ガリガリという音が、牢獄にこだまする。
神父はため息をつき、その狂った男を見下ろした。男はひざまずき、汚物まみれの床に、見えない論文を書き殴っていた。
「あなたの考えを、主はお聞き下さいますよ」
神父は言った。
「真実に近付く道を望むなら……ただ、主の御許に参ることを願いなさい。」
鉄格子のはまった窓から、月明かりが差していた。それは神父の顔を照らすのみで、男までは届かない。
「主など知らん」男は、顔も上げずに言った。
「俺はもうじき、ゼロになる。それだけだ」
「ゼロ?」神父は、曖昧な微笑みを浮かべた。
「……何ですか? それは……」
「新しい数字だ」
男の声が、得意げに弾んだ。
「何も無いってことさ。俺が名付けた」
神父は、気取られない程度に首を振った。数えられない数など、主がおつくりになるはずがあろうか。
男の手が止まった。
「誰もわかろうとしない。だから、わからせてやったのさ」
ゆがんでいく口調に、憎しみがあふれていた。
「……みんな、俺がゼロにしてやった」
神父はたじろいだが、傍らに立っていた看守が動こうとすると、手で制した。
「彼は、罪を告白したのです」
懺悔が済んだので、男は翌朝処刑された。
月明かり。
神父は立ち尽くし、牢の中を見つめていた。
ガリガリと、音が響く。
「そんな所で、何をしているのですか?」
男の首は、目も上げずに答えた。
「続きを書け、と言われた」
胴体がひざまずき、汚物まみれの床に、見えない論文を書き殴っていた。
「マイナスとかいうものが、あるらしい……」
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