耳に聴こえるは君の歌 1
作:ASD





     1



 サイナスがその村を再び訪ねてみようと思い立ったのは、やっぱりいつもの気まぐれからであった。
 そんな彼の職業は、楽士である。
 もう一つ別の名で呼ぶならば、吟遊詩人とも言う。外見はまだ二十を少々過ぎた程度にしか見えなかったが、四本弦のジッタを携えてさまざまな土地を訪ね歩いたその経験は、とてもそんな若者とは思えないほどであった。
 彼の生活は、常に旅から旅であった。
 その日の気分で、北へ南へと行き先が変わる。ちょっとした気まぐれで、思いも寄らない出来事に遭遇したり、あるいはしなかったりするのだった。
 その村は二年ほど前に、ただ一度立ち寄っただけの、本当に小さな村だった。
 たまたま近くを立ち寄ったさいに、何気なしに思い出してしまった……ただそれだけの事と言えば、それだけである。特に急ぐ旅でもなかったというのも、理由と言えば理由になるだろうか。
 そんな気まぐれを起こしさえしなければ、彼があのような騒動に遭遇する事は無かったのだが……まぁそうは言っても、彼自身はまったくの傍観者に過ぎなかったし、彼が何か責任を負わなければならないわけでも無かったのだが。
 そういう意味では、遭遇しようがしまいが、どちらでも構わないと言えば、構わなかったのかも知れない。まぁそれでも、その事件に立ち会ってしまった事、その事件に関係する人々に巡り会ってしまった事、それはそれで、何かの巡り合わせには違いなかった。
 要するに、これはそういうお話なのだ。




 その村は、王国の南部一帯に広がる肥沃な穀倉地帯の片隅にあった。
 見渡す限りの広大な麦畑。その真ん中を、まっすぐ切り裂くように伸びている一本の道。サイナスの姿は、そんな道の途上にあった。
 どこまでも続いているかのような黄金色の絨毯を横目に見やりながら、サイナスはようやく目的の村が近づきつつある事を実感していた。
 豊かに実った麦の穂を見やれば、そろそろ収穫も間近であろう事が窺い知れる。ぼんやりとそんな風景を見やりつつしばらく歩いていると、やがて村の姿が彼方に見えてきた。
 あらためて見やれば、確かにちっぽけな村であった。
 その点は、彼の記憶と大差なかった。さほど物珍しい何かが待っているわけでもない。周辺をのどかな麦畑に囲まれて、数えるほどの民家が寄り添いあっているばかりの、ささやかな村落。 
 そんな道を歩いていれば、畑仕事に精を出す村人達とも行き会ったりもする。彼らはサイナスを見るなり、一様に声を上げた。
「サイナス! サイナスじゃないか!」
「懐かしいな! 一体何年ぶりになるのだ!」
「よく戻ってきてくれたな!」
 そんな明るい声に不意に囲まれたりして、サイナスはただ笑顔を返すばかりであった。
「どうも、お久しぶりです。……皆さん、お元気そうで何よりですよ」
「サイナス、お前さんも二年前に来たときとちっとも変わっとらんなあ」
 老人の一人が、彼を村まで送っていく、と言い出したので、サイナスはその言葉に甘えて、村までの短い距離を荷馬車に揺られることとなった。
 その間も、老人とのんびりと会話を交わしたりする。
「お前さん、この二年というもの、どこをどうほっつき歩いとったんだ?」
「まぁ、あちこち回ってましたよ。南の国境地帯を越えて、内海から船に乗って……」
「草原か砂漠にでも行く、と言っとったではないか。それでは方角が反対じゃあないのかい」
「気が変わったんですよ」
 良くある事です、とサイナスは笑った。
「そう言えば、村の皆さんはお変わりありませんか」
「そうさなぁ……なんにも変わりないなぁ。この二年間、誰も彼も皆息災にしてるよ。あの娘も、お前が来るのをずっと楽しみにして待っとったよ」
「あの娘……?」
 不意にそう言われて……サイナスは怪訝そうに眉をひそめた。 
 はて、どこぞの若い娘とおかしな約束でもしてたものか、と一瞬不安を覚えたが、一体その話が誰の事を言っているのか、すぐに思い出す事となる。
 そう……荷馬車に揺られている彼の耳に、やがてどこからか歌声が聞こえてきたのだ。
「……あ」
「ほれ、今日も元気に歌っているぞ、サシュアのやつめ」
 老人が、半ば呆れ顔でそう言った。
 やがて馬車は村にたどり着く。見れば、広場の真ん中にある井戸で、若い娘が水を汲んでいるところだった。
 若い娘……というより、はっきり言えば子供だった。年の頃十二、三歳といったところだろうか、淡い栗色の髪をした少女の姿が、そこにあった。
 彼女は水を汲み上げながら、歌を口ずさんでいた。
 いや、本人は口ずさむ程度のつもりなのかも知れないが、その歌声は遠くからでも実によく聞こえていた。歌声はそれほどに、元気いっぱいだったのだ。
 まだはっきりと顔が判別する距離にはなかったが、その歌声を聞けば、それが誰なのかはサイナスにもすぐに思い出すことが出来た。
「確かに、なんら変わってませんねぇ……」
 サイナスはただただ、苦笑するばかりであった。
 荷馬車はがらがらと音を立てて、広場の石畳の道を進んでいく。そんな物音に振り返った少女の目が、サイナスの姿を捉えた。
「あーっ!」
 先ほどの歌にも負けないくらいに元気な声が、少女の口からほとばしった。水汲みの手をとめて、少女は荷馬車の元に慌てて駆け寄ってくる。
「サイナス! サイナス!」
 肩で切りそろえた髪をひょこひょこと揺らしながら、少女はサイナスの名を連呼した。
「そんなに呼ばなくても、ちゃんと聞こえてますよ。……お久しぶりです、サシュア」
「うわっ、ちゃんと私の名前覚えてる!」
 サシュアは妙な所で驚いてみせると、からからと嬉しそうに声を上げて笑った。
「やった! サイナスが私の事覚えてた! サイナスがちゃんと戻ってきてくれた!」
 そんな風にはしゃいで回るので、そのうちに騒ぎを聞き付けた他の村人達も、順番に広場に集まってくるのだった。
「おお、吟遊詩人ではないか!」
「楽士だ! 楽士が来たぞ!」
 物珍しげに集まってくる村人達は、皆サイナスの記憶にある通りの、二年前と変わらぬ顔ぶれであった。
「久しいな、サイナス!」
「元気にしていたか!」
「本当にまた来るとは思わなかったぞ!」
「そうだそうだ! 二度と来ぬのかと、心配していたぞ!」
 本当に様々な声が、彼の上に投げかけられる。
 彼らに共通しているのは、笑顔だった。吟遊詩人が一人訪れただけで、このように嬉しそうな笑顔を見せてくれる……あてどもなき風来の身の上の彼を、ここまで温かく出迎えてくれる事が、サイナスにはとても嬉しく思えるのだった。




     2

 サシュアという少女の事を一言で言い表すとしたら、とにかく元気である、としか言いようがなかったかも知れない。
 父親を幼い頃に亡くし、今は病弱な母親と二人きりの暮らしである。身体が弱く、ろくに外も出歩けない母の代わりに、大人達に混じって畑仕事やら家畜の世話やらを手伝っているのだった。
 もちろん小さな子供ゆえに必要以上の重労働を課すわけにはいかなかったが、それにしても彼女は働き者であった。麦畑に、牧舎にとあちこちに姿を見せる一方で、母親の看病にも忙しいが、日頃から疲れた素振りなどほとんど見せる事は無かった。
 そう、彼女はいつだって、元気そのものだった。
 そして……元気と言われるのはそのせいばかりではなかった。サシュアと言えば、忘れてはいけないのがその歌声であった。
 彼女は歌が好きだった。
 本当に、大好きだった。
 それこそ、いつでもどこでも歌っている、と言っても過言ではなかった。村のどこにいても、どこからか彼女が聞こえてくる……というのも全然大げさではなかった。
 そんな彼女の将来の夢。
 それは……吟遊詩人になって、世界中を旅する事、であった。
 子供らしい夢想と言ってしまえば、それまでだったかも知れない。別段彼女は村の生活を嫌い、逃避を望んで旅立ちを夢見ていたわけでもなく……ただ単純に、歌をうたって日々を暮らす、そんな暮らしに憧れていたに過ぎなかったのだが。
 そして、それが憧れで済んでいれば良かったのだが。
 そんな彼女の前に初めてサイナスが姿を見せたのは、今から二年前の事であった。
 村にも滅多に訪れない吟遊詩人の来訪に、サシュアはすぐに夢中になった。
 何せ、サイナスは彼女の知らない歌を何曲も何曲もたくさん知っていたし、彼女が知らない遠い昔の物語も、それこそいくつもいくつも知っていた。ジッタの弦の上で指を躍らせ、音色を紡ぎ出すそのさまは、どんな魔法よりも彼女を魅了した。
 やれ歌を教えてくれ、やれジッタを触らせてくれ……果ては、吟遊詩人に弟子入りさせてくれ、一緒に旅に連れていってくれ、などとわがままな事を言い出す始末である。
 これにはさすがの村人達も、大いに慌てた。
 彼女がもう五歳ほど大人で、じっくりと時間をかけて考え抜かれた末の決意であるのならば、誰も文句を言う筋合いではなかったのかも知れない。
 だが当時の彼女はわずか十歳の子供に過ぎなかったし、自分の将来を熟考した末の意思表示とは到底思えなかったし……頼み込まれたサイナスにしてからが、これには多いに慌てた。本当に慌てふためいた。
 結局、村人達は「母親を一人置いていくのは可哀想じゃないか」と泣き落としに訴え、サイナスはと言えば「もう少し大人になって、決意が変わらなければ」と結論を先延ばしにする事で、事なきを得たのであるが。
 その代わりに、必ずこの村をもう一度訪れるように、という固い固い約束を、サイナスは無理矢理にさせられたのだった。
 ……とは言え、彼自身はサシュアと再会するその瞬間まで、その事実をすっかり忘れ去っていたのであるが。
 無論、村を訪れたことを、サイナスがちょびっとだけ後悔してしまったのは、言うまでもなかった。




 麦の刈り入れが終われば、その直後には毎年恒例の収穫祭が待っている。年に一度、村をあげて上へ下への大騒ぎとなる数日間が訪れるのであった。
 サイナスがそれに合わせて村を訪れてくれれば言うこと無しだったのだが……まぁ何はともあれ、彼の訪問は村人達にとっては至極喜ばしい事ではあった。
 村に一件しかない宿屋の、一階の食堂。その晩そこに、実に大勢の村人達が詰めかけていた。むろん目当てはサイナスである。
 収穫祭で大騒ぎする以外は特に娯楽らしい娯楽もなく、慎ましやかな日々を過ごしている彼らである。せっかくの吟遊詩人の来訪に、大人しくしている道理はなかった。ここぞとばかりに、盛大な宴が繰り広げられる事となった。もちろん、収穫祭のように、というわけにはいかなかったが……。
 その晩サイナスは、それこそ喉を休める間もないくらいに立て続けに歌を披露した。王都で流行りの恋歌やら、草原や砂漠を巡って聞きかじってきたという異国情緒あふれる素朴な歌、彼が一番得意とする、まるで見てきたようにもっともらしげな昔語りなどなど……次から次に飛び出してくるのだった。
 サイナスばかりではない。彼の歌や演奏に合わせて、村人達もここぞとばかりに踊り、はしゃぎまわった。
 そこで活躍を見せたのがサシュアであった。サイナスというジッタの名手、素晴らしき楽士を得て、彼女も気前よく美声を披露する。……本人がそう思ってるように本当に美声かどうかはさておき、子供らしい元気な歌声は、人々にも素朴な元気を与えてくれるのだった。
 もちろん、歌や踊りばかりがこの日のすべてではない。食堂のおかみ一人では追いつかずに、村の女達が徒党を組んでは厨房で大奮闘してみせる。その成果として、宴の席のテーブルを、腕によりをかけたご馳走が彩っていた。
 むろん収穫祭の前であり、それに比べればずっと慎ましやかであったかも知れないが……収穫前の前夜祭と呼ぶにふさわしい、精一杯に賑やかな宴であった。
 ひとしきり歌い終えた後で、サイナスはようやく人々から開放され、ジッタを置いて一息つく。さすがに喉も乾くのだろう、葡萄酒を一気に喉に流し込んで、グラスを空にした。
 ……もっとも、陽気な曲であれだけ村人達を多いに盛り上げておきながら、本人は至って冷静というか、実に落ち着き払っているというか……よく見れば、汗もろくにかいてはいなかったのだが。
 そんな彼が、何気なしに食堂の中を見回してみると……片隅のテーブルで、渋い顔で話し合っている男達の姿が見えた。
 彼は何気なしに、そのテーブルに足を向ける。
「どうしたんですか、皆さん深刻な表情をして」
「おお、サイナス。まぁ座れや」
 楽士の姿を見るなり、彼らは一様に厳しい表情を解いた。空になったサイナスのグラスに、村人の一人が無造作に葡萄酒を注ぎ足す。こぼさないように慌てて受け止める彼に、ねぎらいの言葉がかけられた。
「いやいや、お前が今の時期に来てくれて、助かったよ」
「はぁ。……今の時期に、ですか」
 何でもない一言のように聞こえたが、よくよく考えてみれば、今の時期、という風にことさらに期限を区切るのも妙な話である。吟遊詩人のくせに、そういう所には耳ざといサイナスであった。
 何かあったんですか、と尋ね返したサイナスに、男達はただ苦笑するばかりだった。
「まあ、別に隠し立てするような事じゃないが……実は少々、畑の方におかしな事が起きてな」
「おかしな事、ですか。……僕が村に来たときには、別に何もおかしな事があるようには見えませんでしたけど?」
「お前が来た一本道の方じゃなくて、西の向こうの畑の話だよ。……理由がどうにも分からんのだが、収穫を前にして、いきなり畑の麦が、枯れてしまってな」
「枯れた……?」
 驚いてみせるサイナスに、憔悴した表情の男の一人が、弱々しい口調で語る。
「ああ、そんなに心配しなくてもいいぜ。枯れたのは俺の畑で、他の連中のはみんな無事だ」
 などというが、そう語った本人は見ていて実に気の毒なくらいに、げっそりとしていた。よほど堪えているのだろう。
 別の村人が、話を先に進める。
「西の畑が全滅した、とかいう話ならまだ分からんでもないが……このルアンの畑だけ、というのが何だか不気味な話に思える」
「ですねぇ……」
「まぁ気の毒な話さね。皆で何とか、このルアンのやつを助けられねぇかってんで、色々と話し合っていた所なのさ」
「なるほど」
「収穫を前にこんな事になって、村のみんなも何事かと不安がっているからな。こういう時期にお前が来てくれて、本当に良かった」
「いえいえ、こんな僕でよければ、いくらでもお力になりますよ」
 そう安請け合いしたのとほぼ同時に、彼を呼ぶ声が聞こえてきた。そろそろ戻ってきて、次を歌ってくれ……そんな催促の声に、サイナスはルアン達に軽く会釈をすると、またジッタに手を伸ばすのだった。




     3 

 翌日。
 あれだけ呑んで騒いでいた事もあって、村人達の朝は普段よりは少々遅めだった。
 ……が、それでも農村の一日は早い。
 とくにサシュアの朝は早かった。彼女はほとんど朝一番というような時間帯に、サイナスの宿を訪ねた。
 昨晩の食堂の二階に、彼はそのまま部屋を取っているはずだった。彼女の場合、大人達のように夜遅くまでは起きていられなかったので、サイナスの歌を最後までは聴いていられなかったのだ。
 その分を取り返そうとでもいうかのように、朝も早くからサイナスの元を訪れたのであるが……。
 食堂はまだ後片付けが済んでおらずに、昨日の余韻を残していた。いかにも眠そうな表情の宿のおかみに元気よく挨拶をすると、彼女はサイナスがいるはずの二階の客室に、遠慮もなしに踏み込んでいこうとした。
 が……意外にも彼は、すでに食堂の片隅で朝のお茶をのんでいた。
「おはようございます、サシュア」
「うわっ、もう起きてるの!?」
 おおげさに驚いた少女に、サイナスはにこやかに微笑みかけた。
「僕はあんまり、眠りが深くないんですよ」
 そう言って静かに笑うサイナスに、サシュアはしばし呆然としてみせるばかりであった。
 そんなサシュアに、サイナスが問いを放つ。
「ねぇサシュア。ルアンさんの畑って、どこにあるんですかね?」
「あ……サイナスも聞いたんだ。畑の話」
「ええ。何だか不思議な事が起こったんだとか」
「もしかして、見に行くつもり? 物好きなのねぇ」
「吟遊詩人なんて、そんなものです」
 淡々と答えたサイナスに、サシュアは呆れて笑うばかりだった。
 何はともあれ、サイナスと行動を共に出来るのは、彼女にしてみれば嬉しい話である。サシュアは彼を喜んで畑に案内した。
 異変があったのがいつの話だ、とかいう詳細までは聞き及んでいなかったが、現地に出向いてみれば、異常の痕跡はそこに未だありありと残されていた。
 一面に広がる麦畑。収穫を前にして、さやさやと風に揺れる、黄金色の絨毯。……というのが本来の光景であるはずなのに、その一区画だけが、ぽっかりと切り取ったかのように、色がくすんでいた。
 その区画の麦の穂は、全てがしおしおにひからびて、地面を這うように、くたっとその姿勢をねじ曲げていた。不気味な土気色が、辺り一面を覆っていた。
 ……それは確かに、奇っ怪としかいいようがない光景だったかも知れない。
 麦の穂が何か病気にかかったとか、育ちが悪かったとか、そういう話とはまるで違っているように思えた。隣接する余所の畑には、麦の穂が元気いっぱいに実っているのだ。
 無残にしおれた麦を前に、サイナスがぽつりとこぼした。
「これは確かに……普通じゃなさそうですね」
「でしょう?」
 サシュアが大きな声をあげる。
「ルアンさんの奥さん、もうじき子供が生まれるのよね。それで私も、ここの畑にはよく手伝いに来ていたんだけど……」
「それじゃ、さぞサシュアもがっかりしている事でしょうね」
「そりゃ、まぁね」
 うつむきながら、彼女はそう頷いた。
「しかも、これだけじゃ無いのよね」
「……?」
 不審げな表情を見せるサイナスに、サシュアが声を潜めるようにして問いかけてくる。
「もしかして、誰からも聞いていない?」
「……まだ、何かあるんですか」
 恐る恐る問い返したサイナスを、サシュアは今度は村の方へと案内した。
 目指す先は、村の牧舎である。サシュアが歩きながら事情を説明してくれた。
「牛が三頭、いっぺんに病気になっちゃったのよ。リニッツィさんが言うには、だいぶ重い病気なんだって」
「ふむ……」
「何か悪いものを食べたってわけでもなさそうだし、流行り病なら、今頃は他の牛も倒れていそうなものだし……」
 そう説明したサシュア自身、その牧舎の家畜の世話を手伝っているのだから、これまた残念な話であろう。
 子供の話だから大げさに誇張されているのでは、と一応は疑ってみたサイナスだが、たどり着いた牧舎では、実際に三頭の牛がぐったりと元気のない様子で横たわっていた。時折、元気のなさそうな声で鳴くのが、これまた何とはなしに憐れを誘う。
 枯れた麦畑。
 病気の牛。
 ……収穫を前に、村には何事か、異変が起きつつあるようだった。




 やがてサシュアは、畑の手伝いがあると言ってサイナスの元を離れていった。
 一人残された吟遊詩人は、手持ち無沙汰なままに村の広場をうろうろとしていた。その場で何気なしに物思いに耽っていたサイナスだったが、そこで一人の人物に遭遇する事となった。
 それは村の教会を預かる、司祭その人であった。
「ああ、これは、司祭さま」
「……おお、吟遊詩人どのではないか。息災にしておったかね」
 昨日の宴には村人達のほとんどが顔を出していたが、中には勿論その場に居合わせなかった人も何人もいる。
 司祭も、そこにいなかった人物の一人であった。二年前の訪問ですでに面識はあったのだが、今回はこれが初めての顔合わせとなる。
 その司祭もまた、何か考え事をしながら歩いていたようで、サイナスに声をかけられるまでは彼には気付かずにいたらしい。
 四十に手が届こうかという司祭は、ぱっと見た感じいかにも神経質というか、気難しそうな人物だった。長身の割に痩せぎすで、やけに眼光鋭い、少々おっかない顔つきが変に印象的でもあった。
 正直、気さくな人物とは言い難いというのが、サイナスの所見であった。その見立ては二年後に再会した今でも、さほど揺るぎはしなかったのだが。
 そんな司祭は一体何を考え込んでいたのやら、やたら深刻ぶった表情を見せていた。
 ただ挨拶しただけで通り過ぎても良かったのだが……というか、サイナスはそのつもりだったのだが、不意に司祭の方から彼に声をかけてきたのである。
「吟遊詩人どのは、あのサシュアという少女を、どのように思われるかね?」
 やたら堅苦しい口調で何を言い出すのかと思えば……質問の意図の全く窺い知れない、唐突な問いかけだった。
「はあ。……どうと言われましても」
「少女の、あの歌。あれを吟遊詩人どのは、どのように思われるか」
「歌、ですか」
「さよう。あの娘の歌好きは、私も含め村人皆が知るところ。子供ゆえ、元気があるのはまことによいことだが」
「だったら、いいじゃないですか。子供でなくても、元気があるのはいいことです」
「最近、村の子供達が気になる噂話をしておるのだが」
 サイナスの回答を無視するように、司祭は次の言葉を吐いた。会話が成立しているような、いないような、微妙に噛み合わないやり取りだった。
 サイナスの困惑をよそに、司祭は続ける。
「あの枯れた麦畑、サシュアもよく出向いては、ルアンを手伝っておったとか」
「……そうですね。彼女も自分でそう言ってましたけど」
「牧舎にしてもそうではないかな。家畜の世話はリニッツィの仕事であるが、サシュアも熱心に手伝っておった」
 それも、彼女が自分でサイナスに話した通りである。
「……あの、司祭さま。一体何がおっしゃりたいのでしょうか?」
 サイナスの問いに、司祭は目を閉じたまま何も答えなかった。
 そのまましばらく沈黙が流れる。極めて気まずい、居心地の悪い沈黙だった。
 相手が一人で勝手に物思いに耽っているのなら、このまま黙って中座してもいいのではないか……サイナスがそう思った矢先に、その沈黙を唐突に破って、司祭が最後にこう言った。
「ただならぬ出来事が、この村には起こりつつあるのだよ……ああ、恐ろしや」
 そのまま、司祭はぶつぶつ何事かを呟きながら、サイナスの元を勝手に離れていった。
(なんなんだ、あの人は、一体……)
 呆れつつ、サイナスはいかにも不健康そうな後ろ姿が去っていくのを、ぼんやりと見送っていた。そんな司祭の呟きの中に、異端審問、などという何やら物騒な一言があるのを、サイナスは聞き逃さなかった。















あとがき

 えー、そんなこんなで、ASDの4ヶ月ぶりの新作にして、実に今更な2003年の第一弾でございます(そうなのか!(笑))。
 ついでに言えば、企画短編以外の投稿作品としても随分と久々、という事になるんですけどねぇ。いつ以来だったかなーと何げなしに調べてみましたらば、なんと長編「月があなたと踊る夜」以来1年半ぶりだという事が判明してしまいました。お前本当にここのサイトの管理人なのか……?(爆)


 さて、この作品についてですが、タイトルやあらすじからある程度お察しいただけるかと思いますが、企画短編「音楽」用に用意していた作品だったりします。分量的に短編には収まらなくなりましたので、結局こういう形で掲載する事になりました。
 一応、書きかけの文書を適当なサイズにざくっと分割して、推敲作業が終わり次第ひとつずつ順番に掲載していこうかなぁ、と思っております。
 まぁそんなこんなで、図らずも久々の連載となってしまいました。皆様、何とぞよろしくお願いします。

 (2003.4.17)