三日月夜御伽草子 −ミカヅキヨオトギゾウシ− 作:きぁ



 月ヲ見テイタ。

 終わりなの、と、僕を見つめながら、彼女はさざめく波に消え入りそうな声で、呟(つぶや)いた。
 僕は、答えなかった。
 それが、2時間ほど前だった。
 彼女は、ふっと微笑んで、素足に付いた砂を払った。波打ち際のそれは、しっとりと水分を帯びていて、彼女の白く細い足首にまとわりつき、なかなか落ちようとしない。彼女は、暫(しばら)く頑張っていたけれど、それが無駄な努力と悟(さと)ると、諦(あきら)めたように溜息(ためいき)をつき、無造作にサンダルを突っ掛ける。
 僕が、彼女について行ければいいのに。
 濃紺のビロードを広げた闇は、端の方から解(ほつ)れ始めて、暗幕の裏の華(はな)やかな舞台が垣間見える。
 朝。
 彼女は胸元までびっしょりと濡(ぬ)れたシャツを、ウェストの辺りでギュッと絞った。ぽたぽた、夜明けの微(かす)かな光に、それは、天高く瞬(またた)く一等星よりも、地上に輝く無数のネオンの灯りよりも、素晴らしい装飾品になって彼女を飾った。時折、その衣服から零(こぼ)れた水滴が砂浜を打った。綺麗(きれい)な円形を描いて、痕が残る。
 僕が、彼女を受け止めて上げられたらいいのに。
 彼女はじっと遠くを見つめていた。夜と朝の狭間(はざま)。闇と光の融ける世界。
 やがて、彼女は目を伏せた。長い睫毛(まつげ)のその奥から迸(ほとばし)る温かな雫を、僕は見落とさなかった。それはきっと、太古の昔に生命を育んだ世界と同じ水。彼女の足に砂を留めておくもの。彼女を衣服ごと優しく包むもの。
 僕にはないもの。彼女にだけあるもの。
 帰るわ、と、彼女が言った。
 僕は、答えない。
 彼女はゆっくりと背を向けた。やがて彼女は、愛車だという小さなワゴン車に乗り込んだ。エンジン音と一緒に彼女が遠ざかる。
 僕も帰ろう。
 明けの明星が僕の視界の隅で煌(きら)めき始める。
 金星だった。
 そう、あの金色の女神だけが、僕のこの秘やかな想いを、知っている。

 月ガ見テイタ。



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