山本太郎左衛門の話 その三
作:坂田火魯志





 その盥が急に宙に舞い上がった。そして宙を飛び回った。
「今度は盥が空を飛ぶか」
 平太郎は面白そうにそれを眺めた。
「よいぞ、よいぞ」
 そして楽しそうな声を出した。
「普通にいつも風呂に入っては面白くとも何ともない。たまにはこうした余興も必要じゃ」
 その飛ぶ様を見ながら水を浴びた。そして身体を洗った。
 洗い終わると盥は下に落ちた。そして何事もなかったようにその場に留まるのであった。
 この日はそれで終わりであった。だがまだ夜も長いので用心の為に罠を作っておいた。
「これで少しは悪戯もましになるじゃろ」
 自分に対するのはいいが刀にまでちょっかいをかけるのはやはり腹に据えかねたからであった。
 その日はそれ以上何も起こらなかった。やはり用心の為座って寝たがよく眠ることができた。
「何しろ寝れるのはいいことじゃ」
 そう思いながら眠った。心地よい眠りであった。
 次の日は朝から縄を作った。これで何かあったならば化け物を捕らえるつもりであった。やはり昨日刀を取られかけたことが気になっていたからだ。
 自分にだけ危害が及ぶのはいいが他のものとなると許せない。とりあえずそれなりの量を作り終え夜を待った。 
 夜になると家の周りをときの声が覆った。まるで戦場にいるようであった。
「今宵は声か」
 平太郎はそれを気持ちよく聞いていた。彼にとってはまるで稽古場にいるようでいい気分であった。
 男の強い声は好きであった。それだから結局今夜の怪異は苦にはならなかった。
「慣れてきたかのう」
 ふん、と口の端を一瞬歪めて笑った。その日はそれで何もなかった。大した日ではなかったな、と思った。
 翌日は朝から用事があったので出た。彼は普段は家で仕事をするのだがこの日は外に出た。
 夕刻に帰った。すると早速異変があった。
 昨日作った縄が全て解かれているのである。そして全て庭に打ち捨ててあった。
「誰じゃ」
 と言ったがおおよそのことはわかっていた。化け物の仕業以外に考えられなかった。
 よく見れば証拠もあった。そこに大きな足跡があった。
 二尺はある。人のものではないのは確かだった。それはやはり三本指であった。
 その日は他には何もなかった。いささか拍子抜けするしかなかった。
「いかんのう、もう少し出手欲しいものじゃ」
 平太郎は酒を飲みながらそう思った。かえって退屈であったからだ。
 翌十四日もなかなか出て来なかった。何時の間にか夜明け近くになろうとしていた。
「出て来なくなったのかのう」
 そう思いながら厠に向かった。あまり飲み過ぎたので近くなってきたのだ。
 そこで仏壇の前を通った。するとそこで仏壇の前がサッと開いた。
「やっとか。待っておったぞ」
 平太郎はそれを見て街望んだものがようやく来た様に喜んだ。そしてそこに留まり何が起こるか見届けることにした。
「用を足すのはそれからでいいな」
 仏壇が開くと次には障子が開いた。そしてそこから香炉が飛んで来た。居間にあるものだ。
 それはひとりでに飛んでいた。ゆらゆらとまるで人魂の様に飛ぶ。そして仏壇の中に入った。小さな香炉だったので何事もなく入った。
 香炉が入ると仏壇はひとりでに閉じた。そしてそのまま開かなくなった。
 障子も閉じられた。それで終わりであった。
「今度は香炉か、ふむ」
 彼はそれを最後まで見守って納得したように頷いた。
「毎日毎日趣向を変えてくれて有り難いのう。それにしても」
 彼はここであることに気付いた。
「化け物というのは物を動かすことが好きじゃな。これは面白い発見じゃ」
 そう言うと笑いながら厠に入った。そして用を足すと手を荒い休んだ。
 十五日にはまた大勢の掛け声が聞こえて来た。
「心地良いのう」
 前にもあった怪異なのでそれが気にはなったが好きな声なので聞いていた。気分よく聞いているとまたもや障子がひとりでに開いた。
 そして香の物桶がゆらゆらと飛んできた。それが部屋の真ん中に置かれると障子は閉まった。
「気がきくのう。よい香りじゃ」
 平太郎はそれは化け物の気配りだと感じた。
「化け物も親切なものじゃ。では今宵は心ゆくまで飲むとしよう」
 その日は気分よく朝まで飲んだ。掛け声を聞き、香りを楽しみながら飲んだ。
 十六日は仰向けになって寝転がっていた。すると天井が急に迫って来た。
「こんな天井だったかのう」
 それは彼の鼻先で止まった。それきり動かなくなった。
「ふむ」
 落ち着いて見る。どうやら寝返り程度はできそうな間だ。
「ならよい。では久方ぶりに寝て寝ることにするか。これでは化け物も来れまいし」
 そして寝た。起きてみると天井は元に戻っていた。
 次の日には何処からか見たこともない男がやって来ていた。
「どなた様でしょうか」
 聞いて見ると上田次郎右衛門という。何でも隣の国の者だという。
「拙者剣を教えている者でござる」
 同業者であるようだ。そういえば聞いたことのある名だ。
「その他にも実は化け物退治も生業にしております」
「化け物退治をですか」
「はい。主に狐狸を相手にしております」
「成程」 
 ことの真実はわからないがどうやらそれなりに自信があるようだ。口調でそれはわかった。
「こちらに毎夜化け物が出るとお聞きし参上したのですが」
「いかにも」
 隠すつもりもなかった。素直に真実を語った。
 平太郎はこの上田という男を家にあげた。そして何時何が起こったか詳しく話した。
「ふうむ」
 上田はそれを黙って聞いていたが聞き終えると腕を組んだ唸った。
「また色々なことが起こっておりますな」
「何だと思われますか」
「そうですな。犬を怖がらぬところを見ると狐狸ではないようですな」
「やはり」
 それは平太郎も幾らか予想がついていた。では一体何だろうか。
「今夜ここに留まらせては頂けぬでしょうか」
 上田はあらためて平太郎にそう申し出た。
「退治されるおつもりですか」
「はい、その化け物が一体何者かわかりませぬが放ってはおけぬでしょう」
「そういうわけでもありませぬが」
 これは彼の偽らざる本音であった。害はあるが命の危険はない。むしろ長い夜を飽きさせない有り難い存在であった。最初の頃はともかく退治なぞ思いもよらぬことであった。
「家、そういうわけにはいかないでしょう」
 上田はそれを否定した。
「化け物を放っておくことは出来ませぬから」
「そういうものでしょうか」
 平太郎はそうは決して思わなかった。この程度ならよいのではないか、そう思っていた。
「はい、化け物は害を為すもの。このままだといずれ貴殿の御命にも関わりましょう」
「はあ」
 納得がいかなかったがどうも逆らえない。確かに彼も今まではそう考えていたし刀を振るった。今も用心して寝ている。だがそれでも違うような気がするのである。
「私は特に困っておりませんが。今はこの家に一人でおりますし」
「その油断が命取りですぞ」
 だが上田は引かない。どうもかなり頭が固いようだ。
「御命をなくされてから後悔されても手遅れです。そうならない前に手を打たないと」
「まあそうなのですが」
 どうしても納得できない。どうも一方的に過ぎるようにしか思えない。
「どうしてもそうしなければなりませんか」
 最後のつもりであった。そう尋ねてみた。
「どうしても」
 やはり強い声であった。もう言っても無駄だと思った。
「わかりました」
 平太郎は観念してそれを認めた。
「それでは宜しくお願いします。謝礼は明日お支払い致しますので」
「いや、それはいりませぬ」
 だが上田はそれは断った。
「拙者は暮らしには満足しておりまする。それにこれは武芸者としての勤め」
「左様ですか」
「はい。ですから安心してお任せ下さい。必ずや化け物を退治して御覧に入れましょう」
「わかりました」
 そこまで言うのなら仕方がない。平太郎は彼に任せることにした。
 こうして上田は平太郎の家に留まることになった。そして夜になり化け物が姿を現わすのを待った。
「どの様なものが出ますかな」
 二人は居間で話wそひながら待っていた。上田が彼に問うてきた。
「わかりませんな。何しろ色々出て来ておりますので」
「確かに。お話を聞くと実に多く出ていますな。こんなのは拙者もはじめて聞きました」
「やはり」
 平太郎自身も薄々そう思っていた。これ程までに様々なことが起こり、化け物達が入れ替わり立ち代わり出て来ているのだ。
 こんなことは書でも読んだことがない。彼はそれをよくよく考えてみた。
「一つのものでしょうか」
「違うでしょうな」
 上田はきっぱりとそう言い切った。
「それにしては種類も数も多過ぎます。一つのものならばいささかそれぞれの趣きがあるのですがどうもそういったものはありませぬ」
「はあ」
「これは何やら黒幕がいると思われます。確か貴殿は比熊山に登られたのですな」
「ええ」
「おそらくあの山に問題があるのでしょう」
 上田は確かな声でそう言った。
「やはり」
 平太郎にももうおおよその見当はついていた。
「山には昔から様々なものが棲んでおります」
「はい」
 それは平太郎も知っていた。鬼や天狗の話は子供の頃からよく聞かされているからだ。
「今ここに現われるという物の怪共は比熊山に棲む者共でしょう」
「やはりそうですか」
「はい、そして貴方は彼等の気に触る様なことを知らず知らずのうちにしてしまった。思い当たることはありませんか」
「そうですなあ」
 彼は言われてふと考え込んだ。
「そういえばあの時石に少し腰掛けましたが」
 それをふと思い出した。
「それですな」
 上田はそれだとすぐに直感した。
「おそらくそれです。その石は化け物にとって何か特別なものであったのです」
「あの石がですか」
 今思い出しても何の変哲もない石であるが。平太郎にはそれがどうして化け物と関係あるのはよくわからなかった。
「化け物には化け物の世界があります故」
 上田はそれについてはこう言った。
「あの者達にはあの者達の決まりごとがあるのです」
「そうなのですか」
「はい、だからこそその石にもこだわるのでしょう。その石は彼等にとっては神聖なものであったと思われます」
「はあ」
 化け物に神聖なものがあるのか、と不思議に思ったがどうもあるらしい。やはり化け物の世界はよくわからない。
「奴等はそれを汚されたと思い貴方の家に来ているのでしょう。おそらく恨みを晴らす為に」
「そうでしょうか」
 それにしてはやり方が大人しいと思った。実際には命の危険を感じたことはなかった。大入道にしろ女の首にしろ彼には危害を加える意図はあっても命を狙ってまではいないように今では思えた。
「このままだとやはり御命が危ないです」
 それには疑問を感じている。だが上田は自信満々である。
「やはりここは毅然としていきましょう。今日で怪異を終わらせるつもりで」
「そうですか」
 これには賛同しかねた。だが上田のやる気を見ているとどうしても言えない。
「よろしいですな」
「ええ」
 平太郎は引き摺られる様にそれに従った。普段の彼からは思いも寄らぬことであった。
 こうして上田は化け物退治に取り掛かることになった。札や経典等も取り出してきた。
「お札ですか」
「はい」
 上田は答えた。見たところ彼の流儀は僧侶のそれに近いようだ。
「まあここはお任せ下さい。必ずや退治して御覧にいれますので」
 そう言いながら刀も取り出していた。完全にやる気である。
 夜も深くなってきた。二人が待っていると障子の向こうに何やら見えてきた。
「むっ」
 それは細長いものであった。数えきれぬ程ありそれがふわふわと空を舞っていることが障子越しにもわかった。
「これですね」
「はい」
 平太郎は上田に問われ頷いて答えた。流石にもうこれが何だかわかるようになっていた。
 また障子がひとりでに開いた。そしてその細長いものが入って来た。
「今日は何かのう」
 平太郎は悠然を腕を組んで座って見ていた。それに対して上田は柄に手をかけ片膝を立てて身構えている。その懐には札や経典がある。
 細長いものはよく見れば輪であった。白く月の光によく映えていた。
「これは一体・・・・・・」
 上田はそれに戸惑っていた。今目に見えているそれが何であるか全くわからなかった。
 何をするべきかわからなかった。ただそれを見るだけであった。
 平太郎はそれをよそにその輪をまじまじと見ていた。見ればその先の方に顔がある。
 小さいが目も鼻も口もある。そしてどれも平太郎や上田を見て笑っていた。
「あの」
 上田は戸惑いながらそれを見ていた。
「これが化け物ですか」
「ええ」
 平太郎は答えた。特に驚くことはなく落ち着いたものである。
「まあ落ち着いて下さい。特に害はありませんから」
「はあ」
 上田は彼に言われるままに膝を下ろした。そして座り込んだ。
「まあ一杯どうですか」
 平太郎はそんな彼に酒を勧めた。
「しかし」
 だが上田は乗り気ではなかった。化け物が気になって仕方がないのだ。
「放っておいても大丈夫ですか」
「ええ」
 あからさまに不安そうな上田に対して平太郎は落ち着いたものであった。
「気を張る必要は少しはありますがね。けれど見たところ今日のは何もして来ないでしょう」
「そうですか」
「まあ心配なら壁にもたれかかって休まれることですな」
「壁にですか」
「ええ、こうやって」
 丁度酒も切れた。平太郎は壁にもたれかかってみせた。
「こうして休むといざという時に対処し易いですし。刀を持っていれば安心でしょう」
「はあ」
 平太郎を見ても何だか落ち着かなかった。だが上田は彼がこれ程自然に対応しているのが信じられなかった。
「ではお休みなさい」
 平太郎はそう言うと眠りに入った。暫くするとすうすうと寝息を立てはじめた。
 だが上田は違った。まだ目の前を飛び笑いかけてくる輪が気になって仕方がないのだ。
「大丈夫なのか」
 そう思い心配でならなかった。とても寝られたものではなかった。
 まんじりともせず彼等に注意を払い続けた。そして遂に朝を迎えた。
 平太郎は鶏の鳴き声と共に目を覚ました。それと同時に輪は全て消えていた。
「ふうう」
 彼はゆっくりと目を開けた。ごく自然に朝を迎えた感じであった。
「おお、お早うございます」
 そして上田に声をかけた。実に血色のいい顔であった。
「ええ」
 それに対し上田は憔悴しきったものであった。彼は結局一睡もできなかったのだ。
「おや、眠れませんでしたか」
「はい」
 上田は力ない声で答えた。
「昨日のあれがずっと飛んでいましたので」
「そうでしょうね」
 平太郎に憔悴したところはなかった。実によく眠れたという感じであった。
「こんなのが毎日ですか」
「はい。お払いはされなかったのですか?」
「しようとしましたが」
「それで」
 見れば懐の札はそっくりそのままあった。使わなかったらしい。
「何の効果もありませんでした。どうやら私の知らない妖怪のようです」
「そうですか。その札は何だったのですか」
「狐狸のものと生霊、死霊の為のものでした」
「妖怪のものはなかったのですね」
「それはこれで対処するつもりでした」
 そう言って刀を見せた。
「あれではとても切れるものではありません。どうしていいやら」
「そうでしょうなあ」
 平太郎は何処か他人事のように答えた。
「とても切れるものではありませんから」
「ええ、確かにそうでした」
 彼はもう話すだけで限界のようであった。疲れが見てとれた。
「これからどうなさるおつもりですか」
 平太郎は彼に問うた。
「それは」
 彼は疲れきった声で答えた。
「今日で失礼させて頂きます。拙者には限界でござる」
「左様ですか」
 こうして上田はすぐに立ち去った。一睡もできず憔悴しきった足取りで平太郎の家をあとにした。
「やはり無理じゃったか」
 彼はそれを見送りながら呟いた。
「まあそれも当然か」
 そかしそれは予想されたことであった。
「どうやらわしはこのままここで暮らしていくしかなさそうじゃな」
 そして家の方を振り返った。
「何時まで出るかわからんが暫く化け物と一緒に暮らしていくことにするか」
 次第にそんな気持ちになってきた。
 そう思えるようになるとかなり楽になった。彼は今夜からは布団でゆうるりと寝ることに決めた。
「もう蚊に食われるのも嫌じゃしな」
 今までは蚊帳の外で寝らざるを得なかった。蚊帳の中からはよく見えないからだ。
 とりあえず閉まっていた蚊帳を再び取り出した。そして夜に備えるのであった。
 夕方になると蚊帳を張った。そして夜に備えた。
「さてと」
 蚊帳を張り終えた平太郎は夕食を採りながら考えた。
「今夜は何が出て来るのかのう」
 何かわくわくとするものがあった。彼はそれが待ち遠しくて仕方がなくなっていた。
 夕食を食べ終えると何やら台所から臼をつく音が聞こえてきた。
「今宵は臼か」
 台所に行ってみると臼がひとりでにつかれている。これまた面白い光景だ。
「これだけじゃと勿体ないのう」
 そう思った平太郎はそこに米を入れた。そしてそれで米を白くしようと思ったのだ。
「何もしないよりいいじゃろう。無駄ではなかろう」
 使えるものは使おうと思った。怪異も使いようである。
 そして寝室に戻った。もう寝るつもりであった。
 蚊帳の中に入る。そして刀を枕元に置き掛け布団をかけうとうとと眠りに入った。
 意識が遠のいていく。だがそこで彼は起こされることになった。
 何かが顔を這っている。ヌルヌルして気味が悪いものだ。
「ん!?」
 不審に思い目を開けた。するとそこにまたもや化け物がいた。
「今宵は臼だけではないのか」
 見れば赤く細長いものが平太郎の顔を撫で回しているのだ。
 それは上から生えていた。面妖なことにそれは蚊帳を通り抜けて天井に続いている。
 天井にはさらに奇怪なものがいた。それは巨大な醜い老婆の顔であった。
 老婆は平太郎を見てにやにやと笑っている。その大きさは天井を覆い尽くしていた。
 口からはその赤いものが出ている。平太郎の顔を撫で回す、いや嘗め回していたのはこの老婆の舌であった。
「また気色悪いことをするのう」
 平太郎はこれには気分を悪くさせた。だが不快に思っただけでそれ以上は何も思わなかった。
 蚊帳を通り抜けているのが奇妙であったがそれは化け物の所業なのでそれはそれで不思議なことに納得がいった。納得するとどうでもよくなりまた眠りについた。
 暫く舌が嘗めていたがそれも止まった。そして彼は朝までゆっくりと眠った。
 起きるとまず台所へ向かった。そして昨夜の臼を覗き込んだ。
「白くなっているかな」
 だが米は白くはなっていなかった。それを見た平太郎はいささか落胆した。
「まあ化け物に期待しても無駄じゃな」
 結局人間ではない。これも致し方ないことであった。
 次の日も蚊帳の中に入った。もう何が来てもさして驚かない。危害も加えられるわけでもないとわかっているので悠然としていた。
「落ち着くのう」
 彼はゆったりとしていたがそれでも化け物か怪異がやって来るのを待っていた。
 今夜は何が来るか、それを考えていた。
「昨日の婆は中々面白かったが」
 だが続けて来るとは思えない。
「では何か」
 しかしそれはわからない。とりあえず化け物が来るまでわからないのであった。
 待っていると不意に天井が下がってきた。ゆっくりと下がって来る。
「むっ」
 それは蚊帳に迫って来た。そしてそのまま蚊帳をすり抜けてきた。
「またか。よくすり抜ける蚊帳じゃのう」
 思わず苦笑した。これで傷一つないのだから実に優れた蚊帳である。
 蚊帳は尚も下がってくる。そして平太郎の鼻先まで来た。
「わしまですり抜けるかのう」
 そう思っていると本当にすり抜けた。そして彼は天井の裏を見ることになった。
「ふむ」
 横を見れば行灯もすり抜けている。潰されもしていない。
「これまた妙なことじゃのう」
 何と天井裏を見ることができた。見ればゴミだらけだ。
「ううむ」
 平太郎はそれを見て反省の念にかられた。
 鼠の糞や蜘蛛の巣の古いの等がある。その他にも色々とある。かなり汚い。
「そういえば天井裏は今まで全く掃除もしていなかったのう」
 そのあまりの汚さに辟易してしまった。
「また頃合いを見て掃除をしておくか」
 彼は綺麗好きである。やはり家は汚いのより綺麗なのがいいに決まっている。あらためて反省した。
 だが反省はしたが他には何もしなかった。どうも天井裏から何か出て来るわけでもないようだ。
「これだけかのう」
 そう思っていると天井は上に上がりだした。そしてすぐに元の高さに戻った。
「終わりか」
 だがそれで終わりではなかった。今度は天井に大きな蜂の巣が姿を現わした。
「蚊帳は効くかのう」
 中から出て来るであろう蜂だけが気懸りであった。だが蜂は出ては来なかった。
 そのかわりにそれぞれの穴から泡や黄色い腐った様な水を出してきた。そしてそれを平太郎の左右に落としてくる。
「蜂ではないのか」
 それでは心配する必要もない。平太郎はそれが落ちるのを悠々と眺めているだけであった。
 やがて蜂の巣は次第に小さくなっていった。そして消えていった。
「終わりか」
 それでその日は終わりだった。もっとも平太郎自身は蜂の巣が消えるのを見届けるとすぐに眠りについていた。
 二十日は飲んでいた。丁度親しい者から祝いの酒をもらったのだ。
 それもかなりあった。樽一つである。酒好きな平太郎の喜びは如何程のものがあろうか。
「これはいい祝い物じゃ」
 彼は大喜びで飲んでいた。しかもかなり美味い。
 肴には干し魚があった。鮒である。
 彼は細かく切ったそれを口に入れながら飲んでいた。気持ちはかなり楽しい。
 だが一つ不満があった。だがそれは気にしてもせんないことであった。
「他に共に飲む者がおればのう」
 彼は飲みながらそう思わざるをえなかった。
「といっても誰もおらんし。権八殿を呼ぶにはちと時間が遅い」
 もう夜もかなり更けていた。ここで障子の向こうから何やら声がしてきた。
「酒か」
「上等の酒があるのか」
 声はとりあえずは人間のものである。だがその主が人間ではないことは平太郎にはよくわかっていた。
「おお、あるぞ」
 平太郎はそれがわかっていながらあえて彼等に対してこう言った。
「飲みたいか」
 そしてこう問うた。
「おお」
「勿論だ」
 彼等は口々にこう答えた。
「では来い。ただしじゃ」
 彼はここで注文を出した。
「肴を持って参れ。そして酒も足りなくなったら持って来い。そうすれば皆で飲もうぞ」
「よし!」
 向こうでそれを了承する声がした。すると暫くして障子の向こうに異形の影達が姿を現わした。
「よし」
 平太郎はそれを見てにい、と笑った。見ればそこから様々な化け物達が杯を手にやって来る。