山本太郎左衛門の話 その一
作:坂田火魯志





 享保年間のことであった。備後の国に稲生武左衛門という男がいた。彼は三次に住むそれなりに地位のある武士であった。家はそこそこ広くその地では名門と呼んで差し支えのない家であった。
 彼には息子が二人いた。長男を平太郎という。そして次男は勝弥といった。二人はそれぞれ剣や馬を好み武芸が達者なことで知られていた。それを生かして武芸の師範をしている。家には道場まであった。
 彼等は相撲も好きでありよくした。それについての話をするのも好きであり隣にいる三津井権八とはよく相撲をとり、そしてその話をして酒を飲んだ。暇な時はこうして時間を過ごすのが常であった。
 時は寛延二年になっていた。次は皐月の末である。そろそろ暑くなろうかという時である。この日も黄昏時平太郎とこの権八は相撲の話を肴に酒を楽しんでいた。
 二人は縁側にいた。そして瓢箪にある酒を杯に酌み二人で談笑していた。
 見れば日はそろそろ暮れようとしている。そしてまだ淡い色の草が濃紫の世界の中に消えようとしていた。
「のう平太郎殿」
 権八は一杯飲み干すと彼に対して言った。
「どうした、権八殿」
 平太郎は梅を食べていた。酒のつまみにである。
 種を吐き出す。右手に出すとそれを外に投げた。
 種は壁を越えて路に消えていく。そしてその向こうに姿を消した。
「最近肝試しをしておらんなあ」
「肝試しか」
 平太郎はそれを聞き顔を権八の方に戻した。
「そうじゃ、ちょいと暇潰しも兼ねてどうじゃ」
「ううむ」
 彼は腕を組み暫し考え込んだ。確かに最近相撲や剣のことばかりで肝試しといったものはしていなかった。肝っ玉も武士にとっては欠かせぬものである。それがなくては侮られてしまう。
「やってみるか」
「そうこなくてはな、流石は平太郎殿じゃ」
 権八はにこりと笑って言った。そして早速彼に己が考えを述べた。
「まずは百物語をしようぞ」
「百物語か」
 まず蝋燭を百本用意しておく。そして暗い部屋の中にそれを照らし怪談をしていく。一話語り終えるごとに蝋燭の火を一本消していく。こうして百話の怪談を続けていくのである。
 これが全て終わった時何かが起こると言われている。だがそれが何かは誰にもよくわからない。
「無論それだけでは終わらぬ」
「やはりな」
 平太郎はそれを聞きいよいよ楽しくなってきた。
「そこからじゃ。終わったらすぐに比熊山に登ろうぞ」
「比熊山か」
 その山はここから少し行ったところにある。御椀の様に見事な形をした山だ。武芸で鍛えた彼等にとってはとりたてて高い山でもなかった。
「そこを登る。交代でな。どうじゃ」
「ううむ」
 彼は興味深げな顔で考え込んだ。そしてようやく口を開いた。
「よし、やろうぞ」
 にい、と笑って答えた。こうして話は決まった。
 二人は夕食を採り早速百物語をはじめた。そしていよいよ山に登ることになった。
「まずはわしじゃ」
 権八がまず向かった。
 やがて彼は帰って来た。聞くと何もなかったという。
「そうか、やはり百物語といっても何もないのかのう」
「いや、わからんぞ」
 権八はそれを聞いて笑った。
「まだお主が残っておるからのう」
「ははは、確かに。ではわしが化け物にでも会って来るか」 
 彼は豪快に笑ってそう言った。そして今度は彼が比熊山に向かった。
 山の中は暗闇に包まれていた。梟や山犬の鳴き声が響いてくる。
「ふむ」
 だが彼はそれに臆することがなかった。犬程度なら何匹かかろうが倒す自身があった。
「わしは刀だけではないからのう」
 彼はいつも他の者に対し自慢げにこう言っていた。彼は刀や相撲だけでなく弓や槍、そして手裏剣等も学んでいたのだ。
 今も懐に石を忍ばせている。これで山犬が襲い掛かって来たならば一撃で倒すつもりであった。
「腕が鳴るわ」
 彼にとってはこの肝試しは武者修行でもあった。本来肝試しはそうした意味があったが当時には既に余興の一つとなっていた。それも時代が泰平だからであった。
 時折茂みがガサゴソと鳴る。何事か、と横を見ると気配は消えている。
 山ではよくあることだ。小さな獣が動き回っているのだ。これまでも彼はこの山で幾度も肝試しをしているのでこうしたことには慣れていた。
「どうせ鼬であろう。下らぬ」
 実際にそれは鼬であった。他にも狐や狸もいる。夜の山には様々な生き物が蠢いている。
 ミミズクが飛び木の上では梟がその丸い目を輝かせて止まっている。空には限り無く黒に近い青の空に黄色い月が不自然な程大きく光っている。
 平太郎はその中を黙々と進んでいった。
 山道自体はどうということはない。彼にとっては遊び場である。だが酒のせいか少し疲れてきた。
「暫し休むか」
 側にあった岩に腰かけた。そして一服した。
 落ち着くとまた歩くのをはじめた。そして頂上に辿り着いた。
「ふむ」
 そこは普段と変わりなかった。それを見届けると彼は今来た道を引き返して権八のところに戻って行った。
「何かあったか」
 平太郎が帰って来るのを見ると権八はまずそれを問うた。
「いや、何もだ」
 だが彼は頭を振ってそれを否定した。結局彼もその時は何にも遭うことはなかった。
「やはり化け物なんておらんもんじゃのう」
「ああ、しかしいい余興にはなったわ」
 そして二人はまた酒を酌み交わすのであった。その日はそのまま朝まで飲んだ。
 
 それから一月が過ぎた。月は文月になった。
 すっかり暑くなってきていた。日は高く昇り毎日嫌になる程照らしてくれる。朝には朝顔が露で化粧して姿を現わす。夕立の後はそのうだる様な暑さもましになり夜と共に蛍がその淡い光で闇の中を照らす。月はその上で白く光り輝いていた。
 平太郎はその時家の中で飲んでいた。やはり夜は酒であった。
「美味いのう」
 瓢箪が二つ転がっている。そして今三つめに手をかけていた。
 一杯口に入れる。酒の味が舌に染み入り香りが口の中を支配する。時は丑三つ時頃であろうか。
 不意に燈火が消えた。だが風の気配はない。
「何事じゃ」
 顔を上げれば障子が火が点いた様に赤くなっていた。火事かと思うがどうやらそれではないらしい。
「熱くはない」
 そうであった。そして熱気すら感じなかった。
 よくよく目を凝らせば障子は真ん中だけが赤かった。それはまるで円の様である。
「目か」
 ふとそう思った。立ち上がり障子を思いきり開ける。
「何奴じゃ」
 そこの向こうには廊下がある。そしてさらには壁がある筈であった。
 だがそこには壁とは別に何かがいた。それは巨大な大入道であった。見ればその目は顔の真ん中に一つしかない。しかも爛々と赤く光っている。まるで闇の中の篝火の様に。先程の赤いのはこの目であることは疑いようがなかった。
「化け物か!」
 平太郎は問い詰めた。だがその化け物は答えなかった。
 そのかわり腕を伸ばしてきた。丸太の様に太く、そしてあらあらと毛の生えた醜い腕であった。
 見れば指が三本しかない。やはり化け物であった。
「くっ!」
 平太郎はそれをかわし後ろに飛び退いた。そして後ろにある槍を手にした。
「さあ、来るがよい」
 彼は臆してはいなかった。来たならばすぐに殺すつもりであった。
「その目、一突きにしてくれようぞ」
 だが化け物はそれで姿を消した。そして朝になるまで姿を現わさなかった。

「化け物とな」
 平太郎は昨夜のことを権八と弟である勝弥に話した。
「そうじゃ、大入道の様な一つ目の化け物がな」
 彼は二人に昨夜の出来事をその場所を指し示しながら説明した。
「こう手を出して襲い掛かってきたのじゃ。おそらくわしを握り潰すつもりだったのじゃろう」
「何と」
 二人はそれを聞いて思わず息を飲んだ。
「それで兄上はどう為されたのですか」
「わしか」
 勝弥の言葉に顔を向けた。
「はい、ご無事だったところを見ると大事には至らなかったようですが」
「うむ」
 彼はそれについて一呼吸置いて二人に説明した。
「槍を出してな。何とか難を逃れた」
「それはようございましたな」
「それでだ」
 平太郎はここで勝弥に顔を向けた。
「そなたは暫くこの家を離れるがよい」
「そうしてですか!?」
「その化け物じゃが」
 彼は話しはじめた。
「あの大入道だけではないかも知れぬ。また出てきたらお主にまで迷惑をかけてしまうからな」
「しかし」
「よいな」
 彼は弟に対し強い声で言った。
「・・・・・・わかりました」
 兄の意志の強さはわかっていた。ここはそれに従うことにした。
 こうして勝弥は叔父の家に行くことになった。家には平太郎一人が残ることになった。
「よいのか」
 夕暮れ平太郎と権八はまた二人で飲んでいた。その席で権八が問うた。
「何がじゃ」
 夕食と一緒に飲んでいる。平太郎は飯を胃の中にかき込んでいた。
「勝弥殿を行かせてじゃ。弟殿もかなりの武芸者ではないか」
「ふむ」
 平太郎は飯を食べ終えた。そして椀に酒を入れた。いささか無作法であるが茶がないのでそうした。
「確かにのう。あいつがいれば百人力じゃ。あいつは槍ではわしよりも上じゃろう」
「では何故じゃ」
 権八は不思議な顔をして問うた。
「これはわしの問題じゃ」
 彼は椀の中の酒を飲んで言った。
「お主とわしが百物語をして出て来たと思う。あの時のことは覚えていよう」
「うむ」
 何よりも言いだしっぺは彼である。忘れる筈もなかった。
「原因はおそらくわしじゃ。そうでなくては化け物が来るものか」
「それはそうじゃが」
「なぁに、心配するな」
 平太郎はここで笑ってみせた。
「わしとてむざむざやられるつもりはないわ。それに前から一度化け物を退治してみたかったのじゃ」
「そうか」
 権八はそれを聞いていささか呆れたものを感じた。平太郎の豪胆さは知っていたがここまでくると無謀にすら思えたのである。
 だが言うのは避けた。言ってもおそらく引かないからだ。
「よいな、ここはわしに任せてくれ」
「わかった」
 頼まれれば助太刀するつもりであった。共に余興として百物語をしたからだ。だが平太郎のこの言葉でそれは止めた。彼自身がそれを全く望んでいないからだ。
「ではな」
「うむ」
 酒を飲み終えると権八は帰っていった。そして家には平太郎一人が残った。
「さて」
 空が次第に暗くなっていく。紅の空が次第に紫になっていく。
「今夜も出るかな」
 彼はそう言うと部屋に戻った。そして化け物を待ちながら書を読んだ。武士は学問もなくてはならぬ、常々そう言われていたからだ。
「まあ一応は読んでおくか」
 彼は学問はあまり好きではなかった。そんなものは学者にでも任せておけばよいと考えていた。
 だが最早戦国の世ではなかった。とうの昔にそれは終わり今は学問の時代であった。
 とりあえずは論語を読んだ。一章を読み終えるとそれを閉じた。
「さて」
 すっかり暗くなっていた。彼は事に備えた。
 やがて行灯の火が急に強くなった。
「む」
 見れば火は次第に強くなっていく。そして火はまるで蛇の様に長くなりあともう少しで天井に着く程になった。
「あやかしか」
 そうとしか考えられなかった。平太郎は咄嗟に身構えた。腰の刀に手をかける。その時であった。
 今度は何やら匂いがしてきた。
「何じゃこの匂いは」
 まるで腐った魚の様な匂いであった。生臭く鼻につく。
「何処からじゃ」
 それは居間の方からする。彼は刀を手にしたまま居間に向かった。そこではまた妙なことが起こっていた。
 何と居間に水が流れているのだ。波をうち流れている。
「また妙なことが」
 水の源を探す。だが見つからない。
 とりあえず寝室にまでは及ばないのでその時はそのまま捨て置いて寝室に帰った。そして刀を手にし壁にもたれかかったまま休んだ。
 その日はそれで終わりであった。特に何も出ることはなかった。
 翌日は子の時であろうか。行灯が急にその姿を変えた。
「また行灯か」
 平太郎は行灯に目を向けた。見れば木から見る見るうちに石になっていく。
「妙なこともあるものじゃ」
 三日目なのでいささか落ち着きを持っていた。そしてその行灯が石になっていくのを見守った。
 やがて行灯は石塔になった。そしてその場に立っていた。
「ふむ」
 蝋燭はその中にある。先程と変わらず部屋を照らしている。
 すると今度はその火が激しく燃えだした。昨日と同じか、と思ったが違った。
 石塔は火に包まれた。そしてその全てが包まれると今度はまた行灯になった。
「これはまた面白い余興じゃ」
 自分に危害が及ばないせいもあり笑って見ていた。寝転がり酒をちびちびと舐めている。暫くすると天井がピクリ、と動いた。
「今度は天井か」
 ふと上を見ると青く丸いものがあった。大したことはないと思いその時はそのまま眠りに入った。
「やれやれ」
 蚊帳の中に入る。そしてそのまま床についた。
 暫く眠った。だが何やら声がする。それで目が醒めた。
「さては」
 出たな、と思い刀を手に蚊帳を出る。障子の向こうから女の声がする。
「女怪か」
 一昨日は大入道であった。ならば今日は何か。
「鬼婆でも出て来るかの」
 冗談混じりにそう言った。だが声が若いのでそれはないと思い直した。
 障子が一人でにあいた。そしてそれが中に入って来た。
「!」
 それを見て流石の平太郎も思わず息を飲んだ。それはまた何とも異様な化け物であった。
「けけけけけ」 
 それは女の首であった。逆さになっており首の切り口から血とはらわたを少し出している。
 そしてその長く黒い髪を使い歩いている。おそらくそれで障子を開けたのであろう。
「また奇怪なものが出て来たものじゃ」
 首はよく見れば整った顔をしている。だがその顔は青白く目はこちらを奇妙な形で見下ろしている。それがやけに癪に触った。
「むん」
 平太郎はそれを感じすぐに刀を一閃させた。それでこの面妖な物の怪を成敗するつもりであった。
 だがそれは適わなかった。首は髪を使い後ろに跳び退いたからであった。
「甘い甘い」
 首は平太郎を笑いながらそう言った。そしてその髪に力を込めた。
「来るか」
 今にも跳びかかって来そうであった。彼はもう一度刀に手をかけた。
 だが首は平太郎に隙がないのを見て迂闊に動きはしなかった。しかし隙を窺い続けている。
 そうしている間に時間だけが過ぎていく。やがて夜が明けてきた。
 鶏の声が聞こえてきた。すると首は音もなくすう、とまるで煙の様に消えていった。
「終わったか」
 平太郎は鶏の声とその首が消えたのを見てようやく一息ついた。見れば障子の向こうがもう白くなっている。
 とりあえず寝ることにした。そしてとりあえずは疲れを癒すことにした。
「疲れていては何もできぬ。まずは休むとしよう」
 そのまま寝転がると暫し眠った。
 日が高くなる頃に目が醒めると何やら騒がしい。表を見てみると何やら人が大勢集まっている。
「どうしたのじゃ」
 平太郎は早速彼等に声をかけた。
「おお稲生様」
 彼等は平太郎の顔を見ると興味ふかげに彼の顔を見た。
「ご気分は如何ですか」
 そして彼に問うてきた。
「気分とな」
 彼はそれを聞き少し面妖そうな顔をした。
「よくはないが」
 やはり化け物や怪異に三日続けて遭うと落ち着いてはいられなかった。だがそれはできるだけ顔には出さなかった。
「何やら色々とおありのようで」
 彼等はどうやらこの屋敷の噂を聞いて来たようだ。興味本位であるのが一目でわかった。
「まあのう」
 彼もそれを否定するつもりはなかった。あっさりとそれを肯定した。
 そして彼等を家の中に入れた。外で話をするのも気が引けたからであった。
「まあ入れ。中でゆっくりと話をしよう」
「それでしたら」
 彼等は居間に案内された。そしてそこにめいめいで座った。
「さてと」
 平太郎は主人の場所に腰を下ろした。
「まずは最初のことから話すか」
 そして一日目の大入道のことを話した。そして翌日のことも。
「この部屋じゃったな」
 彼はいささか面白げに話した。
「ここに水が流れてのう」
「本当ですか」
 これは誰もがまずは疑った。
「本当じゃ。だからわしは嘘を言わぬと言っておろう」
「それはそうですが」
 彼は曲がったことを嫌うことでも知られていた。嘘を言う様な者ではないことはここにいる全ての者がわかっていた。
「だから聞け。安心してな」
「はい」
 そして今度は昨夜の首のことを話した。話が終わると一同は大いに首を傾げた。
「おかしなこともあるものですなあ」
「一体何がはじまりやら」
「それがわかれば苦労はせん」
 平太郎はそれに対して笑って言った。
「わしも百物語が原因じゃとは思っておるがな。じゃがそれ以外のことはわからぬ。あの者達が果たして何者かもな」
「ふうむ」
 皆はそれを聞いてさらに首を傾げた。
「狐か狸ではござらぬかな」
 まずはそれが出た。やはり狐狸の類であると考えるのが第一であった。
「いや、それはなかろう」
 だが他の者がそれを否定した。
「稲生様のところには犬がいるからのう」
「そういえばそうじゃったのう」
 平太郎の家には一匹の大きな犬がいる。彼は闘犬も好きなのでその為の犬である。気は荒く彼と勝弥以外にはなつかない犬である。
 狐や狸は犬を嫌う。従ってそれは否定された。
「では何かのう」
「生霊か死霊ではないか」
「大入道は違うであろう」
「そうじゃったな」
 こうして亡霊やそういった類も否定された。こうして話は次第にどうどうめぐりになっていた。あれでもない、これでもない、平太郎はそれを止めるわけでもなくただ主の場所に座って皆が話すのを聞いていた。
 結局答えは出なかった。平太郎も出るとは思っていなかった。
「そうそうわかれば苦労はせん」
 夕暮れになったので彼は皆を帰した。そして夕食をとりまた化け物を待った。
「今日は何があるかのう」
 そう思いながら書に目を通す。だがそれは進まない。どうも化け物が気になって仕方ないのだ。
 進まないので読むのを止めた。そして寝転がってゆうるりと待つことにした。
 喉が渇いたので水瓶をとった。下にして水を椀に注ぐ。だが一滴も出て来ない。
「今度は水瓶か」
 そう思い瓶を覗く。すると水は氷となっていた。
「ふむ」
 今日の怪異はこれかと思った。水が出ないのでは仕方なくそれを置いた。代わりに井戸の水を飲むことにした。こちらは凍っていなかった。腹が減ったので飯を少し食うことにした。台所に行き釜の蓋に手をかける。
 だが開かない。どうやらこちらでも怪異が起こっているようだ。
「化け物も意地悪なことをするわい」
 腹は立たなかった。苦笑するだけであった。とりあえずは置いてあったぼた餅を食った。甘いものはあまり好きではないがとりあえずはこれで腹は満たした。
 満足して居間に戻ると棚が開いていた。やはり覚えはない。
「またか」
 そう呟き横になった。そして何が起こるか見守った。
 棚の中には鼻紙が置かれている。不意にそれが何枚か舞い上がった。
「ほう」
 そしてそれがひらひらと舞い飛ぶ。まるで蝶の様に宙を舞っていた。
 それが暫く続いた。やがて全て床に落ちて動かなくなった。
「終わりか」
 平太郎はそれを見届けると用心したままそこで寝入った。壁に背をもたれ刀を抱いたまま寝た。
 次の日に昨日のことを話すと人々はやけがわからないといった顔をした。少なくとも狐狸や霊の仕業ではないだろうとは思ったがそれ以上はわからなかった。
「物の怪かのう」
 それが一番有り得ることかと思われた。だが確証はない。
 やはり話はまとまらず夕暮れになると皆帰った。そして平太郎はやはり一人で妖怪を待つのであった。
「これで五日目か」
 今日も出て来るだろうと思っていた。何やらそう感じるものがある。問題は何が来るか、何が起こるか、であった。
 その途端に来た。木履が食事をしている平太郎のところに飛び込んで来たのだ。
「早いな」
 そう思ったらそれが自然に歩き出した。まるで妖術の様であった。
「ほう、これはこうれは」
 食事を食べ終えそれを見る。面白いので酒を出してきて飲みながら見物した。
 木履はやがてそのまま歩いて何処かへ去った。これまでのことからこれで終わりだとは思わなかった。
「次の余興は何じゃ」
 彼は酒を飲みながら今ここにいるであろう何者かに問うた。
「もっと面白い余興がいいぞ」
 すると今度は大きな石が部屋に来た。のっそり、のっそりとした動きである。
「ふむ」
 見ればその石は無数の足が生えていた。その足は何と人間の指であった。しかもその関節の部分に目まであった。
「これは面白い。普通の石でないとは」
 石は平太郎の側に来たかと思うとすぐに離れた。まるで蟹の様な動きである。
 石は苔の匂いを撒き散らしながら部屋中をカサコソと動き出した。ついさっきまではゆっくりとした動きであったのにかなり速くなっている。
「どうやら物の怪も話がわかるようじゃな」
 彼は酒を口にしながら言った。
「よいぞよいぞ、どんどん来るがいい。そしてわしを楽しませてくれ」
 雷が落ちた様な音がして部屋が明るくなる。そして地震が起こった様に揺れる。だが平太郎はそれを楽しみつつ酒を飲んだ。もう彼にとっては慣れたこととなりつつあった。
 次の日は中々来なかった。酒も飲み干してしまい少し寂しくなった。
「今日は誰じゃ!?」
 問うてみた。やはり答えはない。そもそも答えなぞ期待してはいなかったが反応がないのはやはり寂しい。
 終わったとは思わなかった。とりあえず様子を探った。
「ふむう」
 気配はない。とりあえず休もうとしたその時であった。
 不意に何かが壊れる音がした。庭の方だ。
「あっちか」
 そこには壁はない。竹の柵である。これは朝顔を絡み付かせる為であった。
「何が来たか」
 平太郎は玄関に向かいながらそう考えていた。恐怖はなかった。何故か期待があった。
 庭に来るとそこは真っ暗闇であった。何もなかった。
「音だけか」
 しかしそれは早合点であった。立ち去ろうとした彼の首筋に生暖かい風が吹いてきた。
「来たか」
 後ろを振り向く。やはりそこにいた。
 それは巨大な醜い老婆の顔であった。大きさは二畳程であろうか。その顔は平太郎を見てニヤニヤと無気味な笑みを浮かべていた。
「大首か」
 彼はその妖怪の名を知っていた。とりあえず聞いているのは髪に触れてはいけないということだ。話によると髪に触れると病になるという。
「さて」
 見たところここにいるだけで害はない。だが鬱陶しくて仕方がない。
「退くがいい」
 彼は小柄を出してそれで眉間を突いた。だがそれでも大首はニタニタと笑っていた。やはりあやかしだけあってこれ位では何ともないようだ。
「どうしたものか」
 彼は考えたがどうにもならない。刀で突いても結果は同じだと読めていた。
 ならば何をしても仕方がない。小柄はそのままに寝室に帰った。そしてやはり壁を背にして眠った。
「少しは寝転がって休みたいのう」
 そう思っても相手は化け物である。用心にこしたことはない。彼は用心の為にそうして眠った。とりあえずは今夜は少しでも多く眠れそうなのが救いであった。
 朝になった。目を醒ました彼は昨夜大首がいた場所に向かった。やはり大首は消えていた。
 そのかわりに小柄が宙に浮いていた。彼が前に来るとポトリと落ちた。
「昨夜の物の怪の忘れ物かのう」
 彼は小柄を手にして笑った。そしてそれを鞘に収めると家の中に戻った。