耳に聴こえるは君の歌 3
作:ASD





 村人から簡単に道筋を聞いただけで、本当にたどり着けるのかとサイナスは心配していたのだが……半信半疑なままに村から街道へと、来た道を逆に辿っていくと、その道は確かにそこにあった。
 街道へと立ち戻るすぐ手前辺りに、聞いた話の通りに脇へと逸れていく一本の道。
 それは何とも、実にひっそりとした分かれ道であった。サイナスが先日そこを通りがかったときも……もちろん二年前に来たときも、まったく気付きもしなかったものだが。
 ともあれ、その道をしばらく進んでいき、なだらかな丘陵を越えていくと、やがてその向こう側に、いかにもな風貌の石造りの建物が見えてきた。
「うわぁ……」
 丘陵の上から、眼下にそびえ立っている建物を見下ろして、サシュアは思わず声を上げた。
 そこにあったのは、まさしく神殿と呼ぶに相応しい、荘厳な雰囲気の建物であった。何もない草原の真ん中にそういう建物がでんと構えているのであるから、黙ってみている分にはそこはかとない違和感さえ、感じないわけではなかったのだが……。
 サイナスにしてみれば、旅先のそこかしこで同じような様式の建物を幾度か目にしたこともあるので、違和感があるにせよ無いにせよ、それが神殿であるのは間違いなかろう、と思えたのだったが。
 まぁサシュアが驚いたほどに、サイナスも感嘆の意を示したわけでもなかったのだが。あちこちで見慣れた建物であるだけに、別段驚くに値するほど巨大であるというわけでもなかったのだが……。サシュアの村の教会などと比べれば随分と立派ではあったものの、王都などの大きな都市へ行けば、街の片隅にあるような寂れた神殿でも、これよりは大きかろうと思われた。
 ただ、こじんまりとしてはいるものの、いかにも荘厳で厳粛な雰囲気は、遠目からもよく分かったし、何より田舎の農村暮らしのサシュアにしてみれば、その堂々とした構えといい、実に見慣れぬ姿であろう、というのは想像に難くなかった。
 まぁ、そういうサイナスだって多少は驚かなかったわけでもない。もっとも彼にしてみれば、こんな場所に話の通り本当に神殿があった、という事実の方が驚きだったのではあるが。……そもそも立地条件からして、人々の往来をまるで拒んでいるかのようではないか。
 ともあれ、いつまでもぼんやり見ているわけにもいかない。二人はなだらかな斜面を下りて、神殿へと足を向けた。
 古びた石積みの建物は、経過した年月に相応しい堂々たる風格を漂わせていた。ただ傾いでいるだけの村の教会とは大違いだ、と司祭が聞いたら目を剥きそうなセリフをこともなげに吐いたのは、例によってサシュアである。
 それに、佇まいこそひっそりとしていたものの、実際のところは来客に冷たいわけでもなかった。サイナス達がごめんくださいと声をかければ、どれほど待たされる事もなく、一人の歳若い神官が奥の方から進み出てきたのだった。
「ようこそ、このような辺鄙な場所へはるばるおいでくださいました」
 神官は二人にいぶかしげな視線を投げかけるでもなく、迷惑そうな表情を示すでもなく、きわめて和やかな態度で出迎えてくれた。思わず挨拶を返した二人に、神官が問い掛けてくる。
「当神殿に、どのようなご用件でしょうか?」
「あの……えっと……」
 もじもじとするサシュアに代わって、サイナスが来訪の目的を告げた。かくかくしかじかでこの近くの村から来たのだ、と手短に説明すると、神官は特に熟考するでもなしに、気さくに応えてくれた。
「そういうお話ならば、取り敢えず神官長にお引き合わせいたしましょう」
「……そういう身分の方が、わざわざ僕らにお会いして下さるんですか?」
「ええ、それはもう。私の一存で決めるわけにはいきませんからね」
 神官は実に気安く受け答えすると、二人を中へと招き入れた。
 外観に相応しい厳粛な雰囲気の白い廊下を、サイナスとサシュアは進んでいく。威厳と格式に満ちた古めかしい外観とは裏腹に、内部は実に清楚な印象であった。床も柱もきちんと磨き上げられていたし、意外にも陽光が多く射し込んでいて、屋内は柔らかい光に満ちあふれていた。
 招き入れられた一室でも、そんなに長くは待たされなかった。落ち着きのないサシュアがそわそわし始める暇さえもなく、当の神官長の方からこの部屋に赴いてきたのだった。どこか謁見の間のようなところにこちらから出向くものだと思っていたサイナスにしてみればちょっと拍子抜けで、サシュアにしてみれば偉い人のいきなりの来訪に泡を食わされる思いだった。
 やってきたのは、年の頃は六十にもなろうかという一人の老人だった。
「当神殿に、ようこそおいでくだされた」
 鷹揚な口調で挨拶の言葉を吐いたその人物こそ、その神殿を預かる長に当たる人物であった。
 豊かな白いあご髭が印象的だった。刻まれた皺は険しかったが、声もよく通るし、腰も曲がってなどはいない。立ち振る舞いを一目見やれば、なるほど神官長などと呼ばれるに相応しい人物であろうという風に思えた。肩書きの割に、着ている衣服などはさほど豪奢なものでも無かったが、簡素なりにこれまた品の良さが感じられる。
 何にせよこの神官長、物腰といい口振りといい、とても感じのいい人物であるようにサイナスには思えた。
 吟遊詩人と言えば聞こえがいいが、所詮はあてどもなき風来の身である。そんな青年が、別段招かれてもいないのに、年端も行かぬ少女を連れて突然訪れてきたのだ。会いもせずに追い返されたところで、何も文句は言えなかったのだが……。
 サイナスはまだそんな風に冷静に観察する余裕があったが……さすがにサシュアはそういうわけにもいかないようだった。村での元気な様子はどこへやら、幾分固い表情で立ち尽くしていた。
 何せここでどういう扱いを受けるのかによって、彼女自身の処遇が決まってしまうのだ。僧会が異端者として彼女を狩り立てるとして、必ずしも神殿がそれを救ってくれるとは限らない。彼女は実に大人しい様子のままに、老いた神官長を無言で見やっていた。
「……まぁとにかく、詳しい事情をお聞きする事にしましょうかの」
 神官長に促され、サイナスは村で起きた出来事の委細を語って聞かせた。さすがに吟遊詩人とはいえ、変な抑揚をつけるのはこの場では避け、淡々と事実関係のみを説明する。村の畑や牧舎で起きた怪事件、竜巻騒ぎ、司祭の投げかけた疑惑……。
 異端審問官が村にやってくる、という下りには、神官長も表情を曇らせた。
「やれやれ。僧会の者らも要らぬ諍いばかり起こしたがるものですな。人々を導くのが仕事であるならば、異端だの何だのと細かい事を言うてもしょうがなかろうに」
「それは、僕も同感ですけどね」
 サイナスが追従する。
「……あの村の司祭の態度を見るに、事態はあまりこの子にとって有利に動くとは思えません。ほとぼりが冷めるまで、この子をここで預かって貰えませんか?」
「預かるのは一行に構わぬが……その異端審問官とやら、そういう話になればこの神殿にも来るじゃろうな」
「来るでしょうねぇ。……すいません、こんな面倒を持ち込んでしまって」
 かくいうサイナス自身、面倒に巻き込まれた立場であるせいか、あまり誠意のこもった謝罪ではなかったのだが……神官長は特に彼の誠意を問うたりはしなかった。
 そして神官長は、肝心のサシュアに向き直った。
「サシュアよ。そなたの身柄はわしらが保護するゆえ、心配などせぬようにな。しばらくの間、この神殿で寝起きするとよろしかろう」
「あの……しばらくって、どれくらいですか?」
 サシュアはまだ幾分不安げな表情で、問いを放った。
「さて……どれくらいになるのかのう。取り敢えず、そなたに何かしら呪いなり、それらしきものが取り憑いておるというのならば、それを祓う必要もあろうし」
 その言葉に、サイナスが横から口を挟んだ。
「その祓いというのは、具体的に効果のある事なんでしょうかね?」
「そういう儀式を執り行ったゆえ大丈夫であろう……という事にしておけば、少なくとも村の者はそれで納得するじゃろ」
 神官長はしたり顔でそう答えた。
 あまりに鷹揚なその発言に、さすがにサイナスもサシュアも呆れてしまった。
 不安に駆られて、サシュアが問いかける。
「あのう……それでいいんですか?」
「そなたは、それでは良くないのかな。それとも異端審問官とやらに王都に連れられていって、呪われた魔女、異端者として、八つ裂きにでもなりたいかの?」
「いえ、それは、ちょっと……」
「じゃろうて。凶事というのは、何かにつけ思わぬ拍子に重なりおうてしまうものなのじゃよ。人はそこに、何かと理由を求めたがる。それゆえ、魔女だ異端だ呪いだなどと騒ぎ立てるのじゃ。……そなたやわしらには、いい迷惑じゃて」
 神官長のもっともらしい言葉に、サイナスもサシュアもただただ納得して頷くばかりだった。
 ……が。本当にそれで済む話なのかどうか、そこのところの不安がどうにも拭いきれない。サシュアはさらに質問を重ねてみる。
「あの……それで村に帰ったあとで、それでもまた何かよくない事が起こったら、私一体どうなるんです?」
「その時は、もう一回ここに来るとよかろうて」
「……今度こそ、八つ裂きですか?」
 今にも泣きそうな顔でそう尋ねたサシュアに、神官長は笑いながら答えた。
「はっはっは。……まぁその時はその時で、また改めて考えればよいのではないかな。何ならここで奉公して、いずれ女神官にでもなってみてもよかろうて」
 そういう風に言われても、どう返事すればよいのか……サシュアは分からなかった。




     6

 そんなこんなで、サイナスとサシュアの二人は神殿に滞在する事となった。神官長との面会の後、先ほどの若い神官に連れられて、二人は来客用の部屋へと案内された。
 先ほどまでは神官長とこの若い神官しかいないのでは、と思えたが、廊下を歩いてみれば、幾人もの神官と割合頻繁にすれ違ったりもする。ひっそりとした土地に建っている割には、内部にはそれなりに人の活気らしきものが感じられた。
 そんな神殿内部の様子をきょろきょろ見回していたサシュアとサイナスに、神官が釘を刺すように告げた。
「ご覧いただいている通り、この神殿では多くの神官が日頃の勤めをつつがなくとり行っております。中には気難しい人もいますし、なるべくあちこち出歩いたりせぬように、お願いしますね」
 特に、神殿の奥の方へは絶対に立ち寄らないように、と二人とも強く念押しをされてしまった。
「……ね、サイナス。私、どうなるんだろうね」
 部屋に通されても、二人には特別することも無く、今後のことをあれこれと話してみたりするより他になかった。
「あの神官長さんが良いようにしてくれますよ。いい人みたいだし。異端審問官だって、おいそれと神殿に横槍を挟めるものでもないでしょうし」
「だといいんだけど……」
 そのまま、サシュアは黙り込んでしまった。
 一応サイナスの手元にはジッタがあったが……場合が場合だけに、また場所が場所なだけに、何かを弾いて慰めるというわけにもいかない。暇さえあればジッタを爪弾いているのが普段のサイナスであるし、通常こういう神殿の厄介になるときには、歌の一曲や二曲、神様への奉納という形で歌ったりもするのが吟遊詩人というものだったりするのだが……今回は事情が事情であった。
 それにしても……と、サイナスはサシュアの件とは全く関係の無いことに考えを巡らせてみる。
 この神殿は、何か妙だ。
 そもそもこんな場所に誰かが参拝にくるわけでもないのに、妙に神官の数が多くないだろうか。部屋に案内されるまでにも何人かとすれ違ったし、立ち入るなと念押しされた奥の間に何があるのかも、気になると言えば気になるし……。
 そんな話をすればサシュアの気も紛れるだろうか、とも思ったが……ふとサイナスが見やれば、さっきまで沈んだ表情を見せていた彼女は、いつの間にか椅子に腰掛けたままうとうとと居眠りをはじめていた。
 考えてみれば、村からずっと歩き詰めだったのだ。いかに働き者のサシュアとは言え、やはり馴れぬ旅の疲れが出たのだろう。
 そんな無邪気な寝顔だけ見ていれば、心配事など何もないかのように、思えたりもしたのだが……。
「そういうわけにも、いかないか……」
 サイナスは一人、ぽつりと呟いた。




 やがて、神殿にも夜がやってきた。
 昼間のうちにうつらうつらと居眠りしていたせいか、サシュアはその晩、なかなか眠りにつく事が出来なかった。
 目を閉じてみても、今後の不安などがあれこれと脳裏に浮かんでくるばかりで、少しも眠ることが出来ない。少々立派過ぎる部屋の調度品なども、田舎暮らしのサシュアにしてみれば落ち着かない理由になっていただろうか。
 一応二人の寝室は別々に用意されていた。隣室にいるはずの吟遊詩人はどうやら眠ってしまったらしく、耳を澄ましてみても物音らしい物音も聞こえなかった。
 あまりうろうろしないように、と神官からは釘をさされていたが、ここまで寝付けないとなればそうも言ってられない。別に軟禁されているわけでもなし……考えてみれば、せっかくこのような物珍しい場所に来たというのに、心配ごとばかりに煩わされて物見高く見回ることも忘れていたではないか。
 そんなわけで、サシュアはそっと部屋を抜け出して、ぶらりと散歩に出かけたのだった。
 夜の神殿は、不気味なくらいに静まり返っていた。
 石づくりの廊下を、裸足のままにひたひたと歩いていく。昼間は柔らかい光にあふれていた廊下も、今は夜の闇の中にすっかり塗り込められてしまっていた。
 月明かりを頼りに、やがてサシュアは、やたらと天井の高い、だだっ広い部屋にたどり着いた。
 突然ひらけた場所に出てしまって、サシュアはしばし呆然としてしまった。
 一息ついてから、辺りを見回してみる。恐らくは礼拝でも捧げるための場所なのだろうか、真正面に大きな女神像が直立していて、サシュアをじっと見下ろしていた。
 かなり大きな像だった。身長はゆうに彼女の倍以上はあったが、その立ち姿は決して威圧的ではなく、むしろとても優美で、優しげに見えた。彼女を見下ろすその眼差しも表情も、とても穏やかなものだ。
 夜の暗闇の中だったが、そこは何故かとても落ち着ける場所だった。村の教会のかび臭い礼拝堂とは大違いだった。サシュアはしばしの間、女神像にじっと向き合っていた。
 優しく微笑む石づくりの女神。サシュアは名前さえ知らなかったが、子供ながらにその像がとても美しく、神聖なものであろうという事はおぼろげに理解出来た。
 ――どれほどの間、そうやって見とれていただろうか。
 何気なしに振り返ってみると、誰もいないはずの広間にはもう一人、別の人間の影があった。サシュアはびっくりして思わず声を漏らしそうになるが、何とか押しとどめる。
 そこにいたのは一人の少女だった。
 年の頃はサシュアと同じくらいだろうか。腰の辺りまで伸びた、艶やかな漆黒の髪がとても印象的だった。
 髪ばかりではない。顔立ちも実に端正で、それこそ練達の職人が石のかたまりから情熱を込めて削り出した、一世一代の芸術品のように思えた。
 無論、顔や髪ばかりがそうだというのではない……身にまとっているのはゆったりとした白い簡素な寝間着ではあったが、そのすらりとした繊細な立ち姿は、サシュアでさえも思わず見とれてしまうほどに美しかった。
 そう……まるで生きている人間というよりは、命を吹き込まれた彫像なのではないか、と思わせるほどに人間離れした美を、少女は持ち合わせていた。
 まるで大理石を丁寧に磨き上げたように滑らかな白さで……畑仕事のせいでよく日に焼けているサシュアとは、その辺り実に対照的であったのだが。
 ひとつ同じだったのは、二人ともに磨き上げられた石畳の上を、裸足で歩いていた、という事だろうか。
 勿論、少女の方はくるぶしから足のつま先に至るまで、これまた丁寧に彫り込まれた工芸品のごとく繊細で優美であったが。
 少女はそのまま、ひたひたと足音とも言えぬ足音のままに、広間を横切っていった。
 幻でもみているのでは、とサシュアは思わず目を疑ってしまった。女神だか天使だか……あるいは精霊だか幽霊だかがこの世に舞い降りてきたかのように、まるで現実を超越した存在のように思えた。
 少女はちらりとサシュアの方を見やったが、別に言葉を交わそうともせず、無言のまま立ち去っていこうとしていた。
 そんな少女を、サシュアは思わず呼び留める。
「あ、あのっ」
「……?」
 足を止めた少女は、怪訝そうな表情でサシュアを見返した。
 そのままどこかへ行き過ぎようとしていた少女は、身を翻してサシュアに向き直る。その黒い瞳に真正面から見据えられると、まるでその輝きの奥底へとそのまま吸い込まれていってしまうかのようにさえ思えた。
 そうやって少女に見据えられたサシュアは、何も言えずにぽかんとしてしまいそうになるところを、必至で取り繕うように言葉を吐く。
「あの……えっと、あなたは一体、誰なの?」
 自分でも何を口走っているのか分からないが、とにかくサシュアは口を動かした。
「ええと……その、私は、サシュアっていうの。ここのすぐ近くの村から来たんだけど……あなたは、一体誰なの?」
「……」
 少女は何も答えなかった。というか、サシュア自身何か話し掛けなくちゃと思いつつまくし立ててみたものの、そうやって質問攻めにしてしまったという自覚は更々なかったのだが。
 ともあれ、質問には別に答えてもらえなくてもいいから、せめて何かしら言葉を返して欲しかったのだが……。
 しばしの無言が、両者の間には流れた。
 結局少女は何も返事さえしないまま、身を翻して歩き去ってしまった。
「あ……」
 そのまま呆然と見送ってもよかったのかも知れないが……サシュアはそうしなかった。
 未練がましく、少女の後を追って、彼女もまた歩きはじめる。
 少女はほとんど足音を立てることなく、慣れた足取りで神殿の廊下を小走りに駆け抜けていった。サシュアはどうしていいのか分からぬままに、慌てて後ろからついていく。
「待って……待ってよ」
 サシュアがかすれる声で、囁くように洩らす。すると少女は不意に振り返って、鋭い目で睨み付けてきた。しっ、と人差し指を唇にあてる。
 それきりサシュアは口をつぐんだが、後を追いかける事に関してはとくに迷惑がられているわけでもなさそうだったので、そのままついていく事にした。
 やがて二人は、神殿の外へと足を踏み出していった。
 一面に広がっているはずの草の海は、今は夜の闇にすっかり覆われてしまっていた。
 空からは柔らかい月の光が降り注ぎ、闇に覆われた大地を精一杯淡く照らし出している。
 そんな白い薄闇に覆われた世界の、その天上で輝いている月を、サシュアは見上げた。
 満月が、煌々と光を放っていた。
 その光を受けて、彼女の前に立つ少女の艶やかな黒髪が、えもいわれぬ不思議な輝きを放って見えた。彼女もまた、サシュアと同じように空を見上げていた。
 かと思えば、彼女は突然、草原に向かって駆け出していった。
 ほっそりとした白い肢体が、向こう側の闇へとあっという間に溶け込んでいく。……いや、その白いシルエットはまるで闇の中にひっそりと躍動する、幽玄の幻のように、サシュアの視界の中でゆらゆらと揺らめいていた。
「あ……ま、待って」
 サシュアは一瞬惚けていたが、すぐに後を追って走り出していく。
 二人はそのまま、なだらかな丘陵をまっすぐに駆け上っていく。併走してみれば、少女はさほど足が速いというわけでもなく、サシュアはすぐに追いつくことが出来た。
 突然、少女が転倒した。
 あっ、とサシュアは思ったが……よく見れば転んだわけではなくて、彼女は自分から草の海に飛び込んでいったのだ。細い身体が、そのまま草の上をごろごろと転がっていった。
 サシュアはそんな少女の元に恐る恐る歩み寄ってみる。彼女は草の上に大の字に寝そべったまま、満足げな笑みを浮かべていた。
「いい風だ」
 少女が不意に、ぽつりと呟いた。
 初めて、口をきいた。もしかしたら喋る事が出来ないのでは、と思っていたのだが、どうやらそうではないようだ。
 彼女の言うように、風が心地よかった。
 風は、草原を緩やかに撫でるようにして、ゆっくりとそよいでいく。そのまま、草の海の真ん中に立ち尽くす二人の間をすり抜けていくのだった。
 サシュアは、風に揺られる草の海原のうねりを、じっと眺めていた。
「それにしても珍しい」
「……何が」
「神殿に、来訪者があるなんて。そなたはいかような目的があって、この辺鄙な場所にやってきたのだ?」
 あまり女の子らしいとは言えない、無愛想な……というか、無骨な口調だった。美しい唇は、まるで歌声のように美しい音を紡ぎだしているというのに、その音が紡ぎ出す言葉は、まるで芝居がかった台詞のように聞こえる。会話の中の口調としては、ひどく不自然なものだった。それがおかしくて、サシュアは思わず笑ってしまった。
「……何がおかしいのだ?」
「ううん、何でもない。……そういうあなたは、あの神殿に暮らしているの?」
「そうだ」
「随分、長いの?」
「そうだな……確かに、随分と長くいる。ただいるわけではない。私はずっとあの神殿に籠もりきりのまま、外に出る事も満足に叶わないのだ」
「だから、こんな夜中に出てきたんだ?」
「そうだ……」
 そう言って、少女は目を閉じる。そんな彼女の端正な横顔を眺めながら、サシュアは呟くように言った。
「私も、長くここにいなくちゃいけないのかな……」
「何故?」
「村でね。ちょっと不吉な事件が立て続けに起こって。私が何かに呪われているんじゃないかって、司祭さまが言うから」
「それで、村を出てきたのか……」
「そう。村には異端審問官が来るっていう話だし、本当に私が呪われているのだとしたら、むやみに出歩いたりしたら何が起こるのか分からないし……」
 そう言って顔を伏せたサシュアに、少女はぽつりと告げた。
「そなたは、呪われてなどいない」
「……え?」
「呪われていない、と言ったのだ。私には分かる。そなたからは、そのようなあやしげな気配は何も感じられぬ」
「わ、分かるんだ、そんな事……」
 サシュアは感心した……というか、半信半疑のままに苦笑を浮かべた。
「でも、本当に呪われていないのなら、嬉しいけど。……そうよね、何で私が歌うたびに、悪いことが起こらなくちゃいけないんだか」
「歌……?」
「……そうよ、歌よ」
 サシュアはそう問われると、自らに何かを言い聞かせるように、力強く答えた。
 そうだ。何も本当に、何か呪いがあると決まったわけではないではないか。この少女も、何もないと言っているではないか。
 そう思い始めると、にわかに心が高揚してきた。異端審問がどうの、と今日一日気を落としていた事などすっかり忘れてしまったかのように、彼女は意気揚々と宣言した。
「そうよ。呪いなんか無いって、この場で証明してあげる」
 彼女はそういうと、口ずさみはじめた。
 元気な歌声が、闇夜に響いていく。それはいつも村のあちこちで聞かれた通り、ただひたすらに元気としかいいようのない歌声だった。彼女の人柄をそのまま現すかのように、屈託のない、伸びやかな歌声だった――。
 だが、その時。
 不意に、二人の視界の片隅が明るくなった。
 いや、明るくなった、などと呑気な事を言っている場合ではない。少女はサシュアの歌など聞いていられない、という勢いで反射的に立ち上がる。サシュアもそれに不満を訴える事もなく、歌うのをやめて一緒に立ち上がるのだった。
 草原が、燃えていた。
 彼女らの風上の草むらが、何もないのにいきなり炎を吹き上げたのだ。
 吹き上げた、というのは大げさだったかも知れないが、ともあれ唐突に火の手が上がったのは確かだった。そのまま火の手は、風に乗って二人のいる草むらへと広がってくる。
「ちょ、ちょっと、これって一体……!」
 サシュアが慌てふためいている間に、火は丁度二人の立ち位置を迂回するように、風下の方に燃え広がっていくのだった。
 二人の少女は、周囲を炎にぐるりと取り囲まれる格好になってしまった。
「……!」
 黒髪の少女の目にも、わずかに動揺の色が浮かんでいた。その真っ白な肌が、今は炎の色を照り返してほんのりと赤く染まって見えた。
 そうこうしているうちにも火勢はどんどん強くなっていく。たまたま二人のいる辺りは迂回したとは言え、燃え広がる火の勢いは、そんな二人の立ち位置を徐々に浸食し、狭めつつあったのだ。
 迫る炎に、少女はたじろいだ。
 こうなると、逆に肝が据わっているのはサシュアの方である。どうしよう、どうしようとおろおろしていたのはついさっきまでで、覚悟を決めた彼女は、唐突にがっしりと少女の手を握った。
「……な、何をするのだ?」
 そんな戸惑いの声を、サシュアは聞いてはいなかった。少女の手を引いたまま、彼女は炎のわずかな切れ間めがけて、勢い良く駆け出していく。
「サシュア! そなた正気か!」
「このままこうしているわけにはいかないじゃないの!」
 サシュアの無謀な突進は、それでも本当に無謀というわけでもなく、意外にも的確にわずかな退路を目指していた。火勢は思いがけず強くて、あまりの熱気に怯みそうになる二人だったが、何とか火の手を逃れ、包囲の輪の外に飛び出していった。
 先ほど駆け上ってきた丘陵の斜面を、今度は転がり落ちるようにして、二人は神殿へと駆け戻っていった。
 なるべく炎から遠ざかって、安全なところに逃げ込みたかった。そういう意味で二人が目指したのが、神殿だったのだ。
 それに、あの火を何とか鎮めようと思えば、やはり誰か大人の手を借りるしかない。…… そもそも、この騒ぎに誰か目を覚ましたものはいないのだろうか。
 そう思いながら、サシュアは先ほど飛び出してきた入り口へと駆け込んでいく。
 そんな戸口に、見知った人影が立っているのにサシュアは気付いた。
「サイナス!」
「サシュア?」
 遠方の火の手に視線を向けていた彼だったから、駆け込んでくる二人の少女は完全に視界の外にあった。火の燃えてないこちら側は、完全な夜の闇の中にあったのだ。
 そんな闇から突然サシュアが姿を表したのだ。サイナスとても、突然声をかけられて多少は驚いたようだった。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか?」
「ん、私は大丈夫だけど……」
 もう一人の連れはどうだろうか、とサシュアが振り返ったその時。
 そこには、誰もいなかった。
「あ……あれ?」
 身体の中で血流が逆転していく音を、サシュアは確かにきいたような気がした。
 まさか、あの少女を炎の中に置き去りにしてきてしまったのだろうか? いやいやそんな事はない。確かに彼女の手をひいて、炎の外へと導いたはずだった。
 実際、神殿の姿が近づいてくる直前まで、サシュアは彼女の手をしっかりと掴んでいたはずではなかったか。
 だが、彼女はどこにもいなかった。
 ……いや、いた。
 いつの間に、とサシュアは驚きを禁じ得なかった。彼女の姿はサイナスの背後にあったのだ。
 背後――正確に言えば、神殿の入り口の奥の通路、サイナスのずっと後方に、彼女の姿はあった。
 彼女はその位置から、唇に人差し指を当てて、しーっ、という素振りを見せたかと思うと、足音も立てずに奥へと姿を消していった。
 それとまるで入れ替わるかのように、騒ぎに気付いた神官達がどやどやと神殿の外に駆け出してくる。時ならぬ火事に、大人達はてんやわんやの大騒ぎだった。
 サシュアはと言えば……火が収まってから、果たして何を追求される事になるのかと、気が気ではなかった。















あとがき

 あー。なんか気がつくと一月近く間が開いてしまいましたね(汗)
 残り二回ぐらいで完結の予定ですが、次はそんなにお待たせしないようにしたいと思います……(汗)

(2003.5.17)