ゼロ・クリア ─還無─ 第1章[3]
作:のりゆき





3.

 ゼディスシティ市街のはずれに、「ヤツ」と呼ばれる地区があった。
 以前は小さな丘だった所に鉄の鉱脈が発見され、露天掘りされた結果、丘が削られて谷のような地形が出来た。
 今、この地区には多数の工場があり、住人もほとんどが工場労働者だった。
 そんなヤツ区の古ぼけた三階建て雑居ビル、その二階にあるのが「ヤツ・ゼディス公教会」である。
 日曜日にはミサの人々でにぎわうこの教会も、木曜の夜中とあっては静かなものである。
 しかし、ヤツの町自体は何やら騒がしかった。ひっきりなしに軍用車が町を走り、軍靴の音が町にこだましている。
 「…まぁ、大した度胸だよ。総督府前で大乱闘とはな」
 教会の窓から通りを眺めていた男が、カディツァークの方に向き直った。
 グルス・テーヴァ牧師である。
 紫がかった公教特有の長衣をまとい、半分以上白くなった髪を短く刈り上げている。
 人なつこい笑みを浮かべると、とてもこの男がゼディスシティの労働者階級を煽動する、ヴリトラの領袖には見えなかった。
 「何言いやがる。そもそも、あんたがちゃんと構成員の教育をしないのが原因だろうが」
 カディツァークは憮然とした表情で、長椅子に腰を下ろした。
 「とにかく、金と身元が割れそうな物は全部持ち出してきたが、なにぶん行くところがねぇ。厄介になるぜ」
 「おやすいご用だ。しかし、あいつ、どこ行きやがったんだが…」
 「あ?」
 「いや、こっちの事だ」
 グルス牧師は窓から離れると、カディツァークの方にやってきて、缶コーヒーを一本手渡した。
 「飲みな」
 「お、悪いねぇ」
 カディツァークは、パコッと缶コーヒーのふたを開けた。
 「取りあえず、今夜はそこら辺のソファーででも寝てくれ。すまないが、毛布くらいは貸すから」
 「おう」
 カディツァークは、コーヒーを飲みながら応えた。
 「ま、いきなり転がり込んだのは俺の方だからな。どうせ、ほとぼりが冷めるまでだ」
 「…いや、残念ながらそういうわけにもいくまい」
 「何?」
 「新しい任務が入ってきている」
 「……」
 カディツァークは、押し黙った。
 「今回は君一人ではなく、組んで任務についてもらう。本来なら、もう一人が居るところで話そうかと思ったが…」
 「ご託はいい。何の任務だ」
 「大攻勢」
 牧師は、ボソリと一言つぶやいた。
 「!」
 「暗殺、爆破…君には汚れ役ばかり任せて済まなかったと思っている。だが、それももうすぐ、終わる」
 「…どういう事だ」
 「丸三年の折衝の成果が、ようやく実になった。一週間後、サテスワール帝国に対し、シェイエンが宣戦布告する」
「シェイエンが?」
 シェイエンは、ゼディスと国境を接する帝国である。
 ヴリトラは以前から極東随一の軍備を持つこの国に使者を送り、サテスワール帝国に対して挙兵するように促していた。
 ―サテスワールは、決してゼディスを獲っただけで満足していない。なぜなら彼の国が新たにゼディスへ派遣した官の名を見よ。
 「極東総督」
 とは、ゼディスのみを治めるに非ず、極東全土に対する支配欲の表れである。彼の国を放っておけば必ずや軍を動かし、貴国の領土を侵すであろう。
 そうなる前に貴国は兵を動かし、サテスワールの野望を挫き給え。我が組織も大いに協力するであろう、と…。


 「…なんだかんだ言って、シェイエンも座視できなくなったんだろ。ボヤボヤしてたら帝国に攻め込まれる。
 まぁ、これでシェイエン陸軍十三個師団と、艦隊、空軍の全てが我らの味方になった。今まで立てられなかった大規模な反抗が可能になるというわけだ」
 「ふーん」
 カディツァークは缶を唇に当てたまま、相づちをうった。
 「それは凄い…が、シェイエン軍がいかに精強とはいえ、勝算はあるのか?」
 カディツァークはもっともな事を言った。
 サテスワールは、何しろ世界最大の陸軍国と呼ばれる国である。国土も広く、新大陸のほとんどの土地を領有している。
 それと比較すれば、シェイエンなど半分以下の面積しかない。むろん、物量や兵力の差も大きい。
 「ああ、そらぁ勝てないさ」
 …牧師は、表情一つ変えない。
 「まともに帝国軍全てをすりつぶそうとしても勝ち目はない。それはシェイエンのお偉方も解っている。
 だが、我々が目標とするのはあくまでもゼディスの独立だけであって、それ以外にない」
 「なるほど、極東派遣軍を潰すには十分という訳か。シェイエン軍だけでも」
 「そういう事だ。他の事は極東地域から奴らを追い返した後に考えればいい。君は、刺客のわりに理解がよくて助かる」
 「…誉められてるんだか、けなされてるんだか」
 カディツァークは渋い表情で、コーヒーを飲み干した。
 そういう任務に就く者は皆そうだろうが、彼は刺客と呼ばれるのが嫌いなのである。
 「…で、任務とは?」
 「うむ」
 牧師は、壁に背をもたれかけ、多少の無精ひげが生えているあごをさすった。
 「実は明日、シェイエンの先遣部隊が隠れてバンダルアバス港に入る。彼らを出迎え、北のアジトに案内してもらいたい」
 「明日ぁ?ずいぶん急な話だな」
 「あまり、時間的な余裕が無いものでな」
 グルス牧師が笑った。
 「だが、今回の任務は十分気をつけてくれ。何しろ先遣部隊の長は重要人物だからな。もし、何か事が起きれば、今回の作戦にも修正が必要になる」
 「了解した。で、パートナーってのは誰だ?」
 「ああ、用でも足しにでも行ったんだろう。しかし長…」
 牧師がそこまで言った時、不意にがちゃん、と大扉が開いた。
 「…!」
 カディツァークが目を見張った。
 ふらりと入ってきたのは、両腕に炎のペイントが入った派手な革ジャンを着込んだ少女だった。
 そう、晩飯を食べ終わったカディツァークに、派手に激突して転んだ娘である。
 この娘のせいで、カディツァークは帝国軍人どもに絡まれるハメにあったのだ。
 「ああ、帰ってきたな。カディツァーク君、これが今回の…」
 牧師が言ったが、カディツァークは話など聞いていない。眉間にしわを寄せたまま、彼女に近づいていった。
 娘は、カディツァークの事などすっかり覚えていないようで、不審な顔をして彼を見ている。
 「おい!てめぇこのド素人!」
 カディツァークが怒鳴った。腹が立つと、居ても立ってもいられなくなる男である。
 「い゛っ?」
 「お前が下手な所で爆弾を仕掛けたせいで、俺までとばっちり喰ったじゃねぇか!」
 その時、グルス牧師が急に顔を歪め、プッと吹きだした。
 「何だ、君の言ってた素人臭い奴ってのはナナスの事だったのか。ハハハ、こりゃあ傑作だ!」
 「なに笑ってるのよ、パパ!
 …っていうか何よ、この男!何でこんなヤクザを家に入れるのよ!」
 「ぱ、パパぁ!?」
 「俺の娘だ、カディツァーク君」
 「あ、あんたの娘…?いや、誰がヤクザだ!このヤンキーが!」
 「な!だ、誰がヤンキーよッ!」
 「ナナス、カディツァーク君はな、さっき総督府前で誰かに体当たりされたそうだ。そのせいで帝国兵と一悶着あって、逃げ出す事になったって怒ってるんだよ」
 グルス牧師が、口を挟んだ。
 途端、ナナスと呼ばれた牧師の娘が、ハッと表情を変える。
 「…あーッ!!あの時の!」
 ナナスがいきなり叫んだので、驚いたカディツァークはビクッと身を震わせた。
 「た、確かにぶつかったけど、ちゃんと謝ったじゃない!ヤンキー呼ばわりされる覚えはないわよ!」
 「うるせぇ!俺だってヤクザ呼ばわりされる筋合いはねぇ!」
 「はァ?何言ってんの、そのまんま見た目ヤクザじゃない!だいたいカディツァークって何?変な名前!」
 「へ…変な名前だぁ!?」
 その時、カディツァークの頭の中で、何かが「プチン」と切れる音がした!
 「名前は関係ないだろ!このバカ女!」
 …と叫んだ時には、カディツァークの右手が、ナナスの頭に当たっていた。
 ぱーん!と派手な音が、部屋に響いた。
 「キャッ!!」
 「あ」
 「な、何すんのよー!この暴力男ッ!」
 「お〜い、その辺で止めとけよ」
 グルス牧師が、また口を挟んだ。
 「いや、若いもんは元気がいいな。まぁ、二人とも明日はコンビで動いてもらうんだ。とりあえず、仲良くやってくれ」
 何やらニヤニヤ笑っている。
 「え!?ちょっと待ってよ。明日コンビ…って、ひょっとしてこの暴力男が、パパの言ってたヴリトラ最強の刺客なの?」
 ナナスが、カディツァークの顔を指さした。
 「そうだよ」
 「うそーん!刺客なんて言うから、もっとシブ〜い感じのオジサンかと思ってたのに。なんかガッカリぃ!」
 ムッとしてカディツァークが睨むと、彼女はプイと目を逸らした。
 ―くそ、このバカ女め!
 カディツァークは頭に来たが、流れとはいえ女を殴ってしまったという多少の自責の念があるから、黙った。
 「では、明日のスケジュールを説明しよう。ま、そんな難しい任務ではないがな」
 牧師が言った。
 ―難しい任務ではない、ねぇ…。
 脳天気なもんだとカディツァークは思った。
 ―お守りしながら仕事しなきゃならない、こっちの身にもなってほしいもんだぜ。
 カディツァークが、ナナスの方をチラリと見たが、ふとその時二人の目が合った。
 「!」
 「…ふん!」
 ナナスは、腕を組んでそっぽを向いた。
 ―やれやれ…。
 カディツァークは、明日の任務のことを考えると、気が重くなってしまった。


続く