耳に聴こえるは君の歌 5
作:ASD





     10

 それは、実に唐突な一言だった。
 その場にいる一同――僧兵と言わず、神官と言わず、彼らは一様に声の主の姿を求め、周囲に視線を巡らせた。
 奇異だったのは……その声は鋭い口調とは裏腹に、美しい少女の声だった、という事だろうか。
 僧兵達は一体何事かと釈然としない表情を見せていたが、神官達は無論、声の主が誰なのかを知っていたから、うろたえるにしても意味が違う。中でも特別に狼狽を隠し切れていなかったのが、こういう事態に一番慌てそうにないはずの神官長であった。
 見れば女神像のすぐ真下に、声の主はその身を隠そうともせずにぽつんと立ち尽くしていた。かよわげな、頼りなげな立ち姿に見えて、その眼差しは何一つ怯むことのない、毅然とした輝きを放っていた。
「み、巫女姫さま!」
 神官長がおろおろと上げた声が、広間に響いた。
 僧兵らに引っ捕らえられつつあったサシュアは、巫女姫と呼ばれた少女をみやって、思わずおのが目を疑った。
「あ、あなたはっ!」
 彼女が驚くのも無理はなかった。
 巫女姫がどうの、という話はつい先ほど神官長から聞かされたばかりだった。が、今そこに立っているのは、サシュアが火事の晩に出会った、あの少女ではなかったか。
 僧兵達に囲まれた今の状況にさえいっぱいいっぱいのサシュアであるというのに、少女の出現にはより一層の困惑を覚えさせられるばかりだった。
 少女――巫女姫はそんなサシュアには目もくれずに、燃えるような眼差しを僧兵達に向けていた。ほとんど睨み付けていた、と言っても間違いではなかったかも知れない。
「その者に危害を加えること、この私が決して許しはせぬぞ! 汚らわしい手を放し、この場から即刻立ち去れば、神聖なる殿堂を馬足で踏みにじった無礼は許してやろうぞ。その少女をあきらめ、今すぐここから消え去るがよいわ!!」
 そのか細い身体のどこから出てくるのか、と驚くほどの堂々たる口上であった。
 外見だけを見れば、確かにほんの子供に過ぎない。身なりだって、特別豪奢な衣服を身にまとっているわけでもなく、彼女を巫女姫だと識別させるようなものは何もなかった。そもそも彼女は、巫女姫と呼ばれる身ではあっても、未だ正式な巫女姫ではないのだ。
 だが……ほんの小娘、などとたかを括る事など、一切許そうとはしない雰囲気を、彼女は漂わせていた。
 その気迫、その気位――これが巫女姫だと言われれば誰もが納得するような神々しいまでの輝きを、彼女は放っていたのだ。
 さすがの僧兵達もすっかり圧倒されてしまい、サシュアを掴んだ手を思わず放してしまった。
 そんなサシュア自身、自由の身になった事にはまるで気付きもしないままに、昨晩出会った少女の意外な正体に、ただただ呆然とするばかりであった。
 だが……ここに一人だけ、そんな神気をまるで理解せぬ男がいた。
 その名前を、ヴァッカルと言う。本人は、異端審問官を称しているが。
 彼は、少女の態度に圧倒されるどころか、小馬鹿にするように、にまにまと間の抜けた笑みを浮かべたのだった。
「これはこれは、巫女姫さま……我らが僧会に仇なす、異端者の中の異端者」
「我を異端と申すか、そこな坊主」
 異端審問官を見やる少女の眼差しが、底知れぬ気迫に満ちていた。場の空気が少しでも読める者ならば、萎縮して言葉も出なかっただろうが。
 静かなる気迫を湛えたまま、巫女姫は言葉を続けた。
「確かに、我はそなたらの信奉する神からすれば、異端やも知れぬ。だがそなたらはどうだ! 神の御使いなどとぬかし、剣を持ち、罪無き少女を追い立てる! お前達の神は、お前の所業を見て嘆いてはおらぬのか。神の御使いを名乗るよりも先に、人としておのれを律する事を覚えたらどうなのだ」
「だまらっしゃい。異端の分際で、我らが父なる神を語るものではない! ……者ども、その娘も一緒に引っ捕らえるのだ! 我らが父なる神のために、異端をこの世から駆逐するのだッ!」
 だがそう言われても、僧兵達はおいそれとは動けなかった。彼らの方が、一通りまともな精神の持ち主だったようで……。
 そんな風に二の足を踏む男達に向かって、ヴァッカルは苛立たしげに声をぶつけた。
「異端審問官たるこの私の命令が聞けぬのか! そなたらまで、異端なる者に心奪われたというのか! ならばそなたらも異端者だ!」
 さすがに、異端審問官に異端呼ばわりされれば、僧兵達も命令を聞かないわけにはいかなかった。サシュアの周囲に二名ほどを残したまま、残りの僧兵が巫女姫を取り囲む。
 それを見て、サシュアは内心、気が気ではなかった。 巫女姫さまなどというとても貴い方だとは知らずに、昨晩はたいそう失礼な口を訊いてしまった。……別に偉い人間だから恐縮しているわけではない。彼女が実際に見せる、壮絶なまでの気位の高さに、サシュアもまたすっかり圧倒されてしまったのだ。
 自分でも知らないうちに、いつの間にかサシュアは走り出していた。側にいた僧兵の手をたくみにかいくぐると、大慌てて巫女姫ににじり寄る僧兵達の前に割って入り、敢然と立ちはだかった。
「駄目! 巫女姫さまに触らないで!」
 武装した男達は、一瞬だけ意外そうな表情を見せたものの、巫女姫に迫るのを止めようとはしなかった。残念ながら、サシュアごときの恫喝に怯んだり、大げさに驚いて見せたりする者は誰もいなかった。
 一体どうすれば、彼女の力で巫女姫を守れるのだろうか……。
 ……そうだ。
 サシュアはひとつ、ある事をひらめいてしまった。
「もう一回言うわよ。巫女姫さまから離れなさい! 巫女姫さまがたった今おっしゃったとおりに、神殿から即刻立ち去りなさい! さもないと……」
「さもないと、何だというのだ」
 まるっきり馬鹿にしたような僧兵の言葉に、サシュアはこう言ってのけた。
「……さもないと、ここで歌うわよっ!」
 その言葉に、僧兵達も異端審問官も、思わず目を剥いてしまった。
「なッ!」
 彼らばかりではない。神官長も、サイナスも、巫女姫も……サシュアの言い分に、思わずぎょっとしてしまったのだ。
 神殿の者たちは彼女の気の毒な境遇に同情を示し、庇おうとしたし、巫女姫も今この場所で、毅然とした態度で彼女を守ろうとしている。
 だが正直なところ、本当にサシュアに呪いがあるのかどうかに関しては、明確な結論など出てはいなかったのだ。
 その彼女が、敢えてここで歌ってみせるという。
 ……結果どうなるのかは、それは誰にも分からなかった。分からないが故に、人々はぎょっとしてしまったのだ。
 特に僧兵達のうろたえっぷりは尋常ではなかった。サイナスや神官達から見れば、彼女の行動は五分の賭け、どうなるかは半信半疑だったのだが……僧兵達にしてみれば、彼ら自身で呪いであると断じた以上、ハッタリだと笑い飛ばすわけにもいかない。
 まぁそうは言っても、サシュアもそういう駆け引きを脳裏に思い描けるほどに余裕があるわけでもなく、僧兵達を恫喝するのに精一杯だったのだが。
「さあ、歌うわよ! 歌って欲しくなかったら、さっさと下がりなさい!」
「怯むな! 歌わせなければこっちのものだ! とっとと取り押さえて、口を塞いでしまえばよいわ!」
 ヴァッカルの声が飛ぶが、僧兵達の動きは鈍かった。
 言うは易しだが、取り押さえるだけならまだしも口を塞ぐのに手間取れば、それで終わりではないか……そんな風に、僧兵達は逡巡していたのだった。
 その場にいる一同誰もが、事の成り行きを息を詰めて見守っていた。
 神官長も、神官や女神官たちも……そして巫女姫も、皆無言のまま固唾を呑んで、次に何が起きるのかをじっと見守っていた。
 そうやってじりじりと拮抗している中……サイナスだけが一人、ゆっくりこっそりと歩き出していた。
 これだけ張り詰めた空気の中、誰にも悟られずに、ひたすらゆっくりとではあるが、そっとサシュアの視界に映る位置に移動する。
 そろり、そろりと……。
 これだけの衆人環視の張りつめた空気の中、そのような忍び足を敢行したサイナスもなかなかに剛胆と言うか、なんというか……であったが、ともあれ彼の姿を、サシュアは視界の片隅で辛うじて捉える事が出来た。
 そんなサイナスを、彼女はちらりと見やる。
 何をしているのかと思えば……彼は何やらおかしな手真似を、彼女に対して示していた。手を口元の高さに持ち上げて、ぱくぱくと動かして見せる。何か喋れ、と合図しているようにサシュアの目には映った。
 ……そうか。睨み合っている暇があったら、さっさと……。
 そんなサイナスの挙動不審なさまは、やがてすぐに見咎められる事となった。目ざとくもそれを見出した異端審問官が、何か言おうとした、その時。
 サシュアの歌声が、神殿の広間に朗々と響き始めた。
 それは村で聞かれた通りの、威勢のいい元気な歌声だった。
 これはいかん、とばかりに慌てて彼女を取り押さえようとした僧兵達だったが、その歌声が耳に入ってしまうと、思わず足を止めてしまった。一人が足を止めれば、他の者もついつい、それにつられてしまう。
 何のかんのと言いつつ、彼ら僧兵は単純な男達だった。信仰の異なる者たちを異端呼ばわりすることに何の疑問も差し挟まない代わりに……そういう異端に対して、抱いている恐れも本物だったのだ。サシュアの歌が呪いの歌だと彼らが信じている限りは、彼らにとっては紛れもなくそれは恐怖の対象となりうるのである。
 だが、彼女が歌ったところで、何も変化は起きなかった。一同が息を詰めて見守る中、子供らしい元気一辺倒の歌声が響くばかりだった。
「……」
 僧兵達の間には、徐々に困惑と恐慌が広がっていった。
 何も起きないという事は、彼女は本当は呪われてはいないのだ……と考えることが出来ればよかったのだが、あいにく僧兵らにとっては「呪われている」というのが前提である以上、そうはいかなかった。
 ただちに襲い掛かってはこずに、これだけ勿体をつけているのだから、きっと彼らの上には、とてつもなく大きな災厄が訪れるに違いない――。
 そんな風に、じりじりと恐慌が広がりつつあった、その時だった。
 ……それはついに、始った。
「な、何だ……?」
 サシュア達の目の前、先頭にいた僧兵が、うろたえた声を上げた。
 理由は明白だった。見れば彼のすぐ目の前で、ほのかな燐光が、淡い輝きを放っていたのだ。
 それ自体がまず不思議な光景と言えた。何もない中空に、その燐光はふわふわと漂うようにして浮かんでいたのだ。
 一体それが何なのか、という事を考えている暇はなかった。僧兵達の、そしてサシュアの見ている目の前で、燐光はぞわり、と揺らめいたかと思うと……突然、豆粒のように小さく収縮した。
「なんだ? ……い、一体何事だというのだ!」
 見えない力が、虚空の一点に収斂していく。それはとても不可思議な光景だった。
 それを目の当たりにしつつ、サシュアはなおも歌い続けた。そう、この怪異は彼女が歌うことによってこの場に発生しているのだ……少なくともサシュアはそう信じていた。
 これで、自分が呪われている事ははっきりしてしまった。それは哀しかったけれども、今はこの力で、審問官達を退けなければならないのだ。
 そういう使命感を感じていたからこそ、彼女は歌をやめなかった。
 そして。
 収縮した光は。
 次の瞬間、大きくはじけた。
「――!」
 言葉にならなかった。それでもサシュアは、自分が何を起こそうとしているのか、それをしかと見届けたかった。
 わずか一瞬の出来事であった。
 弾け飛んだ光は、衝撃波となって部屋に立ち尽くす人々の間をすり抜けていく。その波動は確かに人々に感じられるものだったが、風がそよいだような、実に何気ないものだった。
 起きたことと言えば、ただそれだけだった。僧兵達が釈然としない表情を見せた、次の瞬間。
 次の波が、もう一度人々に襲いかかった。
 それは肉眼で確認出来るものではなかったから、逃れようがなかった。
 いや、それをまともに受けた僧兵達の目には何か見えていたかも知れない。まるで目の前の景色が、蜃気楼のようにぐにゃぐにゃと歪んで……だがそれも一瞬のことだった。彼らは目に見えない力の波に押し流されるかのように、ばたばたと倒れていった。
 倒れていくだけには留まらない。彼らはまるですさまじい突風に煽られでもしたかのように吹き飛ばされてしまう。重い体がいとも簡単に床を離れ、宙を舞う。いかつい鎧を身にまとった大柄な男達が、次から次に、彼方へと飛ばされていくのは、見ていて爽快でさえあった。
 不思議なのはその現象が、まるで僧兵達だけを選ぶようにして作用している、という事だろうか。一番最初に吹き飛ばされた僧兵と同じように、サシュアもまたその光の収束点のすぐ間近にいたのだが、サシュアにも、その背後にいる巫女姫にも、風がそよいだ程度にしか感じ取ることが出来なかった。向こう側にひとかたまりになって控えている神官達も、その現象を露ほども受けずに済んだのである。
 そういう風に、難儀に遇わずにすんだ人々の目からすれば、それはとても奇異な光景であっただろう。まるで竜巻にでも巻き込まれたかのように、僧兵達は次々と中空に持ち上げられては、彼方へと吹き飛ばされていく。そのまま彼らは広間の壁といい柱といい、遮る何かに強く叩きつけられては、そのまま床にどさり、どさりと投げ出され、そこではじめて、不可思議な力から解放されたのだった。
 一人、また一人とサシュア達に近い位置にいた僧兵から順番に宙を舞っていったかと思うと、一番最後に、馬上で偉そうに号令を下していた異端審問官ヴァッカルが控えていた。
 彼もまた、例外ではいられなかった。馬に乗っていた高さの分、衝撃波に巻き上げられて浮かび上がった高さもまた、一人尋常ではなかった。無論、そうなると壁にたたきつけられてから床に落下するまでの落差も、相当なものになるだろう。
 柱の、ほとんど天井に近い位置で思いっきり背中を叩き付けられたかと思うと、異端審問官は情けない悲鳴をあげつつ、床に向かって落下していった。
「ぐおあ」
 華麗ならざる着地の瞬間、言葉にならないうめき声が洩れた。
 背中や腰をさすりながらよろよろと立ち上がった僧兵達だったが、彼らはあまりの事に呆然としていて、もはや神官達に刃を向けようとか、少女達を引っさらっていこうとか、そういう事を考える気力さえ無くなってしまったかのようだった。
 異端審問官に至っては、気を失ったわけではないにせよ、しばらく頭を抱えたまま立ち上がる事も出来ずにいた。声にならないうめき声を時折洩らしながら。……まぁあの高さから落ちて、目立った怪我もないというのは、相当にしぶとかったかも知れないが。
 いつの間にか、サシュアは歌うのを止めていた。というか、あまりの出来事に呆然としてしまい、歌どころか声さえ出なくなっていた。衝撃波に薙ぎ倒される僧兵達を見やれば、さすがの彼女も自分のやったことが恐ろしく思えてくるのだった。
 その場にいる一同は、無事な者もそうでない者も、一体何が起こったのかと、釈然としない表情を見せるばかりだった。彼らの視線が、やがて納得できる答えを探し求めるかのように、サシュアの元に注がれる。
「……えっと。その……。えーっと……」
 そんな視線に耐えかねて、彼女は後ずさる。と、そこで背後に人の気配を感じ、慌てて振り返った。
 考えてみればサシュアはその少女を守るために、そこに立っていたのではなかったか。振り向いてみれば、そこに巫女姫の姿があった。
 巫女姫は、あの衝撃波の後もなお、悠然とその場に立ち尽くしていた。その表情は毅然としたまま、前方を見据えている。だが睨み据えるべき僧兵達はその視線の先にはおらず、彼らはずっと後方でよろよろとくたびれた立ち姿を見せるばかりだった。
 見れば……彼女は、色白というのを通り越して、まさに蒼白になっていた。額にはうっすらと汗が浮かんでさえいるではないか。
「あの……巫女姫さま……?」
 サシュアが恐る恐る尋ねた、その時。
 不意に彼女が、がくりと膝を折った。
「わわっ? 巫女姫様っ!?」
 サシュアが慌ててその腕を掴む。周囲にいた神官や女神官達も、心配げな表情を浮かべながら巫女姫に駆け寄って、彼女を抱き起こした。真っ先に抱き起こそうとしたサシュアだったのに、あとから駆けつけた大人達にもみくちゃにされた挙げ句、爪弾きにされてしまった。これはちょっと面白くない。
 そんな様子を黙って見ていた神官長が、不意に重い口を開いた。
「そうか、そういう事か……異変の正体が、ようやっと分かったぞ」




     11

 その言葉に、今度は人々の視線が一斉に神官長に集まる事となった。
 神官や女神官ばかりではない。その「異変」の直撃をまともに食らった僧兵達まで、ぽかんとした表情で神官長を見やっていた。
 その僧兵達の先頭に、ようやく立ち上がる事が出来た異端審問官ヴァッカルの姿もあった。彼は苦虫を噛みつぶしたような表情で、神官長を問いただす。
「……どういう事なのか、説明していただけますかな?」
「どうもこうもあったものではない。原因はそこなるサシュアではなく」
 そこで言葉を切って、老人は別の少女を指し示した。
「……ここにおわしまする、巫女姫さまにあると、わしは見ましたぞ」
 一同は神官長の言葉に、唖然とした表情を見せた。
 たったそれだけの言葉で、何をどう理解出来るわけでもない。新たに投げかけられた事実を前に、「もっと詳しく説明しろ」と、彼らは一様に無言で訴えていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
 慌てて進み出てきたのは、サシュアだった。
「私が呪われているんじゃ無かったの?」
「そこなる異端審問官殿がどのような見解をお持ちかは知らぬが」
 神官長は、サシュアだけではなしに皆に聞こえる声で説明を始めた。
「そもそも、神の御業やら、あるいは審問官がおっしゃるところの『異端』の所業やら、そのような人知を越えた現象が、この世にそれほどに頻繁にあろうはずがない。……そこで、サシュアよ」
「はい……?」
「そなたにひとつ、どうしても確かめておかねばならぬ事があるのじゃ。正直に答えてくれれば、そなたにかけられた嫌疑も晴れよう」
「あの……それは一体」
「昨晩、神殿の前の草むらで、原因不明の火事騒ぎがあったのう」
 その神官長の言葉に、異端審問官が口を挟む。
「その娘の仕業なのは明白ではないか」
「その場にいたわけでも無かろうに、少々黙っとってくれんかの」
 神官長がぴしゃりという。
「サシュア。そなたはあの晩、寝付けずに外に散歩に出かけた、と言っておったな?」
「……ええ、その通りです」
「本当に、そなた一人だったのかの?」
「えっと……」
 ここで、サシュアの目が見事に宙を泳いだ。口止めされている以上、スラスラと正直に答えるわけにもいかないではないか。
 だが、右へ左へ泳ぐ視線の行く末を、神官長の鋭い眼差しは見逃さなかった。
 彼女の泳ぐ視線の先にいたのは……先ほど膝をついた、一人の少女。
 神官長はその少女の方をちらと見やり、サシュアに念を押した。
「……巫女姫さまが、ご一緒だったのじゃな?」
「えと……それは」
 サシュアの困惑は、ほんのわずかな間で済んだ。なぜならば、当人が素直に告白したからだ。
「神官長。そなたの言うとおりだ。私は昨晩、サシュアと一緒にいた」
「では、火事の一件も、充分に身に覚えのある事でございますな」
 その言葉に、巫女姫は憮然とした表情を示した。先ほど僧兵たちに対峙していたときの気迫はどこへやら、年頃の娘らしさがその表情には見え隠れしていた。
 そこに言葉を挟んだのが、黙って話を聞いていたサイナスだった。
「では神官長。村で起きた三件の怪異については、どのように説明するのですか? ……巫女姫さまは常日頃から神殿の奥深くにお住まいになって、世俗に下りてこられる事のないご身分のはず」
 そうだそうだ、と頷いたのがヴァッカルだった。どうしてもサシュアを異端者にしてしまいたいらしい。
 が、神官長にはこれにも、もっともらしい回答を示した。
「吟遊詩人どのの言うように、決して世俗には出てこられないとあれば、昨晩もきっと大人しく奥でお休みになられていた事でしょうな」
「僕とサシュアが村で竜巻に襲われたのは、堂々白昼の事だったのではないかと思いますが」
「……長い瞑想の時間も、巫女姫さまの日課のひとつなれば」
「それでも、村までは随分と距離がありますけどね」
「あっ、そう言えば」
 サイナスの言葉を遮るように、サシュアが声を上げた。
「……何です?」 
「あの……えっとね、昨日の火事があったとき、私、巫女姫さまと一緒に、神殿まで駆け戻ってきたの。その時、入り口にサイナスがいたでしょう?」
「ええ。でもあの時は、僕はてっきりサシュア一人きりだったと思ってましたけど」
「私、そこが不思議だったのよ。どうして巫女姫さまは、サイナスの目を盗んで、神殿の中にお戻りになる事が出来たのか……」
 そもそも、その時入り口にはサイナスが立ちはだかっていたわけで、彼のすぐ脇をすり抜けていかないと中には入れないはずだった。目を盗んで、というにはちょっと苦しい状況と言えたかも知れない。
 一体どうやって、という疑惑の視線が、巫女姫に向けられる。さらにサシュアが、こんな疑問を口にするのだった。
「そう言えば巫女姫様と一番最初にお会いしたのもこの部屋だったけど……巫女姫様の寝室というのは、もっと奥にあるのよね? どこかに抜け道でもあるのかな?」
 その言葉に、神官長は静かに首を横に振った。
 一同の注目が集まる中、憮然としたまま、巫女姫がぽつりと答えた。
「……私も巫女姫などと呼ばれる身ゆえ、そのくらいの遁行は容易なれば」
 サイナスがその言葉を受けて、問い返す。
「つまり……俗な言い方をすれば、巫女姫さまは壁を抜けたり、何と言いますかこう……瞬間移動、のような事がお出来になられる、と?」
「……」
「そうなるんだったら、村までの距離もそんなに遠くはない、って事ですかねぇ。その事実を鑑みるに……巫女姫さまは村においでになったことが一度ならずおありになる、と……そういう事ですか?」
 恥ずかしそうにうつむいた巫女姫に、サイナスが確認の言葉を投げかけた。さらには神官長が厳しい眼差しを向けつつ、まるで問い詰めるような口調で念押しした。
「村へといかれたのですね、巫女姫さま?」
 巫女姫は、威厳もなにもあったものではなく、しゅんとしながら頷くばかりであった。そんな彼女の上に、神官長の追及がなおも続く。
「収穫前の麦畑をご覧になってきた」
「……」
「家畜の様子も、見てきなすった」
「……」
 ここまで来れば、彼女は年頃の娘とまったく変わりがなかった。……いや、叱られてしょぼくれ、すねてみせるその素振りは、年齢以上に子供じみて見えた。
 神官長は大きく、本当に大きくため息をつくと、場もわきまえずに滔々と説教の言葉を垂れ始めた。
「あれほど、外に出てはいけないと申し上げたのに!」
「それは……分かっているつもりだったが……」
「いいえ、巫女姫さまは分かっておいでにならない! 事の重大さを何一つご理解いただいてはおらんではないですか! 常日頃より神殿に閉じこもっておいでになる以上、たまには外の空気も味わいたいとか、外の世界に目を向け、見聞を広めたいというお気持ちは、このじいやもようく分かり申す。分かり申すが、せめてそのお力を意のままに操ることが出来ねば、今回のようにいたずらに騒動を起こすばかりでございますぞ!」
「ちょ、ちょっと待って」
 声を張り上げて、説教を中断させたのはサシュアだった。
「何なんですか、その力っていうのは!」
 突然の割り込みにもめげずに、神官長はまるっきりの説教口調で説明する。
「人知を越えた現象が、この世にそれほどに頻繁にあろうはずがない……とわしは申したはず」
「それは聞きましたけど」
「そのように、滅多にあり得ぬ貴重な御身なればこそ、このような場所で、しかとお預かりしているのです。巫女姫さまとはすなわち、そういうお方なのです」
 サシュアは息をのんで、巫女姫を見た。
 当の巫女姫は、まるでいたずらが見つかった子供のように、ばつの悪そうな表情でサシュアを見返した。その間も神官長の説教が続く。
「その力は人々を救う僥倖にも成りうるものであると同時に、時として災厄を招くものにもなりかねぬのです。意のままに操るすべを知らぬ限りは、そこに力があるという事は、ただただ不幸でしかあり得ないのですよ」
「じゃ、私の回りで起きた騒動ってのは」
 息を呑んだサシュアに向かって、巫女姫が力無く告げた。
「……どうやら全部、私のせいであるらしい」
「それじゃ、私の歌がどうの、っていうのは……」
「あの歌声を聞いて気がついたのだが、私がそなたと初めて会ったのは、どうも昨日の夜の話ではないようだ。……少なくとも私は、その歌にはしかと聞き覚えがあったぞ」
 つまり……とサイナスが言葉を挟む。
「巫女姫さまがこっそりお忍びで村を訪れた時、たまたまその度にサシュアと遭遇してしまった、とまぁ、こういう事ですね」
「……でもそのたびに私が歌ってたなんで、何か都合が良すぎない?」
「だって、サシュアは本当に、いつでも歌を歌ってたじゃないですか」
「……そっか」
 言われてみればその通りだ。歌を歌っていない時間の方が短いのでは、と言わんばかりの勢いで、四六時中歌ってばかりいるのが、サシュアという女の子だったのだ。
「それにしても、ひとつだけ不思議な事があるんだけど」
「……まだ何かあるんですか」
「どうして、私の歌を巫女姫さまが聞くと、そういう酷い事ばかり起きるのかしら?」
 そんな、何気ない言葉に……。
 広間中に居合わせた人間達が一斉にはっと息を呑んだ。その音は軽いどよめきのように、広間に響きわたるほどであった。
 そんな周囲の反応に、狼狽してみせたのが、サシュアである。
「え……何、なんなの?」
 本気で何が何だか分からない、という顔をする少女を、周囲の人間が、えも言われぬ複雑な表情で見やっていた。神官たちはもちろん、僧兵や異端審問官に至るまでもが、呆然とした表情を見せていた。
「もしかして、自分では何も気付いておらんのか、この娘は……」
 異端審問官のそんなうめくようなつぶやきが、やけにはっきりとサシュアの耳に飛び込んできた。
「それって、何の事よ?」
 彼女は群衆に問い掛けたが、答えはすぐには返っては来なかった。周囲の人々の間に、今度は困惑の色が広がっていった。
 神官長が一人、意を決したかのように、サシュアに問いを放つ。
「サシュア。そなた、母親や村の者たちに歌を聞かせたことがあるかの?」
「あるよ?」
「皆は、そなたの歌に関して、何と申しておる?」
「……お母さんは、歌がうまいね、って言ってくれるよ?」
「では、他の村の者達は」
「……みんな、喜んでくれてると思うけど。サイナスだって」
「え? 僕?」
 サイナスが、名を呼ばれていかにも苦しげに返事を返した。
「サイナスだって……もうちょっと練習すれば、サイナスみたいにうまくなるかも、って言ってたじゃない」
 そんなサシュアの言葉に、その場にいる一同の視線が思わずサイナスに向けられた。これに思わず声をあげたのは異端審問官である。
「そなた吟遊詩人の分際で、なにゆえにそのような無責任なことを……!」
「そんな、ちょっと待ってくださいよ。僕が言ったのは、そういう事ではなくてですね……」
 サイナスは大慌てで釈明した。
「僕みたいになるには、今よりももっと練習が必要ですね、と言ったのです。……別に嘘やお世辞を言ったつもりは」
 その弁解がましい言葉に、やがてその場の一同の視線が、サシュアに戻っていった。
「な、何? 何なの? ……もう、なんなのよ一体!」
 サシュアは思わず叫んでみるが、誰もが目を背けるばかりで、答えは無かった。彼女は一縷の望みを託すかのように、一人の少女に視線を向けた。
「あのぅ……巫女姫さま。私の歌は、お気に召してくださいました……?」
「……」
 直接的に問われてしまった巫女姫は、そのまま視線をあさっての方角についと逸らしてしまった。
 重い……とても重い沈黙が流れた。人々の眼差しは、今は巫女姫の上にじっと注がれていた。
「この私はここでこうやって世俗と隔絶した暮らしを送っている身、歌の何たるかを知り尽くしているわけでは、無論あり得ないが」
 苦しげな表情のまま、巫女姫はサシュアに向かって――と言ってもあさってを向いたままではあるが――冷徹なる事実を突きつけた。
「そなたほどにへたくそな歌を、私は未だかつて聴いたことが無いな……」




     12

 結局、呪い云々という一連の騒動には、そういう形で決着がつくこととなり、異端審問官達はすごすごと神殿を後にしていった。
 そもそもは、巫女姫が人外の特異な能力を持っていることは王家も認めた歴然たる事実である。それを異端と断罪するのはたやすいが、王家に保護された存在であるという事までを、一介の異端審問官ごときが踏みにじるわけにはいかなかったのだ。
 異端審問官が去った以上、サシュアが神殿に留まる理由は何もなかった。
 思い返せば、なかなかに不可思議な事件であったように思う。この騒動の責任の所在が誰にあるのかは、なかなかに微妙なところだったが……そもそもは巫女姫の能力が呼んだ怪異だったわけだが、まさかサシュアを音痴だからと責めるわけにもいかなかったし、村の司祭の難儀な性格やヴァッカルの無能ぶりにも、それぞれ憂慮すべき点はあろう。
 それでも、結局大事には至らずに、事件が収束したのは何よりだった。
 ……ただし、ここに一人、非常なまでに大きな痛手を被った少女がいた。
「はぁ……」
 サシュアは大きくため息をつくと、がっくりと肩を落とす。同じ動作を果てしなく繰り返しつづけて、一体どれほどの時間が経過したのかすでに分からなくなって久しい。
 脇で見ていたサイナスが、思わず声をあげる。
「ああ、もう。いい加減気を取り直して下さいよ。僕らはこれから村に帰るんですよ? お母さんや村の人たちにまた会えるんですよ? もっと明るい顔をして下さいよ」
「出来ないわよっ!」
 サイナスに向かって、彼女は今にも泣きそうな声で言い返した。
「何よ! 結局サイナスには最初から分かってたんじゃない! この私が音痴だって事が!」
「そりゃ、分かってましたとも。良し悪しも分からずに吟遊詩人なんてつとまりませんて」
 サイナスは、半ばやけになってそう応えた。
「歌を教えるのを渋ってたのもそのせいなの?」
「……それとこれとは関係ないですけどね。僕は一介の吟遊詩人、あなたには家も親もあれば村の暮らしもあるんですからね。まさか本気で、お母さんを村に置いて旅に出る気だったんですか、あなたは」
「それは、その……」
 サシュアはそのまま、口ごもってしまった。
 確かに。サイナスと一緒に村を出て、吟遊詩人になる……それが子供じみた、無責任な憧れに過ぎない事は承知していた。仮に、吟遊詩人になりたいという彼女の申し出をサイナスが二つ返事で承諾したとしても……彼女は考え抜いた結果、村に残る事を選択したかも知れない。
 が。
 やはり、それとこれとは話が別だろう。
 何せ、誰もが認める歌好きの彼女は、その音痴ぶりもまた誰しもが認めるところだったのだ、実は。
 あの広間で彼女の歌を聴いた神官や僧兵達も、信仰の違いを乗り越えて、その見解だけは見事に一致していた。
 これをショックだと言わずに、何というのか。
 そんな風に落ち込む彼女だったが……それにしても、いつまでもそこで落ち込み続けているわけにもいかなかった。問題が解決した以上、彼女は村に帰らなくてはならない。サイナスだって、村までは責任をもって彼女を送り届けるつもりではいたが、こんな騒動が無ければ、彼は次の目的地に向かってとうに旅立っていた身の上だったのだ。
 その彼を、それ以上この地に留め置くわけにもいかない。サシュアは渋々ながらに、重い腰をあげた。
 神殿をあとにする二人を、神官長達がわざわざ見送りに出てきてくれた。いつも通りのほほんと構えているサイナスと、終始ふてくされた表情のサシュア。
「では、僕たちはこれで失礼させていただきます。……色々、どうもありがとうございました」
「何、困った事があればいつでもたずねてくるとよいて。吟遊詩人どのも、またこの地を訪れる事あれば、当神殿にも立ち寄ってくだされ」
「そうですね。……本当は、歌の一曲でも奉納させていただきたいところなのですが」
 最後の一言は何故か小声になってしまった。サシュアがこういう状態であるところに、歌がどうのこうのという話題は少々持ち出しづらいものがあった。
「ま、それはまたの機会ということで」
 そう言って、サイナスは肩をすくめた。
「ほら、サシュア。あなたもふてくされてないで、お礼の一言でも言ったらどうですか」
「……お世話になりました」
 にこりともせずに、棒読みめいた言葉で本当に一言で済ませた彼女に、神官長達は苦笑せざるを得なかった。
「サシュア、達者でな。巫女姫様に変わって、そなたの旅の安全を祈っておるゆえ」
「それには及ばぬ」
 不意に。
 神官長の背後から、美しい声が響いてきた。すでにサシュア達にも聞き慣れた声、聞き慣れた口調……そう、それはまさしく、今しがた話にのぼっていた巫女姫自身の声だった。もちろん、声だけがそこに出てきたわけではない。振り返れば、そこに彼女の姿があった。
「巫女姫様! またこんなところにおいでになって……」
「よいではないか、じい。せっかくサシュアが出立するというに、何故に私に見送らせてくれぬのか。じいはこの私に何の恨みつらみがあるというのだ」
 少女は老人を多少非難がましい目で見つつ、神官達を押しのけるようにして、サシュア達二人の前に前に進み出てきた。
「サシュア」
「巫女姫さま……」
 終始不満顔だったサシュアが、ここで初めて、違う表情を見せた。
 差し向かう巫女姫は、あの晩と同じように、特に着飾ることもない簡素な身なりのままだった。神官長が憤慨したように、本来はこの場には出てくる予定はまるでなかったのだろう。
「サシュアよ。そう気を落としたものばかりでもないぞ」
「でも、巫女姫様……」
 そう言ってサシュアは恨めしそうな目で巫女姫を見やる。それもそうだ、彼女が音痴だと断言したのは、目の前にいる巫女姫自身ではないか。
「巫女姫様、もしかしたら私、巫女姫さまをこれから先ずっとお恨みする事になるかも」
「それもやむをえぬかもな……面と向かってああいう事を言われれば、多分私だって気を悪くする」
「でも、本当の事だもの、恨む筋合いじゃないのかも知れないけれど……」
「別に、恨んでくれても構わないのだぞ?」
 そう言って、巫女姫は微笑んだ。
「サシュアは確かに音痴だし、私の力を乱してくれるが、別に私はそなたの歌は嫌いではないぞ」
「……本当ですか?」
「ああ、勿論だとも。本当に聞くに耐えぬなら、そなたの母親も、村の者達も、要らぬ世辞などは言わぬだろう……そこなる吟遊詩人の所見はどうだか知らぬが」
「なんで僕だけそこで悪者になるんですか」
 サイナスの苦笑混じりの苦言を無視して、巫女姫は告げる。
「私はもう少しここで修行を重ね、そなたに迷惑をかけたりしない、りっぱな巫女姫になるよう、努力しよう。……だからサシュア。そなたも歌の修行を重ね、あの晩私に語って聞かせた通り、りっぱな吟遊詩人になってくれ。……いや、吟遊詩人にはなれずとも、凡百の楽士ごときを唸らせるような、りっぱな歌い手になるといい」
「……巫女姫さま」
「そしていつかまた、私にそなたの歌を聴かせてくれ。……約束だ」
 そう言って、巫女姫は手を差し伸べた。
 細く白い指先に誘われるままに、サシュアはおのが手を差し伸べ、彼女の手を取った。
「約束だ」
「ええ」
 二人はそうやって、固く約定を交わしたのだった。
 これに関しては、神官長も、サイナスも、何も言わなかった。
 サイナスは考える。
 サシュアの歌に関しては、もしかしたら今後改善の余地はあるのかも知れない。
 だが、巫女姫に関してはどうだろう。この先彼女が正式の巫女姫になってしまえば、サシュアもサイナスも、もしかしたらここにいる神官長や神官達も、二度と顔を見ることさえ出来ぬ雲上の人物になるだろう。
 たとえサシュアがこれから修練を重ね、立派な歌い手になったとして、二人の少女がいずれ対面を果たすなど、恐らくは叶わぬ事に違いあるまい。
 だが……それでいいではないか、とサイナスは思う。
 そうやって、固い約束を交わしあう事の出来る、それだけの絆が、今この二人の上にはあるのだ。
 恐らくはこの二人にとって、お互いの人生の中でもかけがえのない出会いと別れにになるのだろう。だから、それを確認するだけの意味であっても、その約束にはとても重い意味があるのだ、とサイナスには思えた。
「サシュア、達者でな」
「巫女姫さまこそ」
 少女達はそうお互いに声をかけあって、そして別れた。
 サシュアは、自分の生まれ育った村へと帰っていく。巫女姫は、巫女姫として人と交わらぬ暮らしの中へ戻っていく。
 そんな二人の、本来は交わらぬ時間の交わりが、そこにはあったのだ。
 サイナスはサシュアを連れて、神殿を離れ、来た道を戻っていく。それはサイナスにとっては旅から旅の人生の中の、ごく短い旅とも言えぬ旅程であり、サシュアにとってはささやかながらに思い出深い旅であっただろう。
「ね、サイナス。何か歌ってよ」
 どれだけか歩いた頃合に、ふとサシュアがそんな事を言ってきた。
「……いいですよ。何が聴きたいですか?」
 歌を聴くだけの余裕が戻ってきた事は、喜ばしい事だった。歩きながらサイナスは歌い、サシュアもそれに合わせて歌う。へたくそでも、元気いっぱいの歌声だった。
「ね、サイナス。巫女姫さまとは今度はいつ会えるのかな?」
「え? ……それはどうでしょうかね。普段は、会えることなどまずあり得ないお人ですから……」
「でも、村にはお忍びで来てたじゃないの。……あの調子だから、きっとまた来るに違いないわね」
 サシュアがそう言って気楽に笑うのを聞いて、サイナスはちょっと唖然としてしまった。
 そうか、その手があったか。……サイナスはただただ、苦笑するばかりだった。
 この二人の友情がその後どうなるのかは、いずれすぐに旅の暮らしに戻っていくサイナスには関わりのない話に過ぎず、本当に巫女姫が神殿を抜け出してくるのかどうか、彼には確かめようもなかった。
 まぁ、そういう事になれば、それはそれでいいではないか。この二人がどうなるのかは、それはサシュア自身の、巫女姫自身の……この二人自身の物語だ。
 サイナスは楽士である。別の言い方をすれば、吟遊詩人である。
 この数日に体験した、ちょっとした物語を、いずれまたどこかで、誰かに語って聞かせる事もあるのかも知れない。彼に与えられた役割とは、つまりはそういう事だった。
 村へと向かう二人の前に、やがて一面の麦畑が見えてくるまでは、あともう少しだけ距離があった。
 そのささやかな道中を、ジッタの音色と、二人の歌声が、にぎやかに彩っていた。















あとがき

 えー、というわけで「耳に聴こえるは君の歌」全編完結でございます。
 そんなつもりも無かったのですが、思わぬ長期戦になってしまいました(汗) 元は企画短編「音楽」用に書いた作品で……三月末が締め切りだったんですよねぇ。それに間に合わせるつもりで書いてたはずなんですけど、気がつけばもう六月も後半に突入してるし(汗)
 長々と時間と分量を費やした割には、ラストなんか極めてしょーもないオチで、その辺り大変申し訳ないって言えば申し訳ない気分で一杯なんですけどね(苦笑) まぁその辺は、元々短編にする予定の話だった、という事で勘弁していただければ……してもらえるのかなぁ。
 ともあれ、長ったらしいお話にお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。

(2003.6.21)