ゼロ・クリア ─還無─ 第1章[4]
作:のりゆき





4.

 北方のゼディス市が寒気に包まれている頃、南半球にあるサテスワール帝国首都「トウリ」は夏の真っ盛りだった。
 街のそこかしこに陽炎が立ち、帝国議会堂の周辺もうだるような暑さであったが、国防卿「リーゲン・バロア」の邸宅は、緑に囲まれているせいもあってか、不思議に涼しかった。
 そんな夏の日の午後、国防卿の邸宅に、不意の来客があった。
 執事が玄関まで出ると、軍服を着込んだ、見上げるように背の高い壮漢である。
「バロア閣下はご在宅か?」
 壮漢は、執事に軽く会釈をしてから言った。案外声が低く、見た目より年は取っているらしい。
 そこは帝国の軍務一切を取り仕切る国防大臣の執事である。この軍服の男の来意はすぐに察知した。
 彼は客を応接間に通すと、主人であるバロア元帥の寝室をノックした。
「入れ」
 扉の向こうから、バロア元帥の声がした。
 執事はドアを開け、中に入った。バロア元帥がベットの上で上半身だけを起こし、こちらを見ている。
「何か?」
「は、ジェミス様がお見えですが…」
「ふむ…」


 ウェルズ・ジェミス。
 ゼディス戦役では帝国空軍のエースとして活躍したが、現在は空軍省付きの少将である。
 ゼディスは敗戦により帝国の領土となったが、山岳地帯には今でも旧ゼディス共和国軍の残党がこもり、ゲリラ活動を行っている。
 それら反帝組織の押さえのため、帝国は常に有能な将官を選び、ゼディスに派遣していたが、前極東派遣軍司令官の死によってウェルズ・ジェミス少将が司令官に任命された。つい一月前の事である。
 前司令官は、公務でゼディス空港からバンダルアバス市へ向かう際に、乗機もろとも爆死するという無惨な最後を遂げた。
 明らかにヴリトラもしくはゼディス軍残党の仕業であったが、犯人は未だ見つかっていない。


「今日は気分がいい。会うことにしよう」
 バロア元帥は、そういうとベッドから降りた。
「カストールの紅茶があったはずだな?」
「はい」
「出しておけ。儂もすぐ行くから、待っているように伝えろ」
「は、承知いたしました」
 執事は会釈をし、部屋を出ていった。
 しばらく後、ジェミス少将が待っている応接間に、服を着替えた元帥が現れた。
 ジェミスは紅茶のカップをテーブルに置き、立ち上がると元帥に向かって敬礼した。
「よい、よい」
 バロア元帥は言って、ジェミスに手を下げるよう促した。微笑みながら近づき、彼の向かいの席に腰を下ろす。
「相変わらず堅い男だな。私の家に来る時は平服でよいと、前から言っておるだろうに」
「は、解ってはいたのですが…今日は大事なご挨拶のつもりで参りましたので」
「皆まで言わなくとも解っておるよ。ま、取りあえず座り給え」
 ジェミスは、うなずいて椅子に腰を下ろした。
「お体の具合はいかがですか?最近は、議会も休まれているとお聞きしましたが」
「フッ、何という事はない。この暑さではとても議会に出る気などせんから、少し休暇を貰ったまでよ」
「そうでありますか。見たところお元気そうなので、安心いたしました」
 ジェミスは、そう言うと笑った。
「それはそうと、今日は私の見舞いに来たわけでは無かろう?」
「はっ」
 ジェミスは姿勢を正し、バロア元帥に向き直った。
「今日は、暇乞いのつもりで参りました。明後日、ゼディスに発ちます」
「そうか、とうとう発つか…」
 元帥は、感慨深げにうなずくと、茶の入ったカップを挙げた。
「儂も大事な囲碁仲間を失うのは悲しいが、首相閣下直々のご指名とは、軍人としても名誉な事だ。
 茶で申し訳ないが、祝杯といこうではないか、新しい司令官閣下に!」
「は、有り難く頂戴いたします」
 二人は、カップを重ね合わせた後、一気に中身を飲み干した。
「…ゼ州においては、ゲリラの掃討も遅々として進まず、その上今回の事件だ。無事に任務を果たしてくれることを期待する」
「は、極東派遣軍指令官として、帝国の名を汚さぬよう努力いたします」
「うむ、用心して貰いたい。何かとキナ臭い噂も聞こえているからな」
「…それは、シェイエンの件でありますか?」
「ああ、そうだ。ゼディス軍の残党と組んで、内々に準備している…という」
「事実でありましょうか?」
「子細は不明だが、あり得ない話ではない。ま、シェイエンなど所詮極東の小国にすぎぬ。極東軍の兵力だけでも、用兵を上手くやれば十分勝つことが出来るだろう」
「は…」
「堅くなることはない。君なら十分にその任を全う出来る」
「いえ、それは」
 そういうと、ジェミスはティーポットをつかみ、元帥のカップに茶を注いだ。
「まだ若輩の身です。神宮党を率いるバロア閣下に、統率の心得でもあればお聞きしたいのですが」
「ハハ、まるで軍学校の教官にでもなった様だな」
 元帥は笑った。空軍省の切れ者と呼ばれているジェミスでも、さすがに極東派遣軍司令官の重責を実感しているのだろう。
「神宮党」とは、帝国国防省内のエリート部隊である。
 元は陸軍内の単なる壮士団だったが、数々の武功を挙げて国民の人気を得、ついには国政を牛耳るまでになった。現在の内閣も、ほとんどが神宮党の軍人か、その息のかかった政治家である。
 その神宮党の総帥がバロア元帥であり、神宮党勢力の上に乗っているのが、先帝の弟でもある現首相「エルゲイス・ロナ・シャクラ」であった。
 この大公は、現皇帝であるシャクラ4世がまだ成人していない事もあり、首相と言うより摂政に近く、皇帝の補佐者として独裁件を握っている。
 神宮党がこれまでの勢力になったのも、エルゲイスという強力な後ろ盾が居たことが大きい。
「…一軍の将として望む場合、最も重要なのは指揮系統を明確にする事だ。命令が右から出る左からも出るでは、将兵もどちらを聞いていいか解らず混乱が生じる」
「はい」
「私が君の立場で、ゼ州に赴任するとしたら、まず極東総督のガッシュを捕縛する」
 沈黙が流れた。
「総督…閣下をですか」
「奴は、愚物だよ」
 元帥はニッと顔を歪め、ジェミスのカップに茶を注いだ。
「…エルゲイス閣下も、所詮は宮様だと言うことだ。奴が口先だけの男と言う事を見抜けておらん」
 ジェミスは神妙にうなずいた。彼も、極東総督がそういう男らしいというのを聞いていたからである。
 極東総督、ゼドン・ガッシュは帝国海軍の中将である。
 中将とは言うが、海軍裁判所など陸での仕事が主であったため、実際に海軍の指揮ができるかと言えば疑問であり、政治家としても大した男ではない。
 だが、狡猾で口先が上手く、その魔術的な舌を以てエルゲイスに近づき、極東総督のポストを手に入れたという噂であった。
 彼は首相の寵を得ているのを良い事に、ゼディスについての重大な用件でも首相と直に談判して大蔵省や外務省を無視する事も多く、しょっちゅうイザコザを起こしていた。


「奴は、自分が極東総督であるのをいい事に、必ず君の作戦に口出しして来よう。極東軍は命令の板挟みになって混乱し、ついには作戦を失敗する事にもなりかねん。
 これは、一種の国難と思わんかね?」
「……」
 ジェミスは黙った。元帥の言おうとしている事が解ったからである。
 ──閣下は、私に極東総督閣下を逮捕し、トウリに送り返すよう暗に諭していらっしゃるのだ。
 極東総督といえば、ゼディスにおける皇帝の代理人である。それを逮捕するなど、常識では考えられない飛躍であった。
 元帥は茶をすすりながら、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「…本来なら私が直接手を下したい所だが、国防卿というのは案外不自由な物でな。奴は首相の寵臣であるし、忙しい海軍省を無視して奴を断裁することもできん」
 元帥は、ため息を付いた。
「だが、君はゼディス戦役の英雄で、国民にも人気がある。いかにエルゲイス閣下といえど、民あっての政権だ。民衆が君に味方する限り、多少無茶をしようとも文句は言うまいよ」
「…はい」
「指示、と言うわけではなく、あくまでも君に対する忠告だと思ってくれれば良い。しかし、君が勝ちを拾い、皇道を全き物にせんとするならば、それをすべきだ」
「勝ちを…」
 ジェミスは、そう言うと、奥歯をギリッと噛みしめた。バロア元帥は、それを見落とさない。
「そう、ゼディス戦役での勝利だけではなく、『君自身の戦』に勝利するためにな。平時であれば別だが、非常の時には非常の士が要るものなのだよ」


 一時間後、ジェミス少将は元帥の元を辞した。
 最後は、当たり障りのない二人の共通の趣味である囲碁の話で別れたが、ジェミスの心の中には、煮え切らない物が残っていた。
「雨か」
 ジェミスは天を仰いだ。
 夏の日暮れは遅いが、先刻の照りつけるような太陽はそこにもう無く、薄く空を覆った雲の降らす小雨が、帝都の市街を湿らせていた。


続く