夢の犬の夢 1 |
作:しんじ |
1、 トッピー
トッピーは電柱のそばにしゃがみ込んでオシッコをした。
もちろんこれは犬だから許される行為であって人間が同じことをやればかなり問題だ。しかもトッピーはメスの3歳、人間でいえば24、5歳ぐらいの年頃の女だ。
「この家の人な、家の前の電柱にしょんべんされるとすっげー怒るんだよ。おいトッピーはやくおわれ」
トッピーの飼い主、田原はつないだヒモを軽く引きながら言った。
しかし白くてフワフワの毛をしたトッピーは愛らしくオシッコを続ける。
「おおー、トッピーしょんべんなげーなー」
犬の散歩に付き合わされている福永は腕を組みながら感心する。
とその時、家の方から玄関のドアが不機嫌そうに開く音がした。
「やばい! 逃げろ!」
不良っぽい田原があわてた顔をした。福永はその表情がおかしくて思わず
「なはっ!」
と笑ってしまう。
田原は嫌がるトッピーをひきずって逃走を開始する。その様子がますますおかしい。福永はその場に立ち止まって思いっきり笑おうとしたが、家から出てきた人がヤクザのような人だと気付くと「ま、まてよ!」と言いながら田原を追いかけた。
夕暮れ時になるとこの住宅街も静かになって人気もほとんどなくなる。最近は物騒な事件が多いみたいだし、暗くなると人が減るのは仕方がないのかもしれない。
福永たちはこの住宅街の一角にある公園まで走って逃げてきた。少しの距離といえども運動不足の福永にはこたえた。
「ハァハァ……。いやあ、ヤクザみたいな人が……ハァハァ……出てきた時はビビッたなあ……」
と福永は両ひざに両手を置いて息を切らしながら言った。
「何だお前、めちゃくちゃ息が切れているなあ。タバコの吸いすぎじゃねーか?」
とトッピーをつないだヒモを持った田原が2、3回飛び跳ねて余裕を見せながら言った。
「タ、タバコの吸いすぎはお前だろ……ハァハァ。高校生のくせに」
と福永が言うと田原は
「お前だって吸うじゃねーか」
と返し、トッピーに引きずられるように砂場の方に向かった。
福永もようやく息を整えトッピーを追って砂場に向かう。
砂場についたトッピーはにおいを嗅ぎながらウロウロする。またオシッコか何かをするつもりなのだろう。
しばらく無言でトッピーを見守っていた田原と福永だったが、飼い主である田原が口を開いた。
「トッピーはなあ、お利口だから公園の中だったらヒモを外しても逃げないんだゼ」
「本当か、それは偉いなあ」
と福永が言うと田原は少し得意気な顔になりトッピーの赤い首輪に手をかけてヒモを外した。するとトッピーは田原の顔を見て首をかしげる。
「な、逃げないだろ?」
と田原が言った瞬間トッピーは駆け出してしまった。
「あ、逃げた!」
と福永は驚きながら言うが田原はあわてず
「いや大丈夫。公園からは逃げないはず」
と冷静に言った。
「ああ、そうなのか」
と福永も安心して体の緊張を解いた。
しかしトッピーは公園からも脱出し明らかに逃走を始めていた。
「やばいやばいやばい!」
田原は目を見開きながらトッピーを追いかけ始めた。走るスピードは明らかに犬の方が速い。しかし追いかけないわけにはいかない。
また走るのか! 細足の福永はそう思いながらトッピーを追いかけ始めた。
――その日は結局トッピーをつかまえることが出来ず、見つけ出すこともできなかった。
田原に言わせればこれはよくあることで、夜も遅くなればエサが欲しくて自分から帰ってくるものなのだと言う。
福永はそう聞いたのでこの日は安心して家に帰ったのだが……。
「帰ってない?」
学校のトイレの壁にもたれながら福永は言った。
「帰ってこないんだ。今までこんなことはなかったのに」
と田原はタバコを便器の中に捨てながら言う。
大便のための密閉された空間で2人は話していた。学生服にまとわりつくタバコのにおい。これは隠すことはできないが隠れてタバコを吸うという感じが悪くてかっこいい。こうして田原と過ごす時間が福永は楽しいと感じている。
「アイツ、方向音痴な所があるから迷子になってんじゃないかな」
田原は手持ちぶさたになった両手をポケットに突っ込みながら言った。
「心配だな」
と言ってから福永はまゆをひそめてタバコを吸った。そして便器にその吸い終えたタバコを落とす。すると田原が水を流すレバーを踏む。
うるさい音とともに水は泡立ちながらタバコを流した。
タバコをまずい。
福永はそう思いながら無言で鍵を開け田原とともにトイレを出て行った。
辺りを見回すとそこは暗い山の中で視覚よりも嗅覚や聴覚が役立ちそうだった。
福永がゆっくりと黒くて大きな体を起こすと辺りにいた数匹の犬たちも体を起こした。
ドーベルマンの体をした福永は右前足で地面を数回かいてから体を激しく振って短い毛についた葉や土を落とした。
福永はこの数十匹の犬の群れのボスだ。いや福永じゃなかったはずだ。彼は人間に飼われていた頃につけられていた名前を記憶から探った。
ウォーニン。そうだ、ウォーニンという名前だったはずだ。
ウォーニンは自分の群れの犬たちを見回した。ボスが起きたというのにまだ眠っている奴がいる。まったく警戒心のない奴らだ。
ウォーニンは低いうなり声をあげた。悪ふざけのつもりだったが回りの犬たちはあわてて飛び起きた。
ウォーニンは恐れられている。そして尊敬もされている。ドーベルマンのパワー、スピード、そして知能は狩りをする上においても優れているのだ。
まだ夜明け前だった。しかし腹は減った。
ウォーニンとその群れは狩りに出かけることにした。
うさぎが逃げる。それをウォーニンの群れが追う。
その茶色のうさぎは必死で逃げた末、逃げ切ったとばかりにうさぎ穴に飛び込もうとした。
しかしそこにはウォーニンが待っていた。
鋭い牙を立てられうさぎは一撃のもとに仕留められる。ウォーニンの牙はうさぎの鮮血で赤く染まり、やがて血はあごの下にまで達する。
ウォーニンはうさぎを土の上に置いた。そして仲間が集まってくるのを待ってからうさぎの腹部かじりついて一口だけ肉を食べた。
一口目だけウォーニンが食べると残りは仲間が食べる。それがこの群れの決まりとなっている。仲間はいつものように小さなうさぎを偉い順に食べていく。
群れが十数匹もいるとボスも大変なのだ。たぶんこれからも群れは増えていく。ふもとの街で捨て犬がなくならない限りは。
と、少し離れたところで物音がした。小動物が歩く音だ。
ウォーニンは音のした方を見た。うさぎか何かならばと思うとしっぽが少し動いてしまう。
ウォーニンが見たそれは確かに小動物だった。しかしそれを食べるわけにはいかないようだった。なぜならそれはウォーニンと同じ犬種だったからだ。
その犬は小さくてフワフワの白い毛をしていて首輪をつけていた。
かわいげなその犬は震えながらウォーニンのところに近付いてきているようだった。
いつものように福永はうるさい目覚まし時計を止めて眠り続けていた。するとこれまたいつものように母親が部屋に踏み込んできて怒鳴る。
「祐貴! あんたいつまで寝てんの! ちゃんと目覚ましで起きなさい!」
「う、うーん。ババアうるせえ……」
福永が不機嫌に目を覚ましてそう言うと、炊事で濡れた手を使って母親が福永の顔を張る。そして母親は怒りながら
「死ね! このバカ息子!」
とわめいて部屋を出ていく。福永は寝たまま体を縮めて
「いってーし冷てえ……」
と濡れた頬を押さえる。
しかし完全に目も覚めた。何か夢を見ていたような気もするが思い出すことはできない。
夢の中で福永が福永とは違う誰かだったとしてもそれは夢の中だ。思い出す必要はない。
しかし今日の夢は何か思い出さなければいけない気もする。福永は考えながら布団の中にいた。すると目覚まし時計が一瞬視界に入る。
「やっべー! こんな時間か!」
福永は飛び起きて学生服に着替え始めた。
トッピーがいなくなった日から一週間がたった。田原も何だか元気がないように見える。
「王手だ」
そう言って福永は「歩」を盤上に置いた。将棋だ。
勝った! とばかりに福永は灰皿に置いていた吸いかけのタバコを拾い上げ立ち上がる。そして乱れた布団の乗っているベッドに腰掛けてタバコを吸い自室を見回す。
福永の部屋で目につくのはアイドルカレンダーだ。福永はそれを眺めながら田原が悔しがるのを待った。
「負けでいいや」
田原はあっさりと言った。
「あ、そう」
福永もあまりうれしくなくなった。それもこれもトッピーのせいだ。
トッピー、無事なら帰ってきてやれよ。
福永はそう思いながらまずいタバコを吸っていた。
ウォーニンはその日はいつもより早めに目を覚ました。もちろんまだ夜明け前。目的は一匹の雌犬だ。
ウォーニンは他の犬たちを起こしてしまわないようにゆっくりと起き上がり目的の犬に近づいていった。
その時わずかに物音を立てて何匹かの犬が目を覚ましてしまったがウォーニンの足音だと気付くと安心して再び眠った。
ウォーニンは目的の犬のところにたどりついた。
まだ街のにおいの消えない白くて小さな雌犬。ウォーニンはなぜかこの犬のことが気にかかっていた。ウォーニンは眠っているその犬に鼻づらを寄せて軽く顔をこづいた。するとその犬は目を覚ましウォーニンを不思議そうな目で見た。
ついて来い。
そういう視線を送ってからウォーニンは歩き始めた。
その小さな犬は戸惑った様子を見せたが、騒がしい音を立てながら立ち上がるとウォーニンを追って歩き始めた。
満月の夜だった。
ウォーニンはできる限り月明かりのある木の少ない道を選びながら白い犬を誘導した。
ウォーニンにとってはゆっくり進んでいるつもりだったが白い小さな犬は遅れがちだった。
しかし何とかかんとかでウォーニンと白い犬は山を降りきった。そして2頭はそこで少し休憩することにした。ウォーニンはまだまだ走れそうだったが白くて小さな犬が疲れ切っていたからだ。
白い犬は鍛えられていない肉球(足の裏)に木の枝などが刺さったりしてそこから血を流していた。それを自分の舌でなめて治そうとしている。
弱い犬だ。
そのようなことを考えながらウォーニンは白い犬のそばに寄った。
白い犬は4本の足すべてから血を流していた。しかし前足2本をなめるのに手いっぱいで後ろの2本まで手が(舌が)回ってないようだった。
そこでウォーニンは白い犬の後足をなめてあげることのした。
ウォーニンは痛くないように優しく丁寧になめてあげていた。もちろん優しさのつもりだったがなめているうちにウォーニンもだんだん妙な気分になってきて……。
その日、福永は目覚ましより早く目を覚まし下着を履き替えていた。
「ああ、夢精しちまうなんてよー。でもこれは俺に彼女がいないのが悪いんであって……」
と福永は独り言でよく分からない言い訳をしていた。
とその時、けたたましい目覚まし時計が鳴り出した。いつもならすぐさま止めるところだが今はパンツをはいてる途中だ。止めるに止められない。
ああ、本当にうるさい目覚ましだ。
福永はパンツを履き終える前に目覚まし時計に襲いかかった。
クツのかかとを踏みながら玄関のドアを開ける。そしてとりあえずの
「いってきまーす」
をらしくもなく元気に言った。
家の外は青空が広がっていて乾いた風が吹き抜ける。なんだかんだ言っても早起きすると気持ちがいい。
福永は学校までの道のりを駆け出そうとしていた。学校は歩いていける距離なのだ。
……と。
「わあっ!」
福永は思わず声をあげた。
「な、なんだお前!」
と福永は玄関のすぐ外にいたものに話しかけた。白くて小さな犬。話しかけた所で返事はないがその犬は福永の足元に寄ってきてその体をすりつけた。
「あれ? お前トッピーじゃねえか?」
福永はしゃがみ込んでその犬をまじまじと見た。白い体が多少汚れてしまってはいるもののこいつは間違いなくトッピーだ。
「田原まだ家にいるかな?」
と福永は家の中に逆戻りして電話することにした。
田原に電話してみたところ「今すぐ行く!」との返事があった。そういうわけで田原が来るまで学校に行くに行けなくなってしまった。
たぶん今日は学校に行かずに田原とどこかに行くはめになるな。
福永はそう考えながらトッピーとじゃれあっていた。
「よかったなトッピー」
そう言ってトッピーの頭を必要以上になでてやる。トッピーは少し嫌がる素振りを見せたがよくよく福永になついている。
――しばらくそうやっていると田原が自転車に乗ってやって来た。丁度学校は始まってしまっている時間だ。
「おお! トッピー!」
田原は大げさに言ってトッピーに抱きつきかかえあげた。
うれしそうな田原。
よかったよかった。今日は学校も行かなくてもいいし一件落着だ。
田原に抱かれながらしきりに福永の方を気にしているトッピー。それを見ながら福永は大きくうなづいていた。