ここは小さなバー。うす暗い店内は一人でいても気持ちがきゅうくつにならない。
私は時々ここに来る。店の奥にはちいさなステージがあって、そこだけ煙ったライトで照らされていて、しゃがれているけど妙に味がある声の男が持っているギターが、てろてろと光っている。
スツールにこしかけている私に、マスターが新しいおしぼりをわたしてくれた。「ありがとう」と言って手元に視線をやると、汗をかいたグラスからこぼれた滴がスカートに落ちていた。こっくりと甘い液体は、しっとり溶けて小さくなった氷と混ざり、薄い琥珀色になっていた。冷たいグラスに口をつけると、しゃがれ声の男はマイクにむかって控え目に話した。
「本日のラストソング、リズムです。」
短くつまむような弾きかたでイントロが流れだした。
私はグラスのふちに唇をつけたまま耳をすます。
〜刻む鼓動 クスクス笑いをこらえたホホ ほっとしたり はらはらしたり
だけど 一秒がたまらなく嬉しい〜
きっとこの人の声が哀愁を帯びているから、こんな陳腐な歌詞でも立ち上がることができないんだ。
〜恋に似ている 恋に似ている 始まりもないくせに 終わっていく リズム〜
男は伏し目がちに、心地よいいい加減さでうたう。こんな歌、まじめにうたわれたらこちらのほうが恥ずかしくなってしまう。
〜静かな夜 生(なま)っぽいほどしっとりしている空気 黒い空
星もなくて あなたに願いなど 届きそうもなくて 私は想ってしまう 昔の恋人に似たあの人のことを〜
詞を書いたのはきっと彼自身だ。理由もなくそう思った。
底にくっついている氷をコロコロまわして口に含んだ。男はあっさりとステージから降りて、姿を消した。
「ごちそうさま」私は席を立って外に出る。
星もない灰色の空を一瞬だけ見ると、コンクリートの道を歩き出した。
もうすぐ明日がはじまる。
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