうすでに暗闇に目は慣れて、視界に困ることはない。ミゾレの解説によればゴミを溶かして固めたもので整地された地面に、一定の間隔を空けて店が立ち並ぶ。しかしそのほとんどには明かりが灯っておらず、結局のところ人通りがない。
「道理で襲撃もねぇわけだ。しかし参ったな……ここに人がいねぇんじゃ、居住エリアに行っても無駄だろうし」
「でもどうして中にだけいないんだろ?」
雰囲気が変わって気が緩んだのか、帽子を外しながらトキが言う。青い髪が滝のように流れ落ち、すぐさま彼女の手によって一本にくくられる。
顔色は少し良くなったように見えた。無理をして振舞っているだけかもしれないが。
「さぁな。案外、『子供に悪影響を与えるから、夜間に砦内でたむろするのは禁止』とかあったりして」
「正解」
突然、全く別の声が割り込んできた。
このタイミング――
あの魔女を連想し、体が固まる……が、それはすぐに二人の前へと姿を現した。
「まぁ、肝心のオレが出歩いてちゃ何にもならないんだろうけど」
そう笑いながら話し掛けてくるのは、ちょうどトキと同年代程度の少年だった。
子供独特のやわらかな金髪と、瑠璃色の瞳。とてもルクセインの持っている廃墟街の住民のイメージとは噛み合わなかった。服はさすがに汚れた粗末なものを着ていたが。
「キミはだぁれ?」
少年に、トキが尋ねる。少年の身長は平均よりもかなり低く、トキよりも小さい。そのせいか少し年上のような口調だ。
「クリスっていうんだ。よろしく。あんたたち維機の人だろ?」
いたずらっ子のようにクリスが笑う……が、聞き捨てならないセリフだ。
「どうして知ってる、そんな噂が流れたりしてたのか?」
「お兄さん、世間を知らないねー。情報が欲しいならさ……ほら」
右手を出してきた。金か。
傾きかけた廃墟街へのイメージを修正しながら、ルクセインはポケットの中にあったぐしゃぐしゃの千円札を二枚クリスに手渡した。
「……はぁっ? 何これ? こんなもんここじゃ役に立たないよ」
額が足りなかったかと思ってポケットを探り始めたルクセインに、クリスは人差し指を立てて左右に振って見せる。
「違う違う。ここじゃそんな紙切れに意味はないよ。物々交換さ、なにか食べるものない?」
「あ、じゃあ私のおかし食べる?」
どこに持っていたのか、トキがチョコレートバーをクリスに差し出した。
そこでクリスは始めて彼女に気づいたような表情を見せ……そして赤面した。
「え?……あ、ありがと……」
風船がしぼむように小さくなるクリスの声と、それを不思議がるトキ。勝手にやってろと言いたかったが、貴重な情報源を手放すわけにはいかない。
「それで、お前は一体誰なんだ。なんで俺らが維機とわかった?」
「きれいな髪だね……あ、ホントだよ! 赤い瞳ってことは異能者なの? つらくない?」
「コラ」
すでにこちらに背中さえ向けているクリスに、ルクセインは怒りを押し殺した声を投げかける。
「て、め、え、は、誰だ?」
「……お兄さんは? 彼女のお父さん?」
「んな年に見えっかクソガキ!」
少し気にしていることを言われ、ルクセインは叫んだ。本当に馬鹿にされてばかりだ。
「紹介するね。これがルクセインで、私はトキ。ルクは私の保護者かな、頼りないけど」
トキにこれ呼ばわりされて、決める。あと十四時間はいくら馬鹿にされても気にしないことにしよう。
クリスはトキの「保護者」という言葉にうなづいて、先ほどとは少し態度を改めて話始めた。
「オレはここに父さんと二人で住んでるんだ。別に維機が来るなんて噂が立ってたわけじゃないよ。ここの住民はみんな顔見知りだからね、知らない奴が入ってきたらすぐわかる。そしてここにわざわざ来ようなんてのは維機ぐらい、ってね。ここで話すのもなんだし、オレの家来ない? そこで店やってんだ。喫茶店」
クリスの指差した場所……そこには照明がついていないまでも、看板に『パフェ』の文字が踊っていた。
5
少し前に誰かが「世の中に100%はない」と言っていたが、『パフェ』の文字にトキが逆らえることなど100%ない……と、ルクセインはずっと前から思っていた。
「おいしっ! これなんのフルーツなの?」
「ああそうか、トキちゃんは知らないか。それはここの砦の屋上で栽培してる、ツキオロシ、って果物さ」
クリスに連れられて入った店は、正直言ってかなり狭かった。カウンターのほかには丸テーブルが一つしかなく、床から食器まで全てのものはやや茶色がかった白色のもので……つまりは、ルクセインには分からない素材だった。しかし壁などには所々着色も施されており、白一色で異様に感じるということはなかった。
二人が話題にしている果物を一つ、トキのパフェから拝借する。クリスはトキにしかパフェを出さなかったのだ。
クリームを少しでも奪うとトキが激怒するので、なるべくクリームのついていない所から取ったそれを口に入れて――
「ぐぇ! なんじゃこりゃ、渋くて食えねぇぞ!」
イスから立ちあがってルクセインが叫ぶと、トキと二人カウンターに座ったままのクリスが「それはクリームにつけないと甘くならないんだ」とだけ言って、すぐ会話を再開した。
実を言うと、この状態がすでに十五分ほども続いている。このタイムロスに焦燥を感じているのはルクセインだけのようで、クリスにも「ここに爆弾が仕掛けられてるから協力しろ」と説明したが、父親がすぐに帰ってくるからそっちに言ってくれと軽くあしらわれてしまった。パフェに魂を奪われたトキには全く期待できない。
店の扉が音を立てた。三人ともほぼ同時にそちらに顔をやると、そこにはいかにも廃墟街の住民らしい格好をした男が、手のひらをこすり合わせながらこちらを見ていた。
様々な色のペンキが染み込んだ緑色のジーパンに、薄汚れた長袖Tシャツ。そして――
「ん? どうしたクリス。誰だ?」
その顔でこちらを見る、その男。
それは「あの時」、ルクセインとミゾレが見捨てていった男だった。爆発の中、助けを求め、最後に呪いを吐きながら絶命した男――。
「おかえり。なんかさ、聞きたいことがあるんだって。この砦の中に爆弾があるとかなんとか……まぁ、聞いてやってよ」
「あっ、てめぇまた店の材料で勝手に作りやがったな!」
親子の会話――といっても男は黒髪だ。血は繋がっていないのだろう。ここでは珍しくもない――も耳に入らず、ルクセインは呆然とした。
「あの時」、トキとミゾレもおそらく……いや、十中八九、死んだだろう。しかし実際にそれを見たわけではない。だから今のルートで会っても、それほど違和感を感じなかった。
しかしこの男の場合は違う。その顔を、その叫び声を聞いてしまっている。ルクセインは強い眩暈を覚えた。
「ちっ……まったく。材料はもう品切れだぞ。これじゃ明日は商売にならねぇなぁ……まぁ客がそうそう来るわけじゃねぇからいいがな。それで? そっちの兄ちゃん……維機か。なんの話だ?」
そう話し掛けられなければ、きっとその場に倒れていただろうと思う。
ふらつきながら、適当なイスに腰を下ろす。これから話を聞くほうが座るのなら分かるが、聞いてもらう側から座ったのでは多少礼儀に反する。しかし向こうはそんな礼儀がどうのこうのという育ち方はしていないようだ。
ルクセインから少し離れた場所にある丸テーブルにどかっと腰掛け、男は意外にも人の良さそうな笑みを浮かべた。
「安心しな。俺は頭から維機を目の敵にしようとは思ってねぇ。他の連中はどうか知らねぇがな。どうも奴らは自分たちがここにいるのを、維機に閉じ込められてると感じてるらしいな。そんなこともねぇんだろ? 実際いくらでも外には出られるし、出ねぇのはそいつらに根性がねぇからだ」
かろうじて、頷く。
こちらがまだ用件を切り出そうとしないのを見てか、男は話を続けた。
「しかし……だ。今言ったような奴らはいい。問題は俺やクリス、そして今では大部分と言っていい、ここで一生を終えたい奴らだ。どうだい、ここの街は他の廃墟街に比べてずいぶんマシだろう? 贅沢はもちろん言えねぇが、なんとかその日食べるものくらいは全員に行き渡る。孤児救済の為の制度も完璧とは言わないが機能してる。俺とクリスはそのクチでね。『家族』を形成すれば一定の土地がもらえるんだ……」
元々低い彼の声が、一層深く深く沈み込む……。
目が真剣味を帯びる。あの時と重なる。
「そんなのは全部、ここを安住の地にしたい俺たちの功績だ。そしてこれからも俺たちが引っ張る。今は不安定な時期だ、ここが正念場なんだよ!」
男が声を荒げたせいで、今まで弾んでいたトキとクリスの会話がぴたりと止んだ。
「……さて、話を聞こうじゃないか。ここに、俺たちの街に、なにがあるって?」
冷水を浴びせられたように、頭がすっきりとした。
ここでひるんではいられない。
「爆弾だ」
そう言いきると、男の額に青筋が立つのが確かに見えた。
「……証拠は?」
「今はない……が、後から来る相棒が証明してくれる。探知機でな」
「それで、俺に何をさせる気だ?」
トキとクリスも黙ったまま話を聞いている。
「探知機じゃ見つけられねぇ類の爆弾がある。そいつを探すために、地図が欲しい。あと万が一の時の為に、これから……」
ルクセインは懐中時計を取り出した。
「十四時間くらいで、この砦から全員脱出するようにして欲しい」
「そんなことが出来るか!」
男が立ちあがり、丸テーブルが転げた。
「さっき言っただろうが! 今は不安定な時期だと! それを爆弾が爆発するかもしれないから全員一度外へ出ろ、だと!? 論外だ!」
「だったら、ここの住民全部使って探させろ。じゃなきゃまとめて御陀仏だ」
「出来ん!」
男は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「爆弾があるなんて話になってみろ、ほとんどの住民が外へ逃げ出して飢え死にだ! それで人口の激減を食らった残りも、いずれはここを出て行かなくちゃならなくなる。俺たちにはここしかないんだ! 貴様のような連中には分からまい!」
怒りに震える男の脇を抜けて、クリスがこちらに駆け寄った。
「そうだ! 帰れ!」
そう言いながらクリスは何かを押し付けてきた。
それは大小二枚の紙。小さいほうに書かれていたメッセージを読んで、ルクセインは逃げるように店内から抜け出した。
6
実際には、その紙の大きさに大小はなかった。同じ大きさの紙を、片方四つ折りにしていたに過ぎない。
ルクセインはその四つ折りにされていた方の紙を広げた。予想通り、それはこの砦内の地図。おそらくB5サイズだろうとは思うが、ここの住民がどういった単位で紙を生産しているのか、また、材質自体も彼には見当がつかなかった。
見なれない地図を睨みながら、もう片方の紙に目をやる。
『一時間後、印の場所で。トキちゃんもつれてく』
あの短い時間で状況の変化を見て取り、判断し、さらに行動を起こした。あの年頃としては、クリスはずば抜けて頭の切れる少年だということなのだろうか(なにしろ、しっかりトキは離さなかったのだ)、それとも都市の人間が鈍なのだろうか……。
そんな年寄り地味たことを考えながら、ルクセインは次にすべき行動を摸索する。クリスの印をつけた場所はここからそう離れない所にあり、一時間ということも考えれば大した行動はできそうもない。
(どうせ意味のある行動したって役に立ちやしねぇんだ。だったら知り合いに別れの言葉でもかけていくかな)
幸いにも長距離トランシーバー……つまるところ電話は、所持していた。ルクセインのはカードタイプで、折り曲げると真ん中が割れ、その部分が伸びて電話の形になるという、少し変わったものだった。何事も周りと同じではつまらない。
とにかくその作業を実行し、耳を当てる側とは反対にあるボタンを押す。コードは……
(そうだ、クーモイの奴につなごう。っても今でも昔のコード使ってるとも思えないから、まずはUSの同僚のところだな)
電話はすぐにつながった。久しぶりのネイティヴな英語が話しかけてきて、脳が嬉しがっている。
「はい。こちらは……」
「ひさしぶり! アンだろ? ルクセインだ。クーモイのコードわかる?」
「ルク!? ほんっと久しぶりね……あんた、全然連絡よこさないんだもん」
「わりぃな。なんてーか……忘れてた」
「ったく……まぁいいわよ。それで、なんだって?」
「俺の昔の相棒いただろ? クーモイ=アルテ。あいつのコード教えてくれ。今こっちに来てるはずだから持ち歩きのをな」
「ごめん、もう一回言ってくれる? 誰だって?」
「クーモイ=アルテだよ」
「……? 誰、その人……」
その後はもう散々だった。向こうはクーモイを知らないと言う。こちらはそんなはずはないと言う。その繰り返し。
単に彼女が知らないというのではない――三人で食事をしたことすらあるのだから――。さらに、だったら俺の昔の相棒は誰だったかと聞くと、全く知らない人物の名前を出され、あまつさえその人物とルクセインがしてきたという仕事について長々と語られてしまった。
その後、何度、誰に繋げても結果は同じだった。
(なんつーことだ、これは……)
半分あきれたような気分になり、ルクセインはその場にしゃがみこむ。
(クーモイがいない……? いや、そんなレベルじゃねぇな。存在そのものが俺以外の人間に認識されていない。それはつまり……どういうことだ?)
立ちあがり、歩き出す。しかし歩いている方向にも見えている視界にも注意は払われていなかった。
表層部分のルクセインが徐々に下がり、思考を得意とする部分がどんどん前へ出てくる。
可能性はいくらでもある。
キリがいたずら気分でそうした可能性。
しかし本番だと言った彼女からは想像しにくい。
連絡を取った連中全員による狂言である可能性。
何の意味がある?
世界自体が別物である可能性。
これは始めのものと同じ理由で却下。
キリがやったのではない。
だがもしも、
キリ以外にこんなことが出来る奴がいれば……?
だが、
そんな奴はあの魔女以外に思いつかない。
最後。
これが最も可能性が高い。
今までのことが全て、
夢である可能性。
それが一番いい。
(そう……それが一番いい……)
ふらふらと、ルクセインは歩き続けた。
7
失敗したな、とトキは思った。
クリスがルクセインに何かを渡して、父親の弁護をした。そして彼は今どうにか父親の気を抑えさせようと、店の棚から酒瓶を取り出している。
クリスの行動が場を収めるためのものだったことは明らかだ。それに気付かなかったのは興奮した彼の父親だけだろう。
失敗した、と思ったのは、ルクセインが出て行くときに一緒について行かなかったことだ。クリスが信用できないわけではないが、やはり一人で廃墟街にいるというのは不安だった。
実を言えば、かなり疲れていた。規定睡眠時間に全く足りず、廃墟街という気を緩ませられない土地を歩いたのだから。
疲れはトキの人生では隣人のような存在だった。いくら規定睡眠時間を満たしても、頭の中に蜘蛛の巣が張ったような感覚からは逃れられない。
(だから私は甘いものが好き。中でもパフェが好き。もう限界っぽくて、ルクに迷惑をかけちゃいそうだったから、パフェが食べれると思った時は本当に嬉しかった。パフェを食べれば、しばらくは動けそうだったから。でも食べた後すぐに元気が出るわけじゃなくて……)
とっさに動くことが出来なかったのである。
(でも、もう大丈夫。動ける。ルクは遠くへ行っちゃったかな? クリス君が待ち合わせの約束でもしてればいいけど……)
「いやー、まいったまいった。短気なくせに話し合いなんかしようとするからいけないんだよな、父さんも、あの兄ちゃんも」
おそらく酒をこぼしたのだろう。シミのついた服を嗅いで顔をしかめながら、クリスが言った。父親の姿は見えない。
「酒を飲ませて向こうの部屋に投げてきたからさ、もうしばらくは目覚めないよ。さて、それでオレはどうすればいいのかな。出来ればこのまま君と話でもしていたいけど……」
「ルクの場所、分かる?」
相手が言い終わる前にそう言うと、クリスはわざとらしく溜息をついた。
「あーあ、あの兄ちゃんには負けないと思ったんだけどなぁ……。どこがいいの? あの人。まぁ顔は悪くないけどさ、老けてるけど」
「いいとこなんてどこにもないの」
トキはきっぱりとそう言った。
「ケンカはよくやるけどたまに負けたりするし、何かスポーツが出来るわけでもないし、頭ははっきり言って悪いし。何言われても平気みたいな顔してるけど実は神経細いし、パフェ買ってって言ってもほとんど買ってくれないくらいケチだし」
「おいおい……」
「でも、なんとなく大物っぽい気がするの。一緒にいると楽しいの。だから、今はクリス君より優先しちゃう。ごめんね」
そう言って、トキは頭を下げた。
クリスは少し驚いたような表情をしてから、苦笑いを浮かべた。
「今は……ね。燃えさせる言葉だ」
ポケットから四つ折りの紙を取り出した彼は、それをカウンターの上に広げた。
「これ、砦の地図のスペア。兄ちゃんにも渡してある」
トキはこの砦の構造を頭の中に思い浮かべた。円形のドーム――というには上に伸びすぎているが――の中を、らせん状のプレートが巡っている。そしてその上に住居や商店が建ち並び、辿っていくとやがて屋上に到着する。
普通の建物は一階、二階という風に明確な仕切りがあったが、ここにはそういったものはない。一体どんな地図になるのだろうと覗き込むと、そこには見なれない棒グラフが書かれていた。
「何これ?」
よく見ると棒グラフにしてはちょっと幅が太過ぎる。
「ほら、ここって地形がらせん状で分かりにくいでしょ? だからそのカーブした床を無理やり真っ直ぐにして書いたのがこれ。この線とこの線の間が」
クリスは地図に指を這わせる。
「……オレたちのいる商店エリア。それでここで兄ちゃんと待ち合わせしてる」
そう言われて納得はしてみるが、どうにも使いにくそうな地図だった。
「というか、ここの人間で地図に頼る奴なんていないけどね。これは工事でどこそこがどんな風に変わりました、ってなことを住民に知らせるために、ここを管理しようとしてる連中が発行してるものさ。そうだね……月に一回くらい配られるかな」
なるほど、それなら一つの家に地図が二つあっても不自然ではない。
「……ちょっと私が見ても分からないなぁ……」
「いいよ、オレがついて行くからさ。砦の中は安全のはずだけど、それでもやっぱ危ないところだからね」
「ありがと」
クリスはおそらくこの家に唯一であろう、カウンターに置かれたアナログ時計に目をやった。
「……うん、少し早いけどもう行こう。途中で色々説明しながら行けばちょうどいいよ」
そう言ってクリスが外へ出る扉を開けた。その時だった。
「悪い……な」
聞いたことのない低い声がして、クリスの体が宙吊りになった。
わけが分からないという顔で声の方向を見る少年は、やがてトキの方へ向かって投げ出された。
「きゃっ!」
クリスに押しつぶされるような形で、トキも床に這いつくばる。
声の主が店の中へ入ってきた。
「やはり……少年だけが気を失ったか。父親が起きてくる様子もない。奴の言う通り……か」
それは小柄な男で、腕に見たことのあるものをはめていた。ルクセインが両腕にはめていたのと同じ、中級兵器だ。
「さて、お前が異能の少女か。不本意ながら、利用させてもらう」
その言葉も耳に入らず、トキは呆然と男を見上げていた。
やや丸顔。太っているというよりは、がっしりとしている体躯。
比喩するならば、そう、ダルマだ。
ルクセインならばきっとそう呼んだことだろう。
8
水の代償に、ナイフを一本くれてやった。
知らない間に踏み込んだエリアは、どうやら居住区だったらしい。錆びた金属の色が目立つ、民家が敷き詰められた土地。
時刻は一時五十分。給水所のようなタンクが壁にあり、喉を潤そうとすると、『水と交換・なんでもいいから置いていけ』と日本語で書かれた看板が目に入ってしまった。
適当なものがなかったので、とりあえずその看板に暗器のナイフを刺しておいたのだ。価値としては十分だろう。
ルクセインはそんなことを考えながら、蛇口から流れ落ちる水に口を近づけた。意外にも、普段飲んでいる味と変わらない。一度沸騰させたものかもしれない。
不思議なもので、何かが喉を通ると、例えそれが水であってもかなり落ち着く。一度深呼吸して辺りを見回す。自分はいつの間にこんな所へ来たのだろう。
クリスからもらった地図を広げる。先ほどから思っていたのだが、この地図は分かりにくい。なんというか……自分の現在位置が特定できないほどに。
自分の現在位置が分からない。それはつまり、端的に言うとこうなる。
迷った。
「っかぁ……」
頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。体の疲れ具合からして、そんなに大層な距離を歩いたわけではないと思うが、屋上に向かったのか、その逆なのかが分からない。
クーモイが存在しないという事実について、ルクセインは徹底してプラス思考に考えることに決めた。これは一つのイベント。クリアへの前進、と。
そしてその前進は知人に電話をかけるという、全く意味のない行動から生まれた。そういった意味では、この状況はそう下策でもない。ブラブラしていれば、何かに出会うかもしれないのだ。
しかし頭を悩ませるのは、置いてきたトキの存在だ。クリスがついているから大丈夫だとは思うが、場所が場所だけに安心できない。
(そういや、なんで俺はこんな簡単にクリスを信用してんだ? らしくもねぇ……)
だが調子が出ないのは今に始まったことではない。
外れかけた思考の道筋を修正し、なんとかまとめる。
つまり、とりあえずは帰り道を探せばいいのだ。本人は道を探しているつもりでも、きっとブラブラしているのと変わりないだろうから。
そう結論を出して、立ちあがった時だった。視界の隅に人影が見えた。
(ここの住民? いや、見間違いじゃなきゃあの服は……)
人影は家と家の間にある路地へと姿を消した。
ルクセインはそれを走って追いかける。
路地へ入り込むと、今まで砦内を照らしていた照明の光も届きにくくなった。路地はルクセインの両手が広がるくらいはあって、走るのに不自由ということはない。
(いない……見失った? しかしここは一本道、そんなに足が速いわけはねぇ……ってことは!?)
破壊音が鳴り響くのと、ルクセインが前方へ飛び込むのとは、ほぼ同時だった。
すぐに左手の《defender》を起動、不可視の力場を発生させ、身の安全をはかる。
襲撃者は、民家の屋根から降りてきた。路地に入ったあとすぐに屋根に登って、ルクセインを待ち伏せていたのだ。地形の都合上、この砦内の建物は押しなべて背が低い。
相手はゆっくりとこちらへ歩いてきた。その距離が縮まって、お互いの顔が確認できるようになる。
ルクセインは目を見開いた。
「――んなっ……バカな……」
「もし俺が心理学者だったなら、お前は実に興味深い実験体だろうな…・・。他人が苦しむのを見るのは楽しい。これは心理学者に対する侮辱なのかもしれないが、俺はそれをよく知らないので、仕方がない」
色のあせた金髪。背が高く、細身ながらも筋肉質な肉体。
維機の軍服。
「ルン=キャパス……だと?」
「驚くことか? いるはずの人間がいなかったんだ。いないはずの人間がいて何が悪い」
その男……ルン=キャパスは口元を歪めるようにして笑った。
冷や汗が浮いてくるのを感じながら、ルクセインは一歩下がった。
「……なんのことだ?」
「くだらない小細工はやめろ。俺は全て知っている。クーモイ=アルテは存在しない……お前の記憶の中の、という意味だが」
話を聞きながら、目だけで相手の武装を確認する。両手首に《defender》と《breaker》、暗器の類はわからないが、実弾系の下級兵器は持っていない。先ほどの攻撃は《breaker》によるものだ。
(それなら、俺のほうが有利)
腰に下げる《lance改》を確認しながら、ルクセインは少しだけ安心した。
「悪いが、このゲームに関して真面目に考えることを止めてるんでね。聞きたいことも特にない」
「おかしなことを言う奴だ。用もないのに追って来たのか?」
そういえばそうだった。
「……だからって、いきなり奇襲をかけられる覚えはないぞ」
「ふーん……それよりお前、考えることを止めたと言ったな。それでいいのか?」
「いいも悪いもないさ。いや、はっきり言って考えれば考えるほど不利になっていく。逆に考えなければ、この通り。物語は先に進むじゃないか」
ルクセインは皮肉げに笑った。
「それは考え方が間違っていたからだ。常識に縛られたまま、このゲームを解こうとするからそうなる。今は違うだろう? 世界自体を疑って考える、その感覚で考えてみろ。次に打つべき手が見つかるはずだ」
「……なんでだ?」
ルクセインは当然の質問をした。
「なぜお前が、俺にそんなことを言わなきゃならねぇ? お前は全てを知っていると言ったな、だったら……」
彼は知っているのだろうか。
目の前の相手が、自分を殺そうとしたことを。
「ああ、知ってるさ……。だが、それは無視だ。理由がある」
彼はそこで、溜息のように息をついた。
「俺と組め。そうすれば、この馬鹿げたゲームをクリア出来る」
話し合いはそこまでだった。
ルクセインは手首にはめた《breaker》を一度ひねり、起動させる。
ルン=キャパスが後ろに飛び退く。彼のいた場所をやや赤みかかった煙のようなものが通過し、
そのまま、横の民家を貫いた。
《breaker》は、防御用力場である《defender》とは違う、付加的に熱を発生させる圧力を作り出す。さらにそれは設定によりある程度、形を操作できる。ルクセインは自らの手の動きを反映させるように設定しているため、今は右腕に巨人の腕が張り付いているような状態だ。
壁の残骸がまだ空中を舞っている間に、ルクセインは突進する。《breaker》により凶器と化した右腕で、立ち止まったルン=キャパスに殴りかかる。
溶けた鉄を水につける音がした。
ルン=キャパスの《defender》が力場を作りだし、それに阻まれたのだ。
「――ははっ、らしくなってきたじゃないか! ルクセイン=クゥ!」
彼はそう叫び、お返しとばかりにルクセインの胸に蹴りを入れる。
よろめきながら、ルクセインは《breaker》を切り、《defender》を起動させる。両者は同時には使用できない。
ちょうど入れ替わりのように、ルン=キャパスは《breaker》を突き出してきた。彼のははばの広い剣のように設定されていて、貫通力が強い。
再び、あの音が響く。
「ルクセイン=クゥ! なぁお前、本当に俺と組まないか?」
ルン=キャパスは攻め続ける。《defender》はその燃費にウィークポイントを抱えており、長く起動すると徐々に出力が下がるという特徴があった。
つまり中級兵器どうしの戦闘は、相手の《defender》が弱まるまで攻め続けた方の勝ちなのである。
「お前は俺を殺すつもりでいるな! 今までも、大した戦争がなかったとは言え、殺しをやったことがないわけではないだろう! いいじゃないか、俺たちはアウトサイダー! 俺たちは仲間さ!」
ルクセインの《defender》は起動し続けている。
「結局……育ちなど人間の本質には関係がないな! ただ都市の人間は都市に、弾かれ者は廃墟街の社会に適応したに過ぎない! なぜなら、俺たちはこうも酷似しているじゃないか!」
言い切るのと同時、彼は大きく一歩踏み出した。
ルン=キャパスの《breaker》が、ルクセインの《defender》を貫く。そのまま肩をかすめ、肉の焦げる匂い。
ルン=キャパスの表情が一変する。彼は相手の心臓を狙ったのである。それが躱され、今は態勢を崩された自分がいる――。
ルクセインは彼の胸倉と《breaker》の装着された腕を掴み、背負った。落とす際も腕は離さず、かつ、頭から。
にぶい音が鳴り響き、辺りは一度、静寂に戻った。
9
人を殺せば、自分が殺されることを許容することになる。だから、人は殺してはいけない。
始めて人を殺した時、『なぜ人を殺してはいけないのか』という命題に対して、ルクセインが出した答えである。
それがあまりにも利己的な答えで、他の答えを必死に探したが、見つからなかった。もっと自分を責める材料が欲しかった。
その答えは、『戦争に参加する人間は全て人を殺す意思がある、つまり、戦争で人を殺しても罪ではない』という方程式を成り立たせてしまうのだ。では銃を持った人間は皆、殺されても仕方がないのか? さらに言えば、人という存在自体、他の生物を殺しているのだ。だったら、他の生物から人間が殺されても仕方がないのか?
その答えが正しいのかどうか、未だに答えは出ない。
ふと現実に立ち戻り、足元を見る。ルン=キャパス。彼は生きていた。
ルン=キャパスは語る。
「……こんな嘘ばかりの世界で、俺たちは生きているんだ。いや、嘘ばかりの俺たちが生きるのが、この世界だったのか……。死の瞬間を想像すると、無意味に恐怖が沸いてくるというのに、どうでも良くなってくるもう一人の俺がいる。開放を望む僕がいる。一番、自分の中にいる複数の自分を感じられる瞬間だ」
それは意外なほど楽な表情だった。首の骨も完全に破壊されているはずだが、見た目では判断できない。
「おかしいのは、生きることを望む人格だ。特に俺のような、生きるのがつらいという人種の場合は。人間、どうやったって死ぬ。何をしたって無意味だ。……生き続ける限り、終わりの無い炎の中で焼かれ続けるだけだというのに、それでも奴は死にたがらない。あの時……お前が俺を撃とうとした時、次に生きるならその、生きたい俺に従ってみようと思った。なぜなら、それが、とても綺麗に見えたから」
息が荒くなってきた。
「しかし失敗した。なぜだろう? なぁ、教えてくれよ、ルクセイン=クゥ……」
それから、二人は少しばかり会話をした。ルン=キャパスの問いには答えない、ルクセインの一方的な尋問だった。驚くような内容もあったし、話しながら思い出すこともあった。
やがて、それは二人の意思とは関係なく終わった。
ルクセインは作業をした。死体から二つの中級兵器を抜き取り、手首にはめる。これで装備はより充実した。
立ち去ろうとして、つぶやく。
「教えることは出来ない。ただ喋ることなら出来る。それは、お前がここに現れて、それを俺が見つけて、……俺がお前を怖く感じて、殺したからだ。教えることは出来ない。俺も、理解なんてしていないから」