予定運命の輪 〜questions of the witch〜 第四章
作:沖田演義





   第四章 〜隠者は朗々と〜


   1

「くそっ!」
 叫んだ男を、トキは見上げた。
 連れて行かれた先は、崩れそうなほど古いプレハブ小屋だった。とは言っても、この廃墟街に置いては標準的である。
 彼女はスプリングの死んだソファに座っていた。別に手を縛られているわけではないし、まして口は自由だ。しかし、トキは一言も喋っていなかった。男に「逃げるな、喋るな」と言われたからだ。
 恐ろしかったわけではない、ただ、逆らう気がしなかった。そういう人種がたまにいる。
「どうなってる……どういうことだ! 俺の……俺の……!」
 男はもはやトキの存在など忘れているようだった。先ほどから一人で叫び続けている。
 部屋にはソファが一つ。他には何もない。しかし部屋は広いので、これはおそらくトキを座らせるために用意されたものだろう。誘拐犯にしては気が利いているな、とトキは思った。
 ふと、部屋の隅に白いナイロンの袋が置いてあるのが見えた。なんとなく、食べ物が入っているような気がする。
 いきなりルクセインにたたき起こされてから、すでに六時間。その間、パフェしか食べていないのだ。
 自然、その袋にトキの視線は釘付けになり、今まで男に払っていた注意が薄れた。
「……腹が減ったのか?」
 いつの間にか、男はトキに注目していたらしい。トキはびくりと体を震わせたが、一応相手の目を見て、頷いた。
「その中に菓子パンが一つ入ってる。勝手に食え」
 そう言って、男は長距離トランシーバーを胸ポケットから取り出した。先ほどから、何度も使っては元に戻して、そのたびにうめいている。
 恐る恐るソファから立ち上がり、トキは袋を覗き込んだ。その中には数冊の本と、廃墟街で買ったと思われる、再生紙に包まれているメロンパンがあった。
 本は全て空間理論に関するものだった。トキの読んだことがあるものもあった。彼女は童話と同じ感覚で学術書を読む。
 男の声が背後から聞こえた。
「――ああそうだ、クーモイ=アルテって男を捜してる。知らないか? 空間技術の第一人者で、あんたの所の研究所に所属しているはずなんだが……。――そうか、わかった。邪魔してすまなかったな」
 男は、手に持ったトランシーバーを床に投げ、それを踵で踏みぬいた。物の壊れる小気味良い音がした。
「俺の情報が……消去されている……か」
 パンをほお張りながら、トキはその男を観察した。ここでパンを分けたりしてあげれば少しは仲良くなれるのかもしれなかったが、別に仲良くなりたくなかったので全部自分で食べてしまった。
 しかし、先ほどから彼は何をうめいているのか。なんとなくだが、クーモイ=アルテというのは自分の名前だろう。自分探し? 意味が分からない。もっとも、誘拐犯に理屈を求めるのが無理というものかもしれないが。
 沈黙が流れた。
 トキは視線をキョロキョロと動かしていたが、この部屋には視線を固定しておくものがなく、仕方なしに彼女は口を開いた。
「……ねぇ。私は何のために誘拐されたの?」
「喋るなと言ったぞ」
「でも、あなたは会話したがってるみたい」
 再び、沈黙。
「……お前、なんの異能なんだ?」
 男は――やはりと言うべきか――話しかけてきた。
「え? 私が異能者だから攫ったんじゃないの?」
「違う。俺はそれほど異能を評価していない」
 トキにとっては驚くべき台詞だった。
「評価していない?」
「ああ」
「私の力が、大したことないっていうの? 侮辱ね」
 そこで男は、始めての笑みを見せた。
「大したことない、なんてもんじゃない。無意味だ」
「私は未来が読める」
 そこで言葉を切ったのは、相手の驚く顔をゆっくりと鑑賞したいからだった。トキは自分が怒っているのを自覚する。
 しかし、男の表情は全く変わらない。
「無意味だ。未来など読めて何になる? それを活用するのは、現在の自分たちだ」
「屁理屈? それとも現実逃避って言うのかしら。あなたクーモイ=アルテって言うんでしょう? 何かまずい事があったんじゃない。独りで呟いてたわ」
「まぁな。最良の策が潰れて、選択肢が少なくなった。最初の質問に答えてやろう。お前を攫ったのは、その最良の策に利用するためだった。そして次は、別のことに利用する」
 トキはその場ですぐに『見』始めた。
(別のことに利用? そんなこと無理、私には未来が見える。あなたがどんな手を考えようと。私がどれだけこの力のおかげで苦労してきたのかを、あなたは知らない! だからこの力を過小評価するの。知らないから、知らないから、知らないカラ……)
 通常の視界とは別に、トキの脳内で展開するもの。それは段々大きくなって、彼女の意識を押し退ける。
「……え?」
 見えた世界は、現実と大差なかった。
(これは……彼は、私に未来予知を『わざと』させた? 私にこの映像を見せるため……私は、これを彼に言わざるを得ない……)
「言ったろう。力を活用するのは、現在の人間だと」
 頭がガンガンする。そう言えば睡眠が全く足りていなかった……。
「早く話せ。お前はすぐに忘れてしまうのだろう? 話さなくてもいいような内容ならば、別にいいが」
 この男は初めから、トキの能力も、トキがここにいる理由も、全て分かっていた。
(悔しい……! でも……)
 トキはゆっくりと口を開いた。


   2

 目が覚めると、残り時間は九時間になっていた。
 ルクセインは懐中時計を見ながら、ようやくそれだけの計算をした。
「……くぁ」
 正直まだ寝たりなかった。睡眠不足だったわけではなく、疲れていただけだ。
 起こしてもらわなければ終わりまで寝たままだったかもしれない。それはそれで死に方としては上々ではあったが。
「全く……どんな神経をしていたらこんな道の真ん中で、しかも爆発を目前にして寝られるんだい? ますます、ルクセインの言うことが信じられないな」
 ルクセインを起こした男は、小さなメガネを触りながらそう言った。
「まぁ……とりあえず信じるけどね。確かに《eye[》に妙な反応がある。《NIGHT》と思って間違いないよ」
「……そうか」
 それだけ、ルクセインは呟いた。
 彼……ミゾレは、まだ寝ぼけている様子のルクセインに構わず、会話を続けた。
「しかしひどいものだよ。僕はここが始めてだというのに、来てみれば相棒はいない。何も知らずに歩いてみれば、いきなり襲撃される。なんとかそれを切り抜けて、少し歩いた先には死体みたいなルクセインがゴロリ」
 そこは未だにあの居住エリアだった。あの後、ルクセインは適当なベンチに転がって休んでいたのだが、どうも寝てしまったらしい。もっとも、目が覚めた位置はベンチからかなり離れていたが。
 ミゾレはこちらに着いてから何度も連絡を取ろうとしたらしいが、繋がらなかったらしい。そういえば、トランシーバーは腹が立ったので壊してしまっていた。
「それで? そのクリス少年の父親に怒鳴られてあちこちさ迷っているうちに、ルン=キャパスに出会った。その先だよ」
「……喧嘩になって、勝った」
「それだけ?」
 ミゾレの質問は、相変わらず厳しかった。
「……それで、あいつは死ん……、殺した」
「そんなことじゃなくて、何か手がかりになりそうなことは?」
 その言い方に一瞬むっとしたが、ここで仲違いでもして別行動になるのは避けたかった。
「俺の記憶の中のクーモイはいない、とか抜かしてやがった」
「……ふむ。それはつまり、ルクセインの記憶外のクーモイ=アルテは存在するということだね。もちろんルン=キャパスの言葉が全面的に正しいという前提の元でだけど」
 ミゾレはこちらに手を差し伸べながらそう言った。
 その手を取って、ルクセインは立ち上がる。体中についた土を払って、一つ深呼吸をした。
「それと、今の俺の思考なら、次にするべき行動が見つかるはず……とか」
「うーん……どうにも言うことがはっきりしないね。出来れば本人から聞きたかったな、なんで殺したのさ?」
 ルクセインはミゾレを睨みつける。
「うるせえよ。俺が趣味でそんなことすると思ってんのか? 身の危険を感じた、もしくは殺す必要があった、それ以外にどんな理由もあり得ねぇ。それに、俺たちの鉄則だろうが。殺しのことは忘れる。そんなこともわからねぇなんざ、頭でっかちが情けねぇんじゃねぇのか?」
 それは久々の毒舌だったのだが、ミゾレは相変わらず涼しい顔で受け流す。
「なかなかルクセインらしくなってきたじゃないか。良い傾向だと思う」
 自分らしく――
 ルン=キャパスもそう言った。
 なんだ? それ。
「さて、いつまでもここで話しをしているわけにもいかないね。今ざっと考えたところ、選択肢は四つほどある。一つ、トキを探す。二つ、《NIGHT》を探す。三つ、クリス少年の父親を説得して、ここの住民全部で《NIGHT》を探す。四つ、《NIGHT》はひとまず無視して、発見できる爆弾だけ処理していく。ルン=キャパスの言葉を信用して、ここはルクセインに選んでもらおう。さぁ、どれ?」
 ぼんやりとしている頭を一括し、彼の事務的な言葉を解析し始める。
 感情は一つ目を推していたが、思考は三つ目を推奨していた。
「とりあえず……四つ目は却下だな。周りの奴を処理しても、《NIGHT》が爆発したら終わりだし。二つ目も……一番手っ取り早くて俺好みなんだが、いかんせん人手が少な過ぎて、却下。一つ目と三つ目に関しては、とにかくクリスの家を見つけなきゃならないという点で同じ。よって答えは一つ目と三つ目、両方選ぶ」
 ミゾレは軽く頷いた。
「うん、そうだね……普段ならそれでいいんだけど……。ルクセインの話だと、どうも理詰めで行動した時は良い結果が出てないのが気になるね」
「そりゃきっと、合わねぇことしてたからだな。今度は人間の皮に屁理屈を詰めたような奴が一緒だから、大丈夫だろ」
「さて、誰のことかな? ……ところで、地図を見せて」
 地図を渡すと、ミゾレは一瞥しただけである方向を指差した。
「あちらが、商店エリア。ここが居住エリア。このままずっと上へ行くと、屋上」
「……分かるのか、お前……」
「それはそうさ。地図だろう? これ」
 ルクセインはミゾレから地図を取り上げてしばらく睨んでいたが、やがて諦めて商店エリアの方角へ進み始めた。気付かなかったが、《eye[》も上空を飛んでいる。
「そうそうルクセイン。僕としたことが、中級兵器を本部に忘れてきたんだ。見たところ君は二つずつ持っているようだから、一組僕に譲ってくれないか?」
「やだね。《eye[》があれば充分だろ?」
「僕はルクセインより弱いから」
 ミゾレは表情も変えずにそう言った。
 それは事実だった。ミゾレはD地区の維持機構では最弱に近い。しかしその『弱さ』とは、素手同士での肉弾戦によるもので、実戦においてはかなり闘えるだろうとルクセインは踏んでいた。
 しかし、この発言でその評価を一段下げなくてはならないな、と思った。実戦では慢心に近い自信が必要とされる。そうは言っても、ミゾレに会うまでは自分も判断力をすっかり失っていたのだから、人のことは言えないが。
「いいぜ。くれてやる」
「しかし……ルクセインとゆっくり話すというのは、なかなか久しぶりだね」
 中級兵器を受け取ったミゾレは、いきなりそう言ってきた。
「ゆっくり話してる状況じゃないけどな」
 二人は傾斜のある道を歩いて降りた。もしも自分たちを世界の外側から見ている奴がいれば、さぞ気を揉んでいるだろうとルクセインは思う。しかし、当事者は意外と早く状況に慣れてしまうものなのだ。それが例えどれだけ大きな事柄であっても。
「……やっぱ、凄ぇな」
「何が?」
 ルクセインは自分の歩く左側、つまりはらせんの道の内側を見た。
 そこからは底を完全に見ることは出来なかった。もちろん薄暗いせいだが、それはルクセインに遥か高い場所にいるという錯覚を見せる。
「ここさ、この砦……ここの住民連中」
 ミゾレが嫌がることは承知だった。
「さてね……僕にはどうも信じられないけれど。しかしまぁ、現実にあるのだから、誰かが造ったんだろうね。生活するのも一杯一杯なのに、やけに茶目っ気をだしたもんだ。強度や利便性を見ても合理的とは言いがたい」
 苦しい言い訳だ。ルクセインは思わず笑ってしまった。
 しかしミゾレは構わず続けた。
「確かに造ったのは一種の天才だろうけど、力のベクトルが間違ってるよ」
「そうかな、俺にはこれが思い上がった外の人間に対して投げられた、せめてもの一石に見えるね」
 少し知的ぶって、ミゾレに皮肉ってやる。
「これで一矢報いたと? くだらない。芸術家なら絵でも描けばいい」
「お前、そんなことを創作家に言ったら手痛い目に遭うぞ。『キャンバスは世界そのものです』ってな」
「……久しぶりに突っかかって来るね、今日は。ここ一年ほどはなかったことだ」
 ルクセインとミゾレは、昔から意見が分かれることが多かった。
 その二人の数少ない共通意見が、『会話で一番おもしろいのは討論である』だ。対決方式は決まっている。脱線歓迎の自由討論、ルールは手を出さないことのみ。


「じゃあ聞くが、お前の考える正しい天才ってのはどんな奴だ?」
「コンスタントに結果が出せて、未来の計画が立っている人物。決して突発的でなく、最終的に誰よりも大きな利益を狙う人物」
「うっわ、一般論と正反対」
「一般論から大なり小なり外れるのも、天才の条件かな」


   3

 その頃、クリスは目を覚ました。


   4

「分かんねぇ奴だな、冬は寒いモンなんだよ! 寒くなきゃ鍋は食えないし、コタツだって使えねぇだろうが!」
「寒くなくても鍋は食べられるし、コタツなんて今ごろ使っている人はいないよ。そんな小さなメリットを見るより、あの巨大なデメリットをごらんよ。朝、僕が床から起きるのにどれだけ苦労していることか」
「気合だよ気合。そうだ、俺が前から言ってる顔体操、やってみたか?」
「論外だね。無意味な上に、恥ずかしいことこの上ない」
「誰も人前でやれとは言っちゃいねぇよ」
 二人は睨み合った。

 
   5

 未だにトキは夢の中。


   6


「おかしいじゃないか? 人間が自由だと言うんなら、本能はどういうことなの? 特に子孫を残そうとすること。実に不可解だ」
「みんなガキが好きだからだろ? 嫌いな奴は、作らない。本能に逆らうことも出来るだろうが」
「そんな半端な動機で子供を作るから、近頃の事件が起きるんだ」
「論点がずれてるぜ」
「いつものことだろう?……あ、そこから商店エリアに入って」
「おう」


   7

 キリは目を瞑っていた。


   8
 
 カラカラと、再生紙のパックが転がっていく。ここは密閉空間で風などないと思っていたが、よく考えれば空気を換えるための換気扇くらいはあるだろう。
 その場所は一種の広場的な土地らしく、建物による圧迫感からはいくらか開放されていた。そのぶん人気のなさが目立つようではあったが、そんな些細なことはもはや気にすることが出来なくなっていた。
 しばらく転がるゴミを見ていて、気楽でいいと羨ましがる。
 その感傷が我ながら変で、ルクセインは苦笑した。
「ふう……久々に喋ったからな。大分すっきりしたぜ」
「それは……お役に立てて嬉しいね」
 商店エリアに戻ったルクセインは討論をそこで止め、ミゾレの前に立って歩き始めた。
「それで、これからクリス君の家へ案内してくれるんだね?」
「ああ」
 短く答えて、ミゾレのほうは振り向かずにそのまま進む。
「しかし……不思議だね。この町並みを見ていても、まったく現実と差がないんだ」
 後ろで姿を見ることは出来ないが、彼はおそらく何度も頷いているのだろう。
「もしこれが君の言うように、異能者一人によって為されたものだとしたら、それはとんでもないことだ。全く素晴らしい。現代の最先端技術を結集させたとしても、このレベルのリアリティをバーチャルで具現化するのは、家一軒が限界だろうね。もちろん、プレイヤーは一人のみだ」
 足を踏み出すたびに、体は前進して、自らを目的地へと運ぶ。
「ああ、これが仮想現実なのだと、早く誰かに証明して欲しい! そうすれば僕は奇跡のテクノロジを体感していることになる。そしてまた夢を一つ増やせるんだ。この現象の原因を突き止める……ああ、待ち遠しい! 早くそのために行動したい!」
 足は脳の意思に逆らわない。ただ、心には逆らうことが多いようだ。
「ところでルクセイン。ここはどこだい? まるで人一人殺しても誰にも見つからないような、そんな場所じゃないか」


   9

 時計を見ると、五時間ほど進んでいた。
(……痛っててて……これだから外の連中は嫌いなんだよなぁ……。自分たちは清廉上品ですよーって顔して、実は俺たちよりも無法者なんだ……)
 クリスは痛む首元に手を当てながら、起き上がった。トキがいない。
(うーん、どうだろ……。あのコは出来れば助けたいけど、相手は維機だしなぁ……反抗したのがバレたら、ここを追い出されかねないし。あの兄ちゃんがこれを知ったら激怒しそうだけど、そっちの方がマシかな? いや……あの人種は軽蔑するだけだね。怒ってはくれないや、きっと)
 カウンターに回り、普段は開けない引出しを覗く。
(好きなんだけどなぁ……ああいう性格。でもこれがここの生き方だから、仕方ないね。来世ではトキちゃんとも、あの兄ちゃんとも仲良くなれるといいな……。よし、このことについてはこれで終わり。さ、て、と……まずは父さんでも起こすかな)
 引出しから取り出したのは、一丁の拳銃。維機では下級兵器などと名付けられてしまう代物だが、廃墟街においてはまだまだ通用する武器だ。
 小口径だがずっしりと重いそれを、クリスは顔の高さまで上げ、溜息をついた。
(……あーあ、でもなんでこの右手は頭に逆らうのかね、気持ちには忠実ですこと。大人になったらなんとかなるかな? このクセ……絶対損しかしないや)
 思考はそこで強制的に切り換えられた。
 警戒した兎のように、クリスは敏感に反応する。
 足音だ。
(こっちに向かってくる。歩幅が広い……相当鍛えられてる。維機? 兄ちゃんだったら悪いけど、確認してる暇ないね!)
 弾丸をいつでも放てる状態にしたあと、空気の動きすら押さえ付けるように、クリスは息を潜める。
 足音が止まり、その主が店の扉に手をかけた。
 扉が動くのと同時、クリスは両手で構えたそれを発砲させた。強烈な反動をなんとか抑えこみ、カウンターの後ろへ駆け込む。弾を打ちこまれた扉は、しかし見かけの上では変化がない。貫通はしてくれていると思うが……。
「父さん! 裏口から逃げて!」
 それが届いているかどうかは定かではない。しかし全力で叫んだ以上、もうそのことについては忘却する。
 おそらく先ほどの襲撃者――誘拐犯? どちらでもいい――だとは思うが、扉の影からは何の反応もない。
(どうして出て来ない? 当たったのか? いや、当たったならそれなりのリアクションがあるはずだ。中級兵器で防がれたか、かわされたかしたんだ)
 持久戦になれば武装が違うので勝ち目はない。どこかへ逃げ込んで、奇襲を狙わなければ。
(……でも、もしも父さんがまだ眠っていて、そちらに標的が移ったら? くそぉ……こんなに上手くいかないなんて! 維機に歯向かうには、武装が貧弱過ぎた……!)
 もう一発扉の方へ撃ち込み、父が眠る部屋へと駆け出す。
「父さん!」
「いないはずだ」
 二度と聞きたくないその声は、前回と同じ衝撃を導き出した。クリスは壁に叩き付けられる。
(そんな……一体どこから入ってきたんだよ!?)
 即座に自問、回答が出ないので消去する。
「この廃墟街の全住民が消えている。例外はお前だけだ」
 相手の言うことなど聞いている暇は勿論なく、クリスは痛む腰を無視しながら横へ飛び、トリガを引く。
 元々粗悪品で何年も整備されていないにしては、その弾道は奇跡的に正確だった。まっすぐ、男の右肩へ。
 しかし。
「止めておけ、暴発がないとも限らん。それに、抵抗されると手荒になる」
 銃弾は空中で停止している。クリスが見る限り、男は左手首にはめているリングを一度いじっただけだ。
 中級兵器。
(ということは、あれを砕けばいい……)
 とは言うものの、全方位を囲む力場がある限り、男には傷一つ負わせることが出来ない。
「どうだ、話しを聞く気になったか?」
(よし……)
 クリスはその場にへたり込み、高圧的な態度で話しかける男を見上げた。
「……トキちゃんはどこ?」
「話しを聞け。そうすれば会えるだろう」
「……わかった」
 そう言うと男は、軽く頷いて話し始めた。
「まず、俺はクーモイ=アルテという。お前が関わっていた、ルクセインという男の元同僚だ。では話しの内容だが、端的に言う。俺に協力しろ。これはお互いに利益のあることだ。先ほど言ったように、今やこの廃墟街にはお前しか住民は残っていない。理由は後で教えてやる。もしもお前が大した理由もなく俺との協力を拒むというのでも、強要はしない。すぐにこの街から出て行くことを条件に見逃してやろう。さぁ、どうする?」
「そんなの……選べないじゃないか、協力するよ」
 男……クーモイはそこで、始めて笑みを浮かべた。
「そうか、では立て」
「それが……腰を痛めたみたいなんだ」
 クリスの鼓動が早まる。
(来い……手を差し出せ! 左だ!)
 クーモイは黙って手を差し出す。それは、左手だった。
 見えない力場の境界線。その手が通過したのを、クリスは確信した。
(住民がいなくなった? 誘拐犯め、寝ぼけるな!)
 拳銃を、はめられたリングに押し当てる。反射的に手を引こうとする動きは感じられたが、もう遅い。
 響くはずの銃声は、代わりに奇妙な静けさをもたらした。家に唯一の置時計が、時を刻んでいる――
「……ない……」
 クリスは呟いた。意識せずに独り言を言ったのは、これが始めてだった。
「銃が……」
 クリスの手の中には、何も握られていなかった。クーモイの腕には全く無事なリング。
「どうして……?」
 自分が相手を騙したということも忘れて、クリスは無心に尋ねた。
「理由は、こいつに説明させる」
 いつの間に現れたのだろう。クーモイの右隣には、天使が浮いていた。


 真白い服。
 真白い髪。
 真白い肌。
 そして、彼女と同じ、深い深い赤の双眸。


 天使は名前を名乗った。それはクリスの思い描く長たらしいものではなく、非常に簡潔な二文字だった。
 キリと言うらしい。


   10

 二人は向かい合っていた。言葉はもう十数分と交わされていない。
 人間はこの二人だけ。少し前から薄々感じていたが、どうやらここの住民はみんな揃って引越しでもしたようだ。もしかしたらクリスの父親の手回しかと思わなくもなかったが、どうでも良くなった。
(寒い……)
 ルクセインはそう感じた。
 クール廃墟街は確かに裕福だが、空調が整えられているわけではない。実際、気温は低かったろう。しかし、この寒さは別種のものだ。
(ミゾレなら、どう感じるだろうな)
 目の前の相棒は、瞬きすらしないように、じっとこちらを見つめている。
(寒いと感じるか? そして感じたなら、俺とは違ってその原因を断定できるか?)
 いつもなら、考えると同時に放たれるその問い。今は表情にすら出さない。
(ミゾレが、俺をこんな目に合わせている……だって?)
 少なくとも、ルン=キャパスはそう言った。
 いまさら驚くほどのことではないが、あの男はキリと出会ってからルクセインがしてきたことを全て知っていた。息も絶え絶え、たまに聞き取りづらいこともあったが、基本的によくまとまった話だった。
《NIGHT》という爆弾を始めに作り出したのは、まだ二十歳にも満たない女性研究者だった。幼少より天才と評され、同時に異能者でもあった彼女は、どこの研究所にも属さず、その彼女に劣らない才能を表した弟を唯一のパートナーとした。その時弟は十二歳。名前はそれぞれ、内藤霧と内藤霙。《NIGHT》というのは苗字に掛けたものらしい。
 しかしある日、内藤霧が突然の自殺。それによって気が触れた弟は、それこそ狂ったように研究を重ねた。十五になる頃、彼はついに自らの研究を完成させた。すなわち、姉のいる世界を再生させること。そのために必要な道具は全て揃え、その計画を実行へ移した。
 それが、今現在ルクセインが巻き込まれている状況だ。『キリ』というのは、彼が作ったプログラムだという。
(プログラム……ね。あれが?)
 ルクセインの中の一人がそう問うと、また違う一人が反論した。


 造ったのが天才というのなら分からなくもない。
 ルン=キャパスは信用出来るのか?
 あれもプログラムだろう?
 つまり、
 裏では何者かが動いている。
 キリと同等の力を持った者。
 もしくは本人が。
 なら逆に信憑性がある。
 ということは?
 そういうことだろ。


 こめかみを軽く押さえる。
(いや、待て。待て待て……。疑いはする。それはいい。それを行動に出すのかどうか、それは別問題だ)
 このまま腹の中だけに留めておこうか。しかし仮にも五年間一緒に過ごした仲だ。それも気分が悪い。
(よし、決めた。率直に聞いて、それが否定されたなら……その時は疑いを捨てる。これがいい)
「ねぇ、ルクセイン。いいかげん何か言ってくれないかな」
 いつも通りの口調で、ミゾレ。
「ああ……ちっと失礼なことを聞くんだがよ」
 次の言葉を吐き出すために、一息吸ったその時だった。
「もしかして……ルン=キャパスが言っちゃったか。僕が用意した駒だったってのに、途中から姉さんが横取りするんだから……相変わらずだね」
 強烈な不意打ち――。
「でもまぁ、そこが唯一の可愛げかな。外見はああだけど、他はなかなかハードな性格だからね。そう思わないかい?」
 言い終わるのと全く同時、ルクセインの踵がミゾレのこめかみに突き刺さっていた。
 まるで足元が何かに固定されているように、ミゾレの体が斜めに傾く。そしてそのまま地面に叩き付けられ、一度、二度、撥ねた。
 これはルン=キャパスの時と同じだ――
 何か後ろから糸で引かれているような不気味さを味わいながら、転がったミゾレの顔をめがけて思いきり蹴り上げる。
 しかしそれは届かず、寸前でサンドバッグのような感触に阻まれた。
「《defender》!」
「そう、ルクセインから貰ったね」
 ミゾレは取り出したハンカチを側頭部に当てながら、ゆっくりと立ちあがった。こちらは《breaker》を起動する。
「うん……? ルン=キャパスにそれを聞いたってことは、僕がこれを譲って欲しいと言った時にもすでに僕を疑ってたわけだよね? どうして渡したのさ」
「……どの程度、お前なんだ?」
 その質問は自分でも分かりにくいものだと思った。しかし補足してやる気にはなれない。
 立ちあがったミゾレは、それでも笑顔のまま質問に答える。
「どのくらい僕がこれに関係してるか、ってこと? ルン=キャパスの言ったとおりさ、ほぼ全て。僕の質問には答えてくれないのかい?」
 真っ白になっていく頭で、ルクセインは全く見当違いのことを口走っていた。
「お前が……首謀者? ということは、あの魔女は本当にプログラム?」
「そうだよ」
「……マジかよ……」
 その言葉を聞いて、ミゾレの表情がさっとこわばった。
「なんだい……? まるで僕じゃ役不足みたいな言い方じゃないか。僕らの世界で良いように扱われてる君程度が、そんな態度を取っちゃいけないよ」
 急に頭が回り始めた。
(そこか)
 ルクセインは状況を彼に出来る限りの速度で処理して、ミゾレに対して最も効果的と思われる台詞を吐く。
「……そりゃまぁな、お前とキリじゃ別格だ。知ってたか? 俺はうすうすお前がやったんだって気付いてたんだぜ」
「……嘘だね」
 はったりは効果があったらしく、ミゾレの頬に赤みがさしてきた。
(これは使いたくなかったがな……本当は、お前のことを信用してたんだ。だから)
「本当さ、だから中級兵器もくれてやったんだ。キリと同じように扱っちゃ、あいつに悪い」
 ミゾレがうつむく。
(そういや……これだと十五のあの時も俺は騙されてたってこと……か)
 ルクセインにとって『気分の悪い』ことは世の中にいくつもあったが、『悲しい』と思うのは思い出にひびが入ることくらいだ。
 その感傷が隙を生んだだろうか。
 いつの間にか視界に入ってきたそれに、ルクセインは戦慄した。
(《eye[》!)
 主人の命令を除き、自律的に活動出来る機械。ミゾレの傑作の一つであり、戦闘能力も備える万能タイプ――。
 滑らかにボディを変形させるそれは、正確な狙いで機関銃を放つ。ルクセインはすぐさま《breaker》をキャンセル、《defender》で防いだ。
「ミゾレ!」
 彼は無言。
 そしてその右手に、見覚えのある物質が突如現れた。
 蜘蛛のような形で、しかし無機質な銀色。無数のコードが彼の腕に刺さっている。
 自らの体を刺激し、それを燃料として使用する武器。ルクセインはそれに心当たりがあった。というより、少し前に見たばかりだ。
(分かっちゃいたが……ここまで何でもありとはな……こりゃきつい……!)
 岩も溶かす高温の気体を発生させる上級指定兵器、《MIST》。本来ならリミッタがあり、カプセルを飲んだ様子もないのだが、おそらくそれらには期待出来ないだろう。
 対抗する手段は……皆無と言っていい。
 腰から《lance改》を抜き出して、一連動作を最速で行う。《defender》はルン=キャパス戦で消耗しているのだ、もうそろそろ……。
 予想通り、防御力場は消えてなくなった。同時に、放たれ続けていた《eye[》の弾丸がルクセインへ届き始める。
 それは肩口に二、三発飲みこまれていった。雷のような痛みが脳を襲うが、利き手と反対側だったが幸いした。
 弾丸に叩かれた半身は大きくのけぞり、激しい遠心力が体全体にかかってくる。ぞれでもなんとか片腕をまっすぐ伸ばして、引き金を強く絞る。
 腕は大きく跳ね上がり、ルクセインはかなり無茶な体勢で地面に叩きつけられたが、弾丸は《eye[》へと一直線に突き進んだ。
 攻撃と防御は同時に出来ない。当たる。
(よし、あとは……!?)
 次の展開を読むその思考は、いきなり鉈で叩きつけられたように千切れ飛んだ。
「ああああああっ!」
 ルクセインは絶叫する。体を、炎がまとったのだ。
「残念だったね……本当は君は『残るほう』だったんだけど……まぁ、後からデータをかき集めて生きかえらせてあげるから。ここは、死んで」
 ミゾレの《MIST》が白く輝いている。


 しまった……。
 《MIST》の霧は目に見ることが出来ない。
 それに触れてしまったということは、
 どういうことだ?
 溶けるだけだ。
 何も原型を留めておけない!


 溶けたコンクリートたちがミゾレの周りで赤く堆積している。まるで中心にいる彼を、崇めるかのように。
 その視界すら炎に遮られ、ルクセインはまた自らの世界へと引き戻される。


 ゲーム・オーバーか……くそ。
 こんなことなら、
 先に言っておけばよかったな……。
 ……ん?
 そういえば、
 燃えているのは軍服だろうか。
 体はまだ……


「ごめんね、遅くて」
 轟音。
 地面が滑稽なほど上下に振れて、ルクセインの体が宙に浮いた。今まで使い物にならなかった視界が急に開けて、両手両足を投げ出したまま回転しているのを自覚する。状況把握が全く出来ないまま、銃創の入った肩口から叩きつけられた。
 その痛みを想像して強張った体は、しかし全くの無傷だった。《eye[》にやられた傷、そして燃えたはずの軍服すら元通りだ。
 それらの答えは、全てあの振動の直前に聞こえた声にあった。
「まぁ、私はルクセインのデータを持ってるから、死んでもすぐリバース出来るんだけど」
 そんなことを平然と言いきった魔女は、彼女の前方に穿たれた大穴を見て軽く微笑んだ。
 そこは今までミゾレがいた場所だ。百メートル近く、地面をえぐりとったような跡が疾走し、砦の壁を突き破り、半径十メートルを超える穴が、明るい光を凄惨な戦場へと繋げている。
 これまでの人生でも幾度か言葉を失うことはあったが、ここまでもものはかつてない。
 それはきっと、彼女に対して使うために取って置かれたのだ。
 ルクセインは、絶句していた。
「うっわー……派手にやったね、キリさん」
 いつの間にか冷めている溶岩の上を、クリスが恐る恐る歩いてきた。少年はこちらを向くと、苦笑しながら手を振った。
 なんでお前がキリを知ってる?
「……確かにな。この威力が出せるなら別に俺たちの手助けなんていらないんじゃないのか?」
 後ろを振り向くと、クーモイがいた。彼も片手を一度上げてみせた。
 お前、いないんじゃなかったのかよ。
「さっきの説明聞いてた? クーモイさん」
 やはり、トキもいた。彼女は手を振るどころではなく、高い声を上げて抱き着いてきた。
 ふざけんなよ、てめぇら。
「キリ! 説明しやがれ!」
 何もかもお前が悪いと言わんばかりの口調で、ルクセインはとりあえず怒鳴っておいた。そうでないと、せっかく立ちあがったのに安心感で倒れそうだった。
「ちゃんと後で説明してあげるってば。それより今はさ……ほら」
 実のところ、キリはこの世界でもやはり宙に浮んだままだった。その彼女が顎で示した方角……つまり、つい先ほど空いた穴の部分に、非武装の青年がほこり一つ被っていない様子で立っていた。
(なんだ……さっきの一撃を避けたってのか? でも傷すらない……)
 ミゾレは、満面の笑みで口を開いた。
「姉さん!」
「生身のあなたに会うのは久しぶりね」
「そうだね。エラーチェックが済んで、完成した姉さんと話すのはこれが始めてさ」
 交わされる兄弟の会話が、ルクセインには画面越しの遠い位置にあるものに思えた。
(どうやら……ルン=キャパスの言ってることは本当らしいな……)
 まとわりついたままのトキも、黙って二人を見つめている。親しい知人のこの行為を、彼女はどう認識しているのだろう? 少なくとも取り乱さないほどには安定しているようだが。
(こっちは、なかなか堪えてるんだけどな……)
 そんなことを胸中で愚痴っている間に、会話はすでに幕を閉じかけていた。
「ここは引くよ。こっちも数を増やしてもいいんだけど……それじゃきっと泥沼だからね」
「ええ、そうして。……じゃ、また後で」
 キリがそう言ったとたん、ミゾレの体は透過を始めた。
 トキを適当に押しのけて、ルクセインはミゾレに駆け寄る。
「待てミゾレ!」
「ルクセイン。さっきのは、僕のルールの中では最悪の反則だよ。ペナルティは、受けてもらうから」
 目を細めながら、彼は消えてしまった。


   11

 あれから、少しだけ時間が経った。
 ルクセインとキリは勿論、クリスとトキにクーモイまで加えて、五人は今、砦の屋上にいた。
 移動手段はテレポーテーション。この数日で、ルクセインの常識に対する感覚は完全に打ち砕かれてしまった。
 屋上というよりは、そこは農園と言った印象が強かった。面積のほとんどで作物を栽培しており、五人のいる場所は屋上の端にある例外のスペースと言えた。
 ベンチもなければ塀もない。そのせいでやたら大きな朝日が見えてしまった。昨日まで神々しい存在に思えていたそれは、今では自分を背後から操る悪魔に見える。
「寒くない? トキちゃん」
 そして悪魔より性質(たち)の悪い少女が視界に映る。どうしてもその姿は人間離れした印象を拭えず、ミゾレの姉と聞いても全く実感がない。
「はい、大丈夫です」
 トキは頷いた。
 どうやら他の三人は簡単な説明こそ受けているようだが、それはこの世界の概念だけ、というものらしい。おそらくまだ接触してから間がないのだろう。キリとの会話がぎこちない。
「んな似合わねぇ気遣いはいいから、さっさと始めろ」
 意味のないことだとは分かっていたが、ルクセインは堪らず口走った。
「本当に落ち着きがないねルクセインは……あんまり騒ぐと、フリーズしちゃうよ?」
 フリーズ。その名称と言葉を放った人物の性格から、大体どのようなものかが見えてくる。ロクなもんじゃない。
「まぁ待って、一つ一つ話していくから」
 ふと気付いて、気になることを聞いてみる。
「お前、まだ人の考えが読めたり出来るのか?」
「そりゃそうさ、これが私の異能だもの」
 キリはさも当然のようにそう言った。
「……お前の力は、仮想現実ではないと?」
 突然、クーモイが言った。
 彼はまだ一度もまともにルクセインと視線を合わせていない。それどころではないということだろう。
「ああ……もう、面倒だな。しばらく質問は禁止! 黙って私の話を聞いて」
「でも、キリさん……」
 クリスがそう言い掛けて、そこで動きが固まった。しばらく経っても寸分も動きがない。
「シャーラップ。いい? 途中で勝手に喋ったら、クリス君みたいにフリーズしちゃうからね」
 沈黙。クーモイでさえも押し黙り、そこでようやくルクセインと目を合わせて、苦笑した。
 クリスは依然、固まったままだ。
「さて……じゃあまずどこから話そうかな。どこからがいい? トキちゃん」
 トキは首を傾げた。風にゆるりと髪をさらわれ、それを指で押さえる彼女の表情には健康の赤みがさしていた。キリの奴だろう。
「うーん……まずはやっぱり、この世界がどんなものなのかが詳しく知りたいです。私が『見』たのは、その……ミゾレが……」
 トキがルクセインの方をちらりと見る。
「ああ、分かった。いいよ、そこまでで。そこから行こう」
 キリはパチンと指を鳴らす、クリスがきょとんとした顔で、動き始めた。トキが真面目な顔で人差し指を口に当てるジェスチャを送っていた。
「ここは、正しい世界のレプリカ」
 キリはこちらに背を向けて屋上の端を超えるまで進んだ。高度何百メートルという高さに位置を移した彼女は、振り向きざまに軽く腕を振る。
 すると、四人を囲む半円状に、四脚の椅子が現れた。それらは木製で、相当高価なように思える。
「完璧に同じ情報を持った世界……違いは人の手が加えられている一点のみ。でもそこの違いがあるから、こんなことも出来る。ネット世界の、3D版だと思ってくれれば分かるかな?」
(分かるか!)
 そう叫びたいが、当然実行はしない。
 クリスとトキはただ呆然と椅子を見て、クーモイは拳を作ってそれを叩いている。気持ちは良く分かる。
「はい、クーモイ。質問は?」
「……これはお前の異能ではないと言った。可能なのか? 現代テクノロジでここまでの仮想現実を造り出すことが」
 トキとクリスが恐る恐る椅子に座る。当たり前だが、なんともないようだった。
「うーん、ちょっと難しい質問だね。何が難しいかって、現代テクノロジって言葉がさ。一体基準はどこにすればいいんだろうね? まぁ出来るだけ簡潔に言おう。君の所属していた研究所程度の技術じゃあ、無理。私やミゾレの持ってた技術なら、可能」
「馬鹿な……俺たちのレベルは、世界でも相当に上を行っていたはずだ。それでもこのバーチャルを再現するには、あと五十年以上かかる」
 クーモイも、椅子に腰を下ろす。ルクセインはなんとなく立ったままでいた。
「うん……それについては、自信を失わないでね。君たちは間違いなく世界で最高水準だよ。ただ、最高ではなかっただけ。さて、次はクリス君」
 びくりと体を震わし、クリスが顔を上げる。今まで思考に夢中になっていたらしい。
「あ……うん。じゃあ、オレたちはどうしてレプリカの方にいるんですか? それとも、実際には正しい世界の方にいるのに、こっちに意識が取られているだけ?」
 キリは驚いたようだった。ルクセインも同感だ。
「凄いね…・…さっきの説明だけで、よくそこまで理解出来たもんだ。ここじゃネットも整備されていないでしょ?」
「あ、でも聞いたことはあったから」
「よし、じゃあ答えよう。どっちもノーだ。でも、どちらかというと後者かな。どちらの世界にも君はいて、どちらでもきちんと動いてる」
「え? じゃあ正しい世界の僕は、誰が考えて行動してるの?」
「勿論、君さ。この世界は本物のコピー。人までも完全に模造している。ただし、双子が持っている情報が同じでも別人であるように、記憶が違えば人間は別人となる。今の君はオリジナルからコピーされ、そして時を経ることによってオリジナルとは別の記憶を手に入れた。つまり、君は君で『オリジナルのコピー』というオリジナルなんだ。正しい世界では別人が動いてる」
 クリスはしばらく固まっていた――勿論、自主的に――が、やがて一度頷いた。
「次……は、トキちゃんかな」
(おい!)
 次は当然自分だと思っていたルクセインは、キリを強く睨む。その本人はこちらを向きもしない。
「じゃあ……そうね、どうしてこのメンバーなんですか? 他の人は砦から消えちゃってるんでしょう?」
「ちゃんと理由がある。メンバーも、住民を消したことも。でもこれは後で言わせて」
「あ、そうだ。あの中に父さんがいたはずなんだけど、戻ってくる?」
 口を挟んで、はっとしたように両手でそれを押さえる。キリは可笑しそうに笑った。
「クリス君は賢いけど、ちょっと不注意だね。まぁ将来に期待かな? それで質問だけど、ちゃんと戻ってくるよ。一度消したものはその情報を得たことになるから、何個でも複製出来るんだ。逆に言うと消したことのないものは無理ってこと。さて、次はクーモイ」
 クーモイは眉間にしわを寄せながら、こめかみを何度か押さえた。
「《NIGHT》について……あれは、爆発するのか? お前の力で消滅させることは?」
「爆発はするわ。私が消滅させることは無理ね……ミゾレが保護してるから。さっきルクセインが《MIST》にさらされながらも生き残れたのは、私が保護していたから。ここの世界に対する支配力は互角なの。次、クリス君」
「あなたは、誰ですか?」
 なんでもないという表情で、クリスはそう言った。
「理解してみると、ここが一番おかしいんです。何故あなたとさっきの……ミゾレさんですか、彼はそんなことが出来るんです? 現代テクノロジですら不可能なことを、あなたたち二人は……いや、対立しているのだから、もしかして一人かもしれません。個人でそんなことが出来るなんて、一体何者です?」
 クリスはキリに対して敬語を使う。普段とのギャップが少し可笑しい。
(しかし……質問は秀逸だ)
 ルクセインは素直に認めた。
 キリは少し黙っていた。
「それも……後回しかな。ちょっと休憩を取ろう。……よいしょ!」
 その掛け声と共に、テーブルと食事が現れた。
「よいしょはねぇんじゃねぇのか……?」
「んー? フリーズかなぁ?」
「休憩だろうがっ!」
 ルクセインが怒鳴ると、キリの体が肩から粉のように崩れ始めた。
「ぬおっ!?」
「何を驚いてるの? そろそろ頭を順応させなよ……他の三人はもう慣れてるよ?」
 見ると、確かに驚いている者はいない。クリスとトキなどは、すでに食事を始めようとしている。
「三十分ほどで戻るよ……」
 そう言って、キリは消えてしまった。
「くそ……ようやく対等になったと思ったら、まだ全然反則じゃねぇか、あの野郎……」
「ルク」
 椅子に座ったクーモイが、丸い体をねじり、こちらを向いた。
「……よう、クーモイ。ゆっくり話すなら、なにもこんな所じゃなくていいのにな」
 ルクセインも椅子に座る。
 クリスとトキが並んで座っているので、自然とクーモイと隣になる。テーブルの上には中華料理に加えチキンなどの洋風、さらに和風のものまで並び、クリスは目を輝かせて口にほお張っている。トキはと言えば、いきなりデザートのパフェに手を伸ばす。
「お前、さっきの話分かったか? 俺は正直よく解らん」
「俺もだよ。ただ俺はちょっとめんどくせぇ体験があったんでね。それでなんとか付いて行ってる」
 大の大人がこんなことを話していると、少し情けなくなってくる。横で食事に夢中の子供たちは、完全に理解しているというのに。
 何か成績でクラス分けされたような気分で、大人組も食事を始める。
 そこで、ルクセインは一連の事件を始めから彼に話した。
「なるほどな……お前の方も、そうなっていたのか」
「も?」
「そうだ。俺もお前と同じように世界の狭間をさ迷っていた。そこにキリがいた」
 クーモイの眉間にしわが寄る。
「八回……死んだ。そのうち三つは憤死で、四つは自殺」
 場が、静まった。クリスとトキもこちらを向いている。
「この恨み……忘れた覚えはない。いつかあの女の技術力を超えて、復讐してやる。ただし、まだあいつがやったかどうかが分からない。……早くはっきりさせて欲しいもんだな。この事件も解決して、その研究がしたい」
 早く研究がしたい。
 ミゾレも、そう言った。
(研究者……か)
 彼らは追い求める。新たなる謎。超えるべき目標。
「そして、八回目にしてようやく、お前を頼ろうと思った」
 もはや、食事をするものはいなかった。
「そこで俺は、あの男に会ったんだ……」
 怒りか、恐怖か、震える彼の声は、広過ぎる室内に長い余韻を残した。


   12

「ミゾレぇ……出ておいで……」
 キリはちょっと気だるげな口調でそう言った。彼女の記憶では、ミゾレはこの声に逆らえたことがない。
 そこは砦から上方向の尺を二百メートルほど伸ばした所。地上の濁った空気からも開放され、星々の輝きが心地よい。風の音すら彼女に遠慮するかように静まり返り、全くの無音。
 それはルクセインやクーモイを運んだ空間――キリは第三世界と呼ぶ――に酷似していた。
「……なんだい? 姉さん。僕は久しぶりの睡眠を取っていたんだよ」
 ミゾレの姿がキリの目の前に現れる。相変わらずの、維機の軍服だった。キリは子供の時のことを除けば、それ以外のミゾレの服装を見たことがなかった。
「そう……ざっと、一年と半ぶりか。今回肉体を使ったのは、実はこれがしたかったからなんだ。夢が見たかったんだよ。まぁ、残念ながら見られなかったけれどね」
 辺りを見まわしながら、夜気で肺を満たすようにゆっくりと、ミゾレは息をついた。
「見られるはずはないわ。夢って、生きている人が見るものだもの」
 ミゾレは目を細めた。
「またそれかい。九つの頃から聞いてるよ。俗な言い方で……そう、耳にタコだ」
「だってそうでしょ? 人は生きていなくてはならない。それが世界のルールだもの。生きていなくては、人ではないのよ」
「だから……僕たちみたいな存在は反則だと?」
 キリは頷く。
「どうしてかな。どうして、姉さんみたいな人が、そんな俗なことを言うのかな。このレプリカの世界においては、僕らは神に等しい存在じゃないか。僕らは……」
「私たちは、消えなくてはならない」
 ミゾレが、今度はあからさまな溜息をつく。
「駄目だよ、姉さん。僕は理想を達成するんだ。理想の器を造って、理想の人を配置する。そこには姉さんもいるんだから」
「どうやってそんなことをするつもり? あなたは自分を神と言ったけれど、私たちは万能じゃない。特に処理速度は頭打ちだよ」
 ミゾレはひどくつまらなそうな顔で、淡々と説明を始めた。明らかにキリへの失望が見られる。
「まずは、《NIGHT》が爆発する。それでこのレプリカの世界を構成する情報量は激減。今まではあまりに多すぎて手におえなかったけど、そこからなら一つ一つデリートしていって……そうだな、三十年くらいで世界の情報全てをデリート出来る。そこに残ったのは世界の入れ物だけ。デリートする際に採取したサンプルを元に、まずは大地を造り、空を造り、海を造り……そして人を造り。理想郷が出来上がる。ちなみに、宇宙は作らないつもりだよ。人は大地を離れる必要は無い」
「それが、あなたの夢?」
「……悪いと思ってるよ。姉さんの造ったもので、これをすることを。世界を全て情報に置き換え、別次元にコピーしたそれを貼り付ける。理論は合っても、正直不可能だと思ってた。さすがは天才だ、内藤……霧。僕が造りたかったけど、先を越されちゃあ仕方ない。盗んで、その上を行くことに目標を変更。歴史においても技術はそうして向上してきた」
 キリは鼻で笑って見せた。内心はそれほどクールだったわけではないが。
「それだけじゃないでしょ? 《NIGHT》もよ。あれは私が造ったものよ」
「おいおい……あれは二人で造ったんだと認識してたんだけどね。僕ら、内藤霙と、内藤霧が」
 ミゾレの表情が少し怒ったようになる。
(……崩せるかしら?)
 キリは自問する。もしもミゾレがあの頃と……共に生き、共に研究した十代半ばの頃と変わりないのなら、崩す自信はある。
 見たところ……それほど違いはない。
「いいえ。理論とそれを実現する方法を考えたのは私。あなたはただ作業をしただけじゃない? 工作ね。私のは創造……同格にしないでくれる?」
 ミゾレは沈黙する。そして、
「……あははっ……」
 笑い始めた。
「それじゃあ駄目だよ、姉さん。それじゃあ今の僕は崩せない。確かに頭に来るけどね。それを抑え込むくらいの術は、もう手に入れているんだよ。姉さんが死んでから、もう四年だよ?」
 ミゾレはメガネを外し、そのまま地上に向かって落とした。落ちる途中で、それは掻き消える。
「姉さんが死んで……うん、自殺だね。それをした後、僕は研究を重ねたんだ。そして、姉さんを超えた。レプリカの世界に手を加える方法。その膨大な情報量を処理する方法。姉さんの記憶を復元して、人間と全く同じプログラムを作る方法。どうだい? 頑張っただろう?」
「……ええ。良い子ね、ミゾレ……」
 ミゾレの表情が、急に歪んだ。
「……なるほど……それが姉さんの切り札か! 危うく怒鳴りそうになったよ。怒鳴れば、姉さんの話術で言い包められてしまう。どんなに自分を鍛えても、それだけは一生敵わないと分かってるからね!」
「……あなたは、昔から誉められるのが大嫌いだったから……私もだけど。欠点を指摘されると歓ぶ子供……私たちの両親は、さぞ気味悪がったでしょうね」
「彼らの話は止めにしよう。どこを喋っても、見下したような話にしかならない。恩を仇では返したくない……それに、今日は祭の前夜だよ。派手に行こう。何のために姉さんのプログラムを造ったと思ってるんだい? 感情表現に乏しかったり、妙に激しかったり。エラーが多くて大変だった。でも今は完璧だよ。完璧な姉さんだ。さぁ、僕の目標となってよ……」
 キリは溜息をついた。
「仕方ないわね……」
 そして、口調を戻し、はっきりとした声音で続けた。
「……私が勝てば、ミゾレは消滅。ミゾレが勝てば、私は消滅。《NIGHT》が爆発するまでに、それを守り切れたらミゾレの勝ち。その反対で私の勝ち」
 キリは微笑んだ。それは魔女の笑み。そのまま、彼女は宣言する。
「私はゲームを仕掛けたよ」